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番外編
月を愛づ
しおりを挟む「『人は木石にあらず 皆情あり』
……なあ、天佑。恋とはなんだろうな」
ふいに殿下が呟いて、天佑は手にしていた本を取り落とした。角から落ちて足の甲に当たり、皮の靴のためそれなりに痛い。
本日の授業が終わって一息入れながら、明日はどのへんまでお教えしようかなどと考えていた時のことだ。
えっと、この場合どう返すべきだ? 天佑の不得意分野であり、絶賛迷走中の題目を予告なしに突き付けられ、とりあえず焦る。何気ない一言だったが、これに返すのは難儀だ。少なくとも一言で表せる類のものではないと天佑は思うのだが、どうだろう。
「白楽天ですね」
ひとまず、殿下がどこかで仕入れてきた知識の出典だけはわかったので、その方向で誤魔化すことにした。わかりやすい一説なので、意味を解説する必要はない。
「恋とは左様に心乱されるものか?」
更に来た。興味津々というよりは、物珍しいから教えよといったような、微妙な問いかけである。殿下はこういうのが多い。「これって何なのだ?」と言って見た目の変わった武器に興味を持つのとほぼ同じ感覚での、「恋とは何なのだ?」である。人が恋をしてどういった心持になるとか、そういうのを事細かに聞きたいわけではないのだ。たぶん。
「一般的に、そうとされますね」
天佑はここは無難に返しておいた。さらっと。流すように。
「天佑もそうか?」
ガタリ。
椅子の脚に足をぶつけた。
おかしい。今日に限って殿下は突っ込んだ話を聞きたいと仰せなのか? この私の口から? ご勘弁願いたい。
「いえ、私にはあまり経験のないことですから」
これ以上興味を持たれてはならぬと、返事はひたすら逃げる方向だ。今、この手のことに深入りされてしまうと、いろいろと不都合がある。師範として毅然としていられる自信がこれっぽっちもないのだ。
しかし、天佑の返答に早速疑問を抱いたらしく、殿下はまた困った一言を投げかけてくる。
「俊宇はどうなんだ」
「殿下??」
「そなたら恋仲なんだろ?」
平然と、ペロッと、周知の事実を確認するように言われ、さすがに眩暈がした。
何故ご存じなのか?
いや、厳密にはまだそういうことにはなっていない……はずなのだ。まだ。……いや、そうなのだろうか。やはりそうなってはいるのだ。ただ、深い仲ではない。まだ。
ちょっとした思考の迷宮に入りかけて、即座に戻る。
「殿下、 それは違います」
と、ここは言っておかねばならぬ。たとえ二人が既に深い仲であろうと、公にしてはならない。殿下の侍従と師範が男同士で恋仲など、男女の秘め事よりも厄介な問題だ。これがばれれば父の二の舞を演じることになる。
「そうか? いい雰囲気なのにか?」
おかしいなあと、これまた普通に自然に首をかしげる殿下に、まずはため息しか出なかった。この人、確かに人を見る目があるが、見えすぎてこういう弊害があるのは、ちょっと想定外だった。
それ以前に、一応建前上、恋とは男女でするものですよと、ここで指南を入れるべきなのかもまた悩みどころだ。
「いい雰囲気、ですか?」
「うん」
「……あのですね、あの者は知己です」
「それはそうだろうけど。ではなにゆえそうも甘ったるい感じなのだ? そなたらを見ていると、恋など心乱れるものには思えぬ」
「殿下……」
「そうなんだろ?」
もう、どうあってもそっちへ理解してしまっておられる。まずはここだけは正さねば。例え甘ったるく見えていたとしても、天佑と俊宇の交わす情は、恋ではないのだと。
……と、いうことにしていただかねば困るというようにだ。
「ここは、否定させてください。私を困らせたいのですか?」
「照れずとも良いのに」
「照れておるわけでは。ただ、そういったことが人の噂にでもなれば、困った事態を招きます。殿下の目にそう映るようでも、そうではないことにしておいてくださらないと」
「なんでだ? そなたらほど硬く結び合った友なら、構わぬのではないのか?」
「殿下。あなたも恋をすればわかります。友情と恋情は、確かに似たところもありますが、やはり別物。もちろん同じ相手に双方を感じても間違いではありませんが、私と伊宇のように殿下の近くでお仕えする者がそれですと、少々障りが。少なくとも私はクビです」
「なんで」
「私は宦官にはなりたくありませんし」
「どういう意味だ」
「いずれその道の指南を受けられればお分かりになります」
恋に色はつきものであるため、ここまでの話になると、まだ殿下のお耳に入れるわけにはいかない。何をどこで仕入れて来られるのかは知らないが、ちょっとした耳年増になりつつある殿下だから、うすうす想像できる部分もありそうだ。だからこそ、正しい知識を順を追って吸収してもらわねば、変なふうに認識ができてしまう。古来男色を好む帝もいるにはいたが、そうはいってもお世継ぎは設けていただかねばならぬ御身、用心に越したことはない。
「天佑が教えるのではないのか?」
「え」
再びの爆弾発言である。
「色の道は十二になればと言われているが。たぶんそなたか俊宇だろ?」
一瞬目の前が真っ白になった。そういうところも自分の管轄なのか?
