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Act1 帝国皇太子の婚約者候補

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 かつてこの地には、ユウェンタスという名の帝国がさかえていた。
 一時は大陸全土を支配下に置き、魔界にさえその触手を伸ばしたほどの大帝国である。
 しかし、栄枯盛衰えいこせいすいことわりの通り、その大帝国も滅亡をまぬがれることはなかった。
 帝国を滅ぼしたのは、ガルトブルグ帝国の前身であるアントレルス王国。
 そしてユウェンタスを裏切り、その滅亡に手を貸したのが、帝国で代々祭祀さいしり行って来たジリアーティ家の巫女だと言われている。
 
「古き名家と言っても、所詮しょせんは裏切り者の家系よ」
「ガルトブルグだっていつ裏切るか知れたものではないわ。そんな人間を皇太子妃に、だなんて……皇室は一体何を考えているのかしら」
 口さがない人間は何処どこにでもいるものだ。それは上流階級であっても変わらない。
 まるでわざと傷つけようとするように聞えよがしにささやかれるその声に、うわさされた当人はまゆをひそめた。
 だが、それは決して心を傷つけられたからではない。
(……何百年前のことを言っているのやら。大方おおかた、自分が妃に選ばれなかった腹いせにわらわを傷つけようという魂胆こんたんなのだろうが……妾の心証しんしょうそこねることの意味を心得こころえてはおらぬと見える)
 フィオレンジーヌははかな羽虫はむしでも見るかのようなあわれみの目で令嬢たちを一瞥いちべつし、フッと冷たく笑った。
 ジリアーティ家はその功績こうせきによりアントレルス王国の貴族に取り立てられ、国の形や名が変わった今も、国家の中核ちゅうかくにない続けている。
 そして今後、その力がますます増していくだろうことは明らかだ。ジリアーティ家の長女であるフィオレンジーヌは現在、皇太子の婚約者にと望まれており、いずれは次の皇妃となる運命なのだから……。
 
「姉上は、皇室にとついで本当に幸せになれるのですか?」
 年の離れた弟にそう問われた時、フィオレンジーヌは一瞬言葉にまった。
 だが、すぐに表情を改め、滔々とうとうと弟をさとし始める。
「ランド、妾は幸せになるために殿下に嫁ぐわけではない。皇室の一員となり、この国を支えるために嫁ぐのだ」
「……ぼくには分かりません。いくら国のためだからと言って、個人の幸福を犠牲ぎせいにしても良いのですか?皆、言ってます。皇太子殿下は無能なお飾りだって。お顔だって地味だし……」
「ランド!」
 フィオレンジーヌはあわてて弟をしかる。
 まだ年端としはもいかない少年の言葉とは言え、誰かに聞きとがめられればどのようなことになるか分からない。
「人の噂などに惑わされるな。殿下は確かに天才や秀才と呼ばれるような能力はお持ちでない。しかし歴史や美術に関する造詣ぞうけいは深く、お顔立ちも派手さは無いがすっきりと整っていらっしゃる。あれはきっと化粧けしょうなどなさればえるタイプだぞ。黒い隈取くまどりなどなさればきっと迫力はくりょくも出て……」
「……姉上、それでは演劇役者の悪役メイクですよ……」
 フォローするつもりがすっかりすっかり脱線してしまった話に弟はあきれる。
 フィオレンジーヌは誤魔化ごまかすように咳払せきばらいをひとつすると、改めて弟ヴィオランドに向き合う。
「ランド、妾はむざむざ不幸になる気は無い。殿下とこの国をお支えすることは、妾自身の未来を切りひらくことでもあるのだ。妾は誰かに幸せにしてもらおうなどとは思わぬ。幸福が欲しいなら自身のこの手でつかんでみせる」
「……姉上らしいですね」
 ヴィオランドは安堵あんどしたように笑った。
 だがフィオレンジーヌは知っている。自分のはなったその言葉が、半分強がりに過ぎないことを……。
 
「ジリアーティの巫女は、何故ユウェンタスを裏切ったのだろうか?」
 皇太子ベルージュリオの口から出てくるのは今日もジリアーティ家の歴史にまつわる話ばかり。
 女として興味を持たれているわけではなく、ジリアーティという家に関心を持たれているのだと、フィオレンジーヌはまたしても思い知らされる。
「……さて。我が家にも巫女の心情までは伝わっておりません。のこされているのは単純な事実の記録ばかりですので」
「しかし、やはり皇室に所蔵されている記録よりもだいぶ詳細しょうさいに遺されている。貴女あなたのお話は私にとっては宝の山だ」
「光栄です」
 聞くところによると、それまでどんな縁談にも興味の薄かったベルージュリオが、ジリアーティ家との話にだけは大変な関心を示した――そのことが決め手になったと言う。
 実際、他の話題では口数の少ないベルージュリオも、ユウェンタスの話になると途端とたん饒舌じょうぜつになる。二人の会話は甘酸あまずっぱい恋の鞘当さやあてなどとはほど遠い、真面目でかたい古代史の議論ばかりだった。
 初めのうちこそ会話が続けば何でも良いと思っていたフィオレンジーヌだが、近頃ちかごろはそのことをさびしく思い始めている。
(妾も所詮しょせんは一人の女ということか……。夫となる相手には、妾のことをいとしく思って欲しいと願ってしまう……)
 心の中で自分を嘲笑わらい、フィオレンジーヌはしみじみとベルージュリオの顔をながめる。
 ヴィオランドに語った言葉はフィオレンジーヌの本音だった。
 ベルージュリオは年頃の令嬢が好むような目鼻立ちのハッキリした分かりやすい美形ではない。ややあっさりめな顔立ちではある。だが、長く一緒にいてもつかれない、むしろ長く過ごせば過ごすほど「この顔も良いのではないか」とどんどん味の出てくる顔だと、フィオレンジーヌは思っている。
 "将来の夫" という特別な意識を持って見つめてきたせいか、いつしかフィオレンジーヌはベルージュリオと会うたびにかすかな甘い胸のざわめきを感じるようになっていた。だが、ベルージュリオの方がどうなのか……。
(いや、まだ勝負が決まったわけではない。殿下はまだ恋愛事にうといだけ。上手く導いて差し上げれば、望みのままの甘い関係を築くことも出来できるはずだ)
 会ったばかりのころのベル―ジュリオは異性にれていないことをかくそうともせず、フィオレンジーヌの目も満足に見られずおどおどしていた。それをフィオレンジーヌが時にやんわり叱咤しったし、時になだめるように歴史の話で気を引き、会話をリードしながらここまで来た。
 初めのうちはどこかおびえるような目をしていたベル―ジュリオも、今はフィオレンジーヌの顔を見ると自然とみを浮かべるようになった。人見知りな仔犬こいぬらしていくようだ、とフィオレンジーヌは思う。
 箱入りで育ったせいか、ベル―ジュリオはだいぶ素直な気性きしょうをしている。フィオレンジーヌの忠告や口出しに反発することもなく、すんなりそれを受け入れようとする。年頃の令嬢として社交界で数多くの男と接してきたフィオレンジーヌは、それが得難えがた貴重きちょうな性質であることを知っていた。
(この方は、確かに皇帝となるにはややたよりない。だが、りない部分は妾やジリアーティ家がおぎなえば良いのだ。……と言うより、そうせねばなるまい。疑うことを知らぬ殿下のご気性につけ込んで利をむさぼろうとするやからが宮中を跋扈ばっこしているからな……)
 きらきらした目で史話しわに熱中するベル―ジュリオを見つめ、フィオレンジーヌは胸の中でひそかに決意を固めた。
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