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一章
俊宇
しおりを挟む帝都を一台の馬車が気忙しく走っていた。近道をたどるつもりか細い道を縫うようにして、人ごみをかき分けるようにいくつもの辻を曲がっていく。
造りの精巧な屋根付きの馬車など貴族の優雅な外出くらいにしか使われぬもの、それにしてはずいぶんと急いでいる様子なのが、多少なり周囲の人の目を引いていた。
妓楼にでも急ぐんじゃないか、などと揶揄う者もいた。しかし、そんなさざめきも馬車の主の耳には入らない。なにせ、人々が噂を口にするときにはもう馬車は遠くまで通り過ぎてしまうためだ。
今日は町の中心にある広場で大きな市が開かれているため、にわかに人通りは多い。そうでなくとも帝都だ。普段から町には様々な民が行き来しており、今上陛下の御代が安定し繁栄していることを示していた。
物売りの声を聞き流し、馬車の主は馬車の窓からそっと、外の様子を覗いた。
「この辺りだと思ったが」
独り言のような小さな呟きを、若い御者は聞き取って、
「はい。もうすぐです」
と、短く返した。恐縮しているのか言葉数は少なく、そして声が硬い。
やはり町に詳しい者を連れてきてよかったと、馬に乗る男は思った。彼、尹俊宇(イン ジュンユー)は自身の邸宅を都内の一角に構えてはいるが、町の中についてはめっぽう疎かった。生来の堅物な性格のため、あまり出歩くことがない上に、成人して宮仕えをし始めてからは、その機会は更に減っていた。
休暇には息抜きに自室に籠って本を読むという至って地味な生き方をしているが、それは本人の幸せなのだから仕方がない。彼の立場ならば市井にも多少は見識が広いほうがよさそうなものだが、いい歳をして女遊びの一つもしない俊宇は、世事には疎い。自宅から王城までの最短距離は知るものの、今馬車が町のどの辺を走っているのかということについては、現時点であまり把握していなかった。
先日も、この辺(であろうと思う)を通りかかったのはほんの偶然だったのだ。実家から珍しく妹が文を寄越してきたものだから、何事かと思い一日の休暇を取って帰ったら、父がぎっくり腰を起こして寝込んでいるから、何か薬を手配してくれということだった。
それくらい医者でも何でも呼んで対処すればよいものをと渋い顔をしてやったのだが、つまりはしばらく帰らなかった俊宇の顔を見たかったというのが本音だったようだ。しかしぎっくり腰は本当だったので、慣れない町に出向いて塗り薬を買い求めたのだった。道もさほど細かには知らぬから、医者の診療所も人伝に聞いて、その帰りだった。
薬と土産の餅菓子の包みを手に、急ぐほどでもないのに癖のせいで早足で歩いていた。彼の勤める宮中は広くて人との距離はかなりあるので、それに慣れている人間は人ごみを歩くのは苦手だ。そのせいで少しばかり苛立っていたのかもしれない。簡単に言うと、足元が見えていなかった。
どしんと、何かが横から足にぶつかった。
「わあ」
跳ね返って転げたのは子供で、見下ろすと通りに尻餅をついていた。
「大事ないか」
俊宇は足を止めてしゃがみ込み、転がった六つか七つほどの男児に手を差し伸べ、拾い起こしてやった。
「怪我は」
「ないよ。尻が痛いだけ」
子供の様子には、弱ったところは見当たらなかった。
「このような人の多いところで飛び出すものではない」
「今日は人、少ないよ。みんな市へ行ってるからね」
言い返され、そうなのかと俊宇は思った。不案内なのは自分だけ。この子はいつもこんな調子で遊んだり走ったりしているのだろう。
「そうか。しかし気をつけなさい」
確かに俊宇も不注意ではあったが、子供のほうが危ない。ぶつかったのが生身の人間だったからよかったものの、馬車や荷車だったならば命も落としかねない。
土に汚れた子供の服を手で払ってやっていると、
「やあ、うちの子が失礼を致しました」
と、子供の向こうから、大人の声が俊宇へと投げかけられた。
顔を上げると、俊宇よりも一つ二つばかり年嵩に見える、書生だか学者ふうの男だった。男のくせに麗しく整った顔立ちに、上品な立ち振る舞い。市井の者とは思えない気品のある飄々とした雰囲気で、俊宇を見ても臆する気配はない。