俊宇だろう。少なくとも私じゃないだろう? と、縋る思いで天を仰ぐ。
いや、そのような、ある意味兵法よりも重要なことを、市井上がりのただの学者である自分が殿下に指南することになるはずがない。そうだ。おかしい。不相応だ。
心の中で一通りの混乱と一応の結論を出し、天佑は咳払いの後で言った。
「……確認しておきます」
●
その夜。天佑は俊宇の執務が終わる時間を見計らって、彼の室を訪れた。小ざっぱりとした風情のある庭を、いつもはゆったりと愛でながら行くのだが、今日は一切目に入らない。
「伊宇! 殿下の床指南は私なのか?」
戸を開けるや否やその言葉が出てしまい、言った自分が恥ずかしかった。せめてもっと前置きをせねばならなかっただろうに。
「なにを慌てておる」
呆れと苦笑と少しの驚きと。俊宇の表情に浮かんだのはその辺だった。天佑が焦るというのはなかなかに珍しいので、それを楽しんでいる節もありそうだ。
「殿下の床指南とは、またすごいのを持ってきたな。まだ先の話だぞ」
「それは知っておる。なあ、私の役目か?」
「だろうな」
嘘だ。またクラっと来た。女を抱いたことがないわけではないが、この歳になってそういうのは、ちょっと。しかも、今の相手は女ではない。自分が抱く方でもない。
「それに、殿下が我らの仲に気づいておられる。これはまずいだろう」
「そうなのか?」
「ああ。否定しても納得してくださらぬ」
ご自身の勘を信じるのは悪いことではないが、ここは融通してほしいもの。しかしどうもまだ、そのへんには頑固だ。
そう見えるような空気を作っている自分たちが悪いわけなのだが、それも今のところ俊宇が隠そうとしないからなのではないかと、天佑は思っている。
当の俊宇は、腕を組んで少し首を傾げ、「ふん」と唸った。
「断固認めねば大丈夫だろう。それに、床指南については実地でちゃんと女が導くから大丈夫だ。そなたは心得だけお教えすればよい」
「それは当然だがな」
「なんだ?」
なんでそんなに冷静なのだ。宮中では当たり前のことだからか?
