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二章
俊宇
しおりを挟む宮廷内の俊宇の立ち位置は、実に特殊である。官吏ではなく、血の濃い王族でもなく、さりとて決して低くはない立場で、所属がない。
これと言って決まった任務はないので自由かと思いきやそうでもなく、むしろある種の定着した流れで一日が流れていくことが多い。
まずは早朝に自室で目覚め、顔を洗い身支度をしたらすぐに、朝餉である。俊宇にもお付きの者がいて、身の回りの世話はある程度焼いてくれるので、彼の運んでくる粥中心の朝餉を平らげたら、即皇太子殿下の部屋へ向かう。主に、たたき起こすためだ。殿下は寝起きがすこぶる悪い。
侍女などは役に立たぬほど起床にてこずるので、問答無用で俊宇が起こして差し上げる。様々策を弄するが、基本的には力技が効果的だ。せっかく苦労して起こしてもすぐに寝台に戻ろうとする、その隙を与えぬように起こしたままの勢いで身支度を手伝う。手水を差し出すのも、手拭いを手渡すのも一連の流れだ。もはや侍女よりも手際のいい俊宇である。
そのまま付き添い、殿下の朝餉を毒見してから手伝い、一日の日程をお伝えする。まずはここまでが朝の流れだ。これがほぼほぼ毎日繰り返される。
この後は高雲柳の出番で、殿下の教育全般を取り仕切る彼が自ら詩歌を教えたり、他の分野の師たちと交代で、殿下には一日びっしりと学んでいただくことになる。陛下や貴妃のお召しがある場合や、外出の際に供をするのは主に俊宇の役目だ。
殿下がなにがしかの教育を受けている間は、侍従のどちらかが見守ることにしているので、それから外れる時間くらいは多少自由……というのが本来であるはずが、そうもいかないのが悩みの種であった。毎日かなりの確率で、殿下を探して宮廷内を駆けまわることになる。
なぜ自分がこの役を仰せつかったか、最たる理由はここにあったのではないかと、このごろは思う。確かに宮廷内でも有数の俊足を誇る俊宇である。手習いが嫌で脱走した殿下を捕らえるのも、弓矢がうまくいかずほっぽりだす殿下を引き止めるのも、苦手な皇太后への謁見に向かう途中理由をつけて寄り道したがる殿下を説得するのも、従者との手合わせの途中で庭木に上って喜ぶ殿下を……、つまりそういった苦労を、俊宇が一手に引き受けることになっているのである。
簡単に言えば、皇太子は非常に、やんちゃである。もう、今上陛下の小さい頃にそっくりである。まさか陛下親子二代にこういう世話をするようになるとは。ざっと二十年ほど前も、逃げ出した陛下を追いかけるのは乳母子の俊宇の役目だったのだ。
「伊殿、伊殿!」
雲柳が青い顔をして俊宇を呼びに来たのは、二月ほど前の話だ。還暦を一つ越えた老体が髪を乱して駆けてくるのは、まちがいなく殿下がらみの厄介ごとである。
さて今日はどこまで走らされるものかとため息交じりに気合を入れたところ、縋るようにしてたどり着いた雲柳の様子が、いつもよりも深刻だった。
「高殿、いかがなさいました」
「いや、その、若君がですな」
息を整えるのにも一苦労しながら、老いた侍従は言った。
「範殿を、解雇なさいましてな」
「解雇?」
つまり、誰にも相談なしに、師範を一人辞めさせたということらしい。おそらく、その場の勢いで、ばっさりと。
「また、何が。範殿が無礼でも働きましたか」
範というのは、殿下に兵法や思想、文学などを教える師範である。雲柳とさほど歳の変わらぬ老師範で、すこし厳格なところはあるが人柄は大人しく、これも陛下時代からの師範である。それが、解雇。
「いえその、そういうことではないと思うのですが」
焦った雲柳は、説明もおぼつかないようだ。状況はわからぬが、なにか行き違いでもあって喧嘩になり、殿下がブチ切れて老師を追い出したということなのだろう。範老師も渋々辞して、帰ってしまったのだと言う。
「伊殿、範殿は私が追いかけてなだめてくる。若君をお願いできますか。どうも今回は、ご勝手が過ぎるように思いますれば」
「承知いたした」
