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Case:8 深遠なる屍術 Ⅲ
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「では、君達を大司教レクス様の下へと連行し、循環型術式の秘法を解明するとしよう―」
そう口にするなり屍術師ネイヴはジャックの傍へと近寄ってその手を翳した。赤い輝きを放って発動するのは彼の掌に直接刻まれた術式。
「ぐぉああああァッ…!!」
ジャック本人の意思とは無関係に、彼の肉体からは魔力の奔流である黒い霧が溢れ出した。
エリザベスと同様に、体内を巡る彼の魔力はいとも容易くネイヴの掌へと吸い込まれていった。
ネイヴが把握している屍術師ジャックに施された術式の構造は特別なものではない。
それは屍術の基本原則に沿ったものだと考えられる。
ジャックの純正の肉体を器として魂を下ろし、魔力を消耗しながらその二つを繋ぎ留めている。
つまり、屍術によって蘇った者が内包された魔力を失えば、魂は繋がりを絶たれて再び死人へと還るという事になる。
「さて、君達二人の身柄を預かる前に幾つかの処置を施さなくてはならないのだが…」
「……」
既に意識を失ってしまったジャックにネイヴからの言葉は届いておらず、返答は無い。
項垂れるジャックの肉体に目をやると、既に魂魄の剥離が始まっている事が視認出来た。
「頃合いか。では、歪に入り組んだ魂を然るべき場所へと、在るべき形へと還すとしよう」
ネイヴは一度深く息を吐いて呼吸を整える。そして、ゆっくりと口を開くと言霊を紡ぎ始めた。
「我は生と死の理に挑む者。陽の熱と月の湿りを帯びて、此の濁世に産落せし身命よ―」
彼がジャックの詠唱を一字一句違える事なくこなすと、統合されていたジャックの魂魄に僅かな綻びが生じた。ネイヴが直接触れる事でその乱れは次第に広がっていき、最終的に一つから二つへと綺麗に切り離された。
それらは等しい大きさに分割された事から、片方はジャック自身のものであり、もう片方は欠落した魂を補っていたエリザベスのものだと言う事が見て取れる。
分断されたばかりの彷徨える魂はネイヴが指し示す方へと向かい、本来収まるべき器の中へと溶け込んでいった。
「これで、エリザベスの魂は完全に統合された。しかし、貴様はここまでだ」
残されたもう片方の魂はジャックの肉体と辛うじて繋がっている状態におかれていた。
大司教レクスがネイヴに下した命令はエリザベスの魂を本来の形へと戻し、ジャックの遺体を回収するというものであった。
彼がジャックの魂を完全に引き剥がす為に、自ら手を下そうとしたその刹那であった―
「…貴様はッ!?」
両者の間を駆け抜ける黒い弾丸。ネイヴの視界に割り込む形で現れたのは、青毛の馬バロンであった。彼は漆黒の鬣を靡かせながら颯爽と主人の下へと駆け寄ると、その後ろ襟を食んでそのまま持ち上げてみせた。
この場からジャックを攫って逃げおおせようとするバロンの足止めをしようと、ネイヴは回転式拳銃を素早く取り出して数回発砲した。計三発の弾丸は正確にバロンの後躯へと撃ち込まれたが、それでも彼はペースを落とす事なく襲歩で走り続け、射程圏内を脱して昏黒の森の奥深くへと走り去って行った。
「…これ以上、深追いをする必要はあるまい。魔力の供給源を失ったあの屍馬が今更どこへと向かおうが、屍術師ジャックと同じ末路を辿る事になるのだろうからな」
………
「ネイヴよ。私が君に直接下した命令を覚えているかね?」
ウィックエイユの港から出る船を利用して大陸を渡り、この大聖堂へと舞い戻って来たネイヴに向けて大司教レクスは言葉を突き付けた。
彼がジャックの棲家を襲撃し、連れ帰ったのはレクスから要求された二つの内の片方、エリザベスのみであったからだ。
「申し訳ございません。まさかあの様な形であの男の遺体の回収を阻まれるとは…屍馬の抱く主への忠誠心というものを侮っておりました」
「まあ良い。エリザベスの記憶を辿れば循環型術式の秘法を解明する事が出来るのだからな」
「…事を仕損じた私に寛大な措置を賜って頂き、ありがとうございます」
「しかし、ネイヴ。二度目の機会は無いという事を良く覚えておき給え。召使の代わりを立てるなどこの私にとっては造作もない事なのだからな」
「…はっ、その言葉しかとこの胸に刻み付けておきます」
「では、エリザベスをこちらへと引き渡して貰おうか」
ネイヴは彼に指示された通り、意識を失っているエリザベスの肉体を抱えて祭壇まで運んだ。
その上には既に術式が書き込まれており、レクスは循環型術式の秘法を手にするこの瞬間を待ち焦がれていたようだった。
彼が自身の右手をエリザベスの額に翳して力を籠めると周辺の術式が連鎖を起こして次々に発動し、肉体に宿っていた彼女の魂が視認出来る形となって顕現した。
レクスはそれを手繰り寄せて、自らの手でエリザベスの魂を開く。
すると、循環型術式の秘法、そのメカニズムが直接意識の中へと流れ込んで来た。
「成程。やはりそういう事か…」
本来、術式というものは魂を下ろす媒介に直接刻み付けたり、対象の周辺に描いた後でそこに魔力を通す事で効力を発揮する回路である。
しかし、それらはあくまで魔導書通りの原理原則に沿ったものでしかない。例外の中の例外、イリーガルな方法も僅かではあるが存在する。
それは熟練した魔術師が自身の想念によって術式を綴るというものである。大司教レクスの推し測る通り、循環型術式はそれに属するものである事が解明された。
故にジャックやエリザベスの肉体には、蘇生に用いられた術式の痕跡が残されていない。
生者の感情の動きを捉えて読み取る事は容易な事ではないが、エリザベスの魂はレクスの掌中にある。彼女の記憶を辿れば、いくら想念による術式と言えど掠め取る事はそう難しくはない。
レクスは彼女の魂から自身に必要な情報だけを次々と探し当てていく。
「ふっ、ふふ…ふはははははッ!!遂に手に入れたぞ!!数多の屍術師達がその記憶を他者へと逃がし、ひた隠しにしてきた循環型術式さえも我の物としたッ!!」
レクスはネイヴが傍に立っている事など意に介さず、しばらくの間高笑いを続けていた。
それは彼がこれまでに葬り去ってきた屍術師達へと向けた嘲笑であった。
「流石です。まさか、その秘法を解明するのと同時に自身に循環型術式を張り巡らせるとは…」
従来の屍術は生前の状態を保つ為に魔力を消耗していくものだが、循環型術式はその常識を覆すものである。時間の経過と共に体内を巡る魔力は一定の値にまで上昇し魂を繋ぎ留める。
つまり、今のレクスは不死身の肉体を手に入れたと言っても過言ではない。
「こうなった以上、エリザベスは用済みだ。この女の処刑は後日、馴染み深いあの場所で執り行う事としよう。ネイヴ、手筈を整えておき給え」
「はっ、全ては大司教レクス様の仰せのままに―」
………
「…ック、ジャック」
魂と肉体との繋がりが薄まり、接触不良を起こしている事によって生じる意識のちらつき。
生きているのか、死んでいるのかさえも不明瞭なままの自分へと向けられる呼び声。
肉体を動かす力が既に絶たれてしまった今、目を開いて見据える事は出来ないが、どうにか意識を傾けて言い知れぬ存在との交信を図る。
頭に浮かび上がって来るのは一つのヴィジョン。その像は雄々しく勇猛な佇まいをしていた。
「君は…」
「貴方は、このままここで眠り続けていて良いのですか?」
彼が意識の海の奥底に沈んだままのジャックへと向けて言葉を下ろす。
「私は閉ざされた術式の中で踊るだけの人形だったのだ。それが再び立ち上がった所で一体どうなるというのだ?」
