一枝の春

桂葉

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三章

夜狩

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 出立は昼過ぎとなった。移動はできるだけ日の高いうちにとの配慮だ。紫釉も朝からなんとなく落ち着かない気分のまま過ごしていたが、時間になり、范成を伴って自室を出た。
 もう、怖気づいている場面ではない。心がどうであれ、たとえ紫釉でも弱さを見せれば兵の士気が落ちる。背を伸ばし、自身も護身用の細い霊剣を腰に履き、かつかつとかかとを鳴らして歩を進めた。
 大丈夫、今日は護衛がいる。それだけを胸に、紫釉にとっても一つの戦だ。
 龍家の門前に、ずらりと兵が並ぶ。掲げられた旗が大きく風にはためいていた。武装したその隊の姿は勇ましく、整列すればいっそ壮観な風景である。肌が痛いほどの寒風が吹き付け、各々のまとった外套を強く翻していた。
「出立」
 顕揚の一言で、隊が門を出た。顕揚も紫釉も飛ぶことができるが、他の兵にその力がないことと、道中に余分な仙力を消費することを避けるため、馬での移動である。紫釉も馬は操れる。隊の後方についていく形で行軍に加わり、しんがりは范成とその兵である。
 人や仙との戦ではないため、基本的に道中は安全だ。妖魔は先回りして待ち伏せたりはしない。途中出くわす妖魔もいないわけではないだろうが、仙人がこうして隊を作っているだけで、雑魚たちは気配に怯えて身を隠すはずだった。戦うに苦労するのはもっぱら人なのである。妖や魔はそこに縛られていることが多く、そこで徐々に力を蓄えていく。
 行軍に数時間かかるため、兵を休めた川のほとり、各々が水筒に水を汲んだり馬を労わったりの休憩時、范成が杯に汲んだ水を差しだしながら訪ねてきた。
「疑問だったのですが、あなたはいったいどのように治癒をなさるのですか?」
 手渡された杯を干し、紫釉は答える。そういえば、そんな基本的なことも話さずにいたのだったか。
「仙気を送るだけだ。傷を直接塞ぐとかではない。気を送ることで本人の持つ回復力を高めて、結果傷が癒されたり体力が回復したりするのさ。気力も補えるから、術師も元気になるね」
「なるほど」
「ふふ。君が弱ったらやってあげよう」
 興味を持たれたことが嬉しく、ついそんなことを言ってしまった。子供のようにはしゃいでしまって少し気恥ずかしいが、これまでにこういうことがなかったのだから仕方がない。
「恐れ多いです」
「なに言ってんだか。君が元気でないと私に危険が及ぶだろう?」
「それもそうですが。……私などに尊いお力を使わせるのは……」
「ふうん。嫌なの?」
 范成があまりにも紫釉を「奉る」ものだから、ちょっとからかうつもりで意地悪を言った。特別な力を持たない人からそういう扱いを受けるのは構わないが、同じ仙籍に身を置く者からやたらと持ち上げられるのは好きではない。
「滅相もない! そういうことではなくてですね!」
 途端に慌てた范成に少しだけ満足をして、しかし紫釉の意図がまだ全く伝わってはいないのだろうとは思っていた。
「わかっているよ。私を案じているのだろう? もし多少消耗しても、君がついていれば隊から離れて養生していても危なくない。そういう意味の従者でもあるんだ」
「……はい。すみません」
「謝る必要もない。大丈夫だ。そうそう簡単には倒れないはずだから」
「本当ですか?」
「あまり、お姫様抱っこで運ばれたくはないからね」
「……でしょうね。御無理はなさらないでください」
「了解」
 それに、少なくとも今回に関しては、力を使いすぎる以外に紫釉の身が危うくなることはないとみていた。妖魔の類は、純粋に相手の力の大きさで優劣を計ってくる。戦う腕はないが、紫釉の持つ仙力は実は兄たちを凌ぐくらいにはなっているのだ。おいそれと襲われることはない。人相手ならば、紫釉の容貌や何かですぐに弱いと判じられ、攻撃の対象になりやすいだろう。そういう違いがある。
 ただ、やはり流れ矢的な危険性は当然あるので、後方に控えている身だといっても、護衛は必要ということになる。
