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終章
天佑
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いつもより上等な服に袖を通す、その落ち着かなさにも慣れないわけにはいかなくなった。今後はこれくらいのものを身につけねば、周囲に軽んじられてしまう。そういう形ばかりの常識も、従うことで効果があるならばそうするまでだ。
俊宇から支度されるのは気に食わぬので、自分で店に行って仕立てた。天佑史上最も高価な衣である。瑠璃紺の上衣は気品のある光沢をまとい、両肩に銀糸の刺繡で華紋が縫い込まれている。臙脂の帯に帯締めを結び、うすい鳶色の衣によく映える配色を選んだ。派手ではなく、しかし品のあるしつらえにしてくれと店主に頼んだらこうなった。自分でも、まあまあ気に入っていることころだ。
これきりの一張羅というわけにはいかず、家財を少しはたいてあと二着、普段に身に着けるための服もしつらえた。それらの荷物は、他のものと一緒に、朝のうちに荷馬車が来たので運び込まれている。
今日より、自宅の屋敷と宮中に用意された部屋との二重生活だ。不便なことこの上ないが、かといって宮中に移り住んでしまうのも嫌で、こういうことになった。学問所の様子も気になるし、万隆に留守番ばかりさせるのもかわいそうだ。自分も、あのようなきらびやかな場所に身を置くのは本来の性に合わぬ。両方を定期的に行き来する方がよいのだと、俊宇に伝えてこうなった。
今日は午後から、いよいよ殿下との顔合わせとなる。あの侍従は、まだ新しい師範として天佑が出仕することは殿下に伏せたままなのだという。さぞ驚かれるだろうと思えば天佑も楽しみで、同じならと、ちょっとした演出を思いついた。屋敷を出る時に、例の点心を買っていこうと思ったのだ。
そういえば約束をしたまま、また時間が経ってしまっていった。師範の話が決まって、早速陛下に呼び出され、認められて、その流れで学問所のほうは生徒をまびき、万隆に任せられる年少組だけを残すことにした。万隆もそれならばと引き受けてくれたし、身寄りのない彼に住処を貸し続ける代わりに、留守番をしてもらうことになった。
はじめ天佑は毎日城に通うつもりでいたのだが、宮中に一室用意されることになり、急に焦ったのもある。本はどれくらい持ち込もうかとか、寝泊まりするならそれこそ服も準備せねばと、忙しかったのだ。
加えて、宮中での振る舞いについてもじっくりと俊宇から講義された。ごく限られた人としか接しない役職だが、生活を送るうえで気を配らねばならぬこともある。そういう諸々が多く、準備にはかなり手間がかかってしまった。
宮中に足を踏み入れるのも、もう何度目だろうか。各所の門番にも顔を覚えられた。
広大な敷地に、きらびやかな宮殿。行き交う美しい侍女、洗練された警備兵、腹に一物ありそうな官吏たち。全てがこれまでの天佑の世界にはなかったものばかりだ。それに臆してすくみ上るほど肝の小さい人間ではないが、しかし、それらの迫力には言葉を失うしかなかった。慣れるには多少時間がかかることだろう。
主殿にたどり着くまでに迷子にでもなりそうなところ、天佑はなんとか指定された応接の間に入ることができた。部屋番以外にまだ人はおらず、ひとまずはほっとした。自分が遅れるわけにはいかぬ。
「汪殿、そちらは?」
かぐわしい香りを立てる岡持ちに、部屋番が不思議そうな顔をした。
「これは殿下とのお約束の品だ。案ずるな。侍従殿の許しを得てからお渡しする」
「では、こちらへ」
部屋番は天佑の手から岡持ちを受け取り、扉に近い卓の上にそれを置いた。危険なものでないと確認できるまでは、自分が預かるということだ。やんごとなき身分の方には、なにかと面倒が伴う。
