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楽しきこと

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「案外、アイツも気が短けぇからなぁ。こと闇堕人アビスに関しては特に」

 研究所の守衛室に戻り、紫煙を漂わせながら雪ノ原鉄志は一人呟く。七々扇が研究所内で“碇草”を発動した結果、研究所員を眠らせ、副所長であり息子である紫音しおんを殴打により気絶させた犯人は一筆奏雲いっぴつそううん所長であることが判明した。

 外界から遮断され、日の光も差し込まないこの場所は、時間の間隔が狂いやすい。研究者達は一向に気にしないが、そうでなければ居心地が良いとは言えないだろう。この場所で誰が何を考えているのかなど、実際は誰も分からないのだ。

 七々扇は雪ノ原に、明日には所員達も全て回復し此処に戻る事を伝え、その為少なくとも明日まではここの警備を頼んでいた。しかし、その時も雪ノ原に犯人については明言しなかった。元八咫烏の局長といえど、引退した者に対して捜査情報をおいそれと、七々扇の立場としては教えることは出来なかった。

 ただ七々扇の態度や仕草、依頼された時の情報等を合わせれば、一筆奏雲所長が七々扇のターゲットになったのだろうと言うことは、想像に難くなかった。

「一筆の野郎が闇堕人アビスとは、驚き半分、やっぱりかという気持ちが半分てところか」

 八咫烏の前局長を務めていた鉄志は、当然研究所の所長であった一筆奏雲とも関わりが深かった。それだけに今回のことに関しては、どこかで危惧していた通りになってしまったと、少し後悔の念も抱いていた。

 一筆奏雲の研究のモチベーションとも言える妻の存在が、この世から消えてしまった時から、奏雲が変わったと鉄志は感じていた。しかし帰還者オリジンではない鉄志は、本当の意味での奏雲の理解者となる事が出来なかった。

 そしてそれは七々扇に対しても、実は同じであり、鉄志は彼に対しても心配はしていた。椅子に深くもたれ、足を机に上げながら、口に咥えた煙草から止めどなく立ち昇る紫煙。瞳を閉じたその瞼の裏には、何が映っているのか。暫く鉄志はそのまま一人静かに誰も居ない、誰も来ない、そんな場所の護衛を続けたのだった。


「んあ? なんだ?」

 いつしか眠りについた鉄志の意識を引き戻すかのように、机の上に置いてあった携帯が鳴っていた。

「おう、俺だ。どうした?」

『はぁ、やっと出たよ……何っ回も掛けてたんすからね、親方。夕方に電話するって言ってたでしょうに』

 若い男の声は、呆れながらも何処か諦め気味に鉄志に文句を言っていた。割と頻繁に鉄志は、こういったちょっとした約束などを忘れることや、今日のように居眠りしていることも良くあったからだった。

「悪いな。ここが暇すぎて、完全に寝落ちしちまった」

『結構騒騒しい現場でも、親方は割と寝落ちしてるでしょ。はぁ、まぁいいや。それでこっちの動きなんですが、親方の読み通りですわ。奴等何やら集まっている様子で、何やら儀式の準備らしき物を進めてますね』

「奴さん達が欲しくて堪らなかった魔素が、そこら中に満ちてるからな。これまでの比ではない儀式を始めても、おかしく無いだろうが……それにしても、行動が早すぎるな」

『“Peace of mind”は、昨日から起きてる現象の主犯とかだったりしますかね?』

「今回、世界中で魔法による大々的なテロを行なった奴は、全員が各国にマークされていた闇堕人アビスの連中だと分かってるからな。それはないだろうと踏んでいたが……」

『アイツらどっちも悪党の癖して、仲悪いっすからねぇ』

 携帯から聞こえてくる声は、明らかに馬鹿にするような調子だった。しかし、鉄志もまたそれに同意するように頷いていた。

「仲良くされるよりは、なんぼかマシだな。行おうとしている儀式とやらは、十の氏族全てに見られる動きか?」

『えぇ、そのようっすね。どうします? 潜入員に妨害させますか?』

「そりゃ、アイツらに死ねって言うのと同じだぞ。能力を存分に使える様になったのは、あちらさんも同じだ。容易く妨害も逃走も厳しいだろ。先ずは、その情報を其々の国の軍部に渡せ。あとは、各国の将軍達の判断に任せるしかないだろう」