「子を遊ばせるなら表通りはよせ。馬に蹴り飛ばされるぞ」
物珍しそうに俊宇の見上げてくる男児の、これが父親ならば文句は言うべきだと判断した。しかし、相手は頭一つ下げずにこう返してきた。
「御覧の通り、腕白の盛りでして。どうか平にご容赦を」
言葉のわりに妙に落ち着いた態度がどこか癇に障り、俊宇は目つきをきつくした。平素から愛想のない表情が、更に冷たくなった。
「父親ならば、しかと躾けよ」
「父親ではございませんよ」
悠々と言って、男は微かに笑みを見せた。人を食ったようなそれである。いわゆる笑顔ではない。愛想笑いでもまた、ない。
「老師様?」
二人の様子を見ながら、どうも円滑ではない会話に何を感じたか、こけた子供はそろりと俊宇の傍を離れ、男のもとへと寄り添った。そして、どうなるの?と問うように男を見上げる。
老師と呼ばれた男は、俊宇から目を離すことはせず、しかし自分に縋ってきた子供の体をそっと抱き寄せる。まるで俊宇から隠すようにだ。
その態度も、どこか嫌味な気がした。別段、俊宇は子供を𠮟りつける気もなければ、師であるらしい男を罰する必要もない。なのにそのような態度をとられるのは心外だった。
「師であっても同じことだ」
これ以上取り合っていても仕方がない。なんとなく気分は悪いが、俊宇はここまでと見切りをつけ、話も終わらせた。このような場所で子供を挟んで大の男が言い争うというのは、体裁もよくない。
「ええ。重々に」
背を向けた俊宇に、男はそう言った。その向こうから、また別の子が男を呼ぶ声がした。
「汪(ワン)老師、ここにおられましたか」
今度は少年といった歳の、声変わり後の声である。男が出てきた屋敷の中からだ。
そこで、俊宇はつい振り返った。「汪」という姓に聞き覚えがあったからだ。珍しい姓でもないのだが、ふと気にかかった。
「うん。阿縁が飛び出してこけたのが見えてね」
少年に応じる声は、先程俊宇に寄越していたものよりもずいぶんと穏やかで優しい。見れば眼差しもまた然りだ。子供が好きなのだろう、そういう慈愛のようなものが見えた。
いや、問題はそこではない。
「そなた……」
俊宇は、つい男を呼び止めていた。
「おや、まだ失礼がございましたか?」
男の口調はまた、作ったようなわざとらしいものになった。それもいい。
気になったのはそこではなくて、俊宇の頭にある王族の姓とこの男の姓が合致し、それと同時にある情報が思い出されたことだ。
ずいぶんと前に、ある王族の傍流かなにかが宮廷を追放され、没落して市井に身を隠しているという話があったはず。その姓が、「汪」ではなかったか。汪家といえば今は宮廷内に身を置く者はおらず、その理由が不祥事か何かであったはず。この手の話は聞き知ることの多い立場であるため、記憶にひっかかるものがあった。
噂を把握している限りにおいて、その不祥事の当人とは歳が合わないが、その人物の子か何かであったならば、これくらいになるのではないだろうか。ならば男の妙な気品も、俊宇に対する態度にも納得がいく。それなりの血筋でありながら、貴族を憎んででもいるのだろう。と、そこまで思考が繋がった。
「そなた、名をなんと」
問いながら、なぜ名を聞くのかと問い返されるかと思ったが、男は何でもないように答える。
「汪、天佑(チンヨウ)と申します。ただのしがない学者ですよ。ここで子供を教えております」
「……覚えておく」
「その必要がありましょうや?」
「……」
もしも俊宇の思う人間がこの男ならば、今彼は俊宇の干渉を拒否したことになるのだろう。そうでないのだとしても、俊宇ほどの身分の者が彼と関わることなど今後一度もないという意味にもなる。
確かにそうだ。皇太子付の侍従という肩書を持つ自分と、昔宮廷を出された役人の息子などには、接点はないと言っていいだろう。ましてや、彼がただの学者ならばなおさらだ。せいぜい今日のような休暇に、たまたま何かの用で街に出た俊宇と顔を合わせるくらいの偶然しかあるまい。
だが。
