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今日という日に
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自分自身が生まれた瞬間の記憶など、殆どの人間が覚えていないだろう。
赤ん坊としてこの世界に産み落とされた瞬間を“誕生”と定義するならば、俺もその時の記憶などは覚えていない。
しかし俺は、「誕生の瞬間を覚えているか」と問われれば、今日という日に起きたことを答えるに違いない。
身体にまとわりつく湿気は、梅雨の仕業だとわかっていても人を苛立たせるものであり、それはやる気なさそうに気を抜いている時雨 彌太郎においても、そのことに変わりはなかった。
彌太郎は額に汗をにじませ、時折腕でその汗をぬぐっていた。例年に比べ特に今日の気温は高く、移動中のちょっとした時間であっても外気に身体を晒すと、とたんに身体にまとわりつく湿気と高温のせいで汗が溢れ出てしまう。
朝の通学する時間帯でさえ暑いというのに、午後一時過ぎという悪魔の如き時間帯に外へと出かけるなど、どれだけ生徒をいじめたいのだと心の中では悪態をつく彌太郎だったが、根が小心者の青年には授業をサボるなどといった大胆な行動は、当然できなかったのである。
代わりに他の生徒が口々に文句を垂れ流しているのを聞いて、もっと言ってやれと心の中で煽ることだけだった。
「梅雨だし、暑くてだるいのはわかるんだけどな。もうちょっとしゃきっとできんか、お前ら。国会議事堂に見学に来ている高校生達の引率としては、中々に肩身が狭いんだが? それに、流石に中は外と違ってエアコンが効いて涼しいだろうが」
引率の教諭の言葉に二年二組の生徒達は苦笑しながらも、確かに冷房により程よく冷えた参観ロビーは、先ほどまでの地獄のような外の暑さとはまるで違い、一息つくには良い場所だった。
彌太郎は、壁にもたれかかると、嘆息を吐きながら周りを見渡していた。
校外学習の一環として国会議事堂へと来ているわけだが、特に熱心に何か学ぼうとするより、適当にやり過ごそうとしている者たちが彌太郎を含めて大半だった。
「まだエアコンがある場所なだけ、大分マシか」
呟く言葉に、誰かが返事をくれるわけではない。それが分かっていながらそれでも思わず口に出るほどに、今の彌太郎の気分は最悪だった。
今日は朝から体調が悪く、足取りが重かった。
今年の最高気温を更新するほどの暑さに加え、梅雨らしい高い湿度が玄関のドアを開けた瞬間に無慈悲に襲いかかった。
それでも平熱で欠席するほどの度胸は、彌太郎にはなかった。高校へと向かう電車の中、イヤホンから流れる音楽に対し何か考えるわけでもなく聞き流しながら、外の流れる景色を見ている。
そんなありふれた日常に自分はいつから退屈だと感じるようになってしまったのだろうと、答えのない問題を解こうとするような気持ち悪さを彌太郎は感じていた。
そして、その気持ち悪さは、人間関係にも影響を及ぼしていた。
元々友達と呼べるような存在は多くない彌太郎だったが、中学の頃はそれなりに話せる級友はいた。しかし高校に入ってから、正確には入学式の日から理由のない違和感を感じるようになると、高校では敢えて孤立するように集団からは距離を置くようになっていた。
何故だかわからないが、何か言葉にできない異質な感覚を覚えるようになってしまったからなのだろう。
自身が感じるようになった違和感に戸惑い、入学式からすでに一年以上経っているというのに、彌太郎は友と呼べるような存在を高校で新しく作ることができないでいた。
そればかりか、中学からの同級生とも自然に距離を置くようになっていた。それでも彌太郎は人が嫌いなわけでも、疎ましいと感じているわけではなかった。
だからこそ、この気持ち悪さがどこか嫌だった。
「ん? あいつら、何見てんだ?」
参観ロビーでトイレ休憩となり、クラスメート達は各々のグループに分かれて話をしていたが、直ぐにほぼ一斉にといって良いほどに一方向に向かって目線を奪われた。
そしてその現象は二年二組の生徒だけではなく、周囲の観光客達の眼差しさえも奪っており、原因は一人の女だった。