執務室の整理をしていた俊宇だが、さっそく部屋を飛び出し、殿下の居場所を探し始めることにした。
宮殿の中は、走れない。だが速足程度はこういう場合の俊宇には暗黙に許されており、風を切って彼は外を目指していた。すれちがう人も、「またか」という視線を寄超すだけで、何事かと問うてくる者はいない。逆に、もし彼らが殿下の居所を知っていたならば、たいたいは呼び止めて教えてくれることが多い。それも、殿下に口止めされていなければの話だが。
こういう時、殿下はまず一人になろうとする。幼い頃はよく貴妃のところへ逃げ込んでいたものだが、最近は早くも思春期に突入か、逃げ場所が変わった。
発散したいときは、独りで武殿に入り竹刀を振るっているか、あるいは弓を引いているか。引きこもりたいときは、どうも役人を味方につけたらしく書庫に隠れていることもある。庭の東屋の一番小さいものの中で、石で遊びながらいじけていることもある。それくらいがよくある例で、まずは一つひとつ当たってみたものの、今日に限ってそのどこにも見当たらなかった。
はて、と首をひねる。広大な宮中ですれ違ったか、あるいはまた別の隠れ場所を開拓なさったか。
庭木の一本一本、通路の一筋一筋を探したが、もう一刻もたつのにまだ見つからない。行く先々で、番人や侍女にも行方を聞くのだが、なぜか一人として殿下を見た者はないという。他にも人を使い、城門番にまで声をかけたが、悉く無駄だった。
頭の中に宮廷の地図を広げてみる。それでふと、一か所だけ探していない場所があることに気が付いた俊宇は、厨で甘い菓子を包ませてから、その場所へと向かうことにした。
コツコツと石畳の廊下に靴の音が響く。静かな環境を好む俊宇は、自室もまた離れたところに与えられており、そこまで足を運んでくる者はあまりいない。房は素朴な風情の建物で、周囲の庭には竹林が巡り、浅い池に水連が葉を茂らせているのが自慢だ。
本来ならば日の高い時間に自室に戻ることはあまりない俊宇がたどり着くと、戸に背を預けて座り込む小さい少年の姿があった。
傾きかけた陽が廊下に差し込み、朱を混ぜた光の色に辺りを染めている。細く伸びた影が、ちんまりとそこに佇んでいた。
「若君、腹は減りませぬか」
まだ近すぎないところから声をかけると、しょぼくれた顔がゆっくりと上げられた。
「減った。昼抜きなのだ」
ここで拗ねるあたりがまた、かわいらしいものだ。天子の子とはいえ、九つの少年はやはり九つの少年でしかない。
「ではお茶に致しましょう。私はあまり上手く淹れられませんが」
「知っておる」
生来感情の起伏の激しい殿下は、落ち込むときも深い。ぶすくれた頬に尖った唇がその心を現すようで、俊宇の苦笑を誘った。
部屋に入り、湯を沸かして茶を準備する間、長椅子にちょこんと座ったままの殿下は、ぷすりとも話さなかった。小さくすくめた肩にまだ力が入ったままだったが、俊宇が茶杯を手渡した時ようやく、それがゆるやかに解けたように見えた。
そして、盆にのせた干菓子と饅頭を、殿下に差し出す。それに手が伸びて口に運ばれたら、俊宇は殿下の足元に跪き、見上げることで彼の表情を見守ることにした。
「で、私にできることは、ありますか?」
いつもは、「何がありましたか」とか「どうされましたか」から始める。しかし今日はそれでは殿下の心は溶けぬと思った。
できるだけゆったりとした口調で、静かな声で話す。それは常より気を付けていることだ。感情の高ぶった相手に、同じような勢いで対峙しては、余計に興奮させてしまう。
「やはり、私には範は合わぬ」
やがてぽつりと、殿下は心を明かした。なるほど、言い訳もせずただきっぱりと自分の考えを言うところは、実に潔い。
「喧嘩でも?」
「それは、範に聞けばわかる。どうにも反りが合わぬのだ。それだけだ」
一方的に自分の言い分を訴えるのではなく、殿下は事の次第の説明を相手の供述に委ねると言う。それもまた、彼の心にある自責の念を見せるようでもあった。
「そうでしたか。よく話してくださいました。この俊宇がこの件、お引き受け致します。ご案じなさいますな」