あなたは?とは、男は聞かない。彼の方にはその必要はないことだ。
だから、俊宇は黙って彼に背を向けた。彼が何者であったとしても、これで縁の切れる相手だと思っていた。恐らく、相手のほうも。
そんな出会いの後、まさか自分から出向くことになろうとは、夢にも思わなかった俊宇である。
町を駆ける馬車に揺られる道中、ひどく落ち着かない気分であったのは、自分を嫌っておるであろうことがすでに明確な相手に会いに行かねばならないためだ。まあ、宮廷に勤めている立場ではそういったことは日常茶飯事。もっと言えば、自分から会いたい人間などほとんどおらぬ。しかし、今日赴く相手は私的な時間に出会ってそれで嫌われたという経緯があって、どこか仕事とは割り切りにくいところがあった。
あの後、もう一人の侍従である高雲柳に尋ねてみたところ、あの男が予想通りの人物であるのが間違いないことが分かった。雲柳が知るのは彼の父親にあたる人物で、老年に達する歳の雲柳の記憶にはしっかりと汪の姓は刻まれていた。名門とまでは言わないがいい人材を生む一族で、一時期は勢いもあったのだが、一人の失態で形勢が傾いた。その後汪家から役人が出ることもなく、不祥事を起こした本人も世を去り、今はその息子が町でひっそりと学問所を開いているらしい。そこまでのことを、雲柳は把握していた。さすがである。
己の見識の狭さにひとしきり打ちひしがれ、しかし俊宇は、それを好機と思い立った。強引な話ではあったのだが、一つの可能性として彼に期待をかけてみてはどうかと、何故か強く思った。本来関わり合うはずのなかった彼と出会ったその偶然を、拾い上げてみてもよいのではないかと。半ば魔が差したように、そのような思い付きに囚われてしまった。
もしも自分がここで手を伸べることが叶えば、彼を本来の身分に応じた道に戻してやれるのではないかと、そんなおせっかい心もあった。
そして今、こうして汪天佑なる人物を訪ねて町を横切っているわけである。
「尹殿。ここですね」
御者が、そう声をかけてからゆっくりと馬を止めた。
「ああ。そなたはここで待っておれ」
手を貸そうとした御者をそっと控えさせ、自力でひらりと馬車を降りた俊宇は、先日見たままの門構えの屋敷の前に立ち、ふうと息をついた。
せめて門が開いていればよかったものの、今日は閉ざされている。もしや留守。出直しかと半分諦め半分安堵しながら、俊宇は門戸を叩いた。
「誰かおらぬだろうか」
声のよく通るには少々自信がある。普段から張り上げることが多いからか、喉も鍛えられた。
すぐに中から人の気配がして、先日とはまた別の若者が細く門を開けた。そして、およそこのような町の学問所になど用のないはずの貴族の姿に、恐縮と不信をしっかり半分で割ったような顔を見せる。
「ここの師範に用があって参った。私は宮廷のある遣いで来た、尹俊宇と申す者」
「は、……はい?」
書生はおそらく、宮廷からの遣いという言葉に理解が及ばなかったのだろう。もちろん言葉そのものの意味は承知しているが、今この状況に追い打ちをかける戸惑いを覚え、混乱したようだ。
「そのような高貴な方が、老師にいかような……」
蚊の鳴くような声で言いかけた書生の後ろから、乗り越えるようにして元気のあり余った声が飛んできた。
「あ、こないだのお貴族様だ!」
門扉と書生の足の間から顔を見せたのは、先日俊宇にぶつかってこけた男児だった。顔に新しい擦り傷をつけているところを見ると、またなにかやらかしたようだ。しかも俊宇を貴族とわかりながらこの態度である。腕白だけでもない度胸の持ち主であるらしい。
男児を無礼なと窘めるよりは、正直助かった。応対していた書生よりは話が早そうだ。
「ああ、そなたが。ちょうどよい、師範はおるか。用があって参った」
ごそごそと身をよじり書生の前に出てきた男児は、臆することなく俊宇を見上げ、はきはきと話した。
「今出かけてるよ。中で待つ?」
「そうか、不在か。ならば出直したいところだが、急ぎの用でもあるのだ」
「どうせその辺ぶらぶらしてるから、探してこようか」
男児の遠慮ない話しぶりに、書生がわたわたと焦っている。しかし俊宇も男児もそれの相手はしない。