その視線を独り占めしている彼女は、歩くだけでただの照明がスポットライトのように彼女を輝かせ、フロアの人垣が誰かが号令を出したわけでもないのに美しく割れ、さながらランウェイのようだった。
その自信に満ちた足取り、ブルーアイの瞳、ストロベリーブロンドの髪が優雅に流れる様は、見た者の心を奪い去るには十分な存在感を有していた。
「凄いな……あんな漫画みたいな女って、リアルにいるんだな」
遠目からでもはっきりと分かる暴力的な身体の起伏が、まるで現実とは思えないほどに周囲に悪魔的な魅力を振りまいていた。
やがてその歩みを止めた彼女は、おもむろに天井を見上げた。その動作につられるようにして、彌太郎もまた天井を見上げた。そして周りの観光客や同級生達もまた、同じように顔を上げた。
まるで何かが見えることを期待するかのように、その場にいた全員が天を見上げた。
そして地獄は、天から降ってきた。
突然響き渡る轟音と振動により、参観ロビーにいた全員がその場に倒れるかしゃがみ込んだ。
否、全員ではなかった。ただ一人、碧い瞳を持つ女だけはまるで何も聞こえないかのように、そして揺れなど感じていないかのように、ただたその場に立ち天を見上げたままであった。
床にへばりつくように身体を支える彌太郎の目に、偶然にもその光景が映り込んだ。
彼女が両手を掲げると、薄く光る膜が彼女を包み込んだのだ。その現象を疑問に思うも、それについて考える時間は彌太郎には与えられなかった。
突如として天井の崩落が始まり、参観ロビーは一瞬にして死地と化したからだ。
どれほどの時間が、あれから経ったのだろうか
数秒だろうか、それとも何時間も経っているのだろうか
曖昧な感覚は、時間やそして痛みさえも狂わしてしまう
静寂。
彌太郎の耳には、生命の存在を感じさせる音は聞こえてこない。
観光客も同級生も自分と同じフロアに居たはずであり、本来なら悲鳴なり何なり聞こえていいはずなのだ。だから彌太郎は、聞こえてほしいと願った。
泣き声でもいい、悲鳴でもいい、呻き声だとしても誰かの声を聞きたいと心の底から願った。
こんな瓦礫と、物言わぬ誰かだったモノばかりの世界で、自分だけがまだ生きていると認めたくなかったからだ。
ひやりと冷たい床に溜まる血は暖かく、まるでぬるま湯に浸かるように、彌太郎は意識が微睡ながらもまだ生きていた。
そして仰向けに倒れる彌太郎の目には、再び天井が自分に向かって崩れようとしていた。
痛みを通り越し、全身が燃えるように熱くなり、そして不思議なことに意識は朦朧としながらも、何故か視界は鮮明だった。
崩れ落ちる天井は、死神の手招き以外の何物でもない。数秒後には彌太郎を完全に潰すだろう。
そんな状況であるのにも関わらず、彌太郎はそれとは逆に何故か身体には力が漲り始めた。
傷が癒えるわけでもなく、身体が動かせるわけでもなかったが、不思議と力が湧いてくる感覚があった。更には走馬灯というには突拍子もない映像が頭の中に、無理矢理に見ろと言わんばかりに映し出す。
お願いだ
君は泣かないでくれ
俺は……君の笑顔が好きなのだから
「こいつは……この傷で生きているのか。それに、大した魔力の持ち主なのだな」
現実と幻の狭間にいる彌太郎の意識に、何故か呆れられたかのような声が、右耳からいやにしっかりと入り込む。
静寂を完全に無視するかのように、彼女は言葉を止めなかった。
子供がブロック遊びでもするかのように、いとも簡単に彌太郎を潰していた瓦礫をどけると、片腕で彌太郎の右側の頭を掴むと無理やり立たさた。
「まぁ、その辺りのことは些細なことか。覚醒したばかりの帰還者に会えたこと、これもまた導きなのだろう」
春の陽気さえ感じさせるような明るく朗らかな声に、思わず此処が平穏で心休まる場所だと錯覚するほどだった。
実際は、地獄のほうがましじゃないのかと思うような惨状だというのに、彼女の声からは一切悲壮感は感じられない。そればかりか、その声は明らかに楽しそうだったのだ。
「さぁ、君も帰還者であるのならば、私の言葉は通じているのだろう? そこで、唐突にして即断を求めるが、これから選択の時間だ。君はこれまでの人生に終わりを告げ、新しい人生の産声を、地獄と呼ぶに差し支えがないこの場所であげるか? それとも、死して無となるか。君の答えを、私に聞かせてくれないか」
