凶幻獣戦域ラージャーラ

幾橋テツミ

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第1章 異空の超戦者たち

海の教界、開戦す①

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 万感の想いで絆獣たちの出撃を見送ったルドストン凱鱗領教率者バジャドクは、“開戦”までの暫しの猶予を利して己の精神を整序するため執務室に籠もると、困難に見舞われた際に必ず繙く呪念士の聖書バイブルというべきくすんだ金色の【刻念宝鑑】の一辺1.3レクト(約1メートル)に達する巨大な正方形の表紙をめくったのであるが、次の瞬間その痩身は石像と化したかのごとく硬直した。

 太古の叡智を難解な呪句によって、いわば暗号化して記された凱鱗領の宝とも見なすべきページ群は、半レクトにも及ぶ厚みを底に至るまで無残に、だが精緻極まる技量を以て刳り抜かれ、
あろうことか失踪した腹心たる執務長と翰林長官のドス黒く変色した屍面デスマスクが些かの空隙も残さず嵌め込まれていたのである!

 死者への冒涜も極まれり…その貌は文字通り顔面のみを頭部から截ち割られ、半開きの虚ろな眼差しを生涯に渡って仕えし支配者に向けている…。

「ガ、ガイロ、それにミュキル…何という姿に…そ、そしてラージャーラにただ一冊残された宝鑑が完全に破壊されてしまっておる…!」

 血の気を喪い、肩まで達する白髪と胸元まで届く白髯よりも白化した顔色で呟いた教率者は日頃の威厳を忘れ去り、一瞬よろめくと怯えた眼差しで室内を見回す。 

 あたかも狼狽する絶対者を嘲笑うかのごとく、その時死者が唇を硬直させたまま喋り始めた!
 
 その第一声を耳にした刹那、剛直な性情で教民に畏怖される百戦錬磨の老教率者は鈍く光る深緑色の、怪魚の鱗をびっしりと張り詰めた豪奢な執務椅子にへなへなと崩れ落ちたのであった…。

「ふふふ、ラージャーラに2人と存在せぬ大呪念士バジャドクとも思えぬ取り乱しぶりではないか…この程度の妖異に自失するようでは、我らが教軍の威容に震撼し、戦わずして降伏したようなものだぞ…」

 ある種の優雅さを湛えながらも、灼けた鋼のごとき酷烈な戦闘意志を底流させる、言うなれば“怒れる鬼神の音声おんじょう”に、バジャドクは震えを帯びた声音で質す。

「貴様…鏡の教聖か…?!」

 一瞬の沈黙の後、凄みに満ちた含み笑いが応じる。

「──残念ながらそうではない。だが凱鱗領教率者よ、そもそもそれは思い上がりというものだ…偉大なる教聖がおまえごとき卑小な存在相手に“直接対話”を試みると思うのか…?」

 さすがにこの嘲弄は萎えかけた誇り高き大呪念士にして辣腕教率者の強烈な自負心を刺激し、赫怒させるに十分であった。

「ほう…敵軍の首魁でないとするならば、貴様こそ大きな口を叩くではないか?

 一体、死者の口を借りねば意思も伝えられぬ卑劣にして惰弱なお前自身は何者なのだ?」

「我が名は摩麾螺マキラ…!」

 バジャドクとは対照的に、あからさまな挑発に寸毫の動揺も感じさせずに放たれた名乗りは、話者の絶対的な矜持をまざまざと感得させた。

「──摩麾螺とな?そういえばその奇妙な名は何度かミュキルやゴーゼクから耳にしたことがあるぞ…確か統衛軍の俊傑ばかりを狙い、闇に隠れて卑怯極まる襲撃を掛けては首級しるしを挙げてゆくという文字通りの疫病神…いや、龍坊主!──それが貴様なのだなっ⁉」

 この発言の後に落ちた沈黙は、先程のそれとは明らかに異なっていた…そしてそれを証明するかのような現象が発生し、バジャドクの炯々と光る双眸を瞠目させる。

 既に神牙教軍によって修復不可能なまでに毀損された刻念宝鑑が、見えざる手によって放たれたあおぐろい焔に包まれたのだ!

