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4話
しおりを挟む濃く深い闇の中、ぼんやりとした灯りがぼうっと揺らめく。しんとした夜の深い刻にじりりと灯が燃える音がする。
闇に似合わぬ白い小鳥が群青の髪を持つ鬼の肩に乗ってちち、と鳴いている。
隅には今か今かと待ちわびている貴人が小さな袋を持っている。
そして祭壇の前には聞こえぬかのような小さな声で呪を唱える男がいた。
冷え切った室内では呪を吐く息は何も残さずその闇に溶けていく。
阿倍晴定は今とある秘術を検証している最中だ。
秘術もしくは禁忌、禁術など呼び方は様々だが、とにかく「やってはいけない術」である。
祭壇を整え、術式をひとつひとつ確認していく。頭の中にだけあるそれら術式や呪を、検証であるためにそれらが発動しないよう慎重に作業していた。
ところが最後まで検証を終えないうちにその術式が突如発動した。祭壇が光に包まれ、晴定は思わず身を守ろうとするも、このままでは中途半端なまま術式が完成してしまうかもしれないと思うと一瞬でもその場から離れる訳にはいかず、いつでも盾が展開できるよう、懐に忍ばせた札にそっと手を伸ばし、事の次第を見極めようとする。
そうして光の中から突然現れたのが年若い男子であった。晴定は、予想外の出来事にただ茫然とした。
「……巫女……ではないぞ。男子ではないか……はて……まあ古の術は不完全なこともあるし」
とりあえず晴定は光る砂を纏う男子の左手甲に手をかざし、呪を唱える。
しかし伝承とは違い、刻印がされない。刻印はこの者が何物であり、どこから来たのかを印しておく重要なものだ。やはり主と影はそろっていないと結びつけることはできないらしい。
続いて晴定は印は後回しにしてこの者が元の世界に戻れるよう、座標の刻印はしておかねばならない、と考え、すばやく呪を唱えると左手甲に紅く、円が幾重にも重なったような紋様が現れたのだ。
晴定が操る式が動き出し、祭壇を片づけ始める。同時に、さらさらとした光の砂を大切に集めた。式がその砂を部屋の隅にいた貴人が持っていた袋に納め、鬼の肩にいた小鳥が夜にも関わらず空へと飛びあがっていった。
淡々と、ほぼ計画していた通りに事が済んだことに三者それぞれが安堵の息を漏らした。
かわって光の中から現れた男は打ちつけられて痛む体を起こし、目の前にいる平安装束の男をまっすぐ見た。
慌てず、周りを見回すと自分のいたところとは全く違う室内に少々の驚きを見せるが、困惑もなく状況を受け入れていた。
「……しかし、落ち着いておるのう。そなた、名はなんと申す」
「水無瀬悠。ここは、京都か。俺のいたところからすると千年は違うようだが」
「ほう……なぜそう思うのか」
「土が場所を教えてくれたし、星を見れば今がだいたい何月何日の何時か分かる」
窓と言うには簡素な、ガラスのない戸口から見える星空は、悠に様々な情報を与える。漂う土の匂い、風が運ぶ海の香り、自然に宿る神たちの語らい――悠にはそういった自然との結びつきが非常に強い能力があった。
「ほう?これはまたとんでもない能力がある奴のようじゃな」
晴定は感心して悠を見る。そうして水無瀬悠はこの時代にたどり着いたのだ。
「あれからひと月ほど経つが、おぬしはますますこちらになじんでおるな」
「自分でもそう思ってる」
できないよりはできた方がいいだろう、と晴定は今悠に式神の扱いを教えている。
と言っても、紙でできた手のひら程度の大きさの人形を動かす、という程度のものだ。多少の異能があれば、最初にできるようになる初歩的なものである。
ひらひらと心もとなく進む人形を操る悠は、主である巫女を助けるためではなく、自分が楽しくてやっているようである。動機としては十分だが、その役目を忘れてはないか、と晴定もいくぶん心配している。
過去から来た人間を晴定は悠以外に知らない。
悠の主である千代からの手紙を悠に読んでもらったが、不安そうな気持ちがどうしてもにじんでいる。晴定自身も召喚に際してそういった「こちらにいると不安を感じる」という心積もりがあったが、悠にはそれが必要なかった。おそらく千代の反応の方がずっと自然であるはずで、むしろ楽しんでいる悠に晴定は何とも言えない苦々しさを感じるのだ。
「彼、うまくなったね」
充成が部屋に来て晴定の隣に座る。
「うむ。筋がよい。それに本人のやる気もある」
「馴染みすぎだよね」
「全くだ」
晴定と充成は嬉々として式を操る悠を心配そうに見ている。
「もう少し動揺しているかと思ったのだがなあ」
「でも、大納言家にいる偽り姫は想像通りに動揺しているようだから、彼が特殊なんだろうね」
「ああ。偽り姫はさぞ心細いだろうて。『命という意味では無事』と文にあったぞ」
「彼、頼もしいのは良いのだが、戻る気持ちはちゃんとあるよね?」
「どうであろうな」