「…ですが、彼女の気持ちを確かめないまま終わってしまって本当に良いのですか?」
「彼女の、エリザベスの気持ち…?」
その様に問われ、断続的に蘇るのは昏睡する直前の、ネイヴと交わしたあのやり取り。
彼はエリザベスの魔力を取り込み意識を奪った後、事実を突きつけながら流暢に語った。
こちらも魔力を失って意識が朦朧としていた所為もあるが、思い返せば相手のペースに完全に呑み込まれてしまっていた。
熟達した屍術師と言えど、己が魂魄の深層に食い込んだ意識を読み取る事など出来はしない。
しかし今、ジャックの魂から切り離されて元の形へと統合された状態であれば、彼女の、エリザベスの本心を確かめる事が出来る。
「私の記憶の中で生きる貴方は、屍術師ジャックは、生前も死後も変わる事なく…」
「…死人の意思を尊重する事を信念としてきた、か」
「はい。心持ちを取り戻して下さったのですね」
「…ただ、この窮地を脱する方法はそうは多くはあるまい」
「こうなってしまった以上、残された路は一つしか考えられません。先代は貴方に屍術師の未来を託した。それ以来、私の役目はその行く末を見届けていく事でしたが…」
「まさか、君がこれからやろうとしている事は…」
「考えの通りで御座います。貴方の記憶が刻まれたこの魂と肉体に宿った全ての魔力を捧げる事で…今度は、私が貴方の命を繋ぎましょう」
彼がジャックの意識の中を駆け抜けて循環型術式へと加わる。
エリザベスに次いで今度はバロンが欠落した魂を再び補填する形―
鋭い輝きを放つ赤い閃光に包まれながら意識を取り戻したジャックは、冷気を帯びた昏黒の森の中で一人立ち尽くしていた。
「…バロン」
彼の傍で横たわる青毛の馬は、目を閉じて安らかな笑みを浮かべたまま深い眠りに就いていた。
………
「ここは…?」
これまでに多くの異端者達を葬り去ってきた教会の地下室。
籠った湿気と独特の異臭を感じながらもエリザベスは再び目覚めた。いや、この場合は目覚めさせられたと言うべきか。
手足を動かそうと試みるのだが、その身は鎖に縛られたまま十字架に磔にされており、彼女の自由は完全に奪われてしまっていた。
どうにかしてこの窮地から脱しようと足掻いていると、耳に入って来たのは聞き覚えのある粘つく様な男の声であった。
「やあ、エリザベス。この景色には良く見覚えがあるだろう?」
「…ッ!?」
「思い出して貰えたかね?ここは君が最初の死を迎えた場所だ」
激しい悪寒が身体中を駆け巡る。レクスのその声が響く度にエリザベスの頭の中にはある光景が鮮明に蘇ってきた。
共に日常を過ごしていた教会の人間達に襲われ、理不尽な暴力に曝されて殺害された、あの時の忌まわしい記憶が。
「確か、君の胸を貫いたシスターはネイヴと並ぶもう一人の教育係であったな。彼女からの報告書は隅々まで読ませて貰ったよ」
「…何を、言いたいの?」
「なに、ほんの少しばかり昔話をな。聖カルム孤児院の内部から異端者が出たという事であの時は特例の措置を取ったと記憶している」
「……」
「知っているぞ。あの時、君の肉体の粛清には教会の人間達だけではなく―」
「…やっ…やめてッ!」
「何を今更。既に死に絶えている君を気遣う必要などあるまい。どうだったかね?普段から面倒を見ていた子供達に焼き鏝を押し付けられ、異端者の烙印を刻まれる気分は?」
レクスは言葉で執拗にエリザベスの心的外傷を抉った。自身の経験からなる恐怖に完全に呑み込まれてしまった彼女は、歯を合わせる事が出来ないままその身を震わせている。
「いっ…いやッ!嫌ぁッ!」
「ふッ…ふふ、ふはははははっ!!良い表情を浮かべるではないか。あの男、ジャックを護る事だけを考え、気丈に振る舞っていた君からはとても想像出来ぬな」
その言葉に彼女は気付かされる。二つに分かれていた魂は統合されて、主人であるジャックを護る為にと切り離していた筈の感情が完全に元の状態へと戻っているのだ。
「クククッ…再び死を迎えるのだ。こういった場合、人間の最も優れた部分である感情を取り戻しておいた方が余興として面白かろう?」
エリザベスはこの絶望的な状況下で皮肉にも自我を取り戻した。しかしそれは、レクスの用意したこの悪趣味な演目を盛り立てる為だけに生前の形へと巻き戻されたのだ。
「ネイヴ―」
「はっ」
レクスがこの舞台に立つ最後の役者を呼び寄せる。
すると彼に仕える従順なる召使、屍術師ネイヴがこの処刑場に姿を現した。
「では、君の回転式拳銃でエリザベスを射殺し給え。二度と蘇る事が出来ぬ様に唯一残った生身である頭部を正確に撃ち抜け」
「承知致しました」
ネイヴはレクスに言われるがままに懐から回転式拳銃を取り出して、その冷たい銃口を磔になっている彼女へと向けた。互いに向き合い、執行人であるネイヴと罪人とされるエリザベスの視線が重なる形。
エリザベスを蘇らせた屍術師ジャックと同じ容貌をした彼が、彼女を再び死人へと還す。
「お気に召して貰えたかね?本物のジャックの肉体ではなくて些か心苦しいが…」
これが、大司教レクスが周到に用意した彼女へと向けた凄惨な結末であった。
ネイヴの射撃の精度に関しては今更言及するまでもない。彼が引鉄に力を籠めれば確実にエリザベスを撃ち抜いて絶命させる事だろう。
「……」
しかし、張り詰めた静寂を突き破る銃声はいつまで経っても鳴る気配を見せなかった。
「どうしたネイヴ?二度目の機会は無いと伝えた筈だが?まさか、この私の言葉を忘れた訳ではあるまい?早々に引き金を引き給え」
「はっ、分かっております…」
レクスは発破を掛けて彼を動かそうとするのだが、どうにも事態が進展する様子は見られない。
課せられた命令を遂行しなければ次は自分が処分される。
その事はネイヴも良く理解している、しかし…出来ない。
それはネイヴの魂に残留する一片の記憶。彼が神父としての役割を果たしていたあの頃。自身の行動によって彼女の未来を奪ってしまったという自責の念。
それらがエリザベスを再び手に掛ける事、回転式拳銃の引き金を引く事を躊躇わせていた。
「ネイヴ、最後の機会を与える。私の言う通り、エリザベスを射殺しなければ―」
「…ッ!!」
地下室に響いたのは一つの生を閉ざす乾いた音。心中の葛藤によるせめぎ合いによって限界を迎えたネイヴは、遂に握り締めていた回転式拳銃を発砲した。
撃ち出された一発の弾丸は肉を侵しながら突き進み、果てには肉体を貫き通した。
その通り路からは赤と黒を掻き混ぜた体液がどろどろと溢れ出ている。
精巧に作り上げた義体にジャックの半欠けの魂を定着させて、半ば強引に蘇生されたネイヴの動力はレクスの魔力に大きく依存していた。突き詰めていけばレクスが糸を引いて操っていた傀儡だったと言っても差支えはない。
しかし、彼は最期にその呪縛を振り解いて命令に歯向かった。ネイヴは自身のこめかみに銃口を突きつけて引鉄を引き、自らの意思で術式を破断してその命を絶ったのだ。
「余興も満足に完遂出来ぬとは…所詮はあの男の片割れに過ぎないという事か」
「…違う」
「何?」
用済みと成り果てたネイヴに向けてレクスが吐き捨てた言葉をエリザベスは否定した。
「この人も、自分を責め続けていたから、あの人と同じ…優しさを持っていたから…貴方には一生分からない事だわ」
「はっ、弱者の感情を事細かに理解し、汲み取っているようでは選ばれし特権階級、絶対者に昇り詰める事など決して出来ぬよ」
レクスは彼女から向けられた言葉を無下に扱った後、司教杖を取り出して詠唱を囁き始めた。
彼の身体から発せられた魔力がある一点を目指して次第に収束していく。