「ああ、それはよしなさい。すれ違って迷子になってはならぬ」
「はは。ならないよ。どうせ老師様の行く店なんて決まってる……」
そんな男児の言葉をさえぎって、今度は俊宇の背から、また新たな声がした。
「また生意気なことを申して。今日は遊びではないと言っておいたろうに」
耳が声を認識したとたん、咄嗟に振り返る。目が合って、何故かドキリとした。
「おや、これはこれは先日の。またうちの子がなにかご無礼を致しましたかな?」
悠然と言ったのは、今日の訪問の目的であり、ここの学問所の師範、汪天佑だった。
手にいくつかの荷物をぶら下げ、長い上衣と結い上げた髪を風になびかせ、またあの笑みを見せる。二度目に会って改めて見ても、その姿はずいぶんと存在感がある。やはりただの学者の風情ではない。
「万隆、門を開けてお客人をお通しせよ。立ち話では礼を欠く」
「は、はい、老師様」
ほっそりとして気弱そうな書生がやっと門扉を全開にしたので、天佑が門を通る隙間ができた。彼は先に自分が庭に入り、そして俊宇を促す。
「偶然でないなら門前払いとは参りますまい。お話、伺いましょう」
「急に訪ねて悪かった」
「いいえ、気にしてはおりませんよ」
俊宇は天佑に続き、屋敷の庭に足を踏み入れた。俊宇を連れて歩きながら天佑は、土産をせがむ男児を笑顔でかわし、書生に茶を申し付け、その手際は鮮やかだった。
中には数人の子供がおり、庭で毬を蹴って遊んでいたり虫を追いかけたりしている。屋敷の敷地は見渡せる程度だが、建物も大きくはないので、庭は広く感じられた。
卓が並べられた広間の横を通り、奥の部屋に俊宇は招き入れられた。間仕切りの向こうに寝台が見えるということは、ここが天佑の私室であるらしい。応接用の部屋は、この屋敷には存在せぬのだろうか。
壁を埋め尽くす圧巻の書棚にひしめく本。その他には調度の少ない、上品な部屋だった。午後の日差しが飾り窓から優しく部屋に差し込み、微かな香の薫りは鼻に心地よい。
「お掛けに」
卓の椅子を勧められ、俊宇は遠慮なく座った。その向かいに天佑も静かに腰を下ろす。
やがて先程の書生が茶器を持ってやってきて、やはり恐縮したような硬い動きで卓に置いて去っていく。どうやら茶は主人がじきじきに淹れてくれるらしい。
「少し、町に物を買いに出ておりました。お待たせしてしまい、申し訳ありません」
「いや、急に訪ねたのだ。構わぬ」
天佑が青磁の茶器に白い手を伸ばし、そっと蓋を取って中を確認する。香ばしい茶の香りが湯気と共に立ち上り、彼は美しい所作で茶を淹れ、そして俊宇の前に置いた。
「お口に合うほどの茶葉はありませんが」
そう前置きされたが、口に含んだ茶は十分に良い味だった。葉の等級よりも、淹れる腕が味の大半を左右するようだ。俊宇は高級な茶でもあまり上手く淹れられない。
「で、今日はどういったご用向きで? 先日の失礼をお咎めにというご様子ではございませんね」
さらさらと、よく言葉の出る口だ。さすが学者、頭の回転がよさそうである。
形の良い唇の口角は少し上げたまま穏やかな印象を与えるが、目は時折鋭さを思わせた。
「ああ。まずは私の身分を伝えねばならぬな。私は皇太子殿下付きの侍従を申し付けられておる、伊俊宇と申す。先日は私的な目的でここを通りがかったが、此度は公務だ」
「ほう、それはまた、大層なお方がなにゆえこのような町の学問所に、わざわざ?」
俊宇の肩書に驚いたのは確かだったようだ。せいぜい貴族の坊ちゃんとでも思われていたのだろう。生まれの身分はそれと同じだが、役目はそうそう就けるものではない。俊宇が今上陛下の乳母子である縁で、皇太子の傍付と任命された次第である。もちろん相応の働きをしている自負はあるし、故の苦労も抱えてここに来た。
「結論を急ぐ前に、そなたについていくつか訪ねたいことがある」
「……、なんなりと」
そう言いながら、天佑が警戒したのは何となくわかった。だから敢えて、ここは先に大事なところを伝えるべきだと、俊宇は思った。
「先日、そなたの姓を聞き、覚えておくと申した」
「ええ、その必要は、あったということですか」
