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三章
天佑
しおりを挟む仰ぐ空は、抜けるように青くどこまでも澄んでいた。大きく息を吸い込めば、その清々しさが肺を満たし、体まで軽くなったように感じられた。
洗濯のために腕まくりをしていた襷を解き、袖の皺を一振りで伸ばすと、天佑はうんと気持ちよさげに伸びをした。
さあ、今日も一日の始まりである。
厨からは、書生が作る朝餉のにおいが流れ、急に空腹を感じさせた。天佑は厨には立たない。住み込みの書生が作ることになっているからだ。洗濯も彼がやると言ってきたのだが、それまでさせるのでは何様だと思うため、これは各々が自分でやることにしている。なので、朝餉のできるまでの時間を使って、衣類を洗っていたのである。
はためく衣類の白さに満足しつつ、今日も天気がいいのでよく乾くだろうと考える。
この後朝餉をとって片づけを終える頃、生徒の一番乗りが門をたたく時間だ。
生徒たちは、三つの部に分けて教えている。その年少がまず、午前から乗り込んでくる。その子らが疲れてくるころに、今度は少し大きい子が、家の手伝いを一段落させてからやってくる。そして大人は夜。それぞれに教えることもその難しさも違うため、便宜上そうやって区切りをつけているのだが、あくまで仮のものだ。大人でも読み書きから習いたい者は年少組に入ることもある。幼くとも物覚えの良い子は年長組に混ざることもある。
一日を通して生徒が行き来し、学問所はなかなかの賑わいだ。少し寡黙なところのあった父の頃よりも、天佑が教えるようになってからは生徒が増えてしまい、部屋も少し手狭になった。大人の書生に小さい子らを見てもらうことも必要になってきたくらいだ。
この際、規模を大きくした方が良いのだろうが、今のままぎりぎりやっていけるのならば、それでいいと思っている。食うためとまで割り切っているのではないが、自分の手が回る範囲で食うに困らないならば問題ない。子らに教えている書生がそろそろ「若師範」などと呼ばれるようになってきたので、生徒の一部を任せてそれで解決と言ったところだ。
何事も、欲を出すとろくなことがない。分相応に、慎ましく、できることをして生きていられれば満足なのだ。
それに、天佑は縛られるのが好きではない。公的な自分と私的な自分は使い分けたいし、そのために日常にはある程度余裕というものがほしい。
老師と呼ばれるだけが自分ではない。一人で気楽に過ごす方が、本来は心地よいと感じる性分なのだ。
今日もわらわらと幼い子たちが教室に満ちた。基本的な読み書きと簡単な算術が、主な授業になる。それを通して、礼儀作法や友との関りを学んでいく。この年齢の子はどうしても手がかかるので、書生と手分けして教えることにしているのだが、この書生がまだあまり幼い子供に慣れていないので、彼は困ると必ず天佑の袖を引っ張り、申し訳なさそうに助けを乞うてくる。つまり、天佑はやはり忙しい。
「あー、こいつ、字、間違ってら」
早速、年少組ではすこし聞き分けの良くない子が、いつものように要らぬことを言い出した。周囲に聞かせるように大声で言うので、指摘を受けたほうの子はそれだけで泣きそうな顔になる。
「張、静かに」
それ以上図に乗らせぬために、天佑はすかさず窘めた。すると、予想どおりに口答えが返ってきた。
「おれは間違ってるって教えてやっただけです」
つんと顎をそらせて、意地の悪い顔で言ってのける子は、こういった揉め事の常習犯である。親が豪商なのを鼻にかけて、気の弱そうな子を見つけては、こういうことをやらかす。
「張。今のどこが良くなかったか、自分で考えよ。わかるまで廊下に出て」
言い諭したところでなかなか聞き入れようとしない子なので、天佑は最近こういう対応を心がけている。自分の非を認めぬ者には、自分で考えさせるのが効果的だからだ。その間は大人しくなるし、一石二鳥の方法である。