「あなたのお手を煩わせることのないように、励みます」
「うん。それでいい」
 范成がなぜそこまで謙虚なのか、疑問と言えば疑問だ。それは確かに仙としての格の違いを感じて紫釉に接しているのもあるのだろうが、果たしてそれだけなのだろうか。深入りするつもりはないが、少し気になるところではあった。謙虚に過ぎれば主に疑念を抱かせることにもなる。そういうことには考えが及ばないのだろうが。
 まあいい。紫釉とて人のことは言えない。二人、似た者同士なのかもしれないと思うと、少しだけ親しみも沸くというものだ。


 妖魔が出るという噂の山は、鬱蒼と淀んだ空気に包まれており、そういったものをよく目にする仙師たちも、一帯に立ち込める禍々しさには顔をしかめていた。
 この山の麓に、それなりに大きな村があるのだが、その墓地が空っぽなのだと村の道士が言った。確かに、弔われた者の霊というのは、だんだんと風化されていくものではあるが、いくらかはそこに留まるものだ。しかも今年は気象に恵まれず作物が不作で、年寄りや赤子もよく亡くなった。そういう者の霊さえ、一晩あれば消えてしまうのだという。
 曰く、裏の山に出るという妖魔が霊を吸っているのではないかとのことだ。その妖魔は昔から山の主として存在は認められていたが、近年までは大人しくしていたため、村との境に札を張る程度で済みわけができていた。しかし今年になり、その札がよく破れて見つかるようになった。これまでは昼間であれば入れた山も、だんだんとおどろおどろしい空気をまとうようになってきて、とても人が近づこうという雰囲気ではなくなった。そして最近になり、山に近い家から順に、人が倒れるようになった。道士が祓えどもまったく効果はなく、村人の弱った者からどんどん倒れるので、地元の仙家をたどり、龍家まで話が上がってきたという流れだ。
 日暮れが近づき、風は更に冷たくなっていた。それ以上に、山が放つ陰気は冷え切り、そこにいるだけで仙力の弱い者は寒気を訴え始めた。
「聞きしに勝る陰鬱な気だな」
 馬を降り、顕揚がそう渋く呟いた。その目は憂いがちに、山の中腹に向けられている。
 そのあたりに妖魔の住み着く洞窟があるという話だ。山が茂る季節ならば木々に隠されて見えないところ、今は木々の葉が枯れ、その大きく開かれた入り口も麓から見て取ることができる。
 道士の説明では、夜な夜なその入り口から黒い煙のようなものが這い出て、村を覆うように広がるのだそうだ。そこで病の者や息絶えかけた老人などが、悪くすれば霊気を吸いつくされ、命を落とすという話だ。
 顕揚は道士を下がらせ、しばしの時間で策を巡らせたようだ。
「まずは洞窟を目指す。踏み込む前に村との境に結界を張り、妖魔を閉じ込める。どう攻めるかは相手の本質を見てからだ」
 隊を二手に分け、結界を張る術者と、顕揚に従う武人にそれぞれ指示を出す。寛飛のように隊を激する貫禄ではないが、顕揚には冷静で綿密な指示ができる。従う者は彼の言葉一つ一つを細かに聞き取り、間違いなく遂行するべくてきぱきと動いた。
「紫釉、そなたはどうする」
 最後に残った紫釉を振り返る兄の面持ちは、厳しい。こういう場で笑みなどは一切見せない人だが、それにしても苦渋を隠しきれないのは、紫釉を連れてくることを実は本人よりも案じているからだ。
 今回の行軍に同行することにも、顕揚は一度反対の意を示した。もちろん、足手まといを連れて行って自分が困りたくないなどという意味ではない。昨日今日従者となった者を紫釉につけての行軍という点を問題視したのだ。しかし宗主はそれを退けた。どういった条件でも主を守るのが従者の役目であり、そこに情が必要かどうかは本人たち次第だと。国境の異変は四の五の言っている猶予を与えない。今回で見通しができればすぐにでも遠征部隊を結成したいということだった。
 慎重派の次兄だが、それには反発は見せなかった。かといって、それではお手並み拝見とまで吹っ切れたわけではないようだ。
「二の兄上。私をお連れください」
 迷う間もなく、紫釉は返した。自分はそのためにここにいる。
