遠水連天碧

桂葉

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八章

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 流文にとっては再びの天宮において、天帝に説明する清江の口は、至極重いようだった。本人はいつもの通りのつもりでいるのかもしれないが、少なくとも流文の耳にはそのようには聞こえなかった。
「天帝に置かれましては、おそらくお聞き及びではないと存じますが」
 そう前置きして語られた一つの物語は、人払いされた謁見の間に、淡々と静かに流れていった。
 玉風という名の、奔放な風神の誕生。彼に命じられた地上の戦の鎮圧、それに助力した清江と、その後の二人。そして迎えた一つの悲劇。まるで他人事を話すように、清江の口調は平板だった。
 清江は、かつての自分が玉風とどういう名を持つ関係だったかには触れなかった。世話を焼くうちに懐かれ、近しい距離にあったと、そういう表現だ。それについて、天帝も追及することはなかった。だから、明確にはされていない。
 しかし、流文が察してしまったように、おそらく天帝も同じことを思ったに違いない。実に神妙な面持ちで、語る清江をひたと見つめながら、時折眉をひそめていた。それは、流文も同じことだった。
 清江がそれを隠したのは、恥をさらしたくなかったとか、体裁を慮ってからとかではないと、思う。
 ここで言ってしまえば、清江はまた、罪に問われてしまう。となると、玉風に課された罰もまだ効力を失うことができなくなる。そうすれば流文の天上が叶わない。そこを考え、あえて伏せたのだろう。そして天帝もそれをわかって、深く追求することなく聞いていたに違いない。
 二人は、恋仲だったのだ。そう理解させぬように気遣われて使われた言葉の節々には、しかし隠しきれない清江自身の……、恋人への慈しみが滲んでいた。大事に思っていた、自分が守ろうと思っていた。しかし相手の心を読み切れず、果ては罪を犯させることになってしまった、そのことへの自責の念が。
 流文の中では、全てが繋がっていた。これならば、天鳴の言っていた思わせぶりも全てに納得ができる。できたらもう、たまらなく切なくなった。
 そうだったんですか。
 あなたの胸も今、同じように痛んでいますか。
 問いかけることも、隣に立つ清江の横顔を見ることもできず、流文はうつむいたままで自分の足先をきつく見つめていた。
「つまり、その玉風に課せられた罰ごと、流文がひき受けてしまったということだね」
 話が途切れ、しばし重い沈黙が訪れた後、天帝が口を開いた。口調はいつものように、やはり砕けたところがあるものではあったが、声は少し低い。表情もいくらか硬く見えた。
「そう考えるしかありません。偶然、彼の仙気が満ちようとしていた頃合いだったのでしょう。訪れた彼の廟で、残っていた僅かな神力が彼に移り、彼は天仙となった」
「だけど、呪がかかっているから、いざ天上が叶わないと」
「はい」
 いやあ、困ったねえと、天帝はわざとらしいほど大きな声で、この場に立ち込めた暗鬱な空気を蹴散らすように言った。
 その声に流文は顔を上げる。
「上皇が御存命なら、簡単なんだけど。この子に罪はないし、玉風ももういないんだから、この呪を消しちゃってください、でお終いなのになあ」
「天帝のお力をもってしても、難しいのでしょうか」
「まあね。普通は無理だ。なにせ私より強い方のかけた呪だからさ。私があと何百年もかけて神気を高めて父上を凌げたら、可能かな。それまで待てないよね」
「……」
「でだ、流文?」
「は、はい!」
 急にこちらに話を振られ、一気に高まった緊張で声が裏返った。
 向けられた天帝の顔は、やはり軽く笑んでいる。
「清江にではなく、君に聞く。嘘は言わなくていいよ、読めるから」
「はい、なんなりと」
「君さ、どうしても天上したい?」