さて、あとどれくらいで定刻になるだろう。そう思いながら、天佑は上座に向かって起立の姿勢で待つ。当然、椅子になど掛けられる立場ではない。少なくとも今日だけは、滅多な粗相はできぬと気を引き締めた。
やがて、たったったと廊下に響く軽い足音が響き、部屋番と共に天佑も扉の方へ目を向けた。
ひょこりと顔を出した人物。二度目に会うことになる、皇太子殿下その人だった。
「あれ、天佑?」
先日会った時よりも、やはりこの人も少しめかしたいで立ちで、しかし単身応接間に入ってきた。また共を巻いてきたようだ。
しかもこの時間。「新しい師範」と顔合わせの予定は知っているだろうに、どうやらいつもの調子だ。天佑がいることにはさほどに驚きを見せていない様子。まだ師範が誰で天佑が何のためにここにいるかということについて、思考が繋がっていらっしゃらないようだ。おもしろい。
ならばギリギリまで、このまま明かさずにいてみよう。いつ気が付かれるだろうか。
「お久しゅうご無礼致しておりました。ようやくあれをお届けに上がりましたよ」
天佑が礼の後で部屋番に託した岡持ちを指すと、殿下の瞳が輝いた。
「うん。廊下を歩いていたら、美味そうな匂いがしていたのだ。だからつい部屋を覗いてしまった」
菊の季節は終わったので、今日は胡桃餡の点心である。例の茶楼は節季ごとに限定品を出す店で、それが人気の品となっている。甘い香りが部屋から外へ漏れ出ていたようだ。
いや、それはいい。顔合わせがここで行われることを、はたしてこのお子様はご存じであったのだろうか……。一瞬だけ考えて、俊宇の苦労を思った。
「待っておったぞ。もう来ないのかと思った」
「申し訳ございません。どこかの知己のせいで、身辺が急に慌ただしくなりましたゆえ、参上が遅れました」
「なんだ、また俊宇か。そなたら何なのだ」
軽く呆れたような一言に、天佑は苦笑を禁じ得ない。
何なのだ。それはこちらが聞きたいところである。
天佑の参内の準備として、いろいろと相談したりで何度か会ってはいるのだが、あの後でああいった特殊な雰囲気になったことはない。いつものようにふざけた会話をしていても、それ以上になる暇がなかったわけで。そもそも色事からは縁遠そうな俊宇のことでもあるし、あの一幕は天佑の記憶違いで、実は自分たちの間には友情だけがあるのかもしれないとさえ思ってしまう。
……が。天佑の記憶力は、いいほうだ。あの時のいたたまれないような気恥ずかしさや、重ねた唇の温度、頬に触れられた手の感触まで、たちまち鮮やかに思い出せる。
では、落ち着けばいずれ、そういうことになるのだろうか。
自分たちは、知己のままでよいのか、他に何と呼べばよいのか、まだ、わからない。
「さて、何なのでしょうね」
この言葉は、正直な天佑の気持ちだった。
「まあいい。さっそく一つつまんでもいいか? 小腹が減る時間なのだ」
岡持ちを求めて部屋番に詰め寄る殿下を、天佑は慌てて引き止めた。
「殿下、今日が新しい師範との初対面なのでしょう? お急ぎにならねば」
「一口だけだ。食したらすぐ行く」
「関心しませんね。人を待たせながらお茶なんて」
「待たせはせぬ。本当に、一口だけだったら」
幼子のように唇を尖らせて拗ねる姿は、実にかわいらしい。そういう無邪気さは、年相応にもう少しの間持ち続けてほしいと思う。が、それとこれとは別問題だ。
そんな要領のよい殿下は、例によって侍従が走って探しに来るまでの間、ここで甘味を楽しむつもりなのだろう。困ったものだ。どこから梃子入れをすればよいのやら、である。師範として、腕の見せ所はここかもしれない。
いよいよ種明かしも近そうだ。天佑はそう思い、少しだけ殿下を見る目を厳しく変えた。
「しかし、師範はもうお待ちしておりますよ。ここで」
「へ?」