『承知っす。親方は、明日もまだそっちなんすよね』

「あぁ、日本は十の氏族の本家共がいないせいか、そんな動きは見られんが、弟子と古い友人の頼みもあってな」

『親方もそこそこのお歳っすから。そのまま里帰りを楽しんで貰ってもいいっすよ』

「うるせぇよ。そっちに戻ったら、取り敢えずぶん殴らせろ」

『ひやぁ、おっかねっすね。それじゃ、そんな手筈で進めときますわ』

「……気ぃ付けろよ。昨日から、この世界は変わっちまった。何が起きるか予測出来ん」

 鉄志には珍しい慎重な言葉に驚いたのか、会話が途切れ沈黙が数秒訪れた。

『何が起きても、俺達の覚悟は変わらないっすよ。あの悪魔共を一人残らず、この世から消し去るまでは。そうでしょう、親方』

「あぁ、そうだな」

 電話を切った後、鉄志は目を瞑った。思い出されるのは、あの日の光景。妻と娘を喪った日の惨劇。既に半世紀近く経っていても、瞼の裏には鮮明に甦る。

 “Peace of mind”の拠点を潰す度に、直視しなけばならないおぞましい光景は『黒鉄くろがね』の隊員を持ってしても、その場で気絶する者が居るほどだった。そしてその度に彼等もまた壊れ、まともではなくなっていった。

「五十年か……あと一歩というところまで来ていたってのに、なんでこんな事が起きるかねぇ……なぁ、嗤う男よ。お前は一体、この世界をどうしようってんだ?」

「そうだねぇ。この世界を僕は、もっと“面白くしたい”って事だけだね」

 守衛室の前に降って湧いたかのように現れた“嗤う男”は、戦う様子でも逃げる様子でもなく、ここに居るのが当たり前かのように佇んでいた。

「クソ野郎共が崇める“Satan”ってのは、お前の事だろ。クソども使って、何遊ぼうとしてやがる」

 守衛室の硝子越しにでも分かるほどに、鉄志の静かなる殺意は“Satan”と呼んだ者へと向けられていた。

「あ、僕だってバレちゃった? 凄いなぁ、君は。ねぇ、やっぱりこっちにおいでよ」

「愚問だな。それより“魔女”とは仲良くやってるか? もっとかまってやれよ、お前も連れないな。お前も男なら、女を寂しがらせるなよ」

 姿勢を変えず、相変わらず口から白い煙を吐き出し、机の上に乱暴に足を乗せたまま、鉄志は嗤う男にむかって口角を上げていた。

「そうだねぇ。確かにエヴァとなら、僕もいつかの様に、幸せな家庭・・・・・を築いても良いかもしれないね」

 嗤う男は、それはもう楽しげに嗤っている。まるで本心からの言葉のように自然に口から出た言葉は、確実に鉄志の心に届く。

 鉄志は思い出す。幸せだった頃の記憶を。奪われる前、確かにあった幸せの日々を。だから、堂々と男に向かって微笑むのだ。

「はぁ……そう言うところが、君は本当に厄介なんだよなぁ」

 微笑む鉄志を見ながら、嗤う男は口では嫌そうな口調だが、顔は楽しげに嗤っている。そして鉄志に対して背をむけ、出入り口に向かって歩き出しながら、最後に言葉を残していく。

「この国の時間にして今夜十二時、いよいよ舞台は整う。生きとし生けるもの全てが役者であり、主人公だよ。僕を楽しませておくれ」

 まるで自動ドアが開くように、嗤う男の前の空間が裂け始め、黒き衣を纏いし者は、その姿を再び闇に消すのだった。


 指に挟む煙草を灰皿に押し付け火を消し、新しい煙草を取り出し口に咥えると、鉄志は火を付けると、そのまま天井を仰ぎ見た。静寂が支配するこの空間で、鉄志は天井を見続けた。そしていよいよ灰が顔に落ちるというところで、ゆっくりと身体を起こした。

 灰は煙草から離れ、床に向かって落ちていく。静寂を壊さぬように、ゆっくりと静かに、ソレは落ちて行く。


「あのクソ親父……どうするつもりなんだよ、全く」

 都内の病院の屋上から街を眺めながら、一筆紫音いっぴつしおんは、苛立ちを隠さず呟いていた。常時羽織っている白衣と、手入れなどしていない割にサラサラな髪が風に揺れ、目を覆うゴーグルのレンズには、街並みが綺麗に反射していた。

「紫音さん! 探しましたよ!」

 紫音が振り向くと、屋上の扉の前で腕を組みながら眉間に皺を作るゆみゆきが立っていた。

「ゆゆタン……皺が酷いよ?」

「誰がゆゆタンですか! それに誰のせいで、皺が増えると思ってるんですか! 携帯の電源入れとかないと、連絡とれないでしょうが!」

 弓が激しく怒り狂ってるが、紫音は暖簾に腕押しの如く全く気にしていない。その態度が、更に弓の神経を逆撫でしていた。

「ゆゆタンは、副所長に対する礼儀ってのがないのかな?」

「副所長が副所長らしい立ち振る舞いをしていれば、こんな新人の平所員に無作法な態度を取れられなくて済みますよ」

「研究開発は、しっかりやってると思うけど?」

「それ以外は、完全にクソです。実験に関する苦情、実験の後始末、副所長としての事務作業等の面倒な仕事というか、やりなくない仕事を私に丸投げ。好きなことしかしないその姿勢は、どうして副所長という役職に対して仕事をしていると言えるのか、全くもって不思議なレベルです」