まずはそう言って笑ってやると、殿下は細い眉をひそめて、遠慮がちに言った。
「いいのか? 範に謝らなくても」
「貴方様が本当に悪いとお思いならば、なさいませ。されど、そうでなければならぬ場合だけでもありますまい。違いますか」
「うん」
「範殿もこうおっしゃっておられたでしょう、君子たるもの苦手な相手ほど御せねばならぬ、相手を見、必要なものは得るようにと。ですが、君子とて人です。誰とも考えがぶつからぬようなら戦など起きません。喧嘩は心と心の戦です。どちらかの全面降伏だけが終戦でもありませんからね」
「うん」
ひとつひとつ、俊宇の言葉に頷く殿下を見ながら、だいだいの事態は把握したつもりだった。
殿下は決して理不尽を言ったのではないのだろう。諍いのきっかけを作ったのは、どこか威圧的な範の何某かの言葉で、それには殿下も日々耐えてはいるのだが、今日はとうとう堪えが利かなくなったのだろう。反発を見せた殿下を範が諫めようとし、話が拗れるままに、事態はどんどん悪くなった、そういうことだろう。範が言ったことも間違いではないのだろうし、殿下の気持ちももっともなのだ。この二人、組んだ時からうまくはいっておらなかったことを俊宇も承知していた。だが、範以上にこの「役」を果たせる者がいなかったのだ。範が陛下の師範であったことも、後押ししていた。
「範殿は良き師範であられる。しかし、殿下にとってそうでないのなら、やはりもっと殿下が教えを乞いたいと思える師を探してみましょう。師弟関係というものは、時に親子ほどの信頼を要するものですが、その点、私も少し案じておりました。これからの我が君を支えるによりよい師を、私が見つけます」
「そうか! 頼む。」
ぱっと、殿下の顔が明るくなった。だがそれも一瞬のことで、また殿下は視線を落としてしまう。
「だが、父上がお許しになるだろうか。範は父上からの師範だったろう。きっと父上も良き師だと敬うから私にもつけてくださったのだ」
「その辺も、私がお話ししてみましょう。陛下は範殿ほど石頭ではあらせられません」
「はは。そうだな」
「何度も申し上げますが、幼き頃の陛下も、しょっちゅう師範たちに怒鳴られ叱られておいででした。それをなだめるのは骨が折れました。それに比べ、殿下はご自身でしょげて下さるので助かります」
「あはは。酷い言い様だな!」
可笑しそうに笑う殿下の頬についた饅頭の餡を指で拭いながら、俊宇もふふふと笑った。
「ええ、もう。親子で苦労を掛けられておりますので、こんなにひねてしまいましたよ」
「まだ白髪など生やすなよ」
「わかりませんよ。それは若君次第です」
少しだけ釘を刺して、それを殿下は受け止めてくれたようだった。
「わかったよ。範には悪いが、交代を進めてくれ。今度はうまくやる」
「ええ。今のうちにたくさん、失敗もなさっておけばよろしいのです」
「わかった。そなたの黒髪を守るために、私は良き帝になる」
「お志が低うございますね」
あはははと、殿下は声を立てて笑った。
――――――と、そのような経緯があって、俊宇は急遽殿下の師範を探すことになったのだった。
俊宇はあらゆる伝手をたどり、適任者はおらぬかと奔走した。人脈に関しては雲柳のほうがはるかに広いため、彼にもずいぶんと苦労してもらったが、これがなかなか居そうでいない。
これぞという人物とは一人ひとり面接をして実際に殿下と対面させた者もあったが、経歴が相応しくなかったり、性格上難ありだったり、いかにも宮中にしがらみを持った人物だったりと、相応しいと思えるものが見つけられなかった。陛下にももちろん相談したが、今回は人選を完全に俊宇と雲柳に任されてしまったため、責任は重大で、焦るばかりの日々だった。
そこに、汪天佑との出会いがあったのだ。縋りたくもなるというものだった。
実際に改めて会ってみて、天佑の印象はずいぶんと変わった。まずまずはいい方向にだ。