 息をのんだ。穏やかに明るい天帝の表情が、かえって計り知れず、畏怖を覚えた。
 そうだ、この方には決して軽い気持ちで答えてはならない。姑息なごまかしは、本人が言ったように、一切通用しない。
「この間もそうだったんだけどさ、君からは、天上に対しての強い意思があまり伝わってこないんだよね。たまたま清江に見つけてもらってここまで来ているけど、本来は無理で終了のところだ。そもそも、できないならできないで諦めちゃってたということはないの?」
 痛いところを突かれた。実際、そうでないとは言い切れないところがあった。
 天帝まで話が届いてしまったのも偶然。たまたまの幸運だった。
「ちんじゃーん、どうしようか。黙っちゃったよ」
 こんどは清江に、あからさまなボヤキである。
「君もさ、なんていうのかな、お人よしに過ぎるとこあるだろう。玉風の時と同じことしてない?」
 今度は清江が、はっと息をのんだ。そして眉根を寄せ、何かを考えたようだ。
「待ってください! 天上は、したいです!」
 声を張り上げて、流文は言った。それもまた嘘ではなかった。
「そうなの? これ大変なことしなきゃ解決しないやつだし、君がいいなら地仙で手を打った方が、君も楽じゃない?」
「いえ! 確かに、できぬならばと地上にいた時は半分諦めていました。もっと徳を積み、改めてみるべきではないかと思って。ですが、ここにきて、やはり諦めたくないと思うんです。自分次第ならもっと徳を積む努力をします。しかしそうでないものに阻まれているのならば、やはり取り除きたい! 私にも天仙の資格があるならば、相応の立場になりとうございます!」
 へえ、と、天帝が唇で呟いたのが見えた。少しは伝わっただろうか。
 自分でも分かっていた。天上したいと願う心の全てが、そんなに崇高なものではない。神と名乗るに相応しくない欲が、背を押しているに過ぎなくても。
 ここにいてできることがあるならば。ここでしかできないことがあるから。
 傍に居たいひとがいるから。
「だって。どうしようか、清江?」
「どう、と仰いますと」
 再び、天帝と清江の会話に移る。
「まあさ、なんていうか、大掛かりで、この子には負担だと思うんだよ」
「方法がでしょうか?」
「原因が分かったからね、方法にも思い当ったんだけど。聞く?」
「天帝……」
 もったいぶった言い方に、清江が本気で焦れた。
「つまりさ、いったんこの子を地仙に戻すんだよ。私の力で玉風の神気を抜くの。そしたら、まあ、いい線まで来てたんなら、もうちょっと善行を重ねれば自力で天上できると思うよ。原理としては単純だ」
「しかし、負担とは」
「そこが問題なんだけど。いったん魂に馴染んだ玉風の神気を抜くときに、彼自身の金丹が損なわれる恐れがある。一緒に抜けちゃう、これはまずい。人として既に百を数えてる体から金丹が一瞬でも抜けると、急速に体が老いて瞬く間に死んでしまう。体が死んでから仙として天上することはできないからね。死者として一旦昇華されるしかないんだよ。人間がさ、改めて流文を祀るなんてことがあれば、魂が神として呼び戻されるんだけど、大したことしてないでしょ、この子」
「……」
「他にいい手があればいいんだけどね」
 膠着してしまった天帝と清江に、流文はまた声をあげた。
「わかりました」
 どうする?と興味深げな天帝と、心痛と心配の混じった清江の顔がこちらに向けられる。
「天帝。長らく私のような取るに足りぬ者のためにご尽力下さり、誠にありがとうございます。もし許しいただけるならば、いま暫くだけ、時間をくださいますか」
「うん。いいけどね」
「少しだけ、考えさせてください。これ以上御手を煩わせることは致しません。私が心を決めるだけ。それに少しだけ、時間をいただきたいのです」
「いいよ。決心がついたらおいで。でも、あまり長くはあげられない。今はここへ来るのに清江の神気を借りているようだけど、あまりいいことじゃないからね。一つの体に二種の神気が共存はできない。やはり金丹を傷めてしまうよ」