天佑の目つきが、微かに鋭くなったように見えた。
「まあ、そう威嚇せずに話を聞け。そなたには悪いが気になったので人に聞いた。そなたの父君が昔書庫番として出仕しておったことも、その後の話もだ。そなたは汪慶佑の、一人息子なのだそうだな」
不躾なのは承知だが、この話をせねば次に進めないので仕方がない。知っていてなお、という話だからだ。
「隠す必要もありませんので、認めますが」
「私はその件に物申す立場にはないし、興味もないので案ずるな。話の前提としてそなたかどうかを確認したまでだ」
「ええ。承知しました」
「話を変える。ここは、いつから?」
「もう十年にはなりましょうか。父が身罷る直前に開いた学問所を、私が引き継いだだけです」
「高い志を持った父君であられる。子息も然りだ」
「お褒めいただくほどでは。ただ書には通じておりますのと、住む家がまだ使えただけで。母は昔に他界しておりますし、私も独り身ですから、余った部屋で子らに学を教えているだけです」
質問に対し、応答はさくさくと進む。これが何某かの面談になっていることも、相手は既に察しているのだろう。
「子は、ここにいるだけか?」
「いえ、いつもは全員で三十人程度になりますね。そのほかに、夜は商売のために読み書きを学びたい大人も、数人来ます。今日は私が外出したため授業は休みなのですが、遊びに来たがる子のために、書生に留守番をさせておったのです」
「ほう。そうか」
「似合わぬことをしておるのは承知ですがね」
それがどういうつもりで発せられた言葉であったか、意味深にも聞こえたが、追及はしない。
「似合わぬか? 子らに慕われておるではないか」
でなければ、ここの子が休みにまで遊びに学問所に来ることはないだろうし、先の子や書生の天佑を見る目は、決して畏怖や尊敬だけでもない、なにか親し気なものがあったように見えた。
「そうだとよいのですが」
「自覚しておるのではないのか? 私にもわかることだ。子は、慕う者にしか見せぬ目がある」
「……」
あなたは、と、呟き、天佑は黙った。少し、言葉を選び損ねたようだ。
「私も、齢九つの御子をお世話申し上げておるのでな」
「ああ、……そうでしたね」
意外に思われたのかもしれない。皇太子付きの侍従だと名乗ってはあるのにこれとは、俊宇のほうがそういった立場には似合わないのだろう。それこそ、自覚している。
皇帝陛下直々に、自分が適任と仰せつかったときは、ひたすらに恐縮した。自分などに、とうてい幼子の世話などできるはずもない上、たった一人の皇太子である。無理だと何度もお断りしたのに、陛下は笑って「そなたにしか託さぬ」と仰せになった。
もう一人の侍従は、陛下御自身の養育係だった者だ。それと同列に任命されたのだ。恐れ多いにもほどがあり、この重荷をどうしたものかと真剣に思いつめたのもはや、六年前の話だ。
「私こそ似合わぬとでも言いたげだな」
やっと天佑が表情を見せた気がして、俊宇は少し気を良くした。ずっと繕ったままで応じられては、早くもこの話は没だと思っていたのだが、少しは望みが出てきたようだ。
ここまでの俊宇の見立てでは、まずまず見込みがあると出ている。俊宇への頑なな態度は当然といえば当然の反応であり、それも徐々にこうして解れて行ってくれるのならば問題ない。むしろ解きほぐしていくのはこちらの手腕だ。
「はは。どうお返ししてよいものやら」
申し合わせたようにここで天佑が笑って、俊宇はやはりと思った。
天佑の笑みが作ったものではなくなったからだ。俊宇があまり子の世話係には見えないことを、世辞で当然のように否定していたら、そうはならなかった。
「案外正直な男だな」
「嘘つきでは、子供には信用されませぬ」
「大人相手でもか」
「時と場合に寄りますね」
その切り返しには、俊宇も笑えた。この程度の会話にも、少しずつ人となりが見えてくるのだ。人の心を掴む何かがある。期待をかけたくなる。
彼の中に何を見出したのか、それさえはっきりとしない中、ほぼ直観のようなもので、この男ならば大丈夫ではないかと思ったのだ。宮廷内で常に人を見極め敵味方に振り分けてきた俊宇の目が、この相手を第一段階として良しとみなした。