張は渋々立ち上がり、気まずそうにのろのろと廊下に出て行った。こういうことはもう何度目かになるのだが、どうやらまだ懲りないらしい。
さて次に困っている子はいないかと、並んだ卓の間を歩いていると、出たはずの張がまた部屋の中へ引き返して来ていた。
「どうした。もう反省したか?」
自ら罪を認める者にそれ以上責めることはしない。褒めるつもりで彼に視線を合わせると、まだぶすくれたままの顔で張が廊下へ視線を投げて言った。
「老師様、お客様です」
「客? だれかの親御さんだろうか」
ふだん、こんな場所に来るのは子供らかその親くらいしかいない。それとも入門希望だろうかと、張から視線を外すと、その先に意外な者の立ち姿が目に入った。
「あなたは……」
呟きは、つい声になった。周囲の子がそれに反応して、とたんに集中を途切れさせてしまう。
「続けていなさい」
全員に声をかけ、そして書生に頼むと目配せを送ると、天佑は戸口へ向かった。
「本当に来たんですか」
驚きよりは呆れて、心がそのまま口に出た。無礼も承知だが、取り下げるつもりはなかった。あれから半月ほどだろうか、例の皇太子侍従とやらがまた現れたのだ。
なんだか変わった人物で、面倒そうだったという印象が残っていて、正直もう関わりたくないし関わることにもならないだろうと思っていたのだが。
「門は開いているし、声をかけたが誰も出て来ぬゆえ、入らせてもらった。授業の途中に申し訳ない」
謝りながらも頭を下げることをしないのは、やはり身分の差のせいか、本人がそういう世界の人間だからなのか。これだから、こういった輩は鼻持ちならない。
と、ひとしきり心で毒づきながら、しかし彼に見せる表情には出さぬように心がける。そんなことは当たり前にあることだし、別段彼と喧嘩をするつもりもない。子供でもあるまいに。
「それは失礼を。この時間は人手が足りず、出迎えをせぬ無礼をお許しいただきたい」
とりあえず、丁寧に返しておく。身分の低いほうは下手に出ておいた方がまずは賢明だ。
「それはよい。忙しいのなら、すまぬが待たせてもらえるか」
「構いませぬが……、今日はまた何用で?」
と言ったのは、言外に「待たないでくれ」の意味である。それくらいは察してほしいものだが、どうだろうか。
「また来ると申したであろう。そなたも、いつでもと言っておったはず」
「まあ、そうなんですがね。まさか真に受けて来られるとは意外でした」
貴族のくせにあまり物分かりがよくないのか、わかって知らぬふりか、引き下がってくれないので、次は露骨な言い方になった。
「そうだったのか。迷惑ならはっきりと申すべきだ。まさか社交辞令だったとは」
俊宇の言葉に、天佑は目を丸くした。まさかはこちらのほうである。本当に分かっていなかった!
「そういったことには慣れておいででは?」
「そなたに言われるとは思わなかった」
「こんな無作法者に、もう用はありませんでしょうに」
「つまらぬことを申すな。二言は許さぬ」
当然とばかりに失言を逆手にとり、相手はとても引き下がる気配ではない。こちらとしては多少なりはっきりと拒否の意を見せているつもりだが、それにも気付かぬふりを決め込むつもりらしい。まったく厄介な男である。しかし嫌味のない彼の雰囲気が図々しさをうまい具合に隠していて、こちらの気分を害して来ずにいるのが不思議なところだ。
ならば、これ以上言葉の応酬をしていても埒は明かないだろう。こういった手合いは気の済むようにさせるしかないのだ。天佑はひとまず、ここで撃退することは諦めた。
「……では、ご自由に。部屋に案内しましょう」
「いや、ここでよい」
「何故」
「そなたの授業を見せてもらいに来たのだ。だからここでよい」
「……」
重ね重ね、呆れたものだ。どうやらこの男……名を伊俊宇といったか……、本気のようだ。何を企んでいるのやらはまだ明かさぬからわからぬが、いよいよ厄介ごとを持ってきたのは確実である。
まあ、それはそれとして、こちらにもやりようはある。こちらが拒んで無理ならば、相手が音を上げるように仕向ければよいわけである。