やはり意味が分からず、殿下がポカンと天佑を見た時に、また新しい足音が駆け足で部屋に近づいてきた。
「殿下、もうこちらにおいででしたか」
飛びこんできたのは俊宇である。殿下をどこかで取っ捕まえて応接までお連れしようと探しているうちに、ここまでたどり着いてしまったというところだろうか。天佑は彼にひらりと手を振った。
「おお、伊宇。今おでましになったばかりだ。私がお持ちした点心を召されたいとおっしゃるが、どうする?」
二人が揃っていることは結果的には丁度よいが、細かいことを言い出すといろいろと問題はある。苦労人の侍従は渋く眉間を寄せた。
「また……! は? 点心? ああ、約束の奴だな? しかしな、もう同じことだが……。殿下、一度挨拶くらいは致しましょう。それがけじめというものですから」
「え、え?」
ため息交じりの俊宇と、まだ戸惑い続けている殿下の姿はほほえましいほどだ。これに天佑も加わるのかと思うと、先行きへの不安よりももはや、状況を楽しまねば損だというような気さえしてくるのが不思議だ。自分には過ぎた役目を賜ったが、決してそれは重圧ばかりでもないらしい。
「ふふ。驚かれましたか?」
天佑は、すっと両手を目の前に重ね、深く膝をついて拝礼をする。殿下の身の丈に合わせると、天佑が膝をついてちょうど少しだけ見上げることができるようになる。
「汪天佑、本日より、殿下の師範としてお仕え致します」
「は?」
素っ頓狂な声だった。皇太子としての威厳は全くない。
「殿下、その間抜けな反応はいかがかと」
俊宇が小さく囁き、殿下は何度も目をぱちくりさせる。
「お許しを、いただけますか」
「……天佑、そなたなのか?」
「はい。恐れ多くも陛下より拝命いたしました。及ばずながら、殿下をご指導申し上げます。よく叱る無作法者ですが、末永くお傍にお置きくださいますよう」
もう一度深く礼をして再び見上げると、大輪の花が開くように、殿下の顔に眩しいほどの笑みが広がった。
いい表情をなさる。自分を歓迎してのそれだということが、天佑の心に熱いものを溢れさせた。
この笑みに、自分は生涯をかけてお応えせねばならない。他の誰でもいけない、汪天佑にしかできないやり方でこの方をお支えするのだと、そう胸に刻み込んだ瞬間だった。
天佑もまた、晴れやかな笑みを殿下に返し、その二人の様子を、俊宇が見守っていた。
「よい! よろしく頼む!」
広い応接間に、殿下の声が響いた。
いつも定刻までには駆け付けている高雲柳がたどり着いた時には、すでに顔合わせは済んでおり、和やかに話す三人の姿に、老侍従は一度驚いてから黙って深く頷いたのだった。
その日はまだ授業はせず、殿下の案内で宮殿内を散歩することで過ごした。この庭は桃の花が美しいのだとか、ここの宮の欄額は誰々の作だとか、そんな物見を兼ねて、ふだんの殿下の行動範囲を巡ることになった。
やがて次の師範と交代の時間になり、天佑は御前を辞した。その後は、新しくしつらえられた自室へと向かい、いったん休むことにする。やはり慣れない生活の始まりは疲れる。しかもこのような場所でだ。手水場の場所を覚えるのでも一苦労の広さに、知らぬ人ばかりだ。思った以上に疲労が自覚された。
運び込まれた少しばかりの荷物も、整理するのはまたあとだ。長椅子にどかりと腰を下ろし、天佑は大きくため息をついた。
「ご苦労だったな」
声をかけたのは俊宇である。殿下を雲柳に任せて、今は天佑の世話を焼きについてきた。
「とにかく広さに参るな。そなた、よくこのようなところで生活しておる」
「幼きからだ。慣れというものよ」
「そうだったな。ここを走り回るとは、武官並みの体力を誇るはずだ」
「学者にはきついだろう。だから住み込みにせよと申したのに」
「年寄り扱いするな」
「それは失礼した」