そして、一つの黒々とした巨大な球体が生成された。
「詰まらん女一人がこの私に口応えするとはな。良いだろう。そこまでお望みとあらば…」
悍ましい程の魔力の塊。それが今、エリザベスへと向けて振り下ろされようとしていた。
「跡形も残さず葬り去ってくれるわッ!!」
「…ジャックッ!!」
最期の瞬間、エリザベスは強く叫んだ。自身の心中に確かにその輪郭を残している屍術師ジャックに、もう一度助けに来て欲しいと願った。
「…ッ!?」
再び、地下室に舞い下りる一つの銃声―
それは伏したネイヴが握りしめたままの回転式拳銃によるものではない。
しかし、司教杖の先端部分は正確に狙撃され、辺りに破裂音を響かせた。
レクスの禁戒呪術によって掻き集められた膨大な魔力は、制御機構を失った事によって行き場を失い完全に立ち消えてしまった。
彼女の願いは叶った。その強い想いが自身の魂に取り込んでいた射撃術を本来の持ち主である彼の元へと還したのだ。
銃声のした方へと振り向くと、その先には一人の男の姿が在った。
確かに始末した筈の屍術師ジャックが、漆黒の外套を靡かせながらこの場に現れたのだ。
「ネッ…ネイヴ…!?ばッ、馬鹿な…!?女王であるエリザベスを失って、貴様に打つ手など残されていなかった筈…」
「私の手元には優秀な騎士が残されていたという事だ」
「かッ…考えられぬ!あの様な状況から蘇る屍術師など…!」
「大司教レクス。私の様な屍術師と本気で指し合う心算があるのなら、自身が手に掛けた駒は最後まで盤上に残しておくべきだ」
生前の状態を取り戻した屍術師ジャックと大司教レクスが対峙する形。
「…しかし、私がここまで来たのは貴方と生き死にの殺し合いをする為ではない」
そう告げてジャックはレクスへと向けていた回転式拳銃を懐に収める。
「…?」
「私は屍術師となって、禁戒呪術にも人を救う道を切り拓く事が出来るという事を理解した。大司教レクス、彼女が不自由無く生きていく為にも異端者狩りを止めて頂きたい」
「は…?はははははははッ!!中々笑わせてくれるではないか。蘇ったばかりの呆けた頭で物事を考えるとこうもなるのか?」
「……」
ジャックは応えない。それは決して冗談などではなく、レクスに向けた提案は心の底から出た真剣な願いであったからだ。
「…それとも、この私を見くびっているのかッ!?たとえ杖が失くとも貴様を仕留める手段など幾らでもあるのだぞッ!?」
「…あの時とは訳が違います。魔力を用いてこの私に戦いを挑むという事は御自身の命を失う事になりますが、宜しいか?」
「貴様こそ、以前のままと思って貰っては困るな。私はその身体に循環型術式を張り巡らせて自身を不死身の肉体としたのだぞッ!!」
「不死身の肉体、か…確かにその見解は大方外してはいない。しかし、他者から術式を掠め取ってきただけの貴方に、屍術の真髄を理解する事は到底出来ないだろうな」
「舐めるな!死に損ないめッ!!禁戒呪術の構造など貴様を殺したその後でゆっくりと解明してくれるわッ!!」
その言葉と共に自身へと向けられる魔力の矢。その魔術は確かに一度は彼を殺めたものだが、それはジャックに辿り着く寸前の距離でそのまま静止してしまった。
対策を講じた彼に同じ手段は通用しない。ジャックは自身の想念によって不可視の術式を紡ぎ、それを防壁の様に張り巡らせていたのだ。
「…これ以上、失望したくはなかったが残念だ。貴方は生きたまま循環型術式の真実に辿り着く機会をたった今失った」
「…何ッ!?」
「先代の屍術師ジャックより受け継いだ循環型術式は想念の術式だ。その対象へと向けられる他者の感情の力を源泉とし、それに応えて作用する」
動きを止めていた漆黒の矢はさらりと溶けて、そのまま魔力に変換されていった。それを最後の一片として始動する屍術師ジャックの術式。
ネイヴが自害した事によって彷徨っていた自身の魂を取り込む事によって、ジャックは本来の能力を完全に取り戻していた。
この状態ならば、多くの魔力を必要とする広範囲に渡る術式を起動し、大規模な屍術を執り行う事が出来る。
「ここがこれまでに何を繰り返してきた場所か、忘れた訳ではあるまい…我は生と死の理に挑む者。陽の熱と月の湿りを帯びて、此の濁世に産落せし身命よ」
「ま、まさかッ!?貴様のやろうとしている事はッ…!?」
「擦り切れ、朽ちた幹に巡り回った穢れと清廉。汝が現世を彷徨った証はそのままに、呼びかけに応えよ」
ジャックが詠唱を終えると共に、死人と密接に関わっていた媒介へと魂が下ろされた。
「ひッ…!?なっ、何だ!?この声はッ!?」
聞こえて来たのは私刑によって葬り去られた亡者達の怨嗟の声。
それは聴覚を通してではなく、レクスの意識に直接介入してきた。
「この地下室で処刑された者達の魂を呼び寄せた。察しの良い貴方なら、これから自身の身に何が起きるのか容易に想像がつく事だろう?」
レクスの肉体を媒介とし、一堂に集められた死人達が抱く怨念が連なる事によって生まれた強大な呪い。循環型術式は膨れ上がった負の感情のエネルギーが望む答えを返した。
「きッ…!?貴様達はッ…!?…ふざけるなッ!!この私がッ…大司教レクスが!?貴様達の感情如きに引き裂かれて…引き裂かれてたまる、か…ぐげェあァッ!?」
大司教レクスはその地位に至るまでに人々の想いを蔑ろに扱い、蹂躙してきた。
彼は肉体に張り巡らせた術式の本質を自身の死を以て漸く理解した。
循環型術式の効力はそれに加わる者達の想念によって変化するものである。
レクスに生き続けて欲しいと願う者が一人でも居れば術式はその様に応えただろう。
大司教レクスとの戦いは彼が冥界に引きずり込まれる事によって決着がついた。
しかし、それで亡者達から発せられる声が止む事は無かった。
寧ろ、怨嗟の声は先程よりも強まっているように感じられた。
「…前も…つ…く…」
「…何?」
ジャックの聴覚が微かな声を拾う。そこから話の全容を捉える事は出来なかったが、何かしらの異変が起きている事を彼は察した。
レクスの循環型術式はエリザベスの記憶から必要とされる情報だけを、術式の構造だけを取り出して肉体に張り巡らせたものである。粗雑に転写されただけの彼の術式には鍵が掛かっておらず、誰もが加わる事が出来た為に彼は絶命した。
ジャックに張り巡らされた術式にはある制限が掛けられていたが、この場で処刑された者達の強大な想念はその法則を歪める程の力を有していたのだ。
循環型術式に加わった亡者の魂がジャックの耳元で囁く。今度は全て聞き取る事が出来た。
亡者は次の様な言葉をジャックに向けてしきりに訴えていたのだ。お前も連れて行く、と。
「やはり、な…私が重ねてきた罪がそう易々と赦されるなどと思ってはいなかったが…」
そう言ってジャックはエリザベスに向けて自身に宿る全ての魔力を放出して彼女に分け与えた。
戦いの場などに赴かず、穏やかに暮らしていれば体内の魔力を使い切る事無く、人として一生を終える事が出来るだろう。
「さようならだ。エリザベス―」
その言葉だけを遺してジャックは、無数の亡者達が連なる事によって出来た漆黒の波に完全に呑み込まれてしまった。
目の前に広がるのは出口の閉ざされた無限の闇、それらが彼の全身を蝕んでいく。
魂を肉体から引き剥がされていく事に痛みは無い。
ただ、ありとあらゆる感覚が徐々に失われていくだけである。
魔力の繋がりは完全に絶たれ、ジャックの魂はレクスと同じ様に亡者達の手によって冥界へと連れ去られようとした。その時であった―
ジャックを覆っていた濁流の中から幾つかの眩しい光が灯される。次第に強さを増していくその輝きは亡者達の思念を束ねて出来た死の波を内部から分断していった。