晴定と充成は家が近所だったために幼馴染だ。陰陽寮の長であった晴定の父と、宮中の要職にいた充成の父は本来ならそれほど関わりはないが、歳があまり変わらない互いの息子には友人が必要だと考え、家族ぐるみで交流してきた。
術師の家系と高貴な身分を持つ家系では違うことも多かったが、損得や打算のない関係がふたりの間にはある。
「悠には厳しく帰れ、なんて言ったけれど、僕はちょっと今後考えないとならないかなあ」
「すでに蔵人頭であれば何かあったところでどうにでもなろう。仮におぬしに何かあったところで、北の方がおる」
充成の正室である北の方は先帝の三の姫である。その高貴な生まれによる気品もさることながら、少女時代は非常に活発な娘だったと言う。その活発さが今は屋敷を取り仕切る女主人としてうまくなじんでいるようである。しかも本人の生まれだけでない、努力できる資質も備わった女人である。
「僕からするとちょっとできすぎな妻だよ。本当によく気が付くし」
「惚気は聞き飽きた」
ふたりが式神を操る悠をみながら話していると、その式神が突然ぐん、と力をたたえて悠と同じ大きさになったところでぺらぺらのまま悠の正面にふわりと張り付いてしまい、視界を失った悠が盛大にしりもちをついてしまった。どうやらまだ式を操るコツがつかめないらしい。
「なんで突然でかくなる!?」
ペラペラな紙の、それも自ら操っていた式にムキになっている悠の様子に、晴定と充成はどっと笑った。
「さて悠、休憩しよう。偽り姫からの文も来ているのだろう」
「いつわ……、ああ、加賀野か。えっとこれですね」
同級生が偽りと言えども姫、と言われることに悠は苦笑いだ。悠と千代のいる時代に姫はなかなかレアな存在だ。この時代と違い、身分の差というのもはっきりあるわけではない。
――体調に気を付けて。
――錦という女房は味方か敵か正直分からない。普段はよく世話してくれてる。
――病み上がりで飲むあの薬湯まじ苦い。無理。水無瀬も飲んでみて。
悠が届いた文を読み上げると、晴定も充成も楽し気に笑う。
「ふふ。楽しい子だね」
「落ち込んではおらぬか」
――夜が心細い。灯りが少なくて暗い。寝るしかない。
――着るものが重い。体も強張っちゃう。
「……ろくな情報送って来ないな。加賀野」
「いやそんなこともないだろう。夜が心細い、とあるではないか」
「こうして心細さを文に書けるのだから、素直な子であろう」
「悠、この子、どんな子なんだい?」
「どんなって……確か陸上部だったかな」
「りくじょうぶ?」
「あーええと、学校、俺らは同じ学校なんですよ。学校っていうのは、その、学び舎……?」
「ほう、男女共にか」
「そうですそれ。うちの学校は男女一緒で、だいたい夕方まで勉強します。で、そのあとが部活、という」
「ぶかつ?」
「あー、興味のある者同士が集まって何か活動するんですよ。絵が好きなら絵を描く、とか運動が好きなら体を動かす、とか。それで加賀野は陸上部っていう集まりに入っていて、えーっと、走ったりする集まりですね」
「おなごが走る?」
「そう、走ります!決まった距離を一斉に走り出して誰が一番早いか競うんですよ」
千代が陸上部ということは悠も認識していたが、それ以上は分からない。走ることをメインに陸上部の説明をしてしまった。もし千代が幅飛びや高跳びなど別の種目だったとしても、そこは触れないでおくことにした。
「未来は我らの想像をはるかに超えているな」
「悠って十七なんだろう?こっちの時代ならもう通う娘がいるころだよ」
「俺はあんまり、そういうのは」
「僕はもう妻の元に通っていた歳だね。悠も好きな女くらいいたりしなかったのかい?」
「俺は、そういうのは……」
悠にとって恋愛は遠い世界のことだった。
好きになるも何も、周りが悠を天才として別枠扱いしてきた。それは少しばかり好意のあった女子も同様で、幼かった悠自身がはっきりと落胆した記憶がある。
ちょうど十ほど年上だと言う充成を見て悠は思う。自分の十年後を想像したことがないのだ。悠の十年後、それはもう大学を卒業し、社会人となって数年経っている。これまでは成績さえ残せれば何の咎めもなかった。部活には入ってないが、その時その時興味のある分野の本を読んだりしている。それが今はたまたま天体のことで、皆既月食の話題で千代と盛り上がったのも偶然でしかない。
(……加賀野は、ああいうことに興味があったのか)
悠にとって千代は陸上部所属と言う程度の事しか知らない。どの競技をやっているのかも知らない。成績は中の上程度で予備校は標準クラス。だが志望校は聞いたことがない。家はあの古い集落の中にあると聞いたが、それだけだ。
(それなら、手紙で聞いてみようか)
――加賀野は、陸上部だったよな?競技は何?
――皆既月食はどうして見ようと思った?
書いてみて随分個人的な質問だな、と思った。これを聞けるほど親しくはないはずだが、親しくないから質問をしている。悠は自分のしていることにぐるぐると迷いながらペンを進めた。
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