確かに油断のならない相手ではあるが、決して悪い人間ではない。むしろ行いと言い子らの懐き方と言い、善人とみて間違いはないだろうと思う。部屋に案内されたのを幸い、横目で書棚を盗み見たが、ずいぶんとたくさんの本を読んでいるようだし、その中には古そうなものも混じっていた。分類した札も見たが、思想書だけで棚を二つ占領していたほど、こちらの必要な知識は備えていそうだ。話をしてみると、頭の回転も良く機知に富み、憎いほど話術にも長けているようだった。あれならば、殿下の性格を読み、うまく対応してくれそうな気がする。
問題は、範の代わりが務まるほどの素質や気概(……宮中で生きていくには諸々苦労があり、それに耐えうるかは入ってみねばわからぬところがある、これが厄介)があるかどうかまでは判断できていないことと、彼を宮中に招きたいと申し出た時に、彼が引き受けてくれるかということだ。
おそらく、問題は後者。それを思うと頭が痛いのだが、当面頼みの綱は天佑しかおらず、そこは面識のある俊宇が何とかするほかないわけで、先日も逸る心を制してあんな風に話を切り上げた。
焦って事を仕損じてはならぬ。天佑が良き師範となる可能性を持っているからこそ、慎重に進めねばならないのだ。
初めに会った時、俊宇に見せた天佑の態度を、忘れてはおらぬ。あの時点で彼は、俊宇の身分を拒絶した。先日だって決して心を許した様子ではなかった。
なんとか、とっかかりくらいは掴んだはず。その感触はあったと思うのだが、なにがそうさせたのか、本当にそうなのかはまだわからない。少なくとも俊宇の出方が気に入らなければ、笑みを見せたり次を許したりはしなかったはずで、その点においては一歩前進したと思って良いのだろうけれども。
あの者が真に相応しいのならば、なんとしても手に入れねばならぬ。そのためには、彼の父が起こした不祥事とやらにももう少し詳しく知っておいた方が良いのかもしれぬと、俊宇は思った。
それが、天佑の嫌う行為であっても致し方ない。そう結論付けて、俊宇は改めて雲柳に話を聞きに行くことにしたのだった。
●
「それで、範殿の後釜にというのは、どういった人物なのですか?」
殿下が寝静まった後、俊宇と雲柳は、彼らの執務室で卓を挟んで向かい合っていた。
秋の夜長、外は密談などをしていてはもったいないような月の美しさであったが、彼らは酒も交わさずにそっとひそめた声で話していた。
神妙な面持ちの雲柳の前に、これも眉を顰めがちな俊宇が腕組みをしながら答えた。
「ええ、どうお伝えしたものか難しいのですが、少なくともここまで探してきた中では一番、有望なのではと思っておるのです、私は。ですがその者を引っ張ってきてよいものかが判じがたく、情報を得たいと思って今宵は貴殿をお呼び立ていたした」
俊宇の脳裏には、あの天佑の悠然とした苦笑が思い浮かんでいる。短い時間に交わしたやり取りを反芻しながら、そこから得られた情報や感じ取れたものを、またかみ砕くようにして、雲柳に説明しながら自分の考えもまた整理している段階だ。
「また、ずいぶんともったいぶった言い方をなさるのだな」
普段はきっぱりとものを言う俊宇が、今日は歯切れがよくない。それを雲柳はしっかりと見破っていた。この人との付き合いも長くなり、宮中では数少ない協力者でありまた立場の似た相手だ。取り繕う必要もなかった。
「少し前、高殿にお尋ねした人物があったのですが、覚えておいでですか」
「ああ、汪慶佑の話でしたかな」
「ええ。あの話、もう少し詳しく教えていただけますか。あの時はまださほど必要ないと思って、あまり好まぬ類の話ですし、だいたいでよかったのですが」
「つまり、その息子とやらを?」
さすが雲柳、察しがいい。しかしその表情はあまり芳しいものではなかった。
「ええ。再び会って話をしてきました。あたってみる価値はありそうです。ですが、やはりというべきなのかはわかりませぬが、本人が宮中に恨みを持っているのやもしれず、私は肩書だけで既に嫌われております。本当のところ、一体何があったのかとね。さほどの不祥事ならばさすがに、そういった者の身内に若君を任せるわけにはいかぬのでしょうから」
「そういうことですか」
うーむと、雲柳は唸った。その反応を見る限り、やはりあまり期待はできぬのだろう。少なくとも、普通ならば避けたほうが無難な人物だ。たとえ当事者でなくとも、いろいろと障りはある。
