潤 閉ざされた楽園

リリーブルー

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第一章 学校と洋講堂にて

初めてのキス

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「え?」
とまどう瑶に、潤は、
「練習だよ」
と言って、となりあっていた席の椅子を、ひざがつくほど寄せてきた。潤は、瑶のあごの裏にクイっと人さし指をかけると、品定めするように瑶の顔を見て、
「ふうん、けっこう可愛いんだな」
とつぶやいた。けっこう……って。失礼とも受けとれる不遜な態度やことばだったが、潤だから仕方ない、と瑶は思った。潤は、人を遠ざけているところがあって、それが冷たい美貌と相まって、少し潤を傲慢に見せていた。上級生に呼び出されているのも、最初、なまいきだと、しめられてでもいるのかと思ったくらいだ。
 けれど、これほどの美少年なら、そんな傲岸な態度になるのもいたしかたないと瑶は思った。潤に、品評会の林檎か何かでも見るように、モノみたいに扱われるのは、かえって、ぞくぞくするような快感だった。
 椅子から身を乗りだして、まじまじと瑶の顔をのぞきこんだ潤の顔が、至近距離にあった。まるで、自分が女の子になったように、どきどきした。
「目をつぶって」
潤は、瑶に顔を近づけ、長い睫毛を伏せて言った。瑶も目を伏せざるを得なかった。あまりにも近かったから。
 潤の唇は珈琲の香りがした。制服のシャツの、ゆるめたネクタイの襟元からは、ほのかに甘く優しい香りが立ち上っていた。
 雛のくちばしがふれあうような、かすかな接触があって、緊張した瑶は、びくっと身をすくめた。瑶が身を引いたので、潤は、瑶の肩をぐっとつかんで、のしかかるようにもう一度瑶をとらえようとした。潤の、しなやかな野生の肉食獣のような身のこなしに、瑶は、草食獣のように、とっさに身を引いてしまった。
 いざとなると、本能的な、おそれが生じた。初めて口づけすることへの、生まれて初めて性的な行為に踏みこむことへの、何かを失うことへの、子ども時代に別れを告げることへのおそれ。ひとたび踏みこんだら、もう元には戻れないことへの躊躇。相手が級友であることの、そして何より男子であることの禁忌の感覚が大きかった。
 瑶は、反射的に顔をそむけた。潤は「なんだよ」というように、瑶の肩から手をはずした。潤は、あきらめたように、肩をすくめてから息を吐いた。「意気地なし」と言われたようで悲しかった。
「ごめん」
瑶は申し訳ない気持ちがして、あやまった。
「いいよ」
潤は、仕方ないなあ、という様子で、しかし不服そうに、自分の背中を椅子の背もたれに投げた。
「こわい?」
潤は瑶の方を横目で見て聞いた。
「そうじゃないけど」
瑶は、なんと言っていいかわからなかった。下手なことを言って、潤に嫌われたくなかった。潤は、眉をひそめてたずねてきた。
「だったら、嫌い?」
美しい自分のキスを受けないなんて、どうかしている、とでも言いたげだった。
「潤のことは、嫌いじゃないよ」
潤のことは、好きだよ、と言おうとしたけれど、そんなことを言ったら、余計ばかにされそうだったので、言わなかった。
「俺のことが嫌いってわけじゃないんだ?」
潤は、ご満悦の表情になった。
「もちろんだよ。潤を嫌いな人なんて、いないんじゃない?」
瑶が、あわててそう言うと、潤は、おべんちゃらを言うなというような、人を見くだした冷めた目つきで瑶を見た。
「ほら、だってさ、潤って、綺麗だし」
瑶は、うっかり余計な本音を洩らしてしまったと、言ってから、また顔が熱くなった。しかし潤は容姿に関する賛辞は聞きなれているのか、瑶の言ったことには頓着せず、素知らぬ様子で、言った。
「それなら、俺といっしょにエロースの愛の階梯を試してみない?」
「エ……エロ?」
瑶は当惑した。
「違うよ」
そう言って、潤は、ソクラテスがとかプラトンの饗宴にとか、ギリシャ哲学ではとかローマではとか、ギリシャ時代には少年愛がとか、難しい、瑶にはわけのわからないことを長々としゃべった。
 瑶たちの学校は、この地域トップの進学校で、医師や弁護士、代議士など、地域の名士といわれる類の子弟が、ごっそり通っていた。なので、衒学的なことを言いたがる、というか、実際、瑶にはない教養や知識がある生徒も多かった。それで、またそういう小難しい知識自慢か、と瑶は聞き流した。
「でも、潤は、たくさん経験あるんでしょ?」
瑶は、よくわからないまま、知ったふりをして相づちを打った。
「経験? 今は、あんまり。クラスメイトとは、ないな」
潤は、さっきの話しをちっとも理解できない瑶を軽んじる様子で、つまらなそうに答えた。
 恋愛経験が今はあまりない、だなんて、おおかた、うぶな瑶を安心させて手なずけるための返答だろう。四月なので新しいクラスメイトとは、まだ恋愛ざたになっていない、というだけではなかろうか。過去には、さぞいろいろ、と疑われた。
「そんなに、俺が、見さかいないと思っているの?」
潤は、沈黙を瑶の疑いととったのか、瑶が潤についてきた真意を確かめようとするように聞いてきた。
「そんな風には、思ってないよ」
瑶は、注意深く潤の様子を観察してきたから、恋の誘いに潤が慎重に対応していることは知っていた。だから、潤に関するうわさを、すべて鵜呑みにするなどということは、けしてなかった。
「だけど、今みたいに急にせまられると、やっぱりうわさ通りだったのかって……それに焦るよ」
瑶は、潤と自分とを守りたい、抗議のために、怒ってみせた。
「瑶も、俺とエッチなことがしたくて後をつけてきたんじゃないのか?」
この美しい生き物と、エッチなことをしたいか、だって? 問われて、瑶の動物的な希求は、yesと答え、ぐっと鎌首をもたげた。潤の性的な魅力に導かれたという点では、当たっていたのかもしれない。けれど、少なくとも表面意識では、誘って具体的にどうこうしようなどといういかがわしい意図までは持っていなかった。瑶の気持ちは、それだけではなかったと思う。
「よく、後をつけられたりするの?」
瑶はたずねた。
「過去には、そういうことも、よく、あったんだ」
潤は、慎重に答えているようだった。
「そしたら、今みたいにキスするの?」
瑶は、尋問した。
「そういうわけではないよ」
潤は、瑶の目を見て、瑶が敵か味方か見定めているように、注意深く答えた。
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