バレエ・メカニック

相良柚月

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1章 芙蓉の物語

プロローグ

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 わんわんと蝉が鳴いていた。夏の盛りだった。陽光は刺すように鋭い。灼熱が、暴力的なまでに地表に照りつけている。かしましいほどの蝉の声と盛暑が、その夏の異常気象を物語っていた。
 さて、この国の郊外に行く。すると丘陵地に古びた洋館がある。まるで、絵本の挿絵に登場するような荘厳なつくりをした屋敷だ。しかし、その色彩は褪せており、栄華と零落、月日の流れを感じさせられた。
 市井の人はその洋館のことを「人形屋敷」などと呼んでいる。
 その所以は後述するとしよう。
 そこに住まうのは、老いた当主と僅かな使用人たち。
 屋敷に住まう人々は、時代の流れ、世間の動向とは隔絶され、まるで絵画に取り残されたように、未だ、緩やかな時間を過ごしている。


 夏の朝。陽光が、薄く部屋に差し込んでいた。
「おはよう、芙蓉」
 御主人様は、そう声をかける。
 日差しが強いため、遮光カーテンはそのままにする。
彼の部屋は、屋敷の中でも一番、日当たりが良い場所にあった。調度も使いがってのよいものを揃えている。
「もう朝だよ」
 血管の透けたしろい瞼が震える。目を閉じていると、睫毛の長さ、かんばせの造作がとても整っていることを実感する。眠っている彼は人形のようだった。ゆっくりと瞳が開かれる。
 目覚めたあと、もぞもぞと彼は身じろぎした。
 芙蓉の色をした瞳が御主人様を見上げた。
「起きたかな。着替えて顔を洗ったらご飯にしようか」
「芙蓉が好きなミネストローネも用意してもらったよ」
 今日の彼は、いつにもましてぼんやりとしている。
 彼の耳に御主人様の言葉は届いていないのか、はたまた、音としては捉えられるものの、意味までは伝わらないのか。反応に乏しい。
 御主人様は、慈しむように芙蓉を見た。
 まるで、芙蓉の花弁のように、ふうわりと流れ落ちる髪を梳いてやる。
 彼は、人形のようにされるがまま。
 御主人様は、甲斐甲斐しく、一切の反応を放棄した青年の世話を焼いた。
 傍目から見て、その光景は痛ましい。
しかし、ふたりの間には満ち足りた空気が流れていた。

 旧家である橘の者は、社交界で一目置かれる存在だった。
 血統の正しさはさることながら、名家として誉れ高い。
 代々、名士を輩出しており、あるときは国をも動かした。
 橘の者の逸話は、ロマンティックな語り草となって今現在まで伝わっている。
 しかし、時は終末世界。傾きつつあるこの時代において、かつての栄華を誇った一族は徐々に滅びようとしていた。
 まるで、御伽噺に出てくるお城のようだと言われた郊外の洋館も、朽ちている。
 今は、揶揄をこめて「人形屋敷」などと呼ばれている。
 理由は至極単純である。現当主・橘清士郎が、男娼を身請けしたという噂がスキャンダラスに広まったのがことの発端だった。
 橘氏は、人徳があることで知られ、積極的に慈善事業に取り組む姿勢が、市井の人々に評価されていた。
 その橘氏が、男娼を身請けした事実はひどくセンセーショナルに響いた。
 長年築いた評価は、あっけなく覆る。栄光は、地に落ちた。
 人々は屋敷の様子をつぶさに観察し、憶測を語った。
 なんでも、屋敷に身請けされた男娼はまだ若いらしい。
 人間味の乏しい美貌に表情はなく、窓の外を見下ろすばかりだという。
「あれは、人間じゃないね」
 だれかが言った。妙に確信のある口調だった。
 合法のポルノや春を売る人々のカテゴリに男色があるが、依然として特殊性癖であることは変わらない。ましてや、人形相手に欲情するなど。
 以来、市井の人々は軽蔑をこめて、かつての栄華の象徴であった洋館を「人形屋敷」と呼んでいる。
 
 洋館の中では、穏やかに日々が過ぎる。
 御主人様こと橘清士郎に身請けされた元男娼である芙蓉は、蝶よ花よと屋敷の人々に大切にされていた。
 黒橡の髪、芙蓉の色をした瞳を持つ美青年は、その派手な見てくれとは反して、存外に大人しく手がかからない。
 日がな一日、絵本を読んだり、まどろんだりしている。
「御主人様、これ読んで」
 珍しく、難しい本を所望する。
 御主人様は、タイトルを見て、一瞬、顔を強張らせた。
「これがいいのかい」
 こくり。
 芙蓉がこどもじみた所作で頷く。
 舞台はロサンゼルス。冷凍睡眠による片道の時間旅行が普及した世。そんな時世、猫のピートは夏への扉を探している……著名なSF小説だ。
 御主人様は、息を吸うと物語を読み始めた。
 芙蓉は、時折、うつらうつらとしながらもお話を聴いていた。
 いつもと変わりない昼下がり。
 蝉の鳴く声がいやに耳をつく。
 蝉の声が、ある夏の出来事を芙蓉に想起させた。
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