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2.元勇者な父
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魔王を斃せば、全てが終わると思っていた。
魔王が全ての悪の根源だと、信じていた。
だが、彼と対峙して、知ってしまった。――彼もまた、この世界の犠牲者だったのだと。
幼い頃の迫害、理不尽に全てを奪われた過去……それが彼を、魔王にしてしまったのだと……。
それを知り、なおも彼に刃を向けることが、私にはできなかった。
もしかしたら、それすらも、魔王軍の策略だったのだとしても。
魔王と相対して剣を下ろすなど、命を棄てるも同じこと。
だが、それでも、どうしても、私は剣を振り上げることができなかった。
絶体絶命のその窮地を救ってくれたのは、賢者である彼女だった。
彼女は「仕方がありませんね」と溜め息をつくと、禁断の魔法を発動させた。
伝説にしか語られない……本当に実在していたのかさえ疑わしかった、古の魔法。
稀代の天才賢者と呼ばれた彼女が、密かに復活させていたそれは、特定の人物の "時間" を巻き戻す魔法だった。
殺せない魔王の時間を戻し、血も殺戮も穢れも知らぬ、無垢な赤ん坊へと変貌させる。
そうして、赤子となった魔王を腕に抱き、彼女は微笑んだ。
「今からこの子を、私たちの子として育てましょう。間違っても世界を滅ぼそうなどとは思わぬよう、幸せな子に育ててあげましょう」と、そう言って。
こうして私は、魔王の父となった。
人々には、魔王は跡形もなく消し去ったと言って……魔王を、私と賢者の間に生まれた長男と偽って、郷里で新たな生活を始めた。
世界を救った勇者と賢者の "結婚" を――そしてその間に生まれた命を、皆が祝福してくれた。だが、私の胸は罪悪感に満ちていた。
――私と彼女は、決してそんな間柄ではなかったと言うのに。
思えば彼女には、迷惑をかけてばかりだった。
他人の頼みを断れぬ私は、何かと言っては自ら危険に身を晒す。
そして、仲間である彼女をも、その危険につき合わせる。
だが、彼女は文句も言わず、むしろ幾度も私の窮地を救ってくれた。
なのに……私は魔王を斃せずに、一時は彼女の命さえ、絶体絶命の危機に陥らせたのだ。
そんな私を、彼女は全て赦し、今は私の妻の役まで引き受けてくれている。
だが、彼女も一人の若い女性だ。
この先、誰かと恋に落ちる可能性もあるだろうに……人妻、しかも一児の母の役など引き受けてしまっては、今後の障害となるのではないか……。
しかし、まだ幼い魔王を、私一人で育てることは、到底できそうにない。
子どもとは言え魔王。その潜在能力は凄まじく、まだ力に覚醒していないにも関わらず、この子はたびたび騒動を起こす。
そのたびにそれを上手く治めてくれるのは、やはり彼女だった。
このままで良いのかと悶々としているうちに、彼女がさらにとんでもないことを言い出した。
「私たちは、どう足掻いても、魔王が死ぬよりも先に寿命を終えることでしょう。この世界には、私たちの死後も魔王を見守り、導き、いざという時には代わりに世界を救ってくれる人間が必要です」
そう言って、彼女は提案してきた。
魔王に弟か妹を作ることを。
しかもその子を、勇者と賢者の血を引いた、新世代の "勇者" として生み出すことを。
私は驚愕し、反対した。
いくら何でも、そこまでの犠牲を強いることはできない。
だが彼女は頑として譲らず……結局最後は私も折れた。
世界のためにそこまでの覚悟を決めた彼女を、これまで以上に大切にしようと、心に誓った。
こうして私たちは、形だけの夫婦から、実体を伴った夫婦へと変わり……一年後には娘も生まれた。
髪と口元は私譲りで、目や耳の形は彼女によく似た、天使のように愛らしい女の子だった。
私はこの愛しい存在に、すぐに夢中になった。