薄れゆくジャックの意識の中に無数の像が確かな形として浮かび上がる。
シャローナ、セドリック、オズワード、アメルダ…その他にも幾つもの見覚えのある顔触れが並んでいた。そして、最奥には青毛の馬バロンと先代の、屍術師ジャックの姿があった。
「君達は…それにジャックとバロンまでも…?」
「君はもう、十分過ぎる程に罪を償った筈だ」
「しかし、私のやった事は…」
「胸を張り給え。そうでなければ、今その身に起きた事象を何と説明する?」
「それは…」
術者として依頼を請け負う中でこれまでに関わってきた者達。彼に恩義を感じる死人達の魂が、屍術師ジャックを迫り来る亡者の手から救った。
半ば強引にこじ開けられたジャックの循環型術式は、レクスの施術と同じ様に誰でも加わる事が出来るものへと成り下がってしまっていたが、逆にそれが事態を好転させたようだ。
「彼等の怒りを鎮めるのは私に任せておけ。なに、既にこの身が滅びていようとも、それが屍術を執り行えないという理由にはならん」
「先代の言う通りです。貴方は彼女の気持ちを確かめる為にここまで来たのでしょう?」
バロンのその言葉と共に一つの強い光が差し込む。ジャックにはそれが誰の想いによって生じたものなのか良く分かっていた。
「分かった。私も自らの役目を終えたその時には、必ず…」
そう言って彼は、決して振り返る事をせずに冥界と正反対の方を指し示す光明の路を辿った。
………
エリザベスは屍術師の前身にあたる神父の頃から彼に好意を抱いていた。異端者として処刑されて義体が出来上がるまでの間、唯一残された生身である首だけに魔力を注ぎ込み、魂を定着させて生き永らえていたあの頃。
彼女は失われてしまった自身の生を取り戻そうと苦心するジャックの姿をずっと見ていた。
ジャックがレクスに一度殺害された後、蘇る事が出来たのはエリザベスが彼に生きて欲しいと強く願ったからである。
彼女の膨れ上がった感情の力によって本来エリザベスだけに施されていた循環型術式は、半ば暴走という形でその範囲を拡大させてジャックにまで影響を及ぼしていた。
そして今、彼はエリザベスの強い想いによって冥界に引きずり込まれる寸前の所で引き止められ、再び現世へと戻って来る事が出来た。
エリザベスからジャックへ、ジャックからエリザベスへ。互いに互いを生き続けて欲しいと願う深遠なる屍術によって二人は繋がっていた。
しかし、欠落したジャックの魂を補填する為にとエリザベスは記憶と感情を失い、ジャックは身体機能に大きな損傷を残した。生前のパフォーマンスを十分に発揮出来ず、不安定な状態へと陥ったジャックをカバーする為に、彼女は彼の記憶を改竄して従者という役割を担った。
その際にジャックが会得していた体術と射撃術を継承し、彼女は今日まで戦い抜いてきた。
また、循環型術式はエリザベスが心の奥底に抱いていた感情をも汲み取って動作を続けていた。それは生前の状態を完全に取り戻し屍術の研究が終わりを迎えた時、自分の傍からジャックが離れていってしまわないかという不安からなるものであった。彼がひたすらに同じ研究結果を日録に綴る閉じた術式の下に置かれていたのはそのためである。
意識を取り戻したジャックは磔にされているエリザベスの方へと近寄って、無言で鎖を外した。すると彼女は、解放されるなり真っ先に彼の胸の中へと飛び込んだ。
「ジャック、ごめんなさい…私は貴方に、貴方に…」
その様相からジャックは全てを察した。彼女の気持ちを確かめるのに、態々魂を開いて覗き見る必要など無い。純粋な気持ちで向き合うだけで良い。
「…エリザベス、良いのだ。全ては私を守る為にしてくれた事だろう?」
泣き崩れるエリザベスを強く抱き締めてジャックは優しく言葉を下ろした。
二人でもう一度、生きていこうと。
………
「エリザベス。好天に恵まれた様なので、今日は街に出て君の新しい衣服を見繕おうと思うのだが都合はどうかね?」
ジャックは偏りの無いバランスの取れた朝食を摂り終えてナプキンで口元を拭いた後、エリザベスへと向けて話を切り出した。
「分かりました。では、準備が済むまでに私も片付けを済ませておきます」
「いや、私も手伝おう。この身に沁みついた君への甘え癖を綺麗に取り除いておかなくてはな」
そう言ってジャックは自身の食器を纏めてシンクへと運んだ。
「私は別にこれまで通りの役割分担でも構わないのですけれど…」
エリザベスが純白のロンググローブを外して、食器の水洗いに取り掛かる。
「君とは主従関係ではなく、対等なパートナーでありたいのだ」
彼女が洗った皿に残った水気を拭き取りながら、ジャックはその様に返した。
「承知致しました」
その答えを受けたエリザベスはジャックへと向けて深々と頭を下げる。
「あっ…ごっ、ごめんなさい!私も中々、癖が抜け切っていないみたいで…」
「そう直ぐに切り替えの効くものでもないな。共に歩きながら少しずつ慣らしていこう」
「はい。そういえばジャック、これはずっと気になっていた事なのですが…」
「…何かね?」
「…その、以前の様に私の事を、リサと呼んでは下さらないのですか?」
エリザベスが先程よりも少しだけ距離を詰めて、ジャックに食器を差し出す。
「かっ…考えておこう」
照れ隠しか、彼女から受け取った平皿を手早く拭いて、水仕事を終えた彼はそそくさとキッチンから立ち去って行った。
彼は日用品の備蓄のチェックと買い出しに必要な持ち物を整えた後、慣れた手つきで馬具の交換に取り掛かった。二人用のサドルへ換装を済ませて彼が奥の方へと跨ると、丁度出かける準備を済ませた彼女が棲家から出てきた。
「エリザ―」
彼女を手前のサドルに引き上げようとジャックはこれまでの呼び名を途中まで言い掛けたのだが、一度思い直してこれからの呼び名へと改める事にした。
「いや…リサ、行こうか」
「はい。喜んで」
ジャックが彼女へと向けてその手を真っ直ぐに差し伸べる。
リサはそれを二度と離さない様に強く握り返した。
「ではバロン、一つ頼まれてくれるか?」
「バロン、お願い」
騒動が収束した後、ジャックの屍術によって再び蘇った青毛の馬バロンは二人を乗せて最寄りの港街を目指して駆け出した。
そう口にするなり屍術師ネイヴはジャックの傍へと近寄ってその手を翳した。赤い輝きを放って発動するのは彼の掌に直接刻まれた術式。
「ぐぉああああァッ…!!」
ジャック本人の意思とは無関係に、彼の肉体からは魔力の奔流である黒い霧が溢れ出した。
エリザベスと同様に、体内を巡る彼の魔力はいとも容易くネイヴの掌へと吸い込まれていった。
ネイヴが把握している屍術師ジャックに施された術式の構造は特別なものではない。
それは屍術の基本原則に沿ったものだと考えられる。
ジャックの純正の肉体を器として魂を下ろし、魔力を消耗しながらその二つを繋ぎ留めている。
つまり、屍術によって蘇った者が内包された魔力を失えば、魂は繋がりを絶たれて再び死人へと還るという事になる。
「さて、君達二人の身柄を預かる前に幾つかの処置を施さなくてはならないのだが…」
「……」
既に意識を失ってしまったジャックにネイヴからの言葉は届いておらず、返答は無い。
項垂れるジャックの肉体に目をやると、既に魂魄の剥離が始まっている事が視認出来た。
「頃合いか。では、歪に入り組んだ魂を然るべき場所へと、在るべき形へと還すとしよう」
ネイヴは一度深く息を吐いて呼吸を整える。そして、ゆっくりと口を開くと言霊を紡ぎ始めた。
「我は生と死の理に挑む者。陽の熱と月の湿りを帯びて、此の濁世に産落せし身命よ―」