「良いのか。そなた数日前まで倒れていたのだぞ」
「ご安心を。今日は気が充実し、安定しております。自分でも不思議なほどに」
「そういうこともあるのか?」
「己の具合は己が一番よくわかります。旅の疲れも感じません。お役に立てます」
 紫釉がこうもきっぱりと自信を口にするのは珍しいことだ。顕揚はすこしばかり眉を上げ、それから確かめるように「そうか」と言った。
「では、隊の後に続け。何かあればすぐに知らせるのだぞ」
「承知」
 ようやく訪れた機会に、返す声も張りを増す。
 弟の肩に一度手をやり案ずる心を伝えた兄は、次に范成に向き合った。鋭い目で彼を捕らえる。
「斗范成と言ったか」
「は」
「紫釉を任せた。よいな」
「命を懸けてお守り致します」
 范成が剣を片手に礼を取り、その姿を顕揚はじっと見定めるように見てから、いざ出陣と外套を翻した。
 猛者ぞろいの兵たちが鬨の声を上げ、隊長の顕揚を先頭に山に入っていく。岩がちな足元のため、馬は使わず徒である。
 紫釉はそれの後について歩く。今日は彼も武装していた。ごく軽いものを用意されたが、皮の鎧に肩当、脚絆に手甲と装備すると、それなりに動きは重くなる。武人たちと同じように歩を緩めず山を登ることも、実は楽ではない。なるほど、宗主が慣らしとして今日の従軍を命じたことにはこういう意味もあったのだろう。
 山の中腹あたりにさしかかり、さすがに息が切れてきた紫釉に、見かねた范成が手を差し伸べてきた。
「少し休みますか」
「いや、大丈夫。何も成していないうちに後れを取るわけにはいかない」
「何も成さぬうちに疲れてもいけません」
「言うね、君。だが大事ない。少し気を整えながら行く」
「ですが」
 紫釉の体を支えようというつもりか、范成がそっと腰に手を回してきた。それをやんわりとかわし、紫釉はまた歩き始める。
 実際、こういうことでどれくらい消耗するのかまでは考えていなかったことを、早速自覚させられた。気は十分に満たされてはいるものの、道中に少しずつは使う必要があるということだ。日々鍛えている武人たちとは基礎体力が全く違う自分は、そこも計算しておらねばならぬということだ。
 ただ、すこし遅れたといっても、初めての山で遭難するということはない。気を誰よりも感じることのできる紫釉は、顕揚たちの発する仙気をたどり、追いかけることができる。
「それにほら、目的地はもうすぐのようだよ」
 顕揚たちが進んでいく先に、暗い淀みが見える。妖魔の力の及ぶ範囲はそこからということだろう。見ていると、入った兵から順に足並みを乱されているようだ。仙気の弱い者が少しずつ後れをとりだした。
「君は、ああいったものには慣れている?」
むしろ范成のことが気になった紫釉である。腕が立つからと言って、妖魔に耐性があるとは限らないからだ。
「これでも修行はしました。問題ないでしょう」
「頼もしい。では行くよ」
「あなたは大丈夫ですか」
「むしろ得意だね。多少ならば蹴散らしていける。むしろ山道を歩くのは疲れる」
「普段から運動してください」
「明日以降善処しよう」
 言いながら進み、いよいよ淀みの中に身を投じた。
 急に空気が重苦しくなり、肺臓に取り込むと胸まで重くなるような感覚だった。しかし紫釉は足を止めず、徐々に妖魔の気配の濃くなる道の奥を突き進む。
 その空気が煩わしいので、紫釉は神経を集中し、自分の周りに薄い気の膜を張った。これでだいぶ息がしやすい。
 立ち込める黒い靄の中で、紫釉の体が微かに発光したのを見、范成は一瞬目を丸くした。
「それは」
「うーん。簡単に言えば結界の一種」
「疲れませんか」
「君な、ちょっとひとを年寄り扱いしすぎだ。これくらいなんてこともない。それより体内に陰気を入れたくないんだ」
「了解しました。でしたら心配は致しません」
「言っただろ、そう簡単には倒れないって」
 言ってみれば、先日のはそれだけ重傷者を多数治したということだった。気はいろんな使い方ができて、もちろん攻撃に転じることもできるし、身を守ることにも使える。その中でも、他者に気を送るというのは実は一番消耗する術なのだ。紫釉の仙気は強すぎて、雑にすれば相手の気を壊してしまう恐れがある。それを手加減し、相手の気の質を探りながら融合させねばならない。そこに一番苦労する。
