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六章
俊宇
しおりを挟む殿下の武術の稽古の時間は雲柳にまかせ、俊宇は早速陛下に事の次第を報告していた。細かいことでも、殿下の身に起きたことはすべて陛下のお耳に入れる。それも俊宇の重要な仕事の一つだ。特に俊宇は陛下とは乳兄弟の仲で気心が知れており、遠慮なく奏上することができる。
「で、その男は一体何者なのだ?」
帝の政務の間。豪奢な造りの分厚い机に肘をつき、陛下はむむうと口元を曲げた。漆塗りの箱二つ分に積まれた書状の束が、鬱陶し気に遠ざけられた。
これまで殿下を叱りつけた者はたいてい師範だったのだが、ここにきて宮中と全く無関係な人物が出てきたことに不信感と興味とが半々にあったようだ。
「そもそもが、殿下の師範の候補にと考えていた者で、今は私の友です。たまたま私を訪ねてきておりまして、その場に居合わせました」
冠の下で、陛下の眉が上がる。
「ほう。そなたにも友がおったか」
「そっちですか。できたのですよ。これもたまたま」
「なるほど理解した。相当な変わり者だな? だから尭明を叱るなどという暴挙にも出たのだろうな。気に入ったぞ」
はははと声を立てて陛下は笑う。いろいろと気になる言い方だが、大まかに、正しい。
こういったことに立腹せず、まずは笑える肝の持ち主であられるから、ひじょうに助かる。
「彼とは私の休暇中に偶然町で知り合ったのですが、出自も悪くはなく、町で学者をやっているところを見て候補にと考えたのです。その経緯で心通じるものがあり、後も交流が続いておりまして。といっても市井のものですから、やはり殿下には相応しいとは言い難く」
陛下に天佑の存在を語るのは、初めてだった。これまでも、よい候補はいないのかと尋ねられ、いくつかは名や経歴を含めて報告していたが、天佑のことは条件が特殊すぎて、省くしかなかったのだ。だいたい、本人が承諾する気配はない。
「身分以外にその者を師範としなかった理由はあるのか?」
案の定、陛下の興味は天佑に向いた。ここまで来れば隠せる場面ではなく、俊宇は気乗りのしないままに、こう説明した。
「先の上皇の御世に、役人とご側室との密事があったことをご存知でしょうか。実は彼はその役人の一人息子です」
あまり人聞きの良い話ではなく、しかも皇室直系の方々に関わることであるため、詳しくは語らない。陛下も一瞬意外そうな表情を見せてから、考えるように肘をついた。どれくらいの事情をご存じなのかはわからないが、知らぬ話ではもちろんないのだろう。
「なるほどな。そうか、そういうことか」
呟いて、黙ってしまう。もちろん、そういった背景を持つ者を宮中に召し抱えることへの苦慮であろう。それは外聞だけにとどまらぬ問題がいくらでも生じる可能性があるのだ。召す方にも、召されるほうにも。
「如何様な縁があったのかは知らぬが、よくそなたの友になったな」
しばらくの思慮の後、陛下はそんなことを言ってきた。昔からそういうお方だ。俊宇を揶揄って楽しむのがいい息抜きなのだとよく仰る。
「どういう意味でございましょう?」
「そなた、面白みがないからな」
「陛下。貴方様を基準に仰らないでいただきたい」
逆に、殿下の性質の大本となるこの陛下の友となるためには、かなりの胆力が必要になることだろう。いやむしろ俊宇が、このお方の乳兄弟として長くお仕えするうえでかなり精神が鍛えられたのだと思う。
「その者、他にも問題があるのか?」
「本人が、やはり参内を嫌っております。それがなければ、学者としての知識教養に素質、人となりも申し分ありません。それに、殿下は彼に親しんでおられたご様子。惜しい人材ではあります」
「そうか。そなたから見ても、相応しいか?」
「少なくとも、彼以上に相応しいと思える者を見つけることはできておりません」
そう言い切るべきではなかったのだろう。少なくとも、天佑のためを思えば。
しかしこの口を止められなかった。もはやその揺るぎない確信を握りしめてここに来ているのだ。
友として、彼は誇らしい存在だ。先の一件で、それが実感された。今上陛下の御前に連れてきても、たぶん彼なら臆することはない。それだけの器を持った男でもある。そのことを誰よりも示したいのが、俊宇なのだ。
こんなことを奏上したと知れば、奴は渋い顔をするかきつく睨みつけてでもくるのだろうが、しかし。
「よし。その者を取り立てたい。そなた説得できるか」
「陛下……!」
お許しが出たことへの喜びと、驚きと。そしていくらかの呵責が胸で複雑に混ざる。