「まずはあの件についてお話ししましょう」
判断はひとまず置いておくとして、雲柳は長い話になりますがと前置きしてから、一組の男女の恋の顛末をぽつぽつと話し始めた。
主人公の男は、中流貴族出身の役人。十八で科挙に合格、二十歳を過ぎた頃に書庫に配属された青年で、名を汪慶佑といった。かたや女は名を耀凜鈴という、人の噂に乗るほどの絶世の美女である。
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耀姫はやんごとなき方の妾として愛されてはいたものの、決してその立場を利用し権力を求めるような欲のある女ではなかった。むしろ不相応に着飾られ多くの侍女に傅かれることを重荷に感じ、独りになりたいと言ってよく書庫に出入りしていたのだという。本来ならばそのような場所に帝の側室自らが足を運ぶことはあまりないのだが、本好きな彼女はよく通っており、そこで、慶佑と出会うことになる。
二人は書物を通じ、密かに恋心を通わすようになった。当然、許されるものではない。しかし許されぬ恋ほど燃え上がるのは古今東西の決め事で、やはり彼らもそうであった。特に、耀姫のほうが、慶佑に熱を上げてしまったのだという話だ。美しいと評判だった娘は厳重に箱入りに育てられていたせいかもしれない。
器用とは言えぬ性格だった耀姫の恋は、すぐに妃の耳に入ることになった。それで、妃は彼女に圧力をかけたのだ。何か理由をつけて後宮を辞するなら、二人のことは伏せていてやると。言い換えれば、帝への裏切りを黙っておいてほしければ後宮から立ち去れということである。
「まあ、どこにでもある話と言えば、そうですな。我が国の帝の周囲も、やはり同じということです」
そこで言葉を切った雲柳は、ふうと一度息をつき、目の前で飲まれぬまま冷めてしまっていた茶をすすった。
「それで、耀姫はどうなりましたか」
「ここからも、想像に難くない話です。妃からの脅しを恐れた耀姫は、黙って去ればまだよかったものの、気が弱かったのか実直に過ぎたか、あるいは後宮でのそういった揉め事に疎かったのか、とにかく相手に相談してしまったようです。相手……汪慶佑はそれを聞き、自分が職を離れればよいと言った。女はそれを止めるために、思いつめた結果自ら命を絶った。やはり汪慶佑は宮中を辞し、その後はしばらく消息を絶っていたようですが、どこからかの噂で、町に学問所を開いたという話を聞いておりました」
それが事の顛末ですと言って、雲柳は言葉を切った。
この手の話は、身分の高低を問わず、どこにでも転がっているような話で、特別というならば帝の周囲で起ってしまったというくらいだろうか。
「わからぬのですが、汪慶佑はよく死罪にならなかったものですね。普通、帝のご側室に手を出したとなれば、その場で打ち首でしょうに。何か特別な理由でもありましたか」
中でも気になった疑問を、俊宇は臆さずに口にした。この際事情はできるだけ詳しく、そして正しく知っておきたかった。
「ごもっとも。実はその汪慶佑の父親が一族きっての出世頭で、当時尚書に就いておったくらいの者だったため、話をもみ消したとか、帝の温情を乞うたとも言われておりました。帝にとっても、二人がどこまでの関係だったのかは知りませんが、ご自分の愛妾が役人ごときに手を付けられたというのも外聞の良いものでもありませんのでね。そういうことでしょう」
事は穏便に、ということだ。汪慶佑を一度社会的に抹殺するに留めたというところだ。そうであったからこそ彼には市井で妻ができ、そして子にも恵まれ平穏に生きることができたというわけである。
嫌な言い方をすれば、帝にとって役人一人の死などどうでもよいものだが、そうはならなかったのは既に耀姫が世を去っており、その必要がなかっただけの話だったのかもしれない。特に妃の外聞を慮ってのこの措置で、不幸な二人は世間には美しい悲恋話となって伝わる結果になった。
「なるほど、よくわかりました」