「そういうことでしたら、いっそ手伝ってくださいませぬか? 先だっての話なら、私に子の世話を教えろと言っておられたはず。まずは貴殿のお手並みを拝見いたしましょう」
これはもはや、売った喧嘩のつもりだった。しかしながら伊俊宇は一度目を丸くしてからニヤリと笑って「いいだろう」と部屋に入ってきた。
「ちょっと、伊殿。本気ですか」
「そなたが言ったのだぞ。取り下げるつもりか?」
「というわけでもありませんが」
「売られたなら買うさ。手伝うから後で私に時間を作ってくれ。それなら問題なかろう」
「ですが……」
妙に意気揚々である。何故だ。もうここまできたら、ただしつこいと言うよりは、そもそもが変人なのではないかとさえ思えてくる。
「読み書き算術礼儀作法に兵法、武術まで、一通り教えられるぞ。侮るなよ」
「……」
この、堅物そうな男が、本当に子供の養育係とは。別に信じていなかったわけではないが、ここにきてやっと真実味を帯びてきた。
嘘は言わぬ。嘘とは思わぬ。そういう人間なのだろう。
「貴方は本当に……?」
皇太子侍従なのか。今更ながらに思って、天佑は完全に繕う余裕をなくした。
フンと胸を張り、伊俊宇は顎を上げた。
「疑っておったのか?」
「そういうわけでは……」
ただ、それが真実だとしてもそうでなくても、三度と関わることのない相手だと、天佑は思っていたから。宮廷の者は口も達者でなかなか本心など語るものではない。また来るなどと言ってもまずは方便だろうと、本気にとらえてはいなかった。だから、今日また伊俊宇が現れたことも、今の事も全て、何かの悪い冗談なような気がしてならないのだ。
なんとも、妙な男。
「なら良いな。私への指導があれば遠慮なく申せ、師匠」
「変な風に呼ばないでいただきたい」
「では、師範か?」
「字で結構」
「そうか。なら汪殿、よろしく頼む」
「……」
なんで、こうなる。
軽く頭痛がして、天佑は言葉を失った。これはどういう状況なのか。どうしてこうなったのか。何一つわからぬ。
「師範なら返事をしてくれ」
「は?」
「子の躾けはまず大人からだろう。是か、非か」
「ああ、もう、勝手になさい」
「了解だ」
勝ったと言わんばかりの得意顔で、伊俊宇は張り切って子らの卓へと向かった。早速手習い中の子に声をかけ、手を取って一緒に筆を走らせてやっている。その様は確かに慣れた様子で、初対面になる子らも全く違和感なく俊宇を受け入れているようだった。
ポカンとしているのは、書生の万隆だ。俊宇のことは彼ももう見知っているわけだが、それの何がどうなってこうなったのか、天佑以上に事態についていけずに、やはり助けを求めるような視線を天佑に投げかけてくる。
それには返す言葉もなくて、天佑は肩をすくめて見せるしかできなかった。
「老師様、これ読めません」
呆然としている暇もなく、新たな子が手を挙げて天佑を呼んだ。
考えるのは後だ。まずは目の前の子らに向き合うしかないらしい。天佑は仕方なく、本来の役目を果たすことにした。幸か不幸か、今日は子に助けを求められることが多かったため、突如現れた助手の存在は非常に役に立ったのだった。
結局伊俊宇が子らの質問にうまく対処し、いつもてんやわんやの午前中の授業はずいぶんとはかどって終わった。
年少組は半日で帰るが、年長組は午後まで教えるので、朝のうちに来た子の半分は昼を挟んで学問所に留まる。俊宇は昼の休み時間にその子らに誘われて、一緒に遊ぶところまでやってのけた。遊ぶといっても、十歳近くになる子らは外でも竹刀を打ち合ったりといった遊びをすることが多く、その相手をしていたのだ。
これに関してはさすがと言うしかなかった。天佑のような素人から見ても、彼の剣捌きは実に滑らかで無駄がなく、しかるべき指導を受けて実践に耐えうる腕まで鍛えられていることがわかった。