疲れに効くぞと珍しい香りのする茶を渡され、天佑はそれを飲み干す。何はともあれ、新しい生活は始まった。とりあえず俊宇がいれば大きく困ることはないだろうし、当面は自分に課せられた責務に向き合うだけでよいはずだ。案ずることは、たぶんないだろう。そう思い、ほっと息をついた頃合いに、見つめられる視線を感じた。
「なんだ?」
椅子に腰かけた俊宇が、じっとこちらを見ている。何を思ってのことか、尋ねぬわけにもいかぬ。気になる。
「いや。今日はさすがにここに泊まるのだろう?」
少々言いにくそうに、俊宇が尋ねてきた。その口ぶりには微かな何かを感じたが、天佑は敢えて知らぬふりをする。口説きたいなら堂々とすればいいと思うのは意地が悪いだろうが、俊宇もいい歳の男なのだから、できぬ相談でもあるまい。
「そうだな。慣れたいし、部屋も整えたいからな」
「手伝うか?」
「お忙しい侍従殿の手を煩わせるわけにはいかんだろうよ」
「そなたのためなら手は空くぞ。殿下が大人しくなさっておればな」
この条件が難しいのだと、俊宇が笑う。
「はは。苦労だな。まあ、私もその労を多少は引き受ける。安心せよ」
「そんなつもりだったのか?」
「わからなかったのか? 知己想いだろう? 感謝せよ」
「汪黎……」
あ、これは。と、何気ない予感がした。
なんの予感だったのかはわからない。俊宇の心が動いたことだけ、感じた。
「どうした?」
「やられたな。そうであったのか」
「なんだ、その反応は?」
「かたじけない。心から感謝するよ。汪天佑」
「そうか。まあ、そうしてくれ。なまじっかの決心ではないのだ」
「うん」
それでも、できることはしたいと思った。この知己のために一肌脱ごうと思った。頼まれて渋々というつもりでは、もうとっくになくなっていたのだ。
俊宇の方は、単純に殿下のため、俊宇の頼みを聞いたと思っていたようだが、それも彼らしくて良い。
「あ、言っておくが、これはあくまで知己としてそなたの力になりたいと思ってのことだ。いいな?」
照れくささがどうしても込み上げ、余計なことを言った。とたんに俊宇が眉をひそめて見せる。たぶんせっかくいい雰囲気になりかけていたのに、申し訳ないが壊すことになってしまった。
「なんだそのわざとらしい言い訳は。素直に感謝させておけばよいものを」
「それは、そなたが前に……ややこしいことを申したからだ」
「さほどに区別が必要か? そなた私の妻になると申したのではなかったか」
「だからだ! ほだされたとか、そういうのではなくて、この件は真にそなたを思ってだな」
「わかったわかった」
「最後まで聞け! そなたが、私に惚れているなど知らぬうちから、私は決めておった。それを言いたかったのだ」
「そうなのか」
「そうだ。しかと承諾しようとしていたところ、そなたが手を出してきたのだぞ」
もはや順序に拘る必要もないとわかりながら、しかししつこく言っておきたかったのは、どうもまだ俊宇に想われることが照れくさいからだ。
殿下に仕える自分は、独立した汪天佑という人間としてであって。俊宇に応えんとする自分は、それとは別に、これからどうなっていくものかは……、俊宇次第でもよいと思う。
「わかった。それはけじめだな」
「ということだ」
往生際の悪いことだと思われたとて、構わない。そんな天佑に惚れたというのだから、俊宇のほうが諦めるべきだ。
「では、これよりはどうしたものだろうな」
つまり、我々だけの問題だと、俊宇も敢えてそういう言い方をしてきた。そろそろそちらも意識してくれという含みがある。
「それは、好きにせよと申した」
「好きにしてよいのか? 本当に」
「……」
ふいに熱のこもった目で見られ、鼓動が跳ねる。どこか甘い空気がまた取り戻った。だからといって、今からさあどうぞとまでは吹っ切れてはいないのだが。そのつもりか? そうなのか?