「心得ました」
 先ほどから、清江が黙っている。そのことは気になったが、彼にとっても今日の謁見は冷静でいられないことも多かっただろうと理解し、今は天帝と話をつけることに専念する。
「そんなに天界がいいかねえ。私以外は皆、暇だよ?」
 そんなおふざけを言う天帝だが、決して天上を諦めよとも是非に叶えよとも言わない。天意を押し付けて終わりにはしない懐の深さに、流文は感謝の念を覚えた。
「それもここにきて知りました。でも、天仙としてどうあるべきなのかが、わかった気がしています。連れて来てくれた、清江のおかげです。彼の厚意を無駄にしたくはありません」
「君はとても、運がよかったね」
「ええ。そう思います。運命が定めし道なら、進みたいと思います。あとは覚悟だけ」
「なんだ、心は決まってるんじゃないか」
「まあ、消滅の危機でもあるようですので、ちょっと心を落ち着かせて、辞世の詩でも読む時間が欲しいんですよ」
「じじむさいなあ」
「百のじじいですから」
「じじい仲間なわけね」
「清江に比べれば、まだまだひよっこですが」
「言えてる!」
 妙に和やかに笑うふたりを、清江はまだ眉根を寄せたままで黙って見ていた。


◇◇◇


 二人で手を携えて、清江の邸へと戻った。
たちまち、流文にはやらねばならないことができていた。そうと決めれば居ても立ってもいられず、ろくに一息をつくこともなく流文は清江に言った。
「もう少し外でもつように、してくれませんか」
 つまり、ここを離れて行動したいということだ。あの行為につながるので、平気でねだることがまだできない。されることに慣れていても、自分から乞うことになるのはどうしても、余計な意識が働いてしまう。
「……そうか」
 どこへ行くのかとは聞かず、清江は神気を分けてくれた。これもまたよくない状態を引き起こすとは知らなかったが、もう少しのことならば大きな危険ではないのだろう。
 そう。もう少しだから、清江も難色を示すことなく希望をかなえてくれた。
「夕刻には戻ります」
「ああ。気をつけなさい。危なくなれば、強く念じて私を呼ぶことだ。いいね?」
「はい。もう、神気が切れてきた感覚もわかりますし。問題ないです」
 白々しいといえばそうだっただろう。多分、清江は流文の向かう先に見当をつけているはずだ。それでも黙って行かせてくれるのは、吹っ切れたのか、流文を止めることを諦めたかだ。それに乗じて、流文は今、とても無粋なことをしようとしている。どれだけ無礼で卑しいことかがわからないはずもないのにだ。
 もしも清江が止めるなら、よしておくつもりだった。しかしそうはならなかった。だから、行く。
 私はあなたのことが知りたい。知った上で、あなたのためにできることがあると確信できたならば、覚悟を決めようと思います。
 向かった先は、天鳴のところだ。



 天鳴の元へ自分から赴くのは、これが初めてだ。本人を知っていて、気を覚えてさえいれば、どこにいても探し当てて飛ぶことができる。天界で最も助かると言えばこの点だろうと流文は思っていた。
 清江を伴わずに単独行動をとるのも初めてとなる。だが不安はなかった。もともと風神の力も強くはなく、清江から受ける気もまた補助的なものでしかないからか、両方が強く反発し合っている感じはしないし、清江の気を定期的に少しずつ分けてもらうごとに、自分の中に安定してきているような感覚があった。いまのところ、まだ大丈夫だ。
 突然目の前に現れた流文に、豪胆な雷神は一回目を丸くしただけだった。
 彼が「どうした」とか「何の用だ」などと尋ねてくる前に、流文は清江の過去について知りたいと迫った。それだけで、彼は何かを察したのだろう。おそらく、いつかはこういうことになると予想していて、来た来たとでも思ったに違いない。
「ふうん。聞きたいと」
 硬い腕組をして、天鳴は言った。そこには、ふざけた様子も揶揄う声色もない。
