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第一章 蒼乱
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ここは海辺の街。
賑やかな中心部を抜けて海岸線に出ると、長く続く高い塀に囲まれた大きな家がある。
木々に囲まれ、道路からは中の詳しい様子を伺うことはできない。
もっとも、車通りはあるが歩いている人は滅多にいないので伺うような人もいないだろうが。
中の建物は新しいのだが、昔の湯屋の雰囲気に似ている和風家屋だ。
広い砂利敷の駐車場に車を停めて外に出ると、ほのかに潮の香りが漂ってきた。
思わずネクタイが歪んでいないか、確認。
ごくりとつばを飲み込んで、歩き出した。
砂利の駐車場を抜けると、植木に覆われた入り口が見えた。
細い路地のような石畳の通路を歩いていく。
石畳は打ち水を施されていた。
少し行くと、玄関が見えた。
引き戸の両側にはなんの文字も入っていない大きな提灯がぶら下がっている。
「いらっしゃりませ、お初にお目にかかります」
俺を待ち構えるように立っていた従業員に引き戸を両側から開けられた。
「あ…ありがとう…」
恐る恐る中に足を踏み入れると、右手から着流し姿の若い男が現れた。
長身で広い肩幅を持っている。
整った顔に表情はない。
まるで品定めをするように、しばらく不躾に俺を眺めた。
若い、と言っても俺よりも年は随分上だろう。
着流しの上には半纏を羽織っている。
こういう場所には、なんとなくお婆さんが出て来ると思っていたから、少し拍子抜けした。
ドラマや映画の見過ぎなのか。
彼の羽織っている半纏の掛襟には名前が入っている。
『傾城屋わたつみ楼』
──ここは遊郭。
もちろん、違法営業だから表向きには看板は出ていない。
「…ご紹介の…成田様ですね?」
その男はゆっくりと口を開くと、人懐こそうな笑顔を向けた。
笑うと、人が変わる。
「ああ…今晩、よろしく頼むよ」
「私、引き回しの湊と申します。よろしくお見知りおきを」
広い玄関の上がりにふわりと膝をついて座った。
さっと両手をつくと、静かに頭を下げた。
その動きは、優雅だった。
こういう場所の従業員も、日舞かなにかの素養があるんだろうか。
「おはーつー」
そう湊が奥に向かって叫ぶと、一斉に声が聞こえた。
「いらっしゃりませえっ…」
わたつみ楼の中は、広々としていた。
大学時代の先輩の国岡さんから聞いてはいたが、外観のシンプルな作りに比べて内装の贅沢さに驚いた。
玄関を上がると、畳敷きの広間のような廊下が広がっている。
正面には木造りの大階段が見えている。
その両サイドも廊下になっていて、畳敷きが伸びていた。
玄関の横にはフロントのようなものがあって、そこには大振りな器に生花が生けられている。
従業員は皆、和服を着て前掛けをしている。
教育が行き届いているらしく、まっすぐに俺のことを見る者は居ない。
「成田様、こちらに…」
革靴を脱いで上がると、湊が先に立って歩き出した。
引き回しとはここ特有の言葉だそうで、遊郭の中を客を引き連れて案内することからそう言うとのことだった。
なんだか罪人みたいじゃないか…
…まあ、違法営業だと判って来ているから、罪人には変わりないか。
などと思いながら後ろをついていくと、従業員がすれ違いざま頭を下げていく。
「いらっしゃりませ。成田様」
口々に俺の名前を言っていくから驚いた。
ここは本来、顔なじみの客しか取らないから、客の顔は全員覚えているのだろう。
今日は特別に、馴染みの先輩の紹介ということでねじ込ませてもらったんだ。
瀟洒な作りの座敷に通されると、ふかふかの座布団に座らされた。
ここは一階にある座敷で、見渡した所、艶めかしい雰囲気のものはなかった。
本当に遊郭なんだろうか。
床の間にはシンプルな水墨画と可憐な生花が飾ってある。
「本日はおはつでございますので、こちらでおいらんを呼んでおります。もしもお気に召さなければ、交代することも可能ですので」
入り口で膝を付きながら、湊がこちらに話しかける。
「い…いや、おいらんなどと、そんな位の高い人なら交代するといえば気を悪くするでしょう」
そう言うと、湊は感心したように俺を見た。
「…成田様は遊郭のことをよくご存知ですね」
「ああ…まあ…」
実はここに来る前に散々勉強した。
無駄に好奇心が旺盛だから、困ったものだと自分でも思うが、出先で恥をかくよりはいいと思ってる。
「ご安心を。この店にはおいらんが二人と座敷持ちが二人と、後はごちゃごちゃとおりますが、小さな遊郭でございます。茶屋があるわけでもございませんし…昔の遊郭のような事は言いませんから…」
「はあ…ごちゃごちゃ…」
そう混ぜっ返すと、湊は男前の顔を少し歪ませて笑った。
先程の人懐こい笑顔とは、またガラリと雰囲気が変わる。
なんだか、なんとも言えない色気のある男だ。
男臭いわけじゃなく、なんと言い表していいか…
もしかしてこの人も、過去にはここで……?