後世にて『終わりと始まりの日』と世界で定められたこの日、彼の人生にも『終わり』が訪れ、一人の魔女の手によって『始まり』がもたらされたのだった。
赤ん坊としてこの世界に産み落とされた瞬間を“誕生”と定義するならば、俺もその時の記憶などは覚えていない。
しかし俺は、「誕生の瞬間を覚えているか」と問われれば、今日という日に起きたことを答えるに違いない。
身体にまとわりつく湿気は、梅雨の仕業だとわかっていても人を苛立たせるものであり、それはやる気なさそうに気を抜いている時雨 彌太郎においても、そのことに変わりはなかった。
彌太郎は額に汗をにじませ、時折腕でその汗をぬぐっていた。例年に比べ特に今日の気温は高く、移動中のちょっとした時間であっても外気に身体を晒すと、とたんに身体にまとわりつく湿気と高温のせいで汗が溢れ出てしまう。
朝の通学する時間帯でさえ暑いというのに、午後一時過ぎという悪魔の如き時間帯に外へと出かけるなど、どれだけ生徒をいじめたいのだと心の中では悪態をつく彌太郎だったが、根が小心者の青年には授業をサボるなどといった大胆な行動は、当然できなかったのである。
代わりに他の生徒が口々に文句を垂れ流しているのを聞いて、もっと言ってやれと心の中で煽ることだけだった。
「梅雨だし、暑くてだるいのはわかるんだけどな。もうちょっとしゃきっとできんか、お前ら。国会議事堂に見学に来ている高校生達の引率としては、中々に肩身が狭いんだが? それに、流石に中は外と違ってエアコンが効いて涼しいだろうが」
引率の教諭の言葉に二年二組の生徒達は苦笑しながらも、確かに冷房により程よく冷えた参観ロビーは、先ほどまでの地獄のような外の暑さとはまるで違い、一息つくには良い場所だった。
彌太郎は、壁にもたれかかると、嘆息を吐きながら周りを見渡していた。
校外学習の一環として国会議事堂へと来ているわけだが、特に熱心に何か学ぼうとするより、適当にやり過ごそうとしている者たちが彌太郎を含めて大半だった。
「まだエアコンがある場所なだけ、大分マシか」
呟く言葉に、誰かが返事をくれるわけではない。それが分かっていながらそれでも思わず口に出るほどに、今の彌太郎の気分は最悪だった。
今日は朝から体調が悪く、足取りが重かった。
今年の最高気温を更新するほどの暑さに加え、梅雨らしい高い湿度が玄関のドアを開けた瞬間に無慈悲に襲いかかった。
それでも平熱で欠席するほどの度胸は、彌太郎にはなかった。高校へと向かう電車の中、イヤホンから流れる音楽に対し何か考えるわけでもなく聞き流しながら、外の流れる景色を見ている。
そんなありふれた日常に自分はいつから退屈だと感じるようになってしまったのだろうと、答えのない問題を解こうとするような気持ち悪さを彌太郎は感じていた。
そして、その気持ち悪さは、人間関係にも影響を及ぼしていた。
元々友達と呼べるような存在は多くない彌太郎だったが、中学の頃はそれなりに話せる級友はいた。しかし高校に入ってから、正確には入学式の日から理由のない違和感を感じるようになると、高校では敢えて孤立するように集団からは距離を置くようになっていた。
何故だかわからないが、何か言葉にできない異質な感覚を覚えるようになってしまったからなのだろう。
自身が感じるようになった違和感に戸惑い、入学式からすでに一年以上経っているというのに、彌太郎は友と呼べるような存在を高校で新しく作ることができないでいた。
そればかりか、中学からの同級生とも自然に距離を置くようになっていた。それでも彌太郎は人が嫌いなわけでも、疎ましいと感じているわけではなかった。
だからこそ、この気持ち悪さがどこか嫌だった。
「ん? あいつら、何見てんだ?」
参観ロビーでトイレ休憩となり、クラスメート達は各々のグループに分かれて話をしていたが、直ぐにほぼ一斉にといって良いほどに一方向に向かって目線を奪われた。
そしてその現象は二年二組の生徒だけではなく、周囲の観光客達の眼差しさえも奪っており、原因は一人の女だった。
その視線を独り占めしている彼女は、歩くだけでただの照明がスポットライトのように彼女を輝かせ、フロアの人垣が誰かが号令を出したわけでもないのに美しく割れ、さながらランウェイのようだった。