「朕が決めた。そなたの見立てを信じよう。そなたが友とするならば、これ以上に信をおける者はおらぬ」
「しかし、宜しいのですか?」
「構わぬ。尭明が懐くのなら間違いはないだろうしな。ただ、本人が肩身の狭い思いをせぬよう経歴は伏し、町の学者として、そなたの推挙で迎えると致す。余計な口は黙らせる。なんとか口説き落として引き連れて来い」
「ですが、その者には弟子や生徒がおり、すぐに学問所を閉じる訳には」
「直ちにその者の元へゆき、その辺の話を付けてこい。できるだけ早めに参内するように。よいな。これは勅命である」
「御意に」
陛下のこの割り切りの速さは、仕えていて一番気持ちのいいところだ。こちらの迷いを掃き散らす、有無を言わせぬ強さに、引き付けられる力がある。
「友情を拗らせぬようには、配慮せよ。恨まれとうはないからな」
「私に恨まれても、痛くも痒くもないでしょうに」
「そういうことにしておこう」
帝とはそういうものだと、陛下は呟いた。時に憎まれ役も買わねばならぬ身、それも十分に理解しているつもりだ。
なればこそ、うまくやらねば。そう心に強く思い、俊宇は御前を辞した。
●
大変なことになった。こうなればよいと思い描くのは簡単だが、実現するとなるとたちまち勝手は違う。直ちにと言われたが、とても俊宇のほうに心の準備ができていなかった。
まさかこのような運びになるとは。
伝えるべきは明らかなのだが、それを言う俊宇がどのようなつもりでいればよいものかと悩むのだ。
まずは雲柳に事情を伝え、明日朝には天佑のもとへ行くことを決めた。勅命なのだからその時点で決定ではあるのだが、天佑が承諾するまでは、殿下には伏せておくことにした。
今回は、敢えて手土産は用意しなかった。物を介してする話でもないからだ。普段のような心構えであってもならぬ。
わかっている。俊宇はこの事態を喜んでいるのだ。天佑の心持を思えば手放しにとは決して言えないが。
彼が宮中に入る。互いの立場は近く、おそらく毎日顔を合わせることにもなろう。彼の住まいも宮中に設けられるのだから、これまで以上に交流が叶う。
いや、もう「交流」などと澄ました言い方もすまい。いつでも逢いに行ける、ということだ。心のままに、堂々と彼の部屋の戸を叩くことができるようになる。そんな至極私的なことに浮かれている場合ではないのに、どうしようもなく心が浮くのだ。
そうなれば、この感情を抑えることができるだろうかという懸念がある。いつからだか定かではないが、確かにこの心を占める彼への思いは、恋だ。
生まれてこの方、自慢ではないがあまり色めいた話のない人生を送ってきた。見合い話はあっても恋はない。言い迫られての色事も数回経験したが、それだけだ。そんな自分が、惚れた相手を目の前にする毎日に、どう対処してよいものか、見当がつかぬ。
人の目があるのだから、もちろんそういったことを公然と態度に示すことはしないが、それでもだ。嬉しくないとは到底言えぬ。
たかが恋などにここまで心を乱すとは。まさか自分がこの歳で龍陽を嗜むことになろうとは思ってもみなかったし、しかも相手が年上の知己。
伝えぬままでいるべきなのか。いっそ明かしておいた方がよいのか。
言わずにおれるならばそれに越したことはないが、しかし心を通わせた知己にそういったやましさを隠したまま想い続けるのも裏切りのような後ろめたさがある。後から知られて逃げ場を失わせるよりは、勅命を賜るその結果、そういう思いを抱えた俊宇が最も近い立場として居続けることも、了承させた方が良いのだろうと思うのだ。
それも、こちらの勝手だということは承知している。全て、彼への押し付けでしかないのが辛いところだ。
天佑は何も望んでいないのに。彼の喜ぶことのないものばかり、自分は彼の元に持ち込んでいる。しかも今回ばかりは、断ることの許されぬ勅命である。俊宇と知り合うことがなければ彼を煩わすこともなかったはずの、重大案件だ。それを思えば、告げるにはどうしても、抵抗があるのだが。
聞いて、彼はあの美しいかんばせを、どう変えるのだろうか。
怒るだろうか。悩むだろうか。俊宇を咎め、恨むだろうか。
事の重大さから、話は勅命が先になる。その後で、自分は彼に思いを伝えることができるのだろうか。
もう一生秘しておれるならばそれがいいのだろうに。それでも、誠実であれという常からの俊宇の姿勢を買ってくれている天佑には、やはり隠しているのが辛い。
一晩、ろくに寝られず考えた。
そして翌朝、まだ学問所の始まる前に到着できるよう、俊宇は馬車に乗り込んだ。
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