彼がジャックの詠唱を一字一句違える事なくこなすと、統合されていたジャックの魂魄に僅かな綻びが生じた。ネイヴが直接触れる事でその乱れは次第に広がっていき、最終的に一つから二つへと綺麗に切り離された。
それらは等しい大きさに分割された事から、片方はジャック自身のものであり、もう片方は欠落した魂を補っていたエリザベスのものだと言う事が見て取れる。
分断されたばかりの彷徨える魂はネイヴが指し示す方へと向かい、本来収まるべき器の中へと溶け込んでいった。
「これで、エリザベスの魂は完全に統合された。しかし、貴様はここまでだ」
残されたもう片方の魂はジャックの肉体と辛うじて繋がっている状態におかれていた。
大司教レクスがネイヴに下した命令はエリザベスの魂を本来の形へと戻し、ジャックの遺体を回収するというものであった。
彼がジャックの魂を完全に引き剥がす為に、自ら手を下そうとしたその刹那であった―
「…貴様はッ!?」
両者の間を駆け抜ける黒い弾丸。ネイヴの視界に割り込む形で現れたのは、青毛の馬バロンであった。彼は漆黒の鬣を靡かせながら颯爽と主人の下へと駆け寄ると、その後ろ襟を食んでそのまま持ち上げてみせた。
この場からジャックを攫って逃げおおせようとするバロンの足止めをしようと、ネイヴは回転式拳銃を素早く取り出して数回発砲した。計三発の弾丸は正確にバロンの後躯へと撃ち込まれたが、それでも彼はペースを落とす事なく襲歩で走り続け、射程圏内を脱して昏黒の森の奥深くへと走り去って行った。
「…これ以上、深追いをする必要はあるまい。魔力の供給源を失ったあの屍馬が今更どこへと向かおうが、屍術師ジャックと同じ末路を辿る事になるのだろうからな」
………
「ネイヴよ。私が君に直接下した命令を覚えているかね?」
ウィックエイユの港から出る船を利用して大陸を渡り、この大聖堂へと舞い戻って来たネイヴに向けて大司教レクスは言葉を突き付けた。
彼がジャックの棲家を襲撃し、連れ帰ったのはレクスから要求された二つの内の片方、エリザベスのみであったからだ。
「申し訳ございません。まさかあの様な形であの男の遺体の回収を阻まれるとは…屍馬の抱く主への忠誠心というものを侮っておりました」
「まあ良い。エリザベスの記憶を辿れば循環型術式の秘法を解明する事が出来るのだからな」
「…事を仕損じた私に寛大な措置を賜って頂き、ありがとうございます」
「しかし、ネイヴ。二度目の機会は無いという事を良く覚えておき給え。召使の代わりを立てるなどこの私にとっては造作もない事なのだからな」
「…はっ、その言葉しかとこの胸に刻み付けておきます」
「では、エリザベスをこちらへと引き渡して貰おうか」
ネイヴは彼に指示された通り、意識を失っているエリザベスの肉体を抱えて祭壇まで運んだ。
その上には既に術式が書き込まれており、レクスは循環型術式の秘法を手にするこの瞬間を待ち焦がれていたようだった。
彼が自身の右手をエリザベスの額に翳して力を籠めると周辺の術式が連鎖を起こして次々に発動し、肉体に宿っていた彼女の魂が視認出来る形となって顕現した。
レクスはそれを手繰り寄せて、自らの手でエリザベスの魂を開く。
すると、循環型術式の秘法、そのメカニズムが直接意識の中へと流れ込んで来た。
「成程。やはりそういう事か…」
本来、術式というものは魂を下ろす媒介に直接刻み付けたり、対象の周辺に描いた後でそこに魔力を通す事で効力を発揮する回路である。
しかし、それらはあくまで魔導書通りの原理原則に沿ったものでしかない。例外の中の例外、イリーガルな方法も僅かではあるが存在する。
それは熟練した魔術師が自身の想念によって術式を綴るというものである。大司教レクスの推し測る通り、循環型術式はそれに属するものである事が解明された。
故にジャックやエリザベスの肉体には、蘇生に用いられた術式の痕跡が残されていない。
生者の感情の動きを捉えて読み取る事は容易な事ではないが、エリザベスの魂はレクスの掌中にある。彼女の記憶を辿れば、いくら想念による術式と言えど掠め取る事はそう難しくはない。
レクスは彼女の魂から自身に必要な情報だけを次々と探し当てていく。
「ふっ、ふふ…ふはははははッ!!遂に手に入れたぞ!!数多の屍術師達がその記憶を他者へと逃がし、ひた隠しにしてきた循環型術式さえも我の物としたッ!!」
レクスはネイヴが傍に立っている事など意に介さず、しばらくの間高笑いを続けていた。
それは彼がこれまでに葬り去ってきた屍術師達へと向けた嘲笑であった。
「流石です。まさか、その秘法を解明するのと同時に自身に循環型術式を張り巡らせるとは…」
従来の屍術は生前の状態を保つ為に魔力を消耗していくものだが、循環型術式はその常識を覆すものである。時間の経過と共に体内を巡る魔力は一定の値にまで上昇し魂を繋ぎ留める。
つまり、今のレクスは不死身の肉体を手に入れたと言っても過言ではない。
「こうなった以上、エリザベスは用済みだ。この女の処刑は後日、馴染み深いあの場所で執り行う事としよう。ネイヴ、手筈を整えておき給え」
「はっ、全ては大司教レクス様の仰せのままに―」
………
「…ック、ジャック」
魂と肉体との繋がりが薄まり、接触不良を起こしている事によって生じる意識のちらつき。
生きているのか、死んでいるのかさえも不明瞭なままの自分へと向けられる呼び声。
肉体を動かす力が既に絶たれてしまった今、目を開いて見据える事は出来ないが、どうにか意識を傾けて言い知れぬ存在との交信を図る。
頭に浮かび上がって来るのは一つのヴィジョン。その像は雄々しく勇猛な佇まいをしていた。
「君は…」
「貴方は、このままここで眠り続けていて良いのですか?」
彼が意識の海の奥底に沈んだままのジャックへと向けて言葉を下ろす。
「私は閉ざされた術式の中で踊るだけの人形だったのだ。それが再び立ち上がった所で一体どうなるというのだ?」
「…ですが、彼女の気持ちを確かめないまま終わってしまって本当に良いのですか?」
「彼女の、エリザベスの気持ち…?」
その様に問われ、断続的に蘇るのは昏睡する直前の、ネイヴと交わしたあのやり取り。
彼はエリザベスの魔力を取り込み意識を奪った後、事実を突きつけながら流暢に語った。
こちらも魔力を失って意識が朦朧としていた所為もあるが、思い返せば相手のペースに完全に呑み込まれてしまっていた。
熟達した屍術師と言えど、己が魂魄の深層に食い込んだ意識を読み取る事など出来はしない。
しかし今、ジャックの魂から切り離されて元の形へと統合された状態であれば、彼女の、エリザベスの本心を確かめる事が出来る。
「私の記憶の中で生きる貴方は、屍術師ジャックは、生前も死後も変わる事なく…」
「…死人の意思を尊重する事を信念としてきた、か」
「はい。心持ちを取り戻して下さったのですね」
「…ただ、この窮地を脱する方法はそうは多くはあるまい」
「こうなってしまった以上、残された路は一つしか考えられません。先代は貴方に屍術師の未来を託した。それ以来、私の役目はその行く末を見届けていく事でしたが…」
「まさか、君がこれからやろうとしている事は…」
「考えの通りで御座います。貴方の記憶が刻まれたこの魂と肉体に宿った全ての魔力を捧げる事で…今度は、私が貴方の命を繋ぎましょう」
彼がジャックの意識の中を駆け抜けて循環型術式へと加わる。
エリザベスに次いで今度はバロンが欠落した魂を再び補填する形―
鋭い輝きを放つ赤い閃光に包まれながら意識を取り戻したジャックは、冷気を帯びた昏黒の森の中で一人立ち尽くしていた。
「…バロン」
彼の傍で横たわる青毛の馬は、目を閉じて安らかな笑みを浮かべたまま深い眠りに就いていた。
………
「ここは…?」