本当に、本人の言った通りの身分を持つ人間なのだなと、半日彼を見ていてひたすら感心したものである。何故そのような者がこんな町中の小さな学問所などに興味を持ち、子供の相手をしているのか。逆にそれが実に不思議であり、故に、のっぴきならない事情があるのだろうとも推測できた。
実際、ここまで来て全く予想がつかないほど、天佑も呑気な性格ではない。先日の時点で向こうが言い出していたら、即座に断るつもりでいた。しかし相手もまたやり手であるようで、手の内を完全には明かさぬままに、こうしてまずはこちらの懐に潜り込もうとしているようだ。
午後の授業は天佑が取り仕切って行い、それが終わって次に夜の部が始まるまでの時間、いつもならば生徒らの出て行ったあとは自室で休憩を取りながら書でも開くのだが、今日は勝手が違う。雑務を万隆に任せた天佑は、改めて部屋に俊宇を招き、いよいよ話をせねばと腹をくくった。無意味に長居されても困る。
どこに置いていたのやら、俊宇は手土産らしきものを携えて、天佑の自室に入った。
「すまぬ。子らのために持ってきたのをすっかり忘れてしまっていた」
疲れも見せぬ顔で言って、俊宇は卓の上に包みを置いた。けっこうな嵩で重量もそこそこありそうだ。
「明日にでも分けてやってくれ。菓子だ」
「お気遣い痛み入る。が、受け取ってよいものか判別がつきませぬ」
「いや、ただの手土産だ。気にせずともよい。それにこれは、そなたではなく生徒への差し入れだ」
飄々と言われ、負けたと思った。油断していると、口は達者だと自負している天佑も、こうして言い負かされてしまうようだ。
「では、ありがたくお預かりしよう」
苦笑いを返し、俊宇を席に促す。彼は実に品の良い所作で椅子に座り、天佑に向き合った。さっきまで逃げる子供を追いかけて遊んでやっていた「お兄ちゃん」が、今は立派に宮廷からの遣いである。いや、遣いではなく、用のある本人なのか。
「で、一体なにを企んでおられるのですか。私にとって代わってここの師範にでもなるおつもりか」
さて、どう出るかが見ものだと思った。何にせよこちらは承諾するつもりはないし、相手は本気でこちらを落とすつもりであるらしい。相容れないものを、穏便に済ませることができるかどうか。厄介なことではあるが、こういった交渉は嫌いではない天佑である。
対する俊宇は落ち着いた面持ちで、すっと姿勢よく背を伸ばして天佑を見つめてくる。その表情はまだまだ余裕だ。
面白い。
「いいや、そのつもりはない。急に乗り込んできた私を、そなたは迷惑にも不信にも思っておるのだろうな。もっともだ」
「でしたら、そろそろ本当のところを仰られても良さそうなものです」
「聞きたくないと申したのはそなたであろう」
「まあ、そうなんですがね」
天佑は、一度ここで言葉を切り、今日一日の俊宇の姿を思い返すと、どうにも苦笑が込み上げた。まんまと印象を変えられてしまった、そのことがいっそ面白かったのだ。
「さすがに今日は驚きました。子供の相手をよく心得ておられる。あなたのお立場ならば、剣術などは当然あれしきではない本物の腕前をお持ちでしょうし、知識教養も然り。私からあなたに指導を加える必要がないのは明らかです。なのにどうしてこんなことをなさったのでしょうね。じつに回りくどい」
天佑の持つ不信感を払拭する効果は確かにあったのかもしれない。天佑が子に接する普段の姿を見たいという目的も自然に果たせたのだろう。しかし、それだけにしてはあまりに、子らと接する俊宇が楽しそうだった。乱暴に言ってしまえば、今の質問はつまり「あんた、何しに来たんだ?」である。
「回りくどい、か。確かにそうだろうな。しかし、口で言うよりもいっそ手っ取り早いとも思ったのでな。まずは信用を得ねば話ができぬだろう」
「私の信用が、ご入用で?」
「そうだ。そして、私もまたそなたに対して信用を持てねばならぬのでな」
「ますます回りくどいですね。はっきりと仰いませ。私に何をさせたいのです」
「殿下の師範を」
「そう来ると思いました」
薄々わかってはいたことながら、改めて言葉に出されると、どっと疲れをもよおす。