つい身を引いてしまった天佑に、俊宇がふっと笑った。
「ま、すぐにとは言わぬ。いずれ折り合うことだろう。こうして近くにおれるのだしな。先は長い」
そうだろう?と言って、俊宇は椅子から立ち上がり、天佑の座る長椅子の隣に腰かけた。急に近くなり、頬がカッと熱くなるのを感じた天佑の手に、俊宇の手が重なる。
その掌もやはり熱くて、熱がじわりと天佑の体に伝わる。
「汪黎?」
「なんだ」
「目を閉じてくれぬか」
「……!」
自分は察しが悪いのだろうか。まあいい。今は俊宇の唇を受け止める時だ。
「そら」
来いと目を閉じると、俊宇が小さく笑った気配がして。やがて、天佑よりも少しだけ熱い唇が、そっと柔らかく触れてきた。
この先も、まあ、なるようになることだろう。
――― 完 ―――
俊宇から支度されるのは気に食わぬので、自分で店に行って仕立てた。天佑史上最も高価な衣である。瑠璃紺の上衣は気品のある光沢をまとい、両肩に銀糸の刺繡で華紋が縫い込まれている。臙脂の帯に帯締めを結び、うすい鳶色の衣によく映える配色を選んだ。派手ではなく、しかし品のあるしつらえにしてくれと店主に頼んだらこうなった。自分でも、まあまあ気に入っていることころだ。
これきりの一張羅というわけにはいかず、家財を少しはたいてあと二着、普段に身に着けるための服もしつらえた。それらの荷物は、他のものと一緒に、朝のうちに荷馬車が来たので運び込まれている。
今日より、自宅の屋敷と宮中に用意された部屋との二重生活だ。不便なことこの上ないが、かといって宮中に移り住んでしまうのも嫌で、こういうことになった。学問所の様子も気になるし、万隆に留守番ばかりさせるのもかわいそうだ。自分も、あのようなきらびやかな場所に身を置くのは本来の性に合わぬ。両方を定期的に行き来する方がよいのだと、俊宇に伝えてこうなった。
今日は午後から、いよいよ殿下との顔合わせとなる。あの侍従は、まだ新しい師範として天佑が出仕することは殿下に伏せたままなのだという。さぞ驚かれるだろうと思えば天佑も楽しみで、同じならと、ちょっとした演出を思いついた。屋敷を出る時に、例の点心を買っていこうと思ったのだ。
そういえば約束をしたまま、また時間が経ってしまっていった。師範の話が決まって、早速陛下に呼び出され、認められて、その流れで学問所のほうは生徒をまびき、万隆に任せられる年少組だけを残すことにした。万隆もそれならばと引き受けてくれたし、身寄りのない彼に住処を貸し続ける代わりに、留守番をしてもらうことになった。
はじめ天佑は毎日城に通うつもりでいたのだが、宮中に一室用意されることになり、急に焦ったのもある。本はどれくらい持ち込もうかとか、寝泊まりするならそれこそ服も準備せねばと、忙しかったのだ。
加えて、宮中での振る舞いについてもじっくりと俊宇から講義された。ごく限られた人としか接しない役職だが、生活を送るうえで気を配らねばならぬこともある。そういう諸々が多く、準備にはかなり手間がかかってしまった。
宮中に足を踏み入れるのも、もう何度目だろうか。各所の門番にも顔を覚えられた。
広大な敷地に、きらびやかな宮殿。行き交う美しい侍女、洗練された警備兵、腹に一物ありそうな官吏たち。全てがこれまでの天佑の世界にはなかったものばかりだ。それに臆してすくみ上るほど肝の小さい人間ではないが、しかし、それらの迫力には言葉を失うしかなかった。慣れるには多少時間がかかることだろう。
主殿にたどり着くまでに迷子にでもなりそうなところ、天佑はなんとか指定された応接の間に入ることができた。部屋番以外にまだ人はおらず、ひとまずはほっとした。自分が遅れるわけにはいかぬ。
「汪殿、そちらは?」
かぐわしい香りを立てる岡持ちに、部屋番が不思議そうな顔をした。
「これは殿下とのお約束の品だ。案ずるな。侍従殿の許しを得てからお渡しする」
「では、こちらへ」
部屋番は天佑の手から岡持ちを受け取り、扉に近い卓の上にそれを置いた。危険なものでないと確認できるまでは、自分が預かるということだ。やんごとなき身分の方には、なにかと面倒が伴う。