そして魔王もまた、 "妹" という存在に夢中になったようだった。
――いつか彼が魔王として目覚めたなら、敵対することになるかも知れない義兄妹……。
しかし、今はまだ幼い二人が、ころころと戯れている様は、ただただ微笑ましいばかりだった。
このままで良いのかという私の罪悪感は、娘が生まれても消えるどころか、増していくばかりだった。
彼女は世界を守るために、己の心を殺し、私に身を捧げてくれた。
なのに私は……いつしか彼女を、不純な目で見るようになってしまっている。
私は、思いがけず知ってしまった彼女の様々な表情――いつも全てを見通すような、超然とした態度を崩さなかった彼女の、初めて見せる戸惑い、初々しい慄き、恐慌にも似た恥じらいの表情に……心を囚われてしまったのだ。
たとえそれが、他の誰にも見せない、私だけに見せてくれた姿なのだとしても……彼女はあくまで後の世界の平和のために、仕方なく身を委ねてくれたに過ぎない。
娘の生まれた今、彼女にこれ以上の犠牲を求める資格など、私には無い。
それなのに……彼女を見ていると、どうにもならない衝動と焦燥に、胸を苛まれる。
聡い彼女は、薄々私の気持ちに気づいていたに違いない。
幾度となく、控えめに、「触れても良い」と囁きかけてくれた。
正直、ひどく心が揺らいだ。
だが……勇者としてのなけなしの矜持が、それを許さなかった。
勇者としての役目は終えても、勇者としての信念は変わらない。
勇者は誰かを傷つけたり、不幸な目に遭わせてはならない。
それをしてしまったら、私はもう二度と、勇者とは名乗れなくなるだろう。
やがて数年が過ぎ……ある日、八歳になった娘が、じっと私の顔を見て、こう言った。
「父様は、どうして母様のことを、そんなに哀しそうな目で見るの?」
我が子の思わぬ観察眼に、息を呑んだ。
幼くとも、やはり彼女の血を引く子だ。うかつな姿を見せられない。
「……それは、父様が母様のことを、好きで好きで仕方がないからさ」
これだけでは真意は伝わらないだろうと思いつつも、そんな言葉で胸の内を語る。
娘は『納得できない』と言いたげに唇をとがらせた。
「それって、ヘンだわ。父様も母様も、お互いのことが大好きなのに、まるでお互い、片想いしているみたいよ」
"片想い" を既に知っているとは、娘は思っていたよりも、ずっとませているらしい。
みたいではなく、本当に片想いしているのだ、と言いかけ……すぐにその言葉を引っ込める。
両親が実は真の愛情で結ばれた夫婦ではないなどと、娘が知るには早過ぎる。
「父様は、ちゃんと母様に『好きだ』って言えばいいんだわ。そうすれば二人とも幸せになれるのに」
真実を知らずに解決策を提示してくれる娘が愛おしく、切なかった。
「……そうだね。言えたら、どんなに良いだろうね」
だが、私はそれを言えない。言えば彼女を、余計に縛りつけてしまうから。
娘はなおも何か言いたげに私を見ていたが、そのまま何も言わずに行ってしまった。
そんなことのあった数週間後のことだった。
娘が突然、緊迫した面持ちで私を呼んだ。
「父様!大変!森に魔物の生き残りが出たの!母様が戦ってるけど、負けちゃいそう!」
「何だと!?」
すぐに駆けつけようとしたが、剣を取り出すのに手間取ってしまった。もう使うことはないだろうと、厳重に仕舞い込み過ぎていたのだ。
……己がいかに安逸を貪っていたかを思い知らされ、歯噛みする思いで森の奥へと走った。
だが……私が辿り着いた時、彼女は既に血塗れで地に倒れ伏していた。
その前には、蝙蝠のような翼を持つ、獅子とも狗ともつかぬ魔物がいた。
この化物が彼女を傷つけたのかと、我を忘れて斬りかかろうとしたその時――彼女が最期の力を振り絞るようにして、魔法を発動させた。
驚き立ち尽くす私の目の前で、魔物の身はみるみる縮み……やがて見えなくなった。
「大丈夫……です……。魔物は、倒しました……。ですから、貴方が戦う必要は……ありません……」