 来客を邸内に通すことも思いつかないような天鳴は、立ち話も厭わず、このまま流文の相手をしてくれるつもりのようだ。急かすつもりはなかったが、悠長にもしていられない気配を感じさせてしまったのかもしれない。
「ええ。でも、そんなに詳しく聞くつもりじゃないんです。誰だって、昔の恋人とのことなんて他人に詮索されたりはしたくないでしょうし」
「まあ、詮索するのは楽しいんだがな」
「天鳴、あなた仰いましたよね。何かあれば言えと。それが今です」
「わーってる。お前さんのその必死な顔でわかったさ。で、何が聞きたい」
「あのひとが言わないからわからないことが一つあって」
「うん」
 思うに、そこに清江が深く関わるのだろう。しかも、とてもとても私的な意味で。しかも、最も後悔の深いかたちで。
 聞けばきっと答えてくれた。しかしそれはあまりに申し訳なくて、できなかった。だから無粋どころではないとしても、すべてを知っていそうなこの人の口を借りようと思った。もはや、どう思われようと構うものか。
 それに、第三者から聞くほうが、客観的に理解ができそうな気もしていた。
「玉風はどういう罪を犯したのかということです。天界を追放されるような罪って、そうとう重いですよね。それの一端を清江が担っているように言うんですが、それならなぜ清江は罰せられていないんでしょう」
「なるほどなあ。ほぼほぼ聞いてきたわけか」
「ええ。その、成り行きですけど」
 成り行きの一言で全てを片付けてしまったが、天鳴はそれ以上の説明を求めなかった。経緯がどうであれ、流文がここまで清江の内情に関わってしまったことが重要だとでも言うように。
「天界、色事禁止なの、知ってるか?」
「ええ」
「そっか。じゃああいつも、それじゃねえって体裁で、あいつはお前さんを囲ってるし口吸いもしてんだな」
 ここで、この一言である。まったく、どこまでも天鳴は天鳴だ。けれども、張りつめすぎて息さえ苦しかったところに、いい空気抜きになったのは確かだった。
「揶揄わないでください! 真面目な話をしているんです。あの方が私をそんな風に見ることはないですよ。わかってる」
「ふーん」
 その相槌は、どこかもの言いたげではあったが、今は頓着している余裕がなかった。
 早く知りたい。正しい情報を。当事者ではない、周囲からどう見えていたかを、今は知りたかった。
「まあ、いい。天界で色事が禁止なのはな、神気が混ざって起こる神の崩壊とか、混乱とかを防ぎたいからだよ」
「……」
 ドキリとした。全く予想していなかったことだった。これだけ神と神のいざこざの話に触れながら、その根本的な部分を流文は知らずにいたわけだ。
「いいか、本来神が持つ神気ってのは、そいつ一体独自のもんだ。同じ水なら水の、火なら火の似通った特徴を持っていても、一個一個は別。それらは強い神ほど他を圧倒する力を持ち、他と交わろうとはしないもんだ。ところがだ、閨事で神と神が交わって精を交わしてしまうと、入れられた方が相手の精……つまり神気をうまく取り込めずに、自分の神気を乱されたり、下手すると壊されたりすることが割とあるんだそうだ。相性とか、力の均衡とかそういう加減でな。古来、神の婚姻は、直接どっちかに精を注いで孕ますんじゃなくて、互いの気をうまく練って馴染ませて孕むんだが、色恋ってやつではそれがうまくいく場合ばかりじゃない。正しい方法を知る者も多くはないようだ。だから、何も知らずに水の神が火の神に無暗にぶち込んだら、火神が潰される、そういうことがおこるんだ。俺らが吐き出す精は、生の神気といっていいもんだからな。ここまでわかった?」
「……はい」
 ものすごく直接的な話をされているのだが、いやらしさはさすがに感じなかった。それが神のあり方だと理解できたからだ。本来生殖とは、神秘かつ尊い行為である。
「クソ古い水神と、できたばっかの新しい風神がヤッたら、当然向こうが壊れるわな」