さて、あとどれくらいで定刻になるだろう。そう思いながら、天佑は上座に向かって起立の姿勢で待つ。当然、椅子になど掛けられる立場ではない。少なくとも今日だけは、滅多な粗相はできぬと気を引き締めた。
やがて、たったったと廊下に響く軽い足音が響き、部屋番と共に天佑も扉の方へ目を向けた。
ひょこりと顔を出した人物。二度目に会うことになる、皇太子殿下その人だった。
「あれ、天佑?」
先日会った時よりも、やはりこの人も少しめかしたいで立ちで、しかし単身応接間に入ってきた。また共を巻いてきたようだ。
しかもこの時間。「新しい師範」と顔合わせの予定は知っているだろうに、どうやらいつもの調子だ。天佑がいることにはさほどに驚きを見せていない様子。まだ師範が誰で天佑が何のためにここにいるかということについて、思考が繋がっていらっしゃらないようだ。おもしろい。
ならばギリギリまで、このまま明かさずにいてみよう。いつ気が付かれるだろうか。
「お久しゅうご無礼致しておりました。ようやくあれをお届けに上がりましたよ」
天佑が礼の後で部屋番に託した岡持ちを指すと、殿下の瞳が輝いた。
「うん。廊下を歩いていたら、美味そうな匂いがしていたのだ。だからつい部屋を覗いてしまった」
菊の季節は終わったので、今日は胡桃餡の点心である。例の茶楼は節季ごとに限定品を出す店で、それが人気の品となっている。甘い香りが部屋から外へ漏れ出ていたようだ。
いや、それはいい。顔合わせがここで行われることを、はたしてこのお子様はご存じであったのだろうか……。一瞬だけ考えて、俊宇の苦労を思った。
「待っておったぞ。もう来ないのかと思った」
「申し訳ございません。どこかの知己のせいで、身辺が急に慌ただしくなりましたゆえ、参上が遅れました」
「なんだ、また俊宇か。そなたら何なのだ」
軽く呆れたような一言に、天佑は苦笑を禁じ得ない。
何なのだ。それはこちらが聞きたいところである。
天佑の参内の準備として、いろいろと相談したりで何度か会ってはいるのだが、あの後でああいった特殊な雰囲気になったことはない。いつものようにふざけた会話をしていても、それ以上になる暇がなかったわけで。そもそも色事からは縁遠そうな俊宇のことでもあるし、あの一幕は天佑の記憶違いで、実は自分たちの間には友情だけがあるのかもしれないとさえ思ってしまう。
……が。天佑の記憶力は、いいほうだ。あの時のいたたまれないような気恥ずかしさや、重ねた唇の温度、頬に触れられた手の感触まで、たちまち鮮やかに思い出せる。
では、落ち着けばいずれ、そういうことになるのだろうか。
自分たちは、知己のままでよいのか、他に何と呼べばよいのか、まだ、わからない。
「さて、何なのでしょうね」
この言葉は、正直な天佑の気持ちだった。
「まあいい。さっそく一つつまんでもいいか? 小腹が減る時間なのだ」
岡持ちを求めて部屋番に詰め寄る殿下を、天佑は慌てて引き止めた。
「殿下、今日が新しい師範との初対面なのでしょう? お急ぎにならねば」
「一口だけだ。食したらすぐ行く」
「関心しませんね。人を待たせながらお茶なんて」
「待たせはせぬ。本当に、一口だけだったら」
幼子のように唇を尖らせて拗ねる姿は、実にかわいらしい。そういう無邪気さは、年相応にもう少しの間持ち続けてほしいと思う。が、それとこれとは別問題だ。
そんな要領のよい殿下は、例によって侍従が走って探しに来るまでの間、ここで甘味を楽しむつもりなのだろう。困ったものだ。どこから梃子入れをすればよいのやら、である。師範として、腕の見せ所はここかもしれない。
いよいよ種明かしも近そうだ。天佑はそう思い、少しだけ殿下を見る目を厳しく変えた。
「しかし、師範はもうお待ちしておりますよ。ここで」
「へ?」
やはり意味が分からず、殿下がポカンと天佑を見た時に、また新しい足音が駆け足で部屋に近づいてきた。
「殿下、もうこちらにおいででしたか」
飛びこんできたのは俊宇である。殿下をどこかで取っ捕まえて応接までお連れしようと探しているうちに、ここまでたどり着いてしまったというところだろうか。天佑は彼にひらりと手を振った。