か細い声で彼女が言う。私は駆け寄り、彼女の身に触れようとした。
だが、彼女が震える手でそれを拒んだ。
「貴方……。私はもう、助かりません」
「何を言う!すぐに傷を手当てすれば……!」
「私の時間は、もうあまり残されていません。無意味な処置で煩わせるより、静かに旅立たせて下さい」
そう言い、彼女は私の手を握った。
「けれど、この世を離れる前に、ひとつだけ……聞いておきたいことがあります。貴方は……私のことを、どう思っていましたか?私と夫婦となったこと……お嫌ではありませんでしたか……?」
弱々しい問いに、私は即座に否定する。
「嫌なことなどあるものか!私は、君を愛している!君にとっては、やむを得ない選択だったとしても、私は君のことを……」
「けれど……貴方は私に、必要以上に触れようとはしませんでしたよね……?」
「……君の心が私に向いていないのに、同情で触れさせてもらっても、空しいだけではないか!私だって……本当は君に触れたかった!叶うことなら、もっと……!」
封じてきた激情が、胸から溢れた。
こんな今わの際に感情をぶつけてどうするのかと、自分で自分が情けなくなる。
彼女はどう思っただろうかと、顔を覗き込むと……
「……本当ですね?今の言葉、きっちりと私の胸に刻み込みましたからね」
そう言い、彼女はけろりとした顔で立ち上がった。
わけも分からず呆然と、彼女の赤い染みだらけの衣服を眺める。
「……あぁ、これですか?赤葡萄の汁です。私の血ではありませんよ」
「何……?では、今までのは全て演技?なぜ、そんなことを……?」
「貴方の真意を知るためです」
そう言って彼女は腰に手を当て、数週間前の娘と同じように唇をとがらせた。
「……まったく。私の心が貴方に向いていないなどと、どうして決めつけるのです?」
「は……?いや、それは……だって君は、世界を救うために私と……」
「あいにく私には、貴方ほどの自己犠牲精神はありません。ですので、世界のためとは言え、嫌いな相手に身を委ねたりはしませんよ」
私は信じられない思いで彼女を見つめた。それでは、彼女も私のことを……
「私も愛していますよ、貴方のことを。今まで言葉にしたことはありませんでしたが」
堂々とそう宣言しておきながら、彼女は私と目が合うと、ポッと頬を紅く染めて視線を逸らす。
何とも言えない気持ちになって、たまらず彼女を抱き締めたくなる。が……
「母様ー!上手くいったー?」
遠くから娘の声が聞こえ、私は踏み出しかけた足を引っ込めた。
「ええ。万事めでたし、ですよ。では、家に帰りましょう」
駆けつけた娘にそう言って微笑みかけ、彼女は何もかも終わったという体で歩きだす。
「ちょっと待ってくれ。ケガは演技だったとしても、魔物は……?あの魔物は何だったんだ?」
私が狼狽して問いかけたその時、魔物がいた辺りの草むらから「ニャー」と猫の鳴き声がした。
娘がトテトテ走り寄り、そこから白と黒のブチ模様の猫を拾い上げる。
「その猫が、先ほどの魔物ですよ。私の魔術です」
彼女は魔王を赤子に戻したあの時のように、悪戯っぽく笑んだ。
「……では、魔術で猫を魔物に見せかけたのか?……まったく、君という人は……」
「騙してしまってすみませんでした。でも、こうでもしないと貴方、本当の気持ちを言って下さらなかったでしょう?」
「それはそうだが……」
「ね、父様。このネコチャン、今日からウチで飼ってもいいでしょ?」
娘が甘えた声でおねだりしてくる。
「……そうだな。我々の都合で魔物の役などさせてしまったのだ。罪滅ぼしに養ってやるべきかも知れないな」
これで万事、めでたしめでたし。
全て彼女の手のひらの上で転がされていたようで、釈然としない気持ちになりながらも、私は家へと歩きだす。
その横にそっと彼女が並び、さりげなく指を絡めてきた。
もう幾度も触れ合ってきたはずなのに……どうしようもなく、胸が高鳴る。