しかもまあ、言えと言ったら途端に奥することなくズバリと平気で言うものだ。呆れて返す言葉もない。結局、こちらが言わせたと言う体裁に持っていかれた。
本当に油断のならない相手だ。実直そうに見えるが、確かにそうでもあるのだろうが、それだけでもないらしい。こちらを不快にすることなく心を動かそうとしてくるのだが、どこまで計算されてのことなのだか、それすらも分からぬほどに自然だ。話していていっそ楽しいほどではあるが、あまり打ち解けてしまうわけにはいかない。
「左程の大役でなければ考えてもみましょうが、さすがに承諾できかねます」
聞いたからには返事はせねばならない。天佑はきっぱりと言った。
「そう言うとわかってはいたがな。かといってまだ引き下がるつもりにはなれぬのだ。もう少し話を聞いてくれぬか」
「お断りします」
「命令だと言っても逆らうのか?」
「そう言いたくないから、今日のようなことをして見せたのでしょう?」
慣れ合えば取り込まれる。その危険を感じ、天佑は冷たく言って、一度俊宇から視線をそらした。それから改めて横目で見ると、まだ彼はじっと、まっすぐに天佑を見つめていた。
まなざしが重なり、今一度拒否の言葉を口にしようとした天佑に、俊宇が潔く頭を下げた。
「頼む。この通りだ。考えるだけでも考えてはくれまいか。決して悪いようにはせぬ。そなたの力を貸してほしい」
「ちょっと、よしてください!」
「人にものを頼むのに頭を下げるのは当然だ。どうか話をさせてくれ」
「とにかく、一度顔を上げて! そんなことをされては聞ける話も聞けぬ」
卓に額を擦り付ける勢いの俊宇に、天佑は肩を支えて姿勢を戻させた。そうでもせねば、承諾するまで顔を上げぬような気がしたのだ。別に、そこまでさせたいわけではない。
「事情だけでも聞いてくれるか?」
「ああ、もう、わかりましたよ。そんなことをされては迷惑です。とにかく今日は聞くだけです。返事は一切しません。そういうことならば」
「かたじけない。本当なら、ここまで強引にはしたくないのだ、こちらも。だが、背に腹は代えられなくてな」
「さほどにお困りなのですか?」
「ああ。困っておる」
やっと顔を上げ、苦く笑いながら「情けないことだが」と前置きし、俊宇はここまでの経過を順に話して聞かせた。
皇太子殿下の性格、前任者との衝突、そして次の適任者がまだ見つからないこと。聞けば確かに気の毒ではあるが、ならばと引き受けられるほど容易い話ではない。なにせ、未来の帝に教えを授ける立場である。まだ幼い殿下はまだこれから様々なことを身に着け、育っていく段階だ。その考え方や知識経験に、教育係が与える影響というものは計り知れない。責任の重さに気が遠くなりそうな話だ。
確かに、部外者に無暗に話を持ち掛けてもいい内容ではない。宮中の沽券に関わることでもあるからだ。なのにこれを聞かせたいと言ったのは、確かに天佑をそれに値すると評価した結果なのだろう。ここですでに一つ信用を置かれたことはわかる。
「どうだろうか。どう、思う」
「どうと申し上げるべきでしょうね」
その訪ね方があんまりに率直すぎて、気が抜ける。尋ねてくるが、どう返してほしいというのだろうか。
信用には誠意で答えるべきなのだろう。無下に断るのも気が引けるような気になり、天佑は仕方なく、もうしばし付き合うことに決めた。一日子の面倒を見てくれた礼に、愚痴くらいは聞いてやろうという程度のつもりだが。
「しかし、身分の高い方の中には学者の一人や二人、探せばいくらでもいるのでしょうに、なぜ私なのかが理解できませぬ。別段、私に特別な才があるわけでなし」
「殿下には、ただ知識を授けるだけでなく、心から尊敬できる師が必要なのだ。まだ幼くていらっしゃることだし、やはり少しそういったことに気難しさをお持ちの方で、なかなかこれと言った相応しい者が見つけられぬ。他の、武術や作法の師範とはうまくいっておられるのだが」
まあ、その事情は聞けば納得はできる。しかし疑問はそれだけではない。