これまでに多くの異端者達を葬り去ってきた教会の地下室。
籠った湿気と独特の異臭を感じながらもエリザベスは再び目覚めた。いや、この場合は目覚めさせられたと言うべきか。
手足を動かそうと試みるのだが、その身は鎖に縛られたまま十字架に磔にされており、彼女の自由は完全に奪われてしまっていた。
どうにかしてこの窮地から脱しようと足掻いていると、耳に入って来たのは聞き覚えのある粘つく様な男の声であった。
「やあ、エリザベス。この景色には良く見覚えがあるだろう?」
「…ッ!?」
「思い出して貰えたかね?ここは君が最初の死を迎えた場所だ」
激しい悪寒が身体中を駆け巡る。レクスのその声が響く度にエリザベスの頭の中にはある光景が鮮明に蘇ってきた。
共に日常を過ごしていた教会の人間達に襲われ、理不尽な暴力に曝されて殺害された、あの時の忌まわしい記憶が。
「確か、君の胸を貫いたシスターはネイヴと並ぶもう一人の教育係であったな。彼女からの報告書は隅々まで読ませて貰ったよ」
「…何を、言いたいの?」
「なに、ほんの少しばかり昔話をな。聖カルム孤児院の内部から異端者が出たという事であの時は特例の措置を取ったと記憶している」
「……」
「知っているぞ。あの時、君の肉体の粛清には教会の人間達だけではなく―」
「…やっ…やめてッ!」
「何を今更。既に死に絶えている君を気遣う必要などあるまい。どうだったかね?普段から面倒を見ていた子供達に焼き鏝を押し付けられ、異端者の烙印を刻まれる気分は?」
レクスは言葉で執拗にエリザベスの心的外傷を抉った。自身の経験からなる恐怖に完全に呑み込まれてしまった彼女は、歯を合わせる事が出来ないままその身を震わせている。
「いっ…いやッ!嫌ぁッ!」
「ふッ…ふふ、ふはははははっ!!良い表情を浮かべるではないか。あの男、ジャックを護る事だけを考え、気丈に振る舞っていた君からはとても想像出来ぬな」
その言葉に彼女は気付かされる。二つに分かれていた魂は統合されて、主人であるジャックを護る為にと切り離していた筈の感情が完全に元の状態へと戻っているのだ。
「クククッ…再び死を迎えるのだ。こういった場合、人間の最も優れた部分である感情を取り戻しておいた方が余興として面白かろう?」
エリザベスはこの絶望的な状況下で皮肉にも自我を取り戻した。しかしそれは、レクスの用意したこの悪趣味な演目を盛り立てる為だけに生前の形へと巻き戻されたのだ。
「ネイヴ―」
「はっ」
レクスがこの舞台に立つ最後の役者を呼び寄せる。
すると彼に仕える従順なる召使、屍術師ネイヴがこの処刑場に姿を現した。
「では、君の回転式拳銃でエリザベスを射殺し給え。二度と蘇る事が出来ぬ様に唯一残った生身である頭部を正確に撃ち抜け」
「承知致しました」
ネイヴはレクスに言われるがままに懐から回転式拳銃を取り出して、その冷たい銃口を磔になっている彼女へと向けた。互いに向き合い、執行人であるネイヴと罪人とされるエリザベスの視線が重なる形。
エリザベスを蘇らせた屍術師ジャックと同じ容貌をした彼が、彼女を再び死人へと還す。
「お気に召して貰えたかね?本物のジャックの肉体ではなくて些か心苦しいが…」
これが、大司教レクスが周到に用意した彼女へと向けた凄惨な結末であった。
ネイヴの射撃の精度に関しては今更言及するまでもない。彼が引鉄に力を籠めれば確実にエリザベスを撃ち抜いて絶命させる事だろう。
「……」
しかし、張り詰めた静寂を突き破る銃声はいつまで経っても鳴る気配を見せなかった。
「どうしたネイヴ?二度目の機会は無いと伝えた筈だが?まさか、この私の言葉を忘れた訳ではあるまい?早々に引き金を引き給え」
「はっ、分かっております…」
レクスは発破を掛けて彼を動かそうとするのだが、どうにも事態が進展する様子は見られない。
課せられた命令を遂行しなければ次は自分が処分される。
その事はネイヴも良く理解している、しかし…出来ない。
それはネイヴの魂に残留する一片の記憶。彼が神父としての役割を果たしていたあの頃。自身の行動によって彼女の未来を奪ってしまったという自責の念。
それらがエリザベスを再び手に掛ける事、回転式拳銃の引き金を引く事を躊躇わせていた。
「ネイヴ、最後の機会を与える。私の言う通り、エリザベスを射殺しなければ―」
「…ッ!!」
地下室に響いたのは一つの生を閉ざす乾いた音。心中の葛藤によるせめぎ合いによって限界を迎えたネイヴは、遂に握り締めていた回転式拳銃を発砲した。
撃ち出された一発の弾丸は肉を侵しながら突き進み、果てには肉体を貫き通した。
その通り路からは赤と黒を掻き混ぜた体液がどろどろと溢れ出ている。
精巧に作り上げた義体にジャックの半欠けの魂を定着させて、半ば強引に蘇生されたネイヴの動力はレクスの魔力に大きく依存していた。突き詰めていけばレクスが糸を引いて操っていた傀儡だったと言っても差支えはない。
しかし、彼は最期にその呪縛を振り解いて命令に歯向かった。ネイヴは自身のこめかみに銃口を突きつけて引鉄を引き、自らの意思で術式を破断してその命を絶ったのだ。
「余興も満足に完遂出来ぬとは…所詮はあの男の片割れに過ぎないという事か」
「…違う」
「何?」
用済みと成り果てたネイヴに向けてレクスが吐き捨てた言葉をエリザベスは否定した。
「この人も、自分を責め続けていたから、あの人と同じ…優しさを持っていたから…貴方には一生分からない事だわ」
「はっ、弱者の感情を事細かに理解し、汲み取っているようでは選ばれし特権階級、絶対者に昇り詰める事など決して出来ぬよ」
レクスは彼女から向けられた言葉を無下に扱った後、司教杖を取り出して詠唱を囁き始めた。
彼の身体から発せられた魔力がある一点を目指して次第に収束していく。
そして、一つの黒々とした巨大な球体が生成された。
「詰まらん女一人がこの私に口応えするとはな。良いだろう。そこまでお望みとあらば…」
悍ましい程の魔力の塊。それが今、エリザベスへと向けて振り下ろされようとしていた。
「跡形も残さず葬り去ってくれるわッ!!」
「…ジャックッ!!」
最期の瞬間、エリザベスは強く叫んだ。自身の心中に確かにその輪郭を残している屍術師ジャックに、もう一度助けに来て欲しいと願った。
「…ッ!?」
再び、地下室に舞い下りる一つの銃声―
それは伏したネイヴが握りしめたままの回転式拳銃によるものではない。
しかし、司教杖の先端部分は正確に狙撃され、辺りに破裂音を響かせた。
レクスの禁戒呪術によって掻き集められた膨大な魔力は、制御機構を失った事によって行き場を失い完全に立ち消えてしまった。
彼女の願いは叶った。その強い想いが自身の魂に取り込んでいた射撃術を本来の持ち主である彼の元へと還したのだ。
銃声のした方へと振り向くと、その先には一人の男の姿が在った。
確かに始末した筈の屍術師ジャックが、漆黒の外套を靡かせながらこの場に現れたのだ。
「ネッ…ネイヴ…!?ばッ、馬鹿な…!?女王であるエリザベスを失って、貴様に打つ手など残されていなかった筈…」
「私の手元には優秀な騎士が残されていたという事だ」
「かッ…考えられぬ!あの様な状況から蘇る屍術師など…!」
「大司教レクス。私の様な屍術師と本気で指し合う心算があるのなら、自身が手に掛けた駒は最後まで盤上に残しておくべきだ」
生前の状態を取り戻した屍術師ジャックと大司教レクスが対峙する形。
「…しかし、私がここまで来たのは貴方と生き死にの殺し合いをする為ではない」
そう告げてジャックはレクスへと向けていた回転式拳銃を懐に収める。
「…?」