もう、彼女に触れるたびに、罪悪感を覚えることもない。ふいに湧き立つ熱情を、無理に抑えつける必要もない。
十年以上もの回り道を経て……私たちは今やっと、本当の夫婦になれたのだ。
魔王が全ての悪の根源だと、信じていた。
だが、彼と対峙して、知ってしまった。――彼もまた、この世界の犠牲者だったのだと。
幼い頃の迫害、理不尽に全てを奪われた過去……それが彼を、魔王にしてしまったのだと……。
それを知り、なおも彼に刃を向けることが、私にはできなかった。
もしかしたら、それすらも、魔王軍の策略だったのだとしても。
魔王と相対して剣を下ろすなど、命を棄てるも同じこと。
だが、それでも、どうしても、私は剣を振り上げることができなかった。
絶体絶命のその窮地を救ってくれたのは、賢者である彼女だった。
彼女は「仕方がありませんね」と溜め息をつくと、禁断の魔法を発動させた。
伝説にしか語られない……本当に実在していたのかさえ疑わしかった、古の魔法。
稀代の天才賢者と呼ばれた彼女が、密かに復活させていたそれは、特定の人物の "時間" を巻き戻す魔法だった。
殺せない魔王の時間を戻し、血も殺戮も穢れも知らぬ、無垢な赤ん坊へと変貌させる。
そうして、赤子となった魔王を腕に抱き、彼女は微笑んだ。
「今からこの子を、私たちの子として育てましょう。間違っても世界を滅ぼそうなどとは思わぬよう、幸せな子に育ててあげましょう」と、そう言って。
こうして私は、魔王の父となった。
人々には、魔王は跡形もなく消し去ったと言って……魔王を、私と賢者の間に生まれた長男と偽って、郷里で新たな生活を始めた。
世界を救った勇者と賢者の "結婚" を――そしてその間に生まれた命を、皆が祝福してくれた。だが、私の胸は罪悪感に満ちていた。
――私と彼女は、決してそんな間柄ではなかったと言うのに。
思えば彼女には、迷惑をかけてばかりだった。
他人の頼みを断れぬ私は、何かと言っては自ら危険に身を晒す。
そして、仲間である彼女をも、その危険につき合わせる。
だが、彼女は文句も言わず、むしろ幾度も私の窮地を救ってくれた。
なのに……私は魔王を斃せずに、一時は彼女の命さえ、絶体絶命の危機に陥らせたのだ。
そんな私を、彼女は全て赦し、今は私の妻の役まで引き受けてくれている。
だが、彼女も一人の若い女性だ。
この先、誰かと恋に落ちる可能性もあるだろうに……人妻、しかも一児の母の役など引き受けてしまっては、今後の障害となるのではないか……。
しかし、まだ幼い魔王を、私一人で育てることは、到底できそうにない。
子どもとは言え魔王。その潜在能力は凄まじく、まだ力に覚醒していないにも関わらず、この子はたびたび騒動を起こす。
そのたびにそれを上手く治めてくれるのは、やはり彼女だった。
このままで良いのかと悶々としているうちに、彼女がさらにとんでもないことを言い出した。
「私たちは、どう足掻いても、魔王が死ぬよりも先に寿命を終えることでしょう。この世界には、私たちの死後も魔王を見守り、導き、いざという時には代わりに世界を救ってくれる人間が必要です」
そう言って、彼女は提案してきた。
魔王に弟か妹を作ることを。
しかもその子を、勇者と賢者の血を引いた、新世代の "勇者" として生み出すことを。
私は驚愕し、反対した。
いくら何でも、そこまでの犠牲を強いることはできない。
だが彼女は頑として譲らず……結局最後は私も折れた。
世界のためにそこまでの覚悟を決めた彼女を、これまで以上に大切にしようと、心に誓った。
こうして私たちは、形だけの夫婦から、実体を伴った夫婦へと変わり……一年後には娘も生まれた。
髪と口元は私譲りで、目や耳の形は彼女によく似た、天使のように愛らしい女の子だった。
私はこの愛しい存在に、すぐに夢中になった。
そして魔王もまた、 "妹" という存在に夢中になったようだった。
――いつか彼が魔王として目覚めたなら、敵対することになるかも知れない義兄妹……。