 口惜し気に、天鳴は言った。つまり、そういうことが実際に起こったということだ。
「清江はそのことを知らなかったんでしょうか」
「実は俺も、あいつらのことがあるまでは知らなかった。実際、神同士はやっぱ天命を守ってるもんだからな。確かに皆、うまいことやってるようだった。俺だってそうだが、神気の影響を受けない、精霊とかそういうのはいくらでも抱くが、神はさすがにだ。そんなに多くの規律のない天界で、一番初めに教えられた禁を破ると何かが起こるっていう、暗黙の空気があったから。だからといってあからさまにしたい話題でもないから、実際のところどうなると知っている奴は稀だ。あいつも龍神のくせに朴念仁だからさ、やっぱ知らんかったらしい。玉風を拒めなかったどころか、あいつものめりこんだ。二人の世界を作っちまったんだなあ。そのうち玉風が神気を損じて天命を果たせなくなった。玉風はそれを清江に隠したまま抱かれてた。務めを果たさない玉風に天帝が怒った。それが清江にばれた。で、玉風は地上に逃げた。当時天帝は老体で力を弱めていたから、清江の神気が必要で、あいつには厳罰を与えることができなかったのさ。内密に謹慎で留めた」
「その後玉風は?」
「奴も悪いんだ。天上してからは清江に狂ってたから、地上に祀られた廟も放ったまま、無関心でいる間に神として落ちぶれてた。で、力を弱めたまま、消滅したんだろうな」
 最期については、ちゃんと知っているわけじゃないと、天鳴は言った。知りたくもなかったのか、知らされることも、……知ろうとすることもできなかったのか。
「清江はそれを見ているしかなかった?」
「いや。あいつにも呪をかけられて、玉風を上から見ることも神気を感じることもできなかったようだ。奴が消えたことも知らされず、三年たって呪が解かれたときには、全部手遅れだった」
 手遅れ。その重みが、清江の心を今もずっと縛り続けているのだろう。
「……悲しかったでしょうね」
「もうな、落ち込みようがすごかった。あいつの神格を危ぶんだ天帝が、一時期奴に関する記憶も封じたほどだ。十分に罰を受けてるよ、清江も」
「そうですね」
 聞くほどに、流文の胸にもまた重く沈殿していくものがあった。清江への同情でもあり、玉風に対しての哀れみでもあり、そして嫉妬でもあっただろう。それらが混ざり、やりきれない思いとなって胸を塞ぐ。なぜそんなことになったのか、そうなるまでに幾つも逃げ道はあったのではないかと。
 しかし、こうも思う。あったとしても、見えなかったのだろう。もしくは選ぶことができなかった。だからこそ清江は、今もその悲しい結末に納得していないのだろう。その後悔が傷となって彼の中に眠っていた。流文の受けた呪がそれを引きずり出し、再び痛みを蘇らせてしまったに違いない。
 彼は、あまり器用なひとではない。そこが流文にはとても愛しくて、つい心を寄せてしまう理由になっている。しかし、過去にはその性格が酷く裏目に出てしまったのかもしれない。天帝の言うように、彼は少し、ひとが良すぎるのだ。それはつまり、単純に優しいだけではなく、相手に入れ込んでしまう癖があるということでもある。
 千年、清江は誰も傍に置かなかったと天鳴は言っていた。それほど引きずってしまったのもやはり、そのせいに違いない。
 一途な想いが、まだ彼の中に残り、悔恨として生き続けている。その想いの行く先を失ったままで、ずっと。
 だが。
 ならば今、流文が清江に一番近い場所にいることには、どれほどの意味があるだろうか。
 理由やきっかけはあった。しかし、それだけだと思うべきなのか。……そうではないと感じ取ってしまった心が、そこを問いかけたいと願う。
 あなたが優しいのは、私が彼の神気を持っているから?
 懐かしいと感じたから、そんなに……優しくしてくれるのですか?
 無意識だったとしても、流文の中に忘れえぬ相手の気配を息遣いを感じたから。
 だから傍に置いてくれたのですか?
 構ってくれるのですか?