「ゆゆタン優秀だし、何よりオレっちの助手をやめない時点で相当凄いよねぇ。口は悪いけど、それはキャラなんだよね?」

 口元は口角が上がっているがゴーグルで目が見えない為、紫音が本当はどんな表情をしていか分からない。それも弓がストレスを感じる要因でもあった。額に青筋を立て、歯軋りを立てる雪はここで深呼吸をおこなった。

「……駄目駄目、キレちゃだめなのよ、雪。ここでキレたら、また逃げられてしまいそうなのだから」

 この二ヶ月間程の間に、弓は紫音に煽られキレたところで、上手に丸め込まれ雑務系の仕事を押しつけられてしまっていた。しかし、今回はそれは出来ないとぐっと堪え、冷静を保ように胸に手を当てた。

「ゆゆタン……ソコに手を当てても、何も当たらないんじゃない?」

 胸に手を当てている弓に向かって、思いっきり憐れみの視線を向けながら、紫音は態とらしく口に手をあて泣き真似をしている。

「ざけんじゃねぇぞコラぁあ! 誰が絶壁だ! 胸が無いから心臓の鼓動が感じやすくて、落ち着くの♪ って言うわけないだろが! このセクハラ野郎が!」

「セク……ハラ?」

 理解出来ないと言わんばかりに、自分の胸をスカスカと音をさせるようにさすりながら首を傾げる紫音の仕草を見た瞬間、弓の顔から感情が抜け落ちた。

「コ ロ ス」

 発せられた単語はただ一つ、そして怒りと殺意を込めたその一言が、弓の地雷を踏み抜いたことを示していた。目の前に立つ男が自身の上司であり、研究所のトップである紫音に弓は近づいた。硬く握りしめた拳が、わなわなと震えていた。

「ゆゆタンは、単純で好きだなぁ」

 やや俯きながら呟いた紫音の言葉は弓には届かず、完全に紫音を殴るつもりでどんどんと弓は近付いてくる。そして目の前まで辿り着き、紫音に手を伸ばせば届くと言うところで、弓の顔の目の前で眩く閃光が発生した。

 閃光を受けた瞬間こそ弓は驚きの表情を作ったが、その後すぐに無表情となりその場に立ち尽くした。

「“姓はゆみ、名はゆきに命じる。三回回ってワンと行った後、研究所に戻り、一筆奏雲所長から一筆紫音副所長への所長代行に伴う事務処理の一切を、一筆紫音の名の下に代行せよ”」

「……承知致しました」

 言われるがままに弓は三回回ってワンと行った後、屋上から一人で出て行った。手に何かの装置を握ったまま様子を観察していた紫音は、装置を見ながら目を細めた。

「いやぁ、これは正直驚きだねぇ。ちゃんと測定してみないとだけど……おそらく洗脳状態、もしくは完全催眠下にあったね。この魔道具に、そこまでの効果は出ない筈なんだけど、これもこの高濃度の魔素という条件下における性能の予期せぬ向上という事……」

 一人ブツブツと自らが持つ魔道具を見つめながら考察している紫音は、自分の考えがある程度固まった所でタブレット型の端末を白衣の内側から取り出した。

『各グループリーダーへ緊急連絡。魔道具の効果が著しく変異している可能性が高く、研究所の外での使用を一先ず禁止とする。開発品及び保留品についての性能検査を早急に行い、測定結果を報告書として提出することとする。以上』

 各部署を統括するリーダーへと指示を出すと、今度は携帯を取り出した。

「七々っち、どもども。あぁ、うん、もう大丈夫よ。昨日のことは院瀬っちに話したから、そっちから聞いておいてね。まぁ、誰も死ななくて良かったぐらいかな。親父の事は任せちゃう、オレっち的にはもう知らねって感じさ」

 弓に使用したペン型の魔道具を、クルクルと指先でまわしながら七々扇と話をしていた紫音は、少し話のトーンを下げた。

「あと魔道具なんだけど、そっちに渡してある武具系統の物もそうで無いものも一度、性能検査しておかないと不味そう。この高濃度の魔素に晒されている条件下で、渡してある魔道具は調整してないからさ。うん、研究所に来てもらう時間はないだろうから、こっちから測定班を向かわせるよ」

   七々扇との電話を切った後、紫音は空を見上げた。

「オレっちは、そっちに行かずにあんたを越えるさ」

 風が天に運ぶのは、新たな決意と覚悟なのであった。
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