しかし、今はまだ幼い二人が、ころころと戯れている様は、ただただ微笑ましいばかりだった。
このままで良いのかという私の罪悪感は、娘が生まれても消えるどころか、増していくばかりだった。
彼女は世界を守るために、己の心を殺し、私に身を捧げてくれた。
なのに私は……いつしか彼女を、不純な目で見るようになってしまっている。
私は、思いがけず知ってしまった彼女の様々な表情――いつも全てを見通すような、超然とした態度を崩さなかった彼女の、初めて見せる戸惑い、初々しい慄き、恐慌にも似た恥じらいの表情に……心を囚われてしまったのだ。
たとえそれが、他の誰にも見せない、私だけに見せてくれた姿なのだとしても……彼女はあくまで後の世界の平和のために、仕方なく身を委ねてくれたに過ぎない。
娘の生まれた今、彼女にこれ以上の犠牲を求める資格など、私には無い。
それなのに……彼女を見ていると、どうにもならない衝動と焦燥に、胸を苛まれる。
聡い彼女は、薄々私の気持ちに気づいていたに違いない。
幾度となく、控えめに、「触れても良い」と囁きかけてくれた。
正直、ひどく心が揺らいだ。
だが……勇者としてのなけなしの矜持が、それを許さなかった。
勇者としての役目は終えても、勇者としての信念は変わらない。
勇者は誰かを傷つけたり、不幸な目に遭わせてはならない。
それをしてしまったら、私はもう二度と、勇者とは名乗れなくなるだろう。
やがて数年が過ぎ……ある日、八歳になった娘が、じっと私の顔を見て、こう言った。
「父様は、どうして母様のことを、そんなに哀しそうな目で見るの?」
我が子の思わぬ観察眼に、息を呑んだ。
幼くとも、やはり彼女の血を引く子だ。うかつな姿を見せられない。
「……それは、父様が母様のことを、好きで好きで仕方がないからさ」
これだけでは真意は伝わらないだろうと思いつつも、そんな言葉で胸の内を語る。
娘は『納得できない』と言いたげに唇をとがらせた。
「それって、ヘンだわ。父様も母様も、お互いのことが大好きなのに、まるでお互い、片想いしているみたいよ」
"片想い" を既に知っているとは、娘は思っていたよりも、ずっとませているらしい。
みたいではなく、本当に片想いしているのだ、と言いかけ……すぐにその言葉を引っ込める。
両親が実は真の愛情で結ばれた夫婦ではないなどと、娘が知るには早過ぎる。
「父様は、ちゃんと母様に『好きだ』って言えばいいんだわ。そうすれば二人とも幸せになれるのに」
真実を知らずに解決策を提示してくれる娘が愛おしく、切なかった。
「……そうだね。言えたら、どんなに良いだろうね」
だが、私はそれを言えない。言えば彼女を、余計に縛りつけてしまうから。
娘はなおも何か言いたげに私を見ていたが、そのまま何も言わずに行ってしまった。
そんなことのあった数週間後のことだった。
娘が突然、緊迫した面持ちで私を呼んだ。
「父様!大変!森に魔物の生き残りが出たの!母様が戦ってるけど、負けちゃいそう!」
「何だと!?」
すぐに駆けつけようとしたが、剣を取り出すのに手間取ってしまった。もう使うことはないだろうと、厳重に仕舞い込み過ぎていたのだ。
……己がいかに安逸を貪っていたかを思い知らされ、歯噛みする思いで森の奥へと走った。
だが……私が辿り着いた時、彼女は既に血塗れで地に倒れ伏していた。
その前には、蝙蝠のような翼を持つ、獅子とも狗ともつかぬ魔物がいた。
この化物が彼女を傷つけたのかと、我を忘れて斬りかかろうとしたその時――彼女が最期の力を振り絞るようにして、魔法を発動させた。
驚き立ち尽くす私の目の前で、魔物の身はみるみる縮み……やがて見えなくなった。
「大丈夫……です……。魔物は、倒しました……。ですから、貴方が戦う必要は……ありません……」
か細い声で彼女が言う。私は駆け寄り、彼女の身に触れようとした。
だが、彼女が震える手でそれを拒んだ。
