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1章 芙蓉の物語
(芙蓉、目を覚ます1)
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1話
あるとき、彼は暗い座敷牢にいた。
黴臭く、空気が重く湿っている。
「ここはどこ?」
心細くなってそうひとりごちた。
なにせ、座敷牢の中には、調度はおろか、照明すらない。
色彩が灰色に沈んでおり、陰鬱な印象を与える。
「それに……」
おれはだれ。
ふと頭に浮かんだ問いに呆然とする。一向にその答えは……浮かばない。
彼は呻いた。
ところどころに記憶の欠落があるわけではない。まるでまっさらであるように、なにも分からなかった。
彼は、爪を食んだ。そこに真珠のような歯をたてる。
彼の見た目は立派な青年そのものだが、その所作は幼子のようだ。
今現在に至るまでの前後関係はおろか、自分が何者であるか分からない焦燥。不安から臓腑がまとまりに欠けて、気持ちが悪い。
彼は、手を眺めた。まるで女人めいた白磁をしている。労働を知らないような綺麗な手である。
彼は思う。
自分は、どこか良いところの育ちなのだろうか。ならば、何故このような場所に閉じ込められているのだろう……疑問はとめどなく溢れてならない。
次は顔に触れた。なめらかではりのある皮膚の感触。顔のパーツや骨格の凹凸。鏡がないから、造作はさっぱりである。
彼は、小首を傾げた。
その動きにあわせて、黒橡の髪が揺れた。結っていない髪は腰まで流れている。
身じろぎにあわせてさらさらと澄んだ音をたててこぼれおちた。
「なにもわからない」
嘆息した。
「まるで初めからなにもないみたいじゃないか」
そう呟くものの、当然、返答はない。
ばかみたいだ。
しかし、その憶測にぞっとした。
初めからなにもない……こんなに恐ろしいことがあるだろうか。
(そんなはずはない。おれはここにいる。今は思い出せないだけ……)
「ここから出ないと……」
おぼつかない足で立ち上がろうと試みる。
(あれ?)
動作がぎこちないのが気になったが、排他するよう努めて立ち上がる。
それから部屋の全容を見た。
八畳ほどの座敷牢である。無骨な格子の向こうは土間になっていた。外界と通じている箇所は、高いところにある小窓のみ。到底、脱出には見込めない。
再び、虚脱感が襲う。
わんわん。
わんわん。
いやにかしましい音に、彼はかんばせをあげた。
「蝉の、声」
高い小窓を見上げる。
そこに映る景色は見えない。だが、この座敷の外に広がっているであろう景色を想像した。
うだるような夏の空気、その質感。絵具を溶いたような鮮やかな空の色。もくもくと碧空に浮かぶ入道雲。降り注ぐ陽光は眩い。
彼は瞳を潤ませた。
今現在、許されない自由を思い出すと、胸が締め付けられる心地がする。
きっと、この座敷牢の向こうにあるはずのうつくしい景色。それを思って腕を伸ばす。
「芙蓉!」
背後から胴間声がした。
(ふよう?)
恐々と振り返る。
赤ら顔の四十絡みである巨漢が、立っていた。威圧的な風情で、一瞬、怖じる気持ちがあったが叫ぶ。
「あの、助けて……っ、ここからだして……っ」
彼は、格子にすがりついて哀願した。
「気づいたらここにいて。なにも思い出せなくて、」
しどろもどろになって目の前の男に訴える。
「へえ。良く出来てるな。生身の人間みたいな反応だ」
男は狼狽する彼を冷たく一瞥した。
「待ってな」
そう言って、男は解錠した。
彼は安堵した。
ようやく、この鬱々とした場所から出られることに気が緩んでしまう。
しかし、男の行動は予想に反した。
男は音もなく、座敷牢の内部に入った。
「え」
男が距離を詰める。
思わず、後ずさった。
「やめて、こないで」
叫びが迸る。
「一丁前の人間みたいな言い方しやがって」
「当たり前だろっ……」
じりじりと後退する。
さほど、広い空間ではないのですぐ背後に土壁がある。
男の太い腕が伸び、首にかかった。喉が痛い。気道を押されて苦しい。強いられる乱暴の理不尽さ、殺されるのかもしれないという直感的な恐怖。身体が強張るのが分かった。
暴力の前に矜持など投げ出し、屈服したい衝動にかられる。
しかし、彼は唇を噛んだ。
「おれは物なんかじゃない、生きてる……っ、な、嬲られるのはいやだ」
束の間、男はあっけにとられている様子であった。
それからくつくつとおかしそうに笑った。
「なにがおかしいの……」
「いや、とても皮肉的だなと思ってな」
男は唇を歪めた。
それから、表情を緩めた。
「芙蓉」
またその言葉だ。花の名前である。
「旧型モデルだが、造形はうつくしい。きわめて人間に忠実で快楽に流されやすい。殿方の嗜好にあわせたわけだ」
「は……なにを言って……」
「ここは人形館。バイオノイドの男娼を取り揃えている。もう分かるだろう」
ぞんざいな物言いをした後、男は溜息をついた。
「今から仕事を教える。覚えることに集中しろ」
「わからない……」
彼は呆然と呟いた。
男の語る内容は、突飛で非現実的に思えた。とてもではないが、理解が追い付かない。自分がバイオノイドであると……つまり、人間ではない、人間よりも劣る下等な愛玩動物などと認められようか。