「おお、伊宇。今おでましになったばかりだ。私がお持ちした点心を召されたいとおっしゃるが、どうする?」
二人が揃っていることは結果的には丁度よいが、細かいことを言い出すといろいろと問題はある。苦労人の侍従は渋く眉間を寄せた。
「また……! は? 点心? ああ、約束の奴だな? しかしな、もう同じことだが……。殿下、一度挨拶くらいは致しましょう。それがけじめというものですから」
「え、え?」
ため息交じりの俊宇と、まだ戸惑い続けている殿下の姿はほほえましいほどだ。これに天佑も加わるのかと思うと、先行きへの不安よりももはや、状況を楽しまねば損だというような気さえしてくるのが不思議だ。自分には過ぎた役目を賜ったが、決してそれは重圧ばかりでもないらしい。
「ふふ。驚かれましたか?」
天佑は、すっと両手を目の前に重ね、深く膝をついて拝礼をする。殿下の身の丈に合わせると、天佑が膝をついてちょうど少しだけ見上げることができるようになる。
「汪天佑、本日より、殿下の師範としてお仕え致します」
「は?」
素っ頓狂な声だった。皇太子としての威厳は全くない。
「殿下、その間抜けな反応はいかがかと」
俊宇が小さく囁き、殿下は何度も目をぱちくりさせる。
「お許しを、いただけますか」
「……天佑、そなたなのか?」
「はい。恐れ多くも陛下より拝命いたしました。及ばずながら、殿下をご指導申し上げます。よく叱る無作法者ですが、末永くお傍にお置きくださいますよう」
もう一度深く礼をして再び見上げると、大輪の花が開くように、殿下の顔に眩しいほどの笑みが広がった。
いい表情をなさる。自分を歓迎してのそれだということが、天佑の心に熱いものを溢れさせた。
この笑みに、自分は生涯をかけてお応えせねばならない。他の誰でもいけない、汪天佑にしかできないやり方でこの方をお支えするのだと、そう胸に刻み込んだ瞬間だった。
天佑もまた、晴れやかな笑みを殿下に返し、その二人の様子を、俊宇が見守っていた。
「よい! よろしく頼む!」
広い応接間に、殿下の声が響いた。
いつも定刻までには駆け付けている高雲柳がたどり着いた時には、すでに顔合わせは済んでおり、和やかに話す三人の姿に、老侍従は一度驚いてから黙って深く頷いたのだった。
その日はまだ授業はせず、殿下の案内で宮殿内を散歩することで過ごした。この庭は桃の花が美しいのだとか、ここの宮の欄額は誰々の作だとか、そんな物見を兼ねて、ふだんの殿下の行動範囲を巡ることになった。
やがて次の師範と交代の時間になり、天佑は御前を辞した。その後は、新しくしつらえられた自室へと向かい、いったん休むことにする。やはり慣れない生活の始まりは疲れる。しかもこのような場所でだ。手水場の場所を覚えるのでも一苦労の広さに、知らぬ人ばかりだ。思った以上に疲労が自覚された。
運び込まれた少しばかりの荷物も、整理するのはまたあとだ。長椅子にどかりと腰を下ろし、天佑は大きくため息をついた。
「ご苦労だったな」
声をかけたのは俊宇である。殿下を雲柳に任せて、今は天佑の世話を焼きについてきた。
「とにかく広さに参るな。そなた、よくこのようなところで生活しておる」
「幼きからだ。慣れというものよ」
「そうだったな。ここを走り回るとは、武官並みの体力を誇るはずだ」
「学者にはきついだろう。だから住み込みにせよと申したのに」
「年寄り扱いするな」
「それは失礼した」
疲れに効くぞと珍しい香りのする茶を渡され、天佑はそれを飲み干す。何はともあれ、新しい生活は始まった。とりあえず俊宇がいれば大きく困ることはないだろうし、当面は自分に課せられた責務に向き合うだけでよいはずだ。案ずることは、たぶんないだろう。そう思い、ほっと息をついた頃合いに、見つめられる視線を感じた。
「なんだ?」
椅子に腰かけた俊宇が、じっとこちらを見ている。何を思ってのことか、尋ねぬわけにもいかぬ。気になる。
「いや。今日はさすがにここに泊まるのだろう?」