湊がひっこむと、ふすまが開かれ料理や酒が運ばれてきた。
御膳に載って、次々と運び込まれてくる。
遊郭があった時代の映画でも見ているような錯覚に陥った。
料理が出揃ったと思われる頃、引き回しの湊がまた座敷に入ってきた。
「おいらんが参りました」
湊は畳に手をついて挨拶をすると、ふすまを大きく開いた。
「失礼します…」
か細い声が聞こえたかと思うと、豪奢な着物を纏ったおいらんが座敷に入ってきた。
賑やかな中心部を抜けて海岸線に出ると、長く続く高い塀に囲まれた大きな家がある。
木々に囲まれ、道路からは中の詳しい様子を伺うことはできない。
もっとも、車通りはあるが歩いている人は滅多にいないので伺うような人もいないだろうが。
中の建物は新しいのだが、昔の湯屋の雰囲気に似ている和風家屋だ。
広い砂利敷の駐車場に車を停めて外に出ると、ほのかに潮の香りが漂ってきた。
思わずネクタイが歪んでいないか、確認。
ごくりとつばを飲み込んで、歩き出した。
砂利の駐車場を抜けると、植木に覆われた入り口が見えた。
細い路地のような石畳の通路を歩いていく。
石畳は打ち水を施されていた。
少し行くと、玄関が見えた。
引き戸の両側にはなんの文字も入っていない大きな提灯がぶら下がっている。
「いらっしゃりませ、お初にお目にかかります」
俺を待ち構えるように立っていた従業員に引き戸を両側から開けられた。
「あ…ありがとう…」
恐る恐る中に足を踏み入れると、右手から着流し姿の若い男が現れた。
長身で広い肩幅を持っている。
整った顔に表情はない。
まるで品定めをするように、しばらく不躾に俺を眺めた。
若い、と言っても俺よりも年は随分上だろう。
着流しの上には半纏を羽織っている。
こういう場所には、なんとなくお婆さんが出て来ると思っていたから、少し拍子抜けした。
ドラマや映画の見過ぎなのか。
彼の羽織っている半纏の掛襟には名前が入っている。
『傾城屋わたつみ楼』
──ここは遊郭。
もちろん、違法営業だから表向きには看板は出ていない。
「…ご紹介の…成田様ですね?」
その男はゆっくりと口を開くと、人懐こそうな笑顔を向けた。
笑うと、人が変わる。
「ああ…今晩、よろしく頼むよ」
「私、引き回しの湊と申します。よろしくお見知りおきを」
広い玄関の上がりにふわりと膝をついて座った。
さっと両手をつくと、静かに頭を下げた。
その動きは、優雅だった。
こういう場所の従業員も、日舞かなにかの素養があるんだろうか。
「おはーつー」
そう湊が奥に向かって叫ぶと、一斉に声が聞こえた。
「いらっしゃりませえっ…」
わたつみ楼の中は、広々としていた。
大学時代の先輩の国岡さんから聞いてはいたが、外観のシンプルな作りに比べて内装の贅沢さに驚いた。
玄関を上がると、畳敷きの広間のような廊下が広がっている。
正面には木造りの大階段が見えている。
その両サイドも廊下になっていて、畳敷きが伸びていた。
玄関の横にはフロントのようなものがあって、そこには大振りな器に生花が生けられている。
従業員は皆、和服を着て前掛けをしている。
教育が行き届いているらしく、まっすぐに俺のことを見る者は居ない。
「成田様、こちらに…」
革靴を脱いで上がると、湊が先に立って歩き出した。
引き回しとはここ特有の言葉だそうで、遊郭の中を客を引き連れて案内することからそう言うとのことだった。
なんだか罪人みたいじゃないか…
…まあ、違法営業だと判って来ているから、罪人には変わりないか。
などと思いながら後ろをついていくと、従業員がすれ違いざま頭を下げていく。
「いらっしゃりませ。成田様」
口々に俺の名前を言っていくから驚いた。
ここは本来、顔なじみの客しか取らないから、客の顔は全員覚えているのだろう。
今日は特別に、馴染みの先輩の紹介ということでねじ込ませてもらったんだ。
瀟洒な作りの座敷に通されると、ふかふかの座布団に座らされた。
ここは一階にある座敷で、見渡した所、艶めかしい雰囲気のものはなかった。
本当に遊郭なんだろうか。
床の間にはシンプルな水墨画と可憐な生花が飾ってある。
「本日はおはつでございますので、こちらでおいらんを呼んでおります。もしもお気に召さなければ、交代することも可能ですので」
入り口で膝を付きながら、湊がこちらに話しかける。
「い…いや、おいらんなどと、そんな位の高い人なら交代するといえば気を悪くするでしょう」
そう言うと、湊は感心したように俺を見た。
「…成田様は遊郭のことをよくご存知ですね」
「ああ…まあ…」
実はここに来る前に散々勉強した。
無駄に好奇心が旺盛だから、困ったものだと自分でも思うが、出先で恥をかくよりはいいと思ってる。
「ご安心を。この店にはおいらんが二人と座敷持ちが二人と、後はごちゃごちゃとおりますが、小さな遊郭でございます。茶屋があるわけでもございませんし…昔の遊郭のような事は言いませんから…」
「はあ…ごちゃごちゃ…」
そう混ぜっ返すと、湊は男前の顔を少し歪ませて笑った。
先程の人懐こい笑顔とは、またガラリと雰囲気が変わる。
なんだか、なんとも言えない色気のある男だ。
男臭いわけじゃなく、なんと言い表していいか…
もしかしてこの人も、過去にはここで……?
湊がひっこむと、ふすまが開かれ料理や酒が運ばれてきた。
御膳に載って、次々と運び込まれてくる。
遊郭があった時代の映画でも見ているような錯覚に陥った。
料理が出揃ったと思われる頃、引き回しの湊がまた座敷に入ってきた。
「おいらんが参りました」
湊は畳に手をついて挨拶をすると、ふすまを大きく開いた。
「失礼します…」
か細い声が聞こえたかと思うと、豪奢な着物を纏ったおいらんが座敷に入ってきた。
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