「その後は特に誰の口にも上らぬようになり、今に至るということですな」
実につまらぬ話ですと、雲柳はため息交じりに言った。
「では、その息子の話は、どこから?」
「ええ、もうずいぶん前に、たまたま……だと思いますな。それこそ町で、元貴族の何某かが学問所を開いているらしいが、どこの家の者だろうみたいなことを、若い官吏が話しておって、それなのだろうと思ったくらいです。今回の範殿の後にとは、さすがに思いつきもしませんでした」
「やはり、無謀でしょうか」
「まあ、普通はそうでしょうな」
「ですよねえ……」
また、長いため息が出た。
言われずとも、雲柳の見解はとっくにわかってはいた。しかしこう改めて言われてしまうと、もしや自分はかなり大きく判断を誤っているのだろうかと、この目で見たことにも自信を失いそうである。慎重であらねばと思う心と、自分の勘を信じたい思いが、また折り合いを見つけられなくなってしまった。
「その者が宮中に良き印象を持っておらぬのは道理。仮に本人が承諾しても、いろいろと差し障りもあるでしょうし、やはり陛下がお許しにはならんのではないでしょうかな」
雲柳の言葉も、やはり重い。彼はそもそもが慎重派である。それは歳のせいだけでもなさそうだ。
「わかっている。重々にそれはわかっているんだ。しかし……」
「お気に召しましたか、伊殿は」
「どうだろうな。嫌われておって、なかなか打ち解けはしませぬ」
「でしたら、もう……」
「だがな、それしかおらぬのだ。しかも、あれはどうも殿下とはうまくやってくれそうな気がしたのだ、高殿」
「はあ。いったい、どんな男なのです?」
「手強い。が、それだけではない気がします」
「……そう、ですか」
しばし考え、雲柳は渋い顔をした。
他にも彼を推せる根拠はある。あるがそれも全て、俊宇の主観でしかないと言われればそれまでだ。ここでいくら高を説得できても、例えば陛下からお許しをいただく要素にはまだとてもなりえないものだ。
「他を探しましょう、伊殿」
「それがよさそうです。しかし急がねば」
「そこが問題です。私も、市井にいる学者全員を呼び出して面談でもしようかと思っておったんですがねえ。その者が出てくるようならば、やりようはあるのでは」
「それには自ら出てこぬような男です」
「なんとも厄介な」
ため息を交えた雲柳の一言には、もはや諦めろの意味しか聞き取ることができなかった。
引き続き適任者を探し続けることを申し合わせ、二人は席を解散した。
執務室を出て自室へと向かう途中、庭の池に映る煌々とした月に、俊宇は思わず足を止めた。足元ばかり見ていた目を上げると、満月よりは少し欠けてはいるが見事に明るい月が、辺りをほのかに照らしていた。
しんと静まり返った庭の風情を楽しむものは今、自分しかいない。「秋池明月水、衰蓮白露房」と、詩の一説が頭に浮かぶ。
今一度。
無謀だと思えば思うほど、どうにかしてみたくなるのはどういったわけか。まだ、打てる手があるならばと、焦るほど望む根拠は何なのか。
俊宇は、己が心を読むのは得意ではない。自分がどうかの前に、どうあるべきかを当然のように優先してここまで生きてきたからだ。とるべき道に迷うことはあっても、自分の心に迷いを持つことはなかったし、それで問題ないと感じてもいた。
落ち着かないのは、今は「こうあるべき」と「こうしたい」が符合していないせいだ。第三者である雲柳と話してみれば結論が出るはずだと思ったのだが、わかり切ったことを再確認したまでで、それに納得という進展は見られなかった。
まだ、分かれたままだ。頭と、心が。
こんなことは初めてで、戸惑う。焦るから何か対処せねばと思う。
だから、今一度、彼に会ってみようと思った。
結論は最後に出すものだ。それまでに集めねばならぬ判断材料は、まだ全く足りていないはずだ。だから。
月よ、見ておれ。
俊宇を見下ろす光に向かい、挑むように心で言った。
必ず、折り合いをつけて見せる。少し、時間をかけるだけだと。
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