ただし、この男を落とすには、かなり骨が折れそうだ。こういったことは、権力に頼らずに進めねば彼の信用を得られないことだろうが、彼のほうがまだまだこちらに心を開こうとしていない。警戒心も解いたとは言えないだろう。しかもこの男、おそらく俊宇よりもずっと弁が立ち、頑固そうでもある。どうしたものか。
考えている余裕も、あまりない。なんとかここで話を繋がなければ。せめて再びここを訪ねる口実を作らねば、城に帰れない。
「そろそろ本題に入ろうかと思うが、良いか?」
「いいえ、できるならばお聞きしたくはございません」
ほらきた、早速これである。しかも、笑顔だ。軽く憎らしい。
「何故だ? 言いたくはないが、そなたに私が命じれば、拒める話ではないはず」
「ですので、聞きたくないのです。なにやら、良くない予感が致します」
「食えぬ奴だな」
苦笑し、俊宇は懐に差し入れようとしていた手を一度ひっこめた。これで交渉が成立するならば一つの方法だろうと用意した謝礼の金子であったが、今日はその出番はないようだ。
簡単な相手ではない、それだけは確実らしい。おそらく、金などちらつかせた時点で話は決裂、もう二度と俊宇のためにここの門戸が開くことはなくなるのだろう。金に釣られてくる人物ではなさそうであるからこそ、こちらの出方も慎重であらねばならぬ。
矜持も高そうな印象もあり、宮中に取り立ててやるというような話の持って行き方も更に嫌われそうだ。本格的な交渉の前にもう少し見極めをして、他はないと判断してからそれを理由に多少強引にでも話を持ち掛けた方がよさそうだ。
「高貴な方が、このような市井の民を訪ねてこられ、こちらに利のある話がありましょうや。そういう一般論ですがね。いかがでしょう」
たっぷりと皮肉を交え、拒む姿勢を突き付けてくる。
「間違ってはおらぬだろうよ。一般論としてはな。しかし私は、どこにでもあるような話をしに来たのではない。故に、慎重にならねばな」
「いよいよ良からぬ予感しか致しませぬな」
「まあ、良い。今日のところは無理強いはせぬ」
今日のところは、を少しだけ強調し、俊宇は言った。まろやかな後味の茶を飲み干し、すっと席を立つ。
ここで引くとは思わなかったらしい天佑が、意外そうに眼を見開いて俊宇の動きを追った。
「また、訪ねてもよいか」
拒めはせぬ立場の天佑に、敢えて確認をとる。
「もう、ご勘弁くださいよ」
苦笑いをして、拒否はしても拒絶ではない返答だ。なれば、上々。
「子の世話の先達に、ご教授願いたい。私はまだ六年目の若輩ゆえ」
「なるほど、そう来ましたか」
「四年の差は大きいぞ。その四年で子は見違えるほど育つもの」
「ええ。異論はございません。さほどお暇なのであれば、いつでもどうぞ」
決して暇なはずはないが、そんな意地の悪い一言にも俊宇はめげないし、腹も立てない。
「かたじけない」
「ですが、次はもう少々軽装でお越しください。子の遊びにその恰好では服がもったいのうございます」
「……! 私に、子らと走り回れと?」
「やりませんか、やんごとなき御子は」
「……なさる」
ため息が落ちる。盛大に三回だ。ここで平然と否定できたならば、今の苦労はないと言ってもいい。
「では、手慣れたものでしょうね。安堵いたしました。次があるならばそうお心得下さい」
「ほんっとうに、そなたは、食えぬな」
「そうですか? えっと……」
名乗ったのに覚えられておらぬのか。いや、わざとか。
「伊俊宇だ」
「伊殿、お気のすむまで、どうぞ」
軽く言ってのけたのは憎らしいが、満更ではない感触だ。最後にもう一度目を合わせた時の天佑の表情は、この状況を楽しんでさえいるような余裕が見えた。
そして俊宇の心もまた、来た時とは打って変わって軽かった。
このまま、この手強そうな相手としばらく関わってみるのもよいと思えたのは、本来の目的とはまた別のところにも理由があることも確かで、そんな自分に驚きつつも、俊宇は学問所を後にしたのだった。
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