 今日の兵は全員で三十六名。加えて次兄と范成だ。これが軽傷であれば紫釉の力も尽きないが、全員が重症となると……、優先順位をつけて対処せねばならないと考えている。結果紫釉が倒れることも考えられ、油断はできない。
 しかし、そうはならないと見越しての兵の規模であるはずだ。妖魔はそれほど凶悪で手も足も出ないという相手ではないのだろう。
 とはいえ、戦ってみなければわからないのが妖魔である。その性質如何では、手こずる可能性もある。
 紫釉たちが追いついた時には、兵たちは顕揚を中心に洞窟の周りを取り囲んでいた。
 その第一線からかなり下がったところに、紫釉は身を潜めていた。
 前方では、顕揚が兵たちに支持を出している。紫釉も感じる通り、今回の敵は魔である。もともと霊山と言われていただけあって、霊気の集まりやすい場所であり、そこに信仰が集まり霊が神格化した。しかし自我の生まれるほどの霊ではなかったため、時とともに性質も変化し、悪化したものと考えられた。特になにかの恨みなどの思念も感じられないので、人の霊気を求めてくるのは単純に、自分の気を増幅させるためのものであろうとみられる。そういったものが肥大して陰気を蓄えるようになったのは、この山の裏側が数十年前に戦場になったせいだという。そこで負の霊気を吸い、少しずつ陰の方向に性質を固めていったのだろう。戦場の後がそういったものを生み出すのは、よくあることだ。
 しかしこの妖魔、実体がない。これが少し厄介だった。物や人を媒体としたものならば、その根本を破壊することで解決するものだが、今回は本体が霊体なだけに、手が出しにくい。単純に剣で斬れればいいというものではないからだ。敢えて言えば山自体が本体なので、山ごと吹き飛ばすこともできないというところだ。
 顕揚はまず、剣士の中でも霊力の強いものを集めた。それから、山に結界を張り巡らせていた術者の半数を呼び寄せ、術戦へと作戦を変更したのだ。
 先陣は、一番霊力のある顕揚が切った。兵たちを盾には戦わず、隊長が先頭に立ち隊を鼓舞するのが龍家の戦い方だ。ずしりと重い霊剣を振りかざし、洞窟からあふれる陰気の中を突っ込んでいく。それを守り固めるように兵が従い、後方から術者が気を高めながら追っていく。
 中からはすぐに戦う声や気配が響き始めた。それを外から見ながら、紫釉はやはり複雑な思いを抱えていた。
 その心を呼んだか、范成がそっと寄り添い、耳元で言った。
「堪えてください。あなたにはあなたの役割があります」
 声は、他に二人控えた従者の耳には入らない。彼らは洞窟の入り口に控えており、戦いが長引けば応援に入るように言い渡されていた。紫釉のことは、ここでは范成が守れると判断されたようだ。
「だが。本当にこうして手をこまねいておらねばならないんだろうか」
「顕楊殿の命をきかぬおつもりですか」
「……わかってるよ」
 歯噛みしたい思いが胸を焦がす。悔しかった。自分が、この紫釉が、隊の中で一番の術者なのである。戦に慣れてさえいれば、力を発揮できていたはず。せめて後方からでも、援護できるのではないかと思わないではないのだ。
 これまで、自分の力を攻撃に使ったことはなかった。そのことが紫釉を危険から遠ざけていたのだが、いざこうして戦地に身を置き、何もできないことに更なる無力感をかみしめることになろうとは。
 そうしているうちに、早速中から傷ついた兵がまろび出てきた。それに駆け寄り、寝かせて早速気を送る。精神を集中し、兵の胸に手を当て、そっと初めは探りながら気を移していく。
 洞窟の中で何が起こったか、ドンと地鳴りのような音がした。しかしそれに集中力を削がれている場合ではない。
 初めの兵は中傷程度だったが、次に運ばれてきたのは軽傷だった。皆、霊剣を重そうに杖にしながら出てきて、紫釉の手を求めてくる。
 一人一人治癒しながら、また洞窟の中に送り出すのは心が痛んだ。