「私は屍術師となって、禁戒呪術にも人を救う道を切り拓く事が出来るという事を理解した。大司教レクス、彼女が不自由無く生きていく為にも異端者狩りを止めて頂きたい」
「は…?はははははははッ!!中々笑わせてくれるではないか。蘇ったばかりの呆けた頭で物事を考えるとこうもなるのか?」
「……」
ジャックは応えない。それは決して冗談などではなく、レクスに向けた提案は心の底から出た真剣な願いであったからだ。
「…それとも、この私を見くびっているのかッ!?たとえ杖が失くとも貴様を仕留める手段など幾らでもあるのだぞッ!?」
「…あの時とは訳が違います。魔力を用いてこの私に戦いを挑むという事は御自身の命を失う事になりますが、宜しいか?」
「貴様こそ、以前のままと思って貰っては困るな。私はその身体に循環型術式を張り巡らせて自身を不死身の肉体としたのだぞッ!!」
「不死身の肉体、か…確かにその見解は大方外してはいない。しかし、他者から術式を掠め取ってきただけの貴方に、屍術の真髄を理解する事は到底出来ないだろうな」
「舐めるな!死に損ないめッ!!禁戒呪術の構造など貴様を殺したその後でゆっくりと解明してくれるわッ!!」
その言葉と共に自身へと向けられる魔力の矢。その魔術は確かに一度は彼を殺めたものだが、それはジャックに辿り着く寸前の距離でそのまま静止してしまった。
対策を講じた彼に同じ手段は通用しない。ジャックは自身の想念によって不可視の術式を紡ぎ、それを防壁の様に張り巡らせていたのだ。
「…これ以上、失望したくはなかったが残念だ。貴方は生きたまま循環型術式の真実に辿り着く機会をたった今失った」
「…何ッ!?」
「先代の屍術師ジャックより受け継いだ循環型術式は想念の術式だ。その対象へと向けられる他者の感情の力を源泉とし、それに応えて作用する」
動きを止めていた漆黒の矢はさらりと溶けて、そのまま魔力に変換されていった。それを最後の一片として始動する屍術師ジャックの術式。
ネイヴが自害した事によって彷徨っていた自身の魂を取り込む事によって、ジャックは本来の能力を完全に取り戻していた。
この状態ならば、多くの魔力を必要とする広範囲に渡る術式を起動し、大規模な屍術を執り行う事が出来る。
「ここがこれまでに何を繰り返してきた場所か、忘れた訳ではあるまい…我は生と死の理に挑む者。陽の熱と月の湿りを帯びて、此の濁世に産落せし身命よ」
「ま、まさかッ!?貴様のやろうとしている事はッ…!?」
「擦り切れ、朽ちた幹に巡り回った穢れと清廉。汝が現世を彷徨った証はそのままに、呼びかけに応えよ」
ジャックが詠唱を終えると共に、死人と密接に関わっていた媒介へと魂が下ろされた。
「ひッ…!?なっ、何だ!?この声はッ!?」
聞こえて来たのは私刑によって葬り去られた亡者達の怨嗟の声。
それは聴覚を通してではなく、レクスの意識に直接介入してきた。
「この地下室で処刑された者達の魂を呼び寄せた。察しの良い貴方なら、これから自身の身に何が起きるのか容易に想像がつく事だろう?」
レクスの肉体を媒介とし、一堂に集められた死人達が抱く怨念が連なる事によって生まれた強大な呪い。循環型術式は膨れ上がった負の感情のエネルギーが望む答えを返した。
「きッ…!?貴様達はッ…!?…ふざけるなッ!!この私がッ…大司教レクスが!?貴様達の感情如きに引き裂かれて…引き裂かれてたまる、か…ぐげェあァッ!?」
大司教レクスはその地位に至るまでに人々の想いを蔑ろに扱い、蹂躙してきた。
彼は肉体に張り巡らせた術式の本質を自身の死を以て漸く理解した。
循環型術式の効力はそれに加わる者達の想念によって変化するものである。
レクスに生き続けて欲しいと願う者が一人でも居れば術式はその様に応えただろう。
大司教レクスとの戦いは彼が冥界に引きずり込まれる事によって決着がついた。
しかし、それで亡者達から発せられる声が止む事は無かった。
寧ろ、怨嗟の声は先程よりも強まっているように感じられた。
「…前も…つ…く…」
「…何?」
ジャックの聴覚が微かな声を拾う。そこから話の全容を捉える事は出来なかったが、何かしらの異変が起きている事を彼は察した。
レクスの循環型術式はエリザベスの記憶から必要とされる情報だけを、術式の構造だけを取り出して肉体に張り巡らせたものである。粗雑に転写されただけの彼の術式には鍵が掛かっておらず、誰もが加わる事が出来た為に彼は絶命した。
ジャックに張り巡らされた術式にはある制限が掛けられていたが、この場で処刑された者達の強大な想念はその法則を歪める程の力を有していたのだ。
循環型術式に加わった亡者の魂がジャックの耳元で囁く。今度は全て聞き取る事が出来た。
亡者は次の様な言葉をジャックに向けてしきりに訴えていたのだ。お前も連れて行く、と。
「やはり、な…私が重ねてきた罪がそう易々と赦されるなどと思ってはいなかったが…」
そう言ってジャックはエリザベスに向けて自身に宿る全ての魔力を放出して彼女に分け与えた。
戦いの場などに赴かず、穏やかに暮らしていれば体内の魔力を使い切る事無く、人として一生を終える事が出来るだろう。
「さようならだ。エリザベス―」
その言葉だけを遺してジャックは、無数の亡者達が連なる事によって出来た漆黒の波に完全に呑み込まれてしまった。
目の前に広がるのは出口の閉ざされた無限の闇、それらが彼の全身を蝕んでいく。
魂を肉体から引き剥がされていく事に痛みは無い。
ただ、ありとあらゆる感覚が徐々に失われていくだけである。
魔力の繋がりは完全に絶たれ、ジャックの魂はレクスと同じ様に亡者達の手によって冥界へと連れ去られようとした。その時であった―
ジャックを覆っていた濁流の中から幾つかの眩しい光が灯される。次第に強さを増していくその輝きは亡者達の思念を束ねて出来た死の波を内部から分断していった。
薄れゆくジャックの意識の中に無数の像が確かな形として浮かび上がる。
シャローナ、セドリック、オズワード、アメルダ…その他にも幾つもの見覚えのある顔触れが並んでいた。そして、最奥には青毛の馬バロンと先代の、屍術師ジャックの姿があった。
「君達は…それにジャックとバロンまでも…?」
「君はもう、十分過ぎる程に罪を償った筈だ」
「しかし、私のやった事は…」
「胸を張り給え。そうでなければ、今その身に起きた事象を何と説明する?」
「それは…」
術者として依頼を請け負う中でこれまでに関わってきた者達。彼に恩義を感じる死人達の魂が、屍術師ジャックを迫り来る亡者の手から救った。
半ば強引にこじ開けられたジャックの循環型術式は、レクスの施術と同じ様に誰でも加わる事が出来るものへと成り下がってしまっていたが、逆にそれが事態を好転させたようだ。
「彼等の怒りを鎮めるのは私に任せておけ。なに、既にこの身が滅びていようとも、それが屍術を執り行えないという理由にはならん」
「先代の言う通りです。貴方は彼女の気持ちを確かめる為にここまで来たのでしょう?」
バロンのその言葉と共に一つの強い光が差し込む。ジャックにはそれが誰の想いによって生じたものなのか良く分かっていた。
「分かった。私も自らの役目を終えたその時には、必ず…」
そう言って彼は、決して振り返る事をせずに冥界と正反対の方を指し示す光明の路を辿った。
………
エリザベスは屍術師の前身にあたる神父の頃から彼に好意を抱いていた。異端者として処刑されて義体が出来上がるまでの間、唯一残された生身である首だけに魔力を注ぎ込み、魂を定着させて生き永らえていたあの頃。
彼女は失われてしまった自身の生を取り戻そうと苦心するジャックの姿をずっと見ていた。
ジャックがレクスに一度殺害された後、蘇る事が出来たのはエリザベスが彼に生きて欲しいと強く願ったからである。