「生々しいではないか。いろいろと。我らが恋仲とご存じで、そういう者から指南されるのは殿下はお嫌ではないだろうか」
「……まだ先の話だ。それに、我らとてまだ深い仲にはなっておらんだろう」
「……まあな」
「なんだ」
「あと三年あれば、そうなるだろう?」
「はは。三年も待たされる気はないぞ」
「……」
それは、そうだろうけれども。いたたまれなくなって、天佑はうつむく。その顎をツイと、俊宇の長い指が掬った。
「すぐにでも、なってほしいのだがな?」
「……だろうな」
まずい。どうも口説かれる流れを作ってしまったようだ。
そもそもこういった話に焦った時点で、天佑自身がかなり俊宇を意識しているということなのだろう。そのことにもっと早く気が付くべきだった。まんまと俊宇のもとにきて、この話を持ち込んで、なにから逃げようというのか。
「いつまで待てば、気が向くものだろうか」
口づけくらい簡単にできてしまう距離で、迫られて。鼓動が急に早まった。
折しも宵が更けようとしているこの時間、俊宇の部屋で二人、この空気だ。肝心の覚悟は全く持たずに来たことを後悔したが、どうも手遅れのようだ。
「近いぞ」
こうも近ければ、全身の温度が上がってしまったことも伝わっているだろう。
「もっと近づきたい」
吐息のように囁く俊宇の唇の動きが、目を引いて離せない。まだ数えるほどしか触れていないそれが、やわらかく心地よいことは知っている。けれども今日触れれば、そうではないのかもしれない。もっと激しく心を揺さぶる熱に、触れることになるのかもしれない。
「汪黎」
触れたいと、その一言は唇に直接囁かれた。
吐息から重なって、触れた。顎を捕らえていた指に、少しだけ口を開かされ。熱い舌が差し込まれた。それはすぐに天佑の舌に触れ、何度か撫でてから、絡められた。
呼吸が上がるのに、うまく息を継げなくなる。体を強く抱き寄せられ、互いの胸元が触れ合った。
「嫌ではないのか? 拒めば留まるのに」
一度離し、しかし唇の先をまだ触れ合わせたまま問いかけられる。
「そうなのか?」
「あまり嫌がることはしたくない」
「ならするな」
「これは嫌ではないのだろう?」
「調子に乗るな」
「乗る。そなたが煽ったのだぞ」
「こら、…んっ」
口づけが首筋に移り、そのくすぐったさに甘い声が漏れた。
「本当に嫌なら今そう言え。でなければ留まれそうにない」
「……は。んっ」
「好きだ、汪黎」
抱き寄せられながら、だんだんと体の力が抜けてくる。自分から相手にするのと、自分がされるのとではずいぶんと感覚が違う。前の女は従順で、天佑に導かれるままだったから。閨の相手からこういった行為を受けるのも、それに快楽を覚えるのも、これが初めてだ。くらくらして脳が溶けそうだ。
腰を抱かれ、寝台まで促された。腰を下ろすと同時に、敷布の上に押し倒される。
足から抜けた靴が床に転がり、広がった上衣の裾が寝台の上に波紋を作る。
見下ろされる感覚も、独特だった。相手に支配されたと感じるのだ。そしてそれが嫌ではないことも。
一度、目が合う。熱っぽい雄の目が天佑を捕らえてくる。逃げられはしない。
「来い」
天佑は言った。どうせこの男、留まれぬなどと言いながら、天佑が許すまではこれ以上進まぬつもりだ。
いっそ一思いに奪えばいいのに。さほどにやわではないのだが、気遣われているのか。
俊宇が満悦そうに笑って、そして天佑の帯締に手をかけた。
結び目を解き、帯がほどける。そうなれば、単純な構造の漢服はすぐに前がはだけ、下着姿になってしまう。これだけでもずいぶんと気恥ずかしいものだが、俊宇の手は肌着の紐もほどき、いよいよ素肌を露わにした。
「そなたはまことに美しいな。肌も身体も申し分ない」
とろけるような眼差しで眺められ、言葉を添えられ、羞恥で理性も麻痺してきた。見られるだけで、これか。
「見分するな」
「恥じる必要はないぞ」
俊宇の手が袴の帯にかかった時は、さすがに抵抗があった。
「待て」
「嫌か?」
「ふつう、そうだろう。せめて明かりを……」
「そうだな。その気になってくれたなら、遠慮はせぬ」
「な……!」
言われて、袴を押し上げるものの状態に気が付いた。男の体は快楽にあまりにも素直で困る。言い訳も隠し立てもできぬのだから。
俊宇が、枕元以外の明かりをすべて消して戻ってきたときには、もう天佑の体は十分に彼を求めていた。むしろ、拘束を解いてくれた方が楽になれるほどだ。