確かに不自然な記憶の空白や不明な出自についても説明はいくが、到底許容できる事柄ではない。
あるとき、彼は暗い座敷牢にいた。
黴臭く、空気が重く湿っている。
「ここはどこ?」
心細くなってそうひとりごちた。
なにせ、座敷牢の中には、調度はおろか、照明すらない。
色彩が灰色に沈んでおり、陰鬱な印象を与える。
「それに……」
おれはだれ。
ふと頭に浮かんだ問いに呆然とする。一向にその答えは……浮かばない。
彼は呻いた。
ところどころに記憶の欠落があるわけではない。まるでまっさらであるように、なにも分からなかった。
彼は、爪を食んだ。そこに真珠のような歯をたてる。
彼の見た目は立派な青年そのものだが、その所作は幼子のようだ。
今現在に至るまでの前後関係はおろか、自分が何者であるか分からない焦燥。不安から臓腑がまとまりに欠けて、気持ちが悪い。
彼は、手を眺めた。まるで女人めいた白磁をしている。労働を知らないような綺麗な手である。
彼は思う。
自分は、どこか良いところの育ちなのだろうか。ならば、何故このような場所に閉じ込められているのだろう……疑問はとめどなく溢れてならない。
次は顔に触れた。なめらかではりのある皮膚の感触。顔のパーツや骨格の凹凸。鏡がないから、造作はさっぱりである。
彼は、小首を傾げた。
その動きにあわせて、黒橡の髪が揺れた。結っていない髪は腰まで流れている。
身じろぎにあわせてさらさらと澄んだ音をたててこぼれおちた。
「なにもわからない」
嘆息した。
「まるで初めからなにもないみたいじゃないか」
そう呟くものの、当然、返答はない。
ばかみたいだ。
しかし、その憶測にぞっとした。
初めからなにもない……こんなに恐ろしいことがあるだろうか。
(そんなはずはない。おれはここにいる。今は思い出せないだけ……)
「ここから出ないと……」
おぼつかない足で立ち上がろうと試みる。
(あれ?)
動作がぎこちないのが気になったが、排他するよう努めて立ち上がる。
それから部屋の全容を見た。
八畳ほどの座敷牢である。無骨な格子の向こうは土間になっていた。外界と通じている箇所は、高いところにある小窓のみ。到底、脱出には見込めない。
再び、虚脱感が襲う。
わんわん。
わんわん。
いやにかしましい音に、彼はかんばせをあげた。
「蝉の、声」
高い小窓を見上げる。
そこに映る景色は見えない。だが、この座敷の外に広がっているであろう景色を想像した。
うだるような夏の空気、その質感。絵具を溶いたような鮮やかな空の色。もくもくと碧空に浮かぶ入道雲。降り注ぐ陽光は眩い。
彼は瞳を潤ませた。
今現在、許されない自由を思い出すと、胸が締め付けられる心地がする。
きっと、この座敷牢の向こうにあるはずのうつくしい景色。それを思って腕を伸ばす。
「芙蓉!」
背後から胴間声がした。
(ふよう?)
恐々と振り返る。
赤ら顔の四十絡みである巨漢が、立っていた。威圧的な風情で、一瞬、怖じる気持ちがあったが叫ぶ。
「あの、助けて……っ、ここからだして……っ」
彼は、格子にすがりついて哀願した。
「気づいたらここにいて。なにも思い出せなくて、」
しどろもどろになって目の前の男に訴える。
「へえ。良く出来てるな。生身の人間みたいな反応だ」
男は狼狽する彼を冷たく一瞥した。
「待ってな」
そう言って、男は解錠した。
彼は安堵した。
ようやく、この鬱々とした場所から出られることに気が緩んでしまう。
しかし、男の行動は予想に反した。
男は音もなく、座敷牢の内部に入った。
「え」
男が距離を詰める。
思わず、後ずさった。
「やめて、こないで」
叫びが迸る。
「一丁前の人間みたいな言い方しやがって」
「当たり前だろっ……」
じりじりと後退する。
さほど、広い空間ではないのですぐ背後に土壁がある。
男の太い腕が伸び、首にかかった。喉が痛い。気道を押されて苦しい。強いられる乱暴の理不尽さ、殺されるのかもしれないという直感的な恐怖。身体が強張るのが分かった。
暴力の前に矜持など投げ出し、屈服したい衝動にかられる。
しかし、彼は唇を噛んだ。
「おれは物なんかじゃない、生きてる……っ、な、嬲られるのはいやだ」
束の間、男はあっけにとられている様子であった。
それからくつくつとおかしそうに笑った。
「なにがおかしいの……」
「いや、とても皮肉的だなと思ってな」
男は唇を歪めた。
それから、表情を緩めた。
「芙蓉」
またその言葉だ。花の名前である。
「旧型モデルだが、造形はうつくしい。きわめて人間に忠実で快楽に流されやすい。殿方の嗜好にあわせたわけだ」
「は……なにを言って……」
「ここは人形館。バイオノイドの男娼を取り揃えている。もう分かるだろう」
ぞんざいな物言いをした後、男は溜息をついた。
「今から仕事を教える。覚えることに集中しろ」
「わからない……」
彼は呆然と呟いた。
男の語る内容は、突飛で非現実的に思えた。とてもではないが、理解が追い付かない。自分がバイオノイドであると……つまり、人間ではない、人間よりも劣る下等な愛玩動物などと認められようか。
確かに不自然な記憶の空白や不明な出自についても説明はいくが、到底許容できる事柄ではない。
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