「で、どうして私なのです? もう、素性はお調べになっておられるのでしょう? なら猶更私ではなにかと障りがありましょうに」
不祥事を起こした役人の息子。そんな肩書が、この人はともかく他の宮中の人間に受け入れられるはずがない。地方で起こった些細な事件くらいならば隠し通すこともできようが、天佑の父が当事者であったその事件は、まさに宮中内裏のど真ん中で起こったことだ。しかもそれからまだ半世紀すら経っていない。
そんな中、とても乗り込んでいく気にはなれないと主張しても、これはもっともだと思うのだが。
「……。隠さぬのだな」
天佑から言い出したことを意外に思ったか、俊宇は伺うように問うて来た。
「ここにきて隠す必要はないでしょう。私の素性など、あなたのお立場ならば簡単に突き止められるはずです。それでも来られた、そこが疑問でなりません」
「そう言われるのももっともだ。藁をも掴みたいと言うだけでは理由にはならぬのだろうし、それではそなたにも礼を欠く。もしもそなたが引き受けてくれるとなったときの、周囲からの風当たりも考えたうえで、それでもそなたに話を持ってきたかった」
「その理由は?」
「失礼を承知で言う。勘が働いた」
「勘?」
もう、ここまで来ると何に驚き何に呆れてよいものか、わからない。
こんな大事に根拠は勘などと言われては、反応の仕様もないではないか。
言葉を失った天佑に、俊宇は一度苦笑を見せた。自分がどれだけ妙なことを口にしたかくらいは自覚があるらしい。しかしそれも一瞬のことで、今度はすっと真摯なまなざしになり、天佑を強く見つめたままで続けた。
「確かに、初めにそなたを知った時は、可能性があるなら当たってみようくらいのものだった。されどこの間そなたと話をして、思った。若君を託せるのではないかと。少なくとも、私は陛下や貴妃様よりもよほど長い時間殿下と過ごしておる。どのような御子かは誰より理解申し上げているつもりだ。その勘で思った。そなたの素性については確かに調べさせてもらったが、父君もお気の毒な方だったのだろう。非はあれども罰は十分に受けておられる。その後に生まれた子息にはなんの傷もない」
最後の一言にどこかしらの憐憫が見えた気がして、それは感じたくなかったと思った。憐れまれたのが癪に障ったのではない。宮中にある人間に、そういう理解をする者がいたことに、少しだけ救われたのだ、たぶん。
生まれの血筋を思えば、あまりに慎ましい暮らしに疑問を持った天佑に、母はただ寂し気に笑うだけだった。そんな母を父は大事にしていたから、幼き頃は事情を知ってはいけないと思っていた。いくらか成長し、他人の噂で父の過去を聞き知った時は、ずいぶんと宮廷を恨んだものだったが、しかしその過去があって後に父は母と出会い、天佑が生まれたのだから、結果はよかったのだと、思うことでやってきたところがある。
しかし、今それを俊宇に語って聞かせる必要はない。正直なところ、まだ天佑は宮廷そのものにはあまりいい印象を持ってはいないのだ。そこにいるすべてが話の通じない人間ではないのだろうと、今日初めて知ったことも確かではあるが。
「……。えっと、ですね。まあ、それはそれとして」
「このさいだ、なんでも申せ」
「この私に、皇太子殿下に必要なものをお教えできる知識があると、本当にお思いなのですか。庶民の子らに必要な事とは全く違うはずでしょう。とても役不足です」
「ここに通い、科挙を受ける若者がいると聞いたが? それにその書。すべて覚えるほど読んでおるのだろう」
天佑の後ろには、天井まで届く書架が壁一面を埋め尽くしている。それを惚れ惚れと眺め、俊宇が言った。
「どうだ。諸子の書くらいは平気でそらんじられるのでは?」
「……困りましたね」
書架の書が、天佑にごまかしを許さなかった。すべて父からの譲りだが、これに育てられたような天佑である。生きるに必要な知識は書から学んだ。歴史から文学から、思想に至るまですべてだ。それでも世に躍り出たいという気になれなかったのは、出世を求める性分でもないし、やはり宮廷が苦手だからだ。科挙を受ける代わりに人に教えている、そういうことだ。