「これで公平だろう」
言って、俊宇も身につけたものを床に脱ぎ落した。細身ながら逞しく鍛えられた裸体が薄明りに映え、とても艶めかしい。
この体と、今から抱き合うのか。そう思うと更に腰が疼くようで、そんな自分が信じられなかった。男の自分が、男の体に欲情するなんて。
袴も下帯も解かれ、天佑も一糸まとわぬ姿にされた。俊宇が、身を添わせるようにそっと横たわる。
肌が触れ合った。片手で抱き寄せられ、また唇が合わさる。俊宇のもう片方の手が天佑の胸元を撫ではじめ、大きく肌を這うたびに、敏感な部分を擦りあげていく。
そこが痺れるような快感を覚える。爪先で弾くように弄られ、耐えられなくて天佑は身をよじった。
「痛いか?」
その問いは、気遣いだったかあるいは意地悪だったのか。追及する余裕はなかった。もっと触れてほしい場所が熱くて、もどかしさに頭がじんじんする。
「伊宇……」
「ん?」
「伊宇。……お願いだ……」
彼の首にしがみつき、自分から腰を押し付けた。真正面に抱き合うと互いの情熱が触れ合い、その刺激が泣けそうに切なかった。もっと、そこにと。
だって、仕方がないだろう。自分は男だ。男に求められても、疼くのはそこなのだ。精を吐きたくてたまらず、それを相手に求めるのは自然だろう。
「天佑。そなたが愛しくてならぬ」
そこに感じる俊宇のものも、熱く硬く充実していた。とろりとしたものが肌を伝ったが、どちらから漏れたものなのかもわからない。
俊宇の手が、二人のものを一度に握り、擦り上げ始めた。大きく、または小刻みに。きつく、弱く。動きを変えながら互いを追い立ててゆき、二人で身を震わせて果てたのはほぼ同時だった。
「惨憺たる有様だな」
うまい照れ隠しも思いつかず、天佑はそう言った。絶頂の後妙に冷静さが戻るのはいつものことだが、その感覚で二人の状況を直視するのは、なかなかに恥ずかしいものだ。
身体も敷布も互いが吐いた精でどろどろだ。けれども弛緩した体を離す気になれず、しばらくの間息を整えながら、二人はまだゆったりと抱き合っていた。
「…なあ、よかったのか? 私とこのようになって」
まだ目を合わせるのは勇気が要る天佑には気づかず、俊宇が目を見て問いかけてきた。
「今更きくのか?」
「ここまで許されるとは思っていなかったからな」
いやもう、これくらいは序の口なのではないのか。この次はとうとう、この身に俊宇の情熱を受け入れることになるのだろう。男と恋仲になるとは、そこまでを了承するということだ。
「正直、そなたが男で知己だという剃り込みで頭がついてこなかったところもある。しかしやってみればこういったことも嫌ではなかったのだ、案ずることはない。まんまと落とされた」
「そうか。何よりだ」
「で、次は後ろでするのか?」
「な!」
「したいのだろうな?」
「……いずれはな」
まあ、前に言っておった「無体」とやらがこれに当たるのだろう。今した程度ならば互いに負担はないが、しかと交わるには、男の体はすぐに対応できるものではない。
「そうか。ならば少しは備えておかねばならんか?」
「……いや、私に任せろ」
「とか言いながら強引に入れられてはたまらんからな。痛いのは勘弁だ」
世にはその手の指南書もあるようだし、天佑にも春画程度の知識はくらいある。予めある程度は何とかしておいた方が俊宇も楽だろう、という結論である。慣れるまでお預けも気の毒だ。
「……想像させるな」
と自己申告したように、俊宇は自分で体を慣らす天佑の姿をちゃっかり思い描いたようだ。面白いほどに、また彼の一物が勢いを取り戻す。
「ふふ。差程私が良いのか?」
「そうだ」
「私と繋がりたい?」
「当然だろう」
そうまでも求められては、あまり意地を張るわけにもいくまい。どうなることやらと思わないでもないが、苦痛を伴うのは初めだけだろうから、慣れれば余裕もできよう。こちらがされるままというのもつまらないし、その辺は互いに楽しめばよいのだと思う。
「良い。承諾する。ただし、私はそなたの女でも嫁でもないぞ」
「下に見るつもりはないさ。尻に敷かれてやるよ」
「それも困る。あくまでも対等だ」
「わかった」
どちらからともなく抱き寄せ合い、また唇を重ねた。
「さっきのをもう一度だ」
一度落ち着いた体が、また熱を帯び始める。
――― 完 ―――
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