 まだ回復していないだろうに、傷さえ痛まなくなれば迷わず危険に身を投じていく兵たちに、ただ少し手を貸すしかできない。
 これまでは、帰還した者を癒すだけでよかった。一度手を施したら兵たちは邸内で休むことができていた。しかし今は違う。まだ大将である顕揚が戦っているのに、兵たちは剣を下ろすことができないのだ。
 思ったよりも、精神的に過酷な役回りだと思ったのは、幾ばくかの時がたった後でとうとう顕揚が姿を現した時だった。
「兄上!」
 隊一の偉丈夫が、まだ余裕のある表情ではあったが傷も負っていた。腕に裂傷。外套はそこで両断されていた。鎧もところどころ痛み、戦いの激しさを物語っている。
「妖魔は?」
「殺ったはずだ……」
 言った兄の後方から爆発音が上がった。
 バン、ともドン、とも言い難い、一度凝縮した力が一気に飽和したような、爆風を伴う爆発だった。
「なに!」
 次兄が振り返ると同時、吹き飛ばされてきた岩のつぶてが外まで飛び散る。
 次兄は片手で顔を覆い、破片から身を守る。しかし洞窟の入り口までかけつけて兵の手当てをしていた紫釉に、身を守る余裕はない。
 一瞬、目の前が暗くなった。兵に気を送る自分の手元だけが眩しく光る闇の中、瞬きをすると、そこに范成の顔があって心底驚いた。
 周囲では、バラバラと瓦礫の落下する音がする。背には小さい衝撃もあった。しかしそれはすぐにやみ、再び視界が明るくなった。が、間近にあった范成の顔は、変わらずそこにあった。
「今のは」
「そのまま、続けて」
 言われてから、状況は理解した。洞窟の中の爆発で飛んできたものから、范成が自身の外套を紫釉の上に広げ、また自身の身で覆いかぶさることで、守ってくれたのであるらしい。
「どういうことだ。兵は無事か」
 兄はまた身を翻し、状況を把握するために洞窟の中に入っていった。それを迎えるように、新たに怪我を負った兵たちが出てきて、顕揚に説明をする声が聞こえる。
「妖魔の残骸が、急に弾け飛びました。顕楊殿にお怪我は」
「私は外にいたのだ。それより皆は無事か」
「幸い、一度妖魔が息絶えたと思い、残骸の傍近くにいた者は少なく」
「ならよいが。怪我の酷いものから順に、手当てを受けよ」
 紫釉、と呼ばれ、顔を上げる。
「大事ないか。まだいけるか?」
「はい。私は。手負いの者をこちらへ」
「私が運んできましょう」
 立ち上がったのは范成だった。背を向けたその外套に、破れと微かににじんだ鮮血が目に飛び込んでくる。
「さっきので、君が怪我をしている」
「これしき、どうということはありません。今回出番がないまま終わったようで心苦しいですから、手伝いくらいさせてください」
「だが!」
 紫釉をかばったせいで、岩の破片でも背に受けたのだろう。血が出るほどの怪我をしたくせに、その瞬間声も出さなかった。
「私は後で構いません。先に他の兵たちを」
 范成は言い残して駆け出し、まだ洞窟に残っている兵たちの元へとむかってしまった。
 確かに、自分の従者を優先してそれ以上の手負いの者を放っておくわけにもいかず、紫釉は淡々と兵たちの手当てに没頭する。
 最後の爆発が何であったのか、術者や兄が調査したが、結局は分からなかった。最後に残った霊力が、少し遅れて自爆したという結果だけを受け入れるしかないようだったが、それによって周囲を取り巻いていた陰気が一掃されたのは確かだった。
 紫釉の施術も以後急に効率が上がり、瞬く間に兵たちは自力で歩けるくらいに回復した。
 良いと言われたが、顕揚にもまた手当てを施した。もう血は固まりかけていたほどの傷ではあったし、高位の仙である兄にとっては気にもならない程度のものであったが、それでも紫釉は、兄の手を取り丁寧に気を送り、彼の表情に浮かんだ疲労が和らぐのを見てやっと、息をつくことができた。
 元気のある者が近くのせせらぎから水を汲んだり、まだ気力を消耗した術者が座って回復を待っている様子を見渡し、紫釉は最後に范成に声をかけた。
 声をかけねば近づいてこなかったのは、自分が手当てされることを避けているとしか見えず、その意地っ張りを見破ってやったのだった。