「貴方……。私はもう、助かりません」
「何を言う!すぐに傷を手当てすれば……!」
「私の時間は、もうあまり残されていません。無意味な処置で煩わせるより、静かに旅立たせて下さい」
そう言い、彼女は私の手を握った。
「けれど、この世を離れる前に、ひとつだけ……聞いておきたいことがあります。貴方は……私のことを、どう思っていましたか?私と夫婦となったこと……お嫌ではありませんでしたか……?」
弱々しい問いに、私は即座に否定する。
「嫌なことなどあるものか!私は、君を愛している!君にとっては、やむを得ない選択だったとしても、私は君のことを……」
「けれど……貴方は私に、必要以上に触れようとはしませんでしたよね……?」
「……君の心が私に向いていないのに、同情で触れさせてもらっても、空しいだけではないか!私だって……本当は君に触れたかった!叶うことなら、もっと……!」
封じてきた激情が、胸から溢れた。
こんな今わの際に感情をぶつけてどうするのかと、自分で自分が情けなくなる。
彼女はどう思っただろうかと、顔を覗き込むと……
「……本当ですね?今の言葉、きっちりと私の胸に刻み込みましたからね」
そう言い、彼女はけろりとした顔で立ち上がった。
わけも分からず呆然と、彼女の赤い染みだらけの衣服を眺める。
「……あぁ、これですか?赤葡萄の汁です。私の血ではありませんよ」
「何……?では、今までのは全て演技?なぜ、そんなことを……?」
「貴方の真意を知るためです」
そう言って彼女は腰に手を当て、数週間前の娘と同じように唇をとがらせた。
「……まったく。私の心が貴方に向いていないなどと、どうして決めつけるのです?」
「は……?いや、それは……だって君は、世界を救うために私と……」
「あいにく私には、貴方ほどの自己犠牲精神はありません。ですので、世界のためとは言え、嫌いな相手に身を委ねたりはしませんよ」
私は信じられない思いで彼女を見つめた。それでは、彼女も私のことを……
「私も愛していますよ、貴方のことを。今まで言葉にしたことはありませんでしたが」
堂々とそう宣言しておきながら、彼女は私と目が合うと、ポッと頬を紅く染めて視線を逸らす。
何とも言えない気持ちになって、たまらず彼女を抱き締めたくなる。が……
「母様ー!上手くいったー?」
遠くから娘の声が聞こえ、私は踏み出しかけた足を引っ込めた。
「ええ。万事めでたし、ですよ。では、家に帰りましょう」
駆けつけた娘にそう言って微笑みかけ、彼女は何もかも終わったという体で歩きだす。
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娘がトテトテ走り寄り、そこから白と黒のブチ模様の猫を拾い上げる。
「その猫が、先ほどの魔物ですよ。私の魔術です」
彼女は魔王を赤子に戻したあの時のように、悪戯っぽく笑んだ。
「……では、魔術で猫を魔物に見せかけたのか?……まったく、君という人は……」
「騙してしまってすみませんでした。でも、こうでもしないと貴方、本当の気持ちを言って下さらなかったでしょう?」
「それはそうだが……」
「ね、父様。このネコチャン、今日からウチで飼ってもいいでしょ?」
娘が甘えた声でおねだりしてくる。
「……そうだな。我々の都合で魔物の役などさせてしまったのだ。罪滅ぼしに養ってやるべきかも知れないな」
これで万事、めでたしめでたし。
全て彼女の手のひらの上で転がされていたようで、釈然としない気持ちになりながらも、私は家へと歩きだす。
その横にそっと彼女が並び、さりげなく指を絡めてきた。
もう幾度も触れ合ってきたはずなのに……どうしようもなく、胸が高鳴る。
もう、彼女に触れるたびに、罪悪感を覚えることもない。ふいに湧き立つ熱情を、無理に抑えつける必要もない。
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