その自信に満ちた足取り、ブルーアイの瞳、ストロベリーブロンドの髪が優雅に流れる様は、見た者の心を奪い去るには十分な存在感を有していた。
「凄いな……あんな漫画みたいな女って、リアルにいるんだな」
遠目からでもはっきりと分かる暴力的な身体の起伏が、まるで現実とは思えないほどに周囲に悪魔的な魅力を振りまいていた。
やがてその歩みを止めた彼女は、おもむろに天井を見上げた。その動作につられるようにして、彌太郎もまた天井を見上げた。そして周りの観光客や同級生達もまた、同じように顔を上げた。
まるで何かが見えることを期待するかのように、その場にいた全員が天を見上げた。
そして地獄は、天から降ってきた。
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否、全員ではなかった。ただ一人、碧い瞳を持つ女だけはまるで何も聞こえないかのように、そして揺れなど感じていないかのように、ただたその場に立ち天を見上げたままであった。
床にへばりつくように身体を支える彌太郎の目に、偶然にもその光景が映り込んだ。
彼女が両手を掲げると、薄く光る膜が彼女を包み込んだのだ。その現象を疑問に思うも、それについて考える時間は彌太郎には与えられなかった。
突如として天井の崩落が始まり、参観ロビーは一瞬にして死地と化したからだ。
どれほどの時間が、あれから経ったのだろうか
数秒だろうか、それとも何時間も経っているのだろうか
曖昧な感覚は、時間やそして痛みさえも狂わしてしまう
静寂。
彌太郎の耳には、生命の存在を感じさせる音は聞こえてこない。
観光客も同級生も自分と同じフロアに居たはずであり、本来なら悲鳴なり何なり聞こえていいはずなのだ。だから彌太郎は、聞こえてほしいと願った。
泣き声でもいい、悲鳴でもいい、呻き声だとしても誰かの声を聞きたいと心の底から願った。
こんな瓦礫と、物言わぬ誰かだったモノばかりの世界で、自分だけがまだ生きていると認めたくなかったからだ。
ひやりと冷たい床に溜まる血は暖かく、まるでぬるま湯に浸かるように、彌太郎は意識が微睡ながらもまだ生きていた。
そして仰向けに倒れる彌太郎の目には、再び天井が自分に向かって崩れようとしていた。
痛みを通り越し、全身が燃えるように熱くなり、そして不思議なことに意識は朦朧としながらも、何故か視界は鮮明だった。
崩れ落ちる天井は、死神の手招き以外の何物でもない。数秒後には彌太郎を完全に潰すだろう。
そんな状況であるのにも関わらず、彌太郎はそれとは逆に何故か身体には力が漲り始めた。
傷が癒えるわけでもなく、身体が動かせるわけでもなかったが、不思議と力が湧いてくる感覚があった。更には走馬灯というには突拍子もない映像が頭の中に、無理矢理に見ろと言わんばかりに映し出す。
お願いだ
君は泣かないでくれ
俺は……君の笑顔が好きなのだから
「こいつは……この傷で生きているのか。それに、大した魔力の持ち主なのだな」
現実と幻の狭間にいる彌太郎の意識に、何故か呆れられたかのような声が、右耳からいやにしっかりと入り込む。
静寂を完全に無視するかのように、彼女は言葉を止めなかった。
子供がブロック遊びでもするかのように、いとも簡単に彌太郎を潰していた瓦礫をどけると、片腕で彌太郎の右側の頭を掴むと無理やり立たさた。
「まぁ、その辺りのことは些細なことか。覚醒したばかりの帰還者に会えたこと、これもまた導きなのだろう」
春の陽気さえ感じさせるような明るく朗らかな声に、思わず此処が平穏で心休まる場所だと錯覚するほどだった。
実際は、地獄のほうがましじゃないのかと思うような惨状だというのに、彼女の声からは一切悲壮感は感じられない。そればかりか、その声は明らかに楽しそうだったのだ。
「さぁ、君も帰還者であるのならば、私の言葉は通じているのだろう? そこで、唐突にして即断を求めるが、これから選択の時間だ。君はこれまでの人生に終わりを告げ、新しい人生の産声を、地獄と呼ぶに差し支えがないこの場所であげるか? それとも、死して無となるか。君の答えを、私に聞かせてくれないか」
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