「斗元。次は君の番だ。私は今日はとても調子がいい。まだ余力がある。遠慮なく背中を出して」
「ですが」
 紫釉の手招きに、范成は素直に従わない。もう他に治癒を必要としているのは范成だけなのに、なんの意地を張っているのか。
「他は処置済み。皆歩いて帰れるくらいには元気だ。だから君が最後。来なさい」
 少し強く言うと、范成はやっとこちらに足を向けた。ばつの悪そうな顔を、繕う気はないらしい。
「……」
「待たせて済まなかったね。酷く痛んではいないか?」
 外套をめくりあげれば、服に肌からにじんだ血が掌ぶんくらいに広がっていた。彼の鎧は軽装で、腹当てと腿当てはあるが、背は服のままだ。剣士としては身が軽く機動力を武器とする彼は、動きやすいからと言ってそんないで立ちらしいのだが、それが少し災いしたようだ。自分が一人で戦うには都合がよくても、守る者がある場合に適当とは限らないと言ったところだろうか。
 紫釉をかばって傷ついた范成を、本当は一刻も早く癒してやりたかった。自分で身を起こせない兵は寝かせて術をかけるが、今の范成はそこまで弱っていないので、座らせたまま背に直接手をかざし、気を送ることにした。
 丹田に意識を集中し、そこに集まる気を十分に高めてから、ゆっくりと意識を掌に移す。すると、まるで血液が移動するように、全身の仙気が掌向けて流れ始め、そして相手へと注がれる。抵抗を受ける場合もあるが、范成に紫釉の気はすんなりと馴染んでいくようだった。
「どんな感じがする?」
「温かいです」
「そうか。人によって感じ方は違うそうだけど、君には温かいか」
「ええ。満たされる感じもしますね。とても心地よいです」
そう言われて、悪い気はしない。礼とはまた違う嬉しさがあった。
「実は今日はあまり消耗しないんだ。かなり力は使っているはずなんだけど、皆完治までやってやれるし、君もだ。ほら、もう皮膚が再生している。また君は回復が早いな。逞しいことだ」
 これも、気の相性により、治癒の速さに差が出るところだ。范成は紫釉の気を吸い上げるように素直に受け入れてくれたため、手加減を要することなく治癒ができたようだ。
 それに、不思議な感覚なのだが、彼に気を送りながらも、どこか紫釉の方も癒されるような、微かな充足感があった。一昨日抱きしめられた時に感じたのと同じような感覚だ。
気と気がうまく交わった時に生まれる感覚、ということだろうか。
「ありがとうございます」
「うん。もう大丈夫だろう」
 この行為が、兵たちにする役割での治癒ではないことは、自覚していた。
 君がよくなってよかった。心から思った。たとえ軽傷でも、紫釉をかばっての傷ならば完全に治したい。肌に微かな跡さえも残したくないと思った。
「大事ありませんか」
 念を押され、笑みで答える。ひどくすると暫く立ち上がることもできなくなるものだが、今日は眩暈の一つも覚えず、気もまだ満ち足りていた。
 これならばいける。そういう確信もあった。戦いも治癒に要する労もまだまだ序の口なのかもしれないが、こういうありかたでなら自分も、役に立てるのだという手ごたえを感じた。
 そして今日調子が良かった理由にも、少しは思い当たるところがあった。この条件を変えなければ、たぶん……と。
「紫秞様!」
「うん?」
 顕揚が号令をかけ、兵を集合させている。紫釉もその端っこにでも立とうと呼びかけに応じようとしたところ、後ろから呼び止められた形になった。
 振り返り、范成もおいでと声をかけようとしたのだが、彼の言葉が先に声になった。
「やはりあなたの力は特別です。あなたはもっとご自身を誇るべきだ」
 世辞ではない、真摯な言葉だった。
 不必要に持ち上げるのでもなければ、励ますのでもまたない、これは何だったのだろうか。
 ただ、まっすぐに紫釉の心に届いた。
 兄たちには言われていることだが、他人から言われるとひときわに嬉しい。范成だったから猶更なのだろうと、素直にそう思えた。
「……ありがとう」
 込み上げた喜びが、胸に熱く満ちる。
 君が従者で、よかった。
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