 あの行為でさえも、疑いたくなってしまう。言ったところできっと彼は認めないだろうし、自覚さえないのかもしれないけれど。
 この想いを抱えて、流文は彼の元へ帰る。向き合わずにいる時間はない。
 天帝と約束したのだから。暫くだけ、考えると。いつまでも、流れに任せている余裕は残されていないのだ。
「ありがとうございました」
 深く頭を下げて言うと、天鳴は気づかわし気に「これでよかったんだと思っていいか」と、彼にしては控えめに確かめてきた。
「ええ。聞きたいことは教えていただけたんだと思います」
「なんでだ」
「はい?」
「お前、平気なのか。そんな話を聞いて。思うところがあるんだろう?、あいつに。お前このままでいいのか」
 天鳴がそう言うのは当然だった。流文は自分がこのままでは天上できないことも、天上を望むのは賭けのようなものであることも、その賭けに乗ろうとしていることも、一切伝えてない。だから、何かをきっかけに清江の過去の一部を聞いてしまい、その全貌を知りたくなったくらいに理解されているはずだ。
 だから、それでよかった。このひとにまで心配をかけたくはない。なんだかんだ、清江を大事に思い、支え、清江が気にかけているために流文にもまた彼流の情をかけてくれる、この温かなひとを、必要以上に煩わせたくないと思った。
 できるならば、また穏やかに笑む清江を自分が取り戻したい。そうすればこのひともまた、穏やかでいられるに違いないのだから。
「過去は、過去です。玉風には妬いてしまいますけど、でも、気の毒な方だと思うから」
「奴のことはもういい。あいつのことはどうなんだ? 愛想を尽かさんでやってくれよ。あれも昔は若かったんだ。今はそんなんじゃない。わかるだろ? お前さんには……」
「ええ」
 天鳴の言葉は、あえて遮った。今はそれを言われたくはなかった。
「愛想が尽きるなんて、ないですよ。むしろ好きすぎて、ちょっと、困ってしまいました」
 笑って見せた。半端で無理やりで、変な笑いだったことだろう。
 ああ、胸が軋む。痛いと叫びを上げそうになる。
「私にできることなんて、あるのかなって」
「あるさ。あるからお前には洗いざらい言ったんだ。意味、分かってんだろ?」
 それには答えず、流文はただ笑みを返す。それに、天鳴は焦れたようだった。
「あいつは、やっとお前を見つけたんだ。捨てないでやってくれ。頼む。二度とあんなあいつは見たくねえんだ!」
 ああ、わかります。
 彼がどれだけ嘆き、悲しみ、自分を責めたかは。それがどんなに痛々しい姿であったかなんて、見ていなくてもわかりますよ。
 ならば、やはり、私の出せる結論は、一つしかない。
 帰ろう、あのひとの元へ。
 意を決し、流文は天鳴に背を向ける。最後に振り返って、さっきよりは多少ましな笑みを残した。


◇◇◇


 邸を流れる空気は、やはり霧のかかったように冷えて重かった。その場を作る神の気のありようで、周囲の雰囲気も大きく左右される。流文がここに住まい始めてから、とても穏やかで心地よく感じられていたのは、清江の心がそのように安定していたからなのだろう。
 降り立って門をくぐり、しゃんと背を伸ばして邸内に入った。清江からの出迎えはなく、流文はまっすぐに、彼の部屋に向かう。
 扉は開かれていたので、中にいる清江の姿は戸口にいながら見つけることができた。広いのに、あまり調度のない部屋だ。しかし、寝台はとても大きくて、大柄な清江がゆったりと寝ても余るほど。寝心地も良さそうだ。
 部屋の手前には、二人くらいで使うのにちょうどいいくらいの、卓と椅子が一揃え。窓際にやはり大きな長椅子があって、そこに座ってよく清江が書を読んでいる姿を見ている。今もやはりそこに座って寛いでいたが、彼の手に書はなかった。
「大事なかったか」
 流文の姿を見るなりすっと立ち上がって尋ねてきた清江は、どこかおずおずとして見えた。なにを、どう、どれだけ耳に入れてきたのかが気にもなるのだろう。そこで流文が何を思ったかを気にしてもいるのだろう。確かに自分は、清江の心に一つ場所を作っているようだ。それが、切なくも嬉しい。
「ええ。すみません、勝手をして。一人は辛くなかったですか」