「困らないでくれ。無理は承知なのだ」
再び見せた俊宇の苦笑は、少しだけ和らいだものだった。
「変わったお方だ」
「だが人を見る目はあると思っている。ああいった世界で生きていくには、それなりの目がなければうまい具合に利用されるのでな」
「確かに、そうではあるのでしょうね」
だから近づきたくはないのに、きっぱりと突き放してしまえずに話など聞いてしまった。
「若君には、無理やもしれぬが伸び伸びとお育ちになっていただきたいのだ。あのご気性だからこそ、正しい道が見えるようになれば、人を引き付けて率いて下さると思う」
「……」
「道は、若君が選んでくださるしかない。私らは若君の目が曇らぬよう、霧を散らし埃を掃うことくらいしかできぬ。その手助けに、そなたの力が有効ではないかと思ったのだ」
何故かその曖昧でしかし揺るぎない一言は、根拠をあれこれ仕立て上げられるよりもずっと説得力があるようで、聞き逃すことも笑い飛ばすこともできず、天佑の胸に届いた。
「……うまいことを仰る」
「帝王学を教えよなどとは言わぬ。その道の師範は用立てられる。そなたには、人のあるべき姿を教えて差し上げてほしい」
「私がこのような未熟者なのにですか?」
「己が未熟を知らぬ者では務まらぬ」
「……」
これはまずい、と天佑は思い、それ以上俊宇に同意できなくなった。頷くほどに、この男の手の内に引き寄せられてしまう気がした。
現に、自分で事足りるならば引き受けてやりたいくらいには心が傾いている。しかしやはりそれはできない。結果自分が被る不名誉くらいは平気だ。自分が携わることで、皇太子殿下に傷がつくのが困る。もちろん、同時にこの伊俊宇の失態ともなってしまうのだ。
そんな顛末が目に見えているのに、責任を俊宇に押し付けて自分は素知らぬ顔でお役目全うなど、どうしてできると言うのだ。それこそ、人の道に外れるのではないか。
結論は、初めから出ていた。ただ、そのために道筋がほしかっただけだ。
「伊殿の仰ることは、理解しました。されど、やはりお受けするとは申し上げられない」
改めて伝え、俊宇の反応を待つ。彼は一つ頷き、作った微笑に落胆の表情をうまく隠しこんだ。
「そなたを試すことをしてすまなかったな」
「いえ、宮廷の大事です。私めなどにお気を遣われることはない」
「そうか? ツンケンしておるから、初めから嫌われては何も言わぬうちに物別れが確定しそうで焦ったのだぞ、これでも」
「焦っておられた? ご冗談。この私がうっかり言い負かされたほどですのに」
「これでも必死だ。負かせておったなら満足だ」
くくと、俊宇が笑う。つられて天佑の口元にも笑みが浮かぶ。堅苦しい本題を逸れれば、同じ年頃の若者同士だ。立場の差を感じさせない雰囲気がいつの間にかでき始めていた。
「本当に、変わったお方だ。そのような大事を抱えておられぬならば、よき友にでもになれたのでしょうが」
「それは社交辞令か?」
「いいえ、本心ですよ。面白い人は飽きないので、嫌いではありません」
「ならば、気長にいこう」
「え……」
「嫌われておらぬなら、また来る。これっきりと思ったろうが、そうはいかぬ」
「私がお話を承諾することはありませんと申し上げているはずです」
「まあ、それはそれだ。」
などどのんびり構えている場合ではなかろうに、この人が言うのなら別問題としてしまってもよいような気がする。不思議だ。
そういうことなら、と、自然に受け入れてしまう。気が合うとはこういう相手のことをいうのだろうか。あまり認めたくはないが、天佑はこの俊宇をなかなかに気に入ってしまったようなのである。
そして、おそらく俊宇も、そうなのだろう。要求をちらつかせたままでまだ関わろうとするのは、不敵さというのとはまた違う何かがあるのだろうと、話をしていて感じ取れた。
それでも、歓迎してくれるのか?と言外に問われているようで。それには、是と返したいと思う自分がいる。
