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第二章
翌朝
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翌朝、目覚め、起き上がりカーテンを開けると、外は晴れていた。眠りながら雨の音を聞いた気がしたのは、夢だったのだろうか。昨日のことも、みんな。だったらいいのに。よく見ると、窓外の木々の葉は、まだ濡れていた。何もかも、夢ではなかったのだ、と思った。
弓弦さんの部屋のドアをノックして、返事があったので、ドアを開けると、彼の包帯の白さが、痛々しく、また神々しく、僕の目に入った。弓弦さんの静かな高貴さと、広い肩があいまって、聖なる戦いで負傷した戦士のように見せていた。
「痛む?」
「Si,certo」
彼は、痛みに耐えるように眉をひそめて答えた。弓弦さんは朝食をとると、再び眠ったようで、彼の部屋は静かだった。
思い返して見れば、数日前から、弓弦さんの様子は、何かおかしかった。僕は、つらつらと振り返った。それがこんなひどい結果の前兆だったなんて。僕は、どうして事が起こる前に、何とかできなかったのだろう? なぜ気づかなかったのだろう? と自責した。
数時間後、弓弦さんが、苦しそうな声をあげた。僕は、弓弦さんの部屋の、ドアの外から声をかけた。
「起きたの? 入ってもいい?」
「ああ」
ドアを開けて見ると、弓弦さんは寝台の上で、目を開けていた。
「夢を見ていた?」
僕の問いかけには答えずに、弓弦さんは起き上がって、寝床を抜けると、窓の前に立ち、右手で生成りにブルーの筋の入ったカーテンを少し開けて、窓の外を除くようにした。うす青く見えるグレーの、リンネルのパジャマの左肩がはだけているのが、お能の物狂いの拵えにも見えた。僕が、部屋に入って、ガラスの水差しの水を確かめていると、
「帰ってきたところを十字架にささって」
弓弦さんが窓ガラスに向かって言った。
「え?」
僕は、手を止めて、彼を見た。彼の発音はいつも明瞭で、声もよく通るので、僕に背を向けていたからといって、彼の言葉が、はっきり聞こえなかったわけではなかった。ただ、聞こえた言葉が、あまりにも、唐突なので、驚いたのだ。
「パスコリの詩?」
僕は尋ねた。彼がつぶやいた言葉は、『八月十日』の詩の一節に似ていた。
「君に会おうとして、ほっとしたんだ。安心したところを……帰る」
「何?」
今度は、よく聞こえなかった。僕は、弓弦さんの表情を見ようと、窓ガラスに目を凝らした。彼の顔が、ぼんやり映っていた。能面のような、というと表情がない形容詞だが、実際演者がつけた能面には、いや、展示されている古い能面にすら、無限の表情があるように、無限に解釈できる、そんなような静謐な顔つきだった。
僕は、真相を解明したいと思うあまり、このところ、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、神経を張り詰めて、生活していた。けれども、彼のぼんやりした様子と、起きたばかりという状態に、ふと思い至って、尋ねた。
「夢の話?」
彼は、窓ガラスを超えてどこか虚空に向かって語りかけるのをやめ、演者が役を解いたかのように、僕を振り返って言った。
「ああ夢、夢の話」
彼はまるで、夢幻能の亡者のようだった。
「僕はまた、昨夜のことかと思った」
拍子抜けして、僕は抜け殻のベッドに腰掛けた。覚束ない、手触り。夢のような。
弓弦さんの部屋のドアをノックして、返事があったので、ドアを開けると、彼の包帯の白さが、痛々しく、また神々しく、僕の目に入った。弓弦さんの静かな高貴さと、広い肩があいまって、聖なる戦いで負傷した戦士のように見せていた。
「痛む?」
「Si,certo」
彼は、痛みに耐えるように眉をひそめて答えた。弓弦さんは朝食をとると、再び眠ったようで、彼の部屋は静かだった。
思い返して見れば、数日前から、弓弦さんの様子は、何かおかしかった。僕は、つらつらと振り返った。それがこんなひどい結果の前兆だったなんて。僕は、どうして事が起こる前に、何とかできなかったのだろう? なぜ気づかなかったのだろう? と自責した。
数時間後、弓弦さんが、苦しそうな声をあげた。僕は、弓弦さんの部屋の、ドアの外から声をかけた。
「起きたの? 入ってもいい?」
「ああ」
ドアを開けて見ると、弓弦さんは寝台の上で、目を開けていた。
「夢を見ていた?」
僕の問いかけには答えずに、弓弦さんは起き上がって、寝床を抜けると、窓の前に立ち、右手で生成りにブルーの筋の入ったカーテンを少し開けて、窓の外を除くようにした。うす青く見えるグレーの、リンネルのパジャマの左肩がはだけているのが、お能の物狂いの拵えにも見えた。僕が、部屋に入って、ガラスの水差しの水を確かめていると、
「帰ってきたところを十字架にささって」
弓弦さんが窓ガラスに向かって言った。
「え?」
僕は、手を止めて、彼を見た。彼の発音はいつも明瞭で、声もよく通るので、僕に背を向けていたからといって、彼の言葉が、はっきり聞こえなかったわけではなかった。ただ、聞こえた言葉が、あまりにも、唐突なので、驚いたのだ。
「パスコリの詩?」
僕は尋ねた。彼がつぶやいた言葉は、『八月十日』の詩の一節に似ていた。
「君に会おうとして、ほっとしたんだ。安心したところを……帰る」
「何?」
今度は、よく聞こえなかった。僕は、弓弦さんの表情を見ようと、窓ガラスに目を凝らした。彼の顔が、ぼんやり映っていた。能面のような、というと表情がない形容詞だが、実際演者がつけた能面には、いや、展示されている古い能面にすら、無限の表情があるように、無限に解釈できる、そんなような静謐な顔つきだった。
僕は、真相を解明したいと思うあまり、このところ、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、神経を張り詰めて、生活していた。けれども、彼のぼんやりした様子と、起きたばかりという状態に、ふと思い至って、尋ねた。
「夢の話?」
彼は、窓ガラスを超えてどこか虚空に向かって語りかけるのをやめ、演者が役を解いたかのように、僕を振り返って言った。
「ああ夢、夢の話」
彼はまるで、夢幻能の亡者のようだった。
「僕はまた、昨夜のことかと思った」
拍子抜けして、僕は抜け殻のベッドに腰掛けた。覚束ない、手触り。夢のような。
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