「何を言っている」
 少しだけ、いつもの清江だ。こうしてずっと一人の寂しさを隠してきたんだろうか。時折、失った者の面影を記憶に辿りながら。
「少し、お話をしても?」
「そのつもりで待っていた」
 座るか、と彼は尋ねた。長椅子に、流文の場所を空けて座り直す。流文の部屋にある椅子では、二人が並んだらすこし狭い感じもするが、ここはゆったりと人が寝られるくらいには長いので、ちょうどよかった。
 これならば、向かい合うことで細かい表情を互いに見ることなく話すことができる。
「呆れたろう。私の醜聞を聞いてきたのなら」
 膝の上で手を組み、うつむいたままで清江は言った。長い前髪が頬に垂れて顔を隠す。横目でさえも見ないでほしいと言われているような気がしたから、流文は前に視線を投げ、遠く飾り棚の上に生けた花を眺めた。
「醜聞なんて。悲しい、物語でした」
「気を遣わなくていい」
「いいえ。……うまく言えないんですが、あなたにそういうところがあったんだなって、嬉しかったというか……不謹慎ですけど。聞いてみればとてもあなたらしいような気がしました」
 優しくて、余すほどの包容力で、相手を包んでしまう。かける思いは深く真摯で、そこに情熱が加わると、少々周りが見えなくなってしまうらしい。
 玉風が清江に惚れた気持ちは、わかりすぎるほどにわかる。そんな想いをかけられてしまったら、手放せなくなって当たり前だ。何を犠牲にしても、刹那的であろうとも、このひとを引き付けておきたかったのだろう。玉風もまた、清江に思い入れすぎてしまった。
「愚かなだけだった。今はそうはあるまいとしている」
 清江は言葉を苦くした。このことが、流文の胸を痛くさせる。
 きっとただ一途な恋であっただけなのに、このような深い後悔に塗り替えられてしまっては、清江だけでなく玉風の恋心さえも、哀れに過ぎるではないか。
「愚かですか?」
「そうだ。何も知らず、なにもわからず、相手を追い詰めてしまっていてもなお、何もできなかった。死にまで至らしめた」
「……」
「過去の過ちが君にまで影響するとは。もう、神でいる資格も疑わしい」
「それは違いますよ。客観的に見て、玉風のほうが短慮だったのは間違いないです。あなたに全く責がないとも、言ってはいけないんでしょうけど」
 清江が口をつぐむ。
 責めたくはない。しかし、許してしまうほうがたぶん、このひとは辛い思いをする。
 難しい。これでは、流文との出会いもまた後悔の種になりつつあるようだ。しかし、流文のほうはそうは思っていない。どんな結果になろうとも、自分はこの清江と出会えたことを嬉しく思う。清江が新たに抱えてしまった自責の念くらいは、流文が引き受けてどうにかしなければ。後にこうしてまた悔やまれてしまいかねない。それは嫌だった。
 できることならば、自分とのことは、何年後も穏やかな気持ちで思い出せる記憶として彼の中に残ってほしい。
「大好きだったんですね」
「……」
「いいなあ。羨ましいです。あなたに、そんなふうに情熱的に思われた方が」
「流文?」
「ごめんなさい。私、あなたが好きです」
 言った。言ってしまった。
 言わないほうが穏やかだったのだろうとは思うけれど、やはり言わずにはいられなかった。それが天界に居たい理由だということを伏せていては、すべてにおいて説得力がなさすぎる。もちろん、流文は玉風のようにはならないという、宣言でもあった。
 さて、清江の反応は。
 三つほど呼吸した後で、彼は小さく言った。
「……知っては、いる」
 どう返すのかを考えた末にこの言葉だったのだと、なんとなくわかった。
 しかしこれは意外な方向だ。もう少しくらい驚いてくれてもいいのに、ご存じと来た。
「そうでしたか。怒らないんですか?」
「どうして怒る必要が?」
「御迷惑でしょう? そうでなかったら私、天上などあっさり諦めていました。あなたが天界の神などではなかったら、ここに執着する意味はないですからね」
「困った仙だな」
 ふっと、気が抜けたように清江が笑った。今度は呆れたようだ。それもいい。否定なり拒否なりされてしまうとさすがに平気ではいられないが、これなら上々だ。