少々言いにくそうに、俊宇が尋ねてきた。その口ぶりには微かな何かを感じたが、天佑は敢えて知らぬふりをする。口説きたいなら堂々とすればいいと思うのは意地が悪いだろうが、俊宇もいい歳の男なのだから、できぬ相談でもあるまい。
「そうだな。慣れたいし、部屋も整えたいからな」
「手伝うか?」
「お忙しい侍従殿の手を煩わせるわけにはいかんだろうよ」
「そなたのためなら手は空くぞ。殿下が大人しくなさっておればな」
この条件が難しいのだと、俊宇が笑う。
「はは。苦労だな。まあ、私もその労を多少は引き受ける。安心せよ」
「そんなつもりだったのか?」
「わからなかったのか? 知己想いだろう? 感謝せよ」
「汪黎……」
あ、これは。と、何気ない予感がした。
なんの予感だったのかはわからない。俊宇の心が動いたことだけ、感じた。
「どうした?」
「やられたな。そうであったのか」
「なんだ、その反応は?」
「かたじけない。心から感謝するよ。汪天佑」
「そうか。まあ、そうしてくれ。なまじっかの決心ではないのだ」
「うん」
それでも、できることはしたいと思った。この知己のために一肌脱ごうと思った。頼まれて渋々というつもりでは、もうとっくになくなっていたのだ。
俊宇の方は、単純に殿下のため、俊宇の頼みを聞いたと思っていたようだが、それも彼らしくて良い。
「あ、言っておくが、これはあくまで知己としてそなたの力になりたいと思ってのことだ。いいな?」
照れくささがどうしても込み上げ、余計なことを言った。とたんに俊宇が眉をひそめて見せる。たぶんせっかくいい雰囲気になりかけていたのに、申し訳ないが壊すことになってしまった。
「なんだそのわざとらしい言い訳は。素直に感謝させておけばよいものを」
「それは、そなたが前に……ややこしいことを申したからだ」
「さほどに区別が必要か? そなた私の妻になると申したのではなかったか」
「だからだ! ほだされたとか、そういうのではなくて、この件は真にそなたを思ってだな」
「わかったわかった」
「最後まで聞け! そなたが、私に惚れているなど知らぬうちから、私は決めておった。それを言いたかったのだ」
「そうなのか」
「そうだ。しかと承諾しようとしていたところ、そなたが手を出してきたのだぞ」
もはや順序に拘る必要もないとわかりながら、しかししつこく言っておきたかったのは、どうもまだ俊宇に想われることが照れくさいからだ。
殿下に仕える自分は、独立した汪天佑という人間としてであって。俊宇に応えんとする自分は、それとは別に、これからどうなっていくものかは……、俊宇次第でもよいと思う。
「わかった。それはけじめだな」
「ということだ」
往生際の悪いことだと思われたとて、構わない。そんな天佑に惚れたというのだから、俊宇のほうが諦めるべきだ。
「では、これよりはどうしたものだろうな」
つまり、我々だけの問題だと、俊宇も敢えてそういう言い方をしてきた。そろそろそちらも意識してくれという含みがある。
「それは、好きにせよと申した」
「好きにしてよいのか? 本当に」
「……」
ふいに熱のこもった目で見られ、鼓動が跳ねる。どこか甘い空気がまた取り戻った。だからといって、今からさあどうぞとまでは吹っ切れてはいないのだが。そのつもりか? そうなのか?
つい身を引いてしまった天佑に、俊宇がふっと笑った。
「ま、すぐにとは言わぬ。いずれ折り合うことだろう。こうして近くにおれるのだしな。先は長い」
そうだろう?と言って、俊宇は椅子から立ち上がり、天佑の座る長椅子の隣に腰かけた。急に近くなり、頬がカッと熱くなるのを感じた天佑の手に、俊宇の手が重なる。
その掌もやはり熱くて、熱がじわりと天佑の体に伝わる。
「汪黎?」
「なんだ」
「目を閉じてくれぬか」
「……!」
自分は察しが悪いのだろうか。まあいい。今は俊宇の唇を受け止める時だ。
「そら」
来いと目を閉じると、俊宇が小さく笑った気配がして。やがて、天佑よりも少しだけ熱い唇が、そっと柔らかく触れてきた。
この先も、まあ、なるようになることだろう。
――― 完 ―――
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