 呆然と机上の怪異を見つめるバジャドクの脳裡に、瞋恚を滾らせる摩麾螺の宣告が突き刺さる。

「…二度とあの弱卒どもと私を同一視するな…言っておくが、私は教軍超兵ですらない…あくまでも“神牙教軍最強戦士”であることをしかと銘記せよ…形式上は黄金の海龍党の“副頭目”ということになっているがそれもとんでもない誤りだ…良い機会だからここで宣言しておこう…この摩麾螺こそ、神牙教軍において鏡の教聖に次ぐ、そしていつの日か凌駕するであろう真に偉大なる存在なのだとな…!」

「たかが下部組織の、一介の幹部にすぎぬ一匹の龍坊主にかくも誇大な大言壮語を赦すようでは、神牙教軍の統制…そして頂点に立つ鏡の教聖の実力も伝説ほどではないのかもしれんな…いや寧ろ、貴様の浅はかな愚言を通じてその最期は決して遠くはないと確信させてもらったわ── 礼を言うぞ、狂えし龍坊主よ…!」

 焔の勢いは更に増し、今や一本の火柱となって執務室の高い天井を焦がすに至るが、凱鱗領教率者は意に介する風もなく鱗椅子に深々と背を預け、悠然と長い脚を組み替える。

「…バジャドクよ、近々、その首は必ず貰い受けるぞ…だが、今回の私の訪問の目的はそれではない…あの目障りな殺し屋どもに対する決闘の宣告だ」

 この意外な申し出に完全に冷静さを取り戻した教率者は怪訝な表情を浮かべる。

「殺し屋どもとの決闘?一体何を言っている?お前が狂っていることは先刻承知だが、あまりに妄言が過ぎないか?私への無意味極まる脅迫が済んだ以上、さっさと退散したらどうなのだ?」

 だが、灰燼と帰した屍面は焔越しに意外な言辞を弄し続ける。

「老いさらばえ果てた哀れな脳髄では私の意思を理解し得なかったと見えるな…では耄碌した貴様にも理解出来る言葉で告げよう…絆獣聖団擁する錬装者…その代表者、もしくは全員と我が海龍党の選抜者どもとの一騎討ちを申し込もうというのだ…尤も舞台は我らの本拠地たるメッズ島においてだが、な…」

「愚か者め…我が教界に昼夜を問わず命懸けの献身を続けてくれているあの勇士たちを陥穽ワナだらけの“悪魔の巣”に送り込むことをこの私が承諾すると思うのか…⁉」

「くくく、昼夜の骨身を惜しまぬ貢献か…だがそこで奴らと相見あいまみえる狂魔酒の使徒ども…奴らは死の間際に常に叫んでいるのだぞ、“メッズに来ぬ限り海龍党との真の戦いは始まってもおらぬ”とな…そして錬装者れんちゅうも既にその気になっているのだ…つまり、後は貴様に“死霊島メッズ”へ渡航する承認を求めるだけだということよ…ま、貴重な助っ人の身を案じるお前がいかに制止したところで、雑魚ども相手に実力を誇示することでとことん思い上がった奴輩は必ずや乗り込んでくることだろうて…せいぜい、虚しい説得に励むがいいわ…」

 確信に満ちた教軍超兵の捨て台詞に微かな動揺を覚えつつも、統衛軍の俊英たちをも凌駕する精悍さと聡明さを備え、事実として見事と讃える他ない戦果を教界各地で挙げ続けるスペンサーやモラレスの勇姿を想起したバジャドクは、その場で宮殿に残っていた補助リザーブの操獣師立ち会いの下、彼女の聖幻晶と該ミッションの錬装者軍団のリーダーを任じられたレイモンド=スペンサーの錬装磁甲に内蔵された通話回路を同調させた上で緊急討議し、狂魔酒が誕み出した“仮面の死神”どころではない真の脅威である棘蟹の迎撃に専念し、海龍党の挑発に乗ることを厳に自戒するよう懇請したのであるが、これが最悪の事態をもたらした…というのも、錬装者スペンサーらはメッズ島襲撃など考えてもおらず、海龍党からの決闘申し込みも彼を通じて初めて知ったからである!

「しまった!摩麾螺ヤツに嵌められたかっ⁉」
 
 兎にも角にも、刃獣トゲガニ襲来という異常事態に見舞われた以上、今後の行動指針を協議するため錬装者たちを一旦海底宮殿に呼び戻そうとしたバジャドクであったが、それぞれの遠征地において錬装磁甲の通信機能を駆使しつつ善後策を探ったスペンサーらは、寧ろ棘蟹対策に専念するためにも海龍党壊滅を急ぐべきだとの結論に達し、刃獣の猛威をかい潜って集結し、最強水棲絆獣ポーネックの力を借りてメッズ島へ直ちに乗り込むことを決定したのであった…。

 要請によって駆け付けた親衛隊に消火活動を任せ、ロゼムスが陣頭指揮を取る18面もの巨大スクリーンを壁面にぐるりと巡らせた[中央司令室]に悄然と、暗澹たる表情で現れたバジャドクは、錬装者たちとの連絡手段を失った現在、最後の希望の綱たる絆獣部隊が容易ならぬ苦境にあることを直ちにさとらされた。
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