 知っていて、好きにさせてくれるなら。この想いをまだ持ったままで、それを理由にここに居たいと願うことを止めずにいてくれるなら。
 やはり、おひとよし。本当に、優しすぎる。これでは付け入られても文句は言えないと思う。
「私には、あなたにできることはありますか?」
「……」
「あると言えば?」
「あなたが少しでも望んでくれるなら、ここに居たいですね、ずっと。身代わりでも慰めでもいいので」
「身代わりなど!」
「私は神なんかじゃないし、きっとその方みたいに魅力的でも何でもない、貧相な仙人です。でも、そんなんでもここに居ることで、あなたが少しでも慰められるなら。目障りでないのならば」
「流文。そのような言い方をするものじゃないと……」
「でも。そうですもん。私なんて、なんの力もなくて。それなのに、あなたといたいがために、天帝まで動かしてここに居ようとしてる。厚かましいにも程があるってもんです。あなたに、ここにいる理由を作ってもらえないと、いられないのに」
 綺麗に微笑むつもりが、少し苦くなった気がした。けれども、なんとか頬を緩ませるくらいのことはできた。たとえ清江が見ていなくとも。
「私、ここにいるために、賭けに出てもいいですか。もちろん、私の判断です。そうするだけの価値が、私にはあると思っていいですか」
 同じ思いを返してくれというんじゃない。どんな理由でも、それが些細なものでもかまわない。そう祈るように思った。ここで突き放されればそれが結論だ。
 じっと、清江の言葉を待った。今は隣に座る彼に体を向け、その意志の全てを受け止めようとしていた。
「君に、危険を冒させることがしたいわけじゃない。私のために君に万一のことがあれば、私は自分を保てなくなる」
「……では」
 ああ、それもまた、この人の言い分。決して理不尽でも何でもない。流文が金丹を失って、この人が嘆いてくれるなら本望だと思うのはあくまでもこちらの言い分で。流文が彼にとってどういったものであっても、ひとときでも親しく関わった者を自分のために犠牲を払わせるなど、できる人ではない。
 わかっている。わかっていても、選ぶしかないから。その言葉を聞けただけで、満足せねばならぬのだろう。
 それでも。
「もしうまく行かなくて……あなたを悲しませることになるのなら、嫌だなあって。私も思っています」
 そんなことで自分の価値を測るなど、この人は嫌うのだろう。それも、みんなわかる。
 ならば、お別れですねと、口が言おうとした時。
「君の!」
 語気の強い言葉が、清江から発せられた。ここまで逸らされていた彼の視線が、強く流文をとらえた。
「君の望みが、私の望みでもある以上、私はそれを諦められない」
「……清江……?」
「失うのはもう懲り懲りだ。だが、もしもと願ってもいいのならば、運を天に預けてはくれまいか」
「それって……」
 どういう意味ですか、もっと分かりやすくと、急く心を阻むものがあった。
 測って読んで試して疑って、悟ろうとして勘違いをして早とちりして…、心がすれ違う理由になるそんな全てが入り込む余地のないほどに、簡単に言ってほしいと思った。
 まどろっこしい言葉じゃなくて、どうあってもほかの解釈ができないほどに、明確に。
「私は……」
 言いかけたとき、清江がはっと息をのんだ。
「……!」
 清江は何かを感じ、急に険しい表情を作った。地上になにか異変があったのだということはすぐに察しがついた。天上の神はこうやって、地上を把握しているものであるらしい。
 しかし、なぜ今なのだ。言葉にできなかった思いが胸を焼くが、それどころではないこともまた察することができた。しかし、清江もまた同じ思いでいたようだ。
「すまぬ。行って来る。話の続きは、後で必ず」
 焦るように強く言って、一度名残惜し気なまなざしを寄越してから、すぐさま立ち去ろうとする。
「私も連れて行ってください。地上に降りれば私にも力は使えます」
「……わかった」
 今は離れたくないと互いが思った。
 地上に降りるときは、口づける必要はない。流文が清江の腕をつかみ、清江が流文の腰を抱き寄せて、二人は邸から姿を消した。
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