彼女の膨れ上がった感情の力によって本来エリザベスだけに施されていた循環型術式は、半ば暴走という形でその範囲を拡大させてジャックにまで影響を及ぼしていた。
そして今、彼はエリザベスの強い想いによって冥界に引きずり込まれる寸前の所で引き止められ、再び現世へと戻って来る事が出来た。
エリザベスからジャックへ、ジャックからエリザベスへ。互いに互いを生き続けて欲しいと願う深遠なる屍術によって二人は繋がっていた。
しかし、欠落したジャックの魂を補填する為にとエリザベスは記憶と感情を失い、ジャックは身体機能に大きな損傷を残した。生前のパフォーマンスを十分に発揮出来ず、不安定な状態へと陥ったジャックをカバーする為に、彼女は彼の記憶を改竄して従者という役割を担った。
その際にジャックが会得していた体術と射撃術を継承し、彼女は今日まで戦い抜いてきた。
また、循環型術式はエリザベスが心の奥底に抱いていた感情をも汲み取って動作を続けていた。それは生前の状態を完全に取り戻し屍術の研究が終わりを迎えた時、自分の傍からジャックが離れていってしまわないかという不安からなるものであった。彼がひたすらに同じ研究結果を日録に綴る閉じた術式の下に置かれていたのはそのためである。
意識を取り戻したジャックは磔にされているエリザベスの方へと近寄って、無言で鎖を外した。すると彼女は、解放されるなり真っ先に彼の胸の中へと飛び込んだ。
「ジャック、ごめんなさい…私は貴方に、貴方に…」
その様相からジャックは全てを察した。彼女の気持ちを確かめるのに、態々魂を開いて覗き見る必要など無い。純粋な気持ちで向き合うだけで良い。
「…エリザベス、良いのだ。全ては私を守る為にしてくれた事だろう?」
泣き崩れるエリザベスを強く抱き締めてジャックは優しく言葉を下ろした。
二人でもう一度、生きていこうと。
………
「エリザベス。好天に恵まれた様なので、今日は街に出て君の新しい衣服を見繕おうと思うのだが都合はどうかね?」
ジャックは偏りの無いバランスの取れた朝食を摂り終えてナプキンで口元を拭いた後、エリザベスへと向けて話を切り出した。
「分かりました。では、準備が済むまでに私も片付けを済ませておきます」
「いや、私も手伝おう。この身に沁みついた君への甘え癖を綺麗に取り除いておかなくてはな」
そう言ってジャックは自身の食器を纏めてシンクへと運んだ。
「私は別にこれまで通りの役割分担でも構わないのですけれど…」
エリザベスが純白のロンググローブを外して、食器の水洗いに取り掛かる。
「君とは主従関係ではなく、対等なパートナーでありたいのだ」
彼女が洗った皿に残った水気を拭き取りながら、ジャックはその様に返した。
「承知致しました」
その答えを受けたエリザベスはジャックへと向けて深々と頭を下げる。
「あっ…ごっ、ごめんなさい!私も中々、癖が抜け切っていないみたいで…」
「そう直ぐに切り替えの効くものでもないな。共に歩きながら少しずつ慣らしていこう」
「はい。そういえばジャック、これはずっと気になっていた事なのですが…」
「…何かね?」
「…その、以前の様に私の事を、リサと呼んでは下さらないのですか?」
エリザベスが先程よりも少しだけ距離を詰めて、ジャックに食器を差し出す。
「かっ…考えておこう」
照れ隠しか、彼女から受け取った平皿を手早く拭いて、水仕事を終えた彼はそそくさとキッチンから立ち去って行った。
彼は日用品の備蓄のチェックと買い出しに必要な持ち物を整えた後、慣れた手つきで馬具の交換に取り掛かった。二人用のサドルへ換装を済ませて彼が奥の方へと跨ると、丁度出かける準備を済ませた彼女が棲家から出てきた。
「エリザ―」
彼女を手前のサドルに引き上げようとジャックはこれまでの呼び名を途中まで言い掛けたのだが、一度思い直してこれからの呼び名へと改める事にした。
「いや…リサ、行こうか」
「はい。喜んで」
ジャックが彼女へと向けてその手を真っ直ぐに差し伸べる。
リサはそれを二度と離さない様に強く握り返した。
「ではバロン、一つ頼まれてくれるか?」
「バロン、お願い」
騒動が収束した後、ジャックの屍術によって再び蘇った青毛の馬バロンは二人を乗せて最寄りの港街を目指して駆け出した。
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人の名前が何故か映画スターの名になっちゃう天然系若返り聖女の冒険。全14話+間話8話。
八十神天従は魔法学園の異端児~神社の息子は異世界に行ったら特待生で特異だった
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高校生活初日。神社の息子の八十神は異世界に転移してしまい危機的状況に陥るが、神使の白兎と凄腕美人魔術師に救われ、あれよあれよという間にリュケイオン魔法学園へ入学することに。期待に胸を膨らますも、彼を待ち受ける「特異クラス」は厄介な問題児だらけだった...!?日本の神様の力を魔法として行使する主人公、八十神。彼はその異質な能力で様々な苦難を乗り越えながら、新たに出会う仲間とともに成長していく。学園×魔法の青春バトルファンタジーここに開幕!
あなたは異世界に行ったら何をします?~良いことしてポイント稼いで気ままに生きていこう~
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13人の神がいる異世界《アタラクシア》にこの世界を治癒する為の魔術、異界人召喚によって呼ばれた主人公
じゃ、この世界を治せばいいの?そうじゃない、この魔法そのものが治療なので後は好きに生きていって下さい
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という訳で異世界暮らし始めちゃいます?
※誤字 脱字 矛盾 作者承知の上です 寛容な心で読んで頂けると幸いです
※表紙イラストはAIイラスト自動作成で作っています
GROUND ZERO
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「崩壊世界(ゼロ)から始まる―」
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マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
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マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
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もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。

婚約破棄?一体何のお話ですか?
リヴァルナ
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なんだかざまぁ(?)系が書きたかったので書いてみました。
エルバルド学園卒業記念パーティー。
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※エブリスタさんでも投稿しています
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