「お好きにどうぞ。これは、本心です」
「それはわかっている」
「そうですか。ならば結構」
笑みを作りながら、まあこういのもいいかと、天佑は思った。
説得したければするがいい。それくらいは込みにしても、付き合うには悪くない相手だと思った。こちらに利がないわけではないのだ。
天佑には、歳の近い友人がいない。身の回りは現在、弟子ばかりだ。たまには師匠と呼ばれずに、対等な話もしたい。特に、頭の切れる相手だと刺激があってなおさらよい。俊宇が来れば子供たちも喜ぶだろうし、その面倒な案件を度外視すれば、うまくやっていけるのだろうと思う。
いったん、そういうことで折り合おうじゃないか。
「ならば、さっきからの伊殿というのをどうにかしてくれないか」
「なにか問題でも?」
「他人行儀だ。言っておくがそもそも生まれの身分は私もそなたとさほど変わらぬのだ。宮中を出てまで「殿」扱いはされたくない」
また急に距離感が近くなった。どうも、考えたことは同じなのかもしれないと、天佑は思った。ならばこちらの態度も少しは変えてよいだろうか。
「……もう、本当に好きになさいと言うしかないですが。では何とお呼びするのがいいんです? なんとでも呼んで差し上げましょう」
「伊宇(インユウ)、とでも」
「字の宇は名からとっているんですね」
「そうだ」
「では伊宇、私のことは汪黎(ワンリー)とお呼びください」
「また、麗しい名だな。承知した」
ああ、これで名まで交わしてしまった。どうやらもう、ただの他人という関係ではいられなくなってしまったようだ。
「本当にまた来るんですか?」
「嫌か? ただ、これでも多忙な身だ。そうそう遊んでいる暇はないが、そなたに忘れられぬ程度には顔を出す」
「わかりました。ただし、手土産は無用です」
「そうだな。袖の下を包むわけにはいかぬな」
「手ぶらでなければ追い返します」
「承知した。では、長く時間を取らせてすまなかった」
潔く、俊宇は立ちあがった。見送るため、天佑も席を離れる。
「師範の件、力になれず、かたじけない」
「致し方あるまいよ。もし次に私が来るまでに気が変わるようなら、宮廷へ訪ねてきてくれ。名乗れば私まで通されるようにしておく」
「誰が行くもんですか」
「はは。さほどに宮廷は嫌いか?」
「関わりたくないだけです」
「わかる。気にするな」
その気持ちは、よくわかるよと。もう一度噛み締めたように言ったのは天佑には向けられず、独り言のように空に散って消えた。
「またな。子らによろしく伝えてくれ」
「承知した」
他人としての遠慮がなくなった気楽さからか、俊宇の表情にも余裕が生まれていた。大役を背負った宮廷人の顔でも、子らと遊ぶお兄ちゃんの顔でもない、尹俊宇その人の顔がこれなのだろうと思った。一見堅苦しそうな男前ではあるが、笑み方にはおおらかさも見える。振れ幅のある人間なのだろう。
まったく、妙な人間と関りができてしまったものだ。そう思いながら、天佑は生まれて初めて、父の生まれに感謝した。父が貴族の出身でなければ、こんな話も持ち込まれることはなく、俊宇のような人間が友となることもなかったはずだ。父の形見は書物だけだと思っていたが、どうやらもうひとつを認めねばならぬようだ。
ならば、自分も負けてはおれぬ。
「伊宇!」
門を出た俊宇の背に、大声を張り上げた。
「ん?」
供も付けず、馬車にも乗らず、少し速めの徒歩で城へと帰り始めていた俊宇が、足を止めて振り返る。また高級そうな絹の上衣が夕日に映え、光沢をまとってひらりとなびいた。
「相談になら乗る」
「感謝する!」
この時見せた俊宇の笑みはやっと、諸々の事情を振るい落とした屈託のないもののように見えた。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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