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第5話 既視感
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「やっぱり来てくれたのね」
エリ子の姪は、コーヒーをすすった後、艶やかな笑顔でそう言った。
白いTシャツに紺色のカーディガンを羽織り、スリムジーンズを履いた彼女の格好はボーイッシュだ。格好だけ看れば、色っぽさのかけらもない。
しかし、その表情には、エリ子にはない大人びた色気があった。
ドレス屋の入っているビルの三階で、今、私達はコーヒーを飲んでいる。
この喫茶店はストリートを一望でき、夜景の元町を楽しめると言うことで、ドレス屋の店員に勧められたのだった。
今日、家を出る直前まで、私は迷っていた。誘われたからと言って、のこのこ逢いに出掛けて良いのかを……。
大体、私がエリ子の姪と逢って何を話せば良いのだろう? 年齢も違う、価値観も違う。彼女が何に興味を持っているのかさえ私には分らない。
ただ、それでも私は話をしてみたかった。エリ子とは別人であっても、その姿に接し声を聞くだけで、忘れられない何かが甦るような気がしたから。
しかし、もし、何かが甦って、私は何がしたいのだろう?
私には妻がいる。
妻とエリ子に求めるモノは違うが、私自身がその境目をハッキリ線引きしているかと言えば、そうではない。
私は自身の中の疑問を解消できないでいた。それなのに、半ば衝動的に出掛ける支度をし、考え続けながら家を出たのだった。
「オジサン、名前は?」
「ああ、伊藤健太郎だ。君の叔母さん、エリ子とは同学年だ」
「私は、舞。綾瀬舞よ。今15歳です」
「……、……」
15歳か……。あの時の私達と同い年……。
私は、人智の越えた何かが、舞との出逢いをさせているように感じた。
舞の存在自体もそうだが、年齢も、出逢った場所も、赤いドレスを着ていた状況も、あまりにも話が出来すぎだからだ。
これを偶然と言う言葉で片付けるのは、感情的に無理があった。
「健太郎さんは、叔母さんとはどういう関係だったの? 友達? 幼なじみ? それとも、恋人?」
「恋人……、だと思う」
「だと思う?」
「うん、エリ子と付き合ってはいたんだ。君と同じ歳の頃にね。でも、その期間はたったの三日だからさ」
「えっ? どうして、三日しか付き合わなかったの? いくらなんでも二人とも淡泊過ぎない?」
「あ、いや、そうじゃないんだ」
「……、……」
「三日で終わったのは、エリ子が亡くなったからなんだ。交通事故でね」
「……、……」
三日で終わった……、と言って、私の胸はズキンと痛んだ。
そう、私とエリ子の関係は、客観的にはそこで終わっているのだ。
いくら私が心の中でエリ子を暖めていようと、他の人間には理解もしてもらえないだろうし、実際にエリ子はいない。
しかし、私は今でもその事実から目を背けたいのだ。
「エリ子が亡くなったのは、私と初めてデートをした後だったんだ」
「……、……」
「港が見える丘公園で色々と話をして、帰りにあそこのドレス屋で、今、君が持っているドレスを試着した」
「……、……」
「私はドレスを着ている人を生まれて初めてそこで見た」
「……、……」
「エリ子は綺麗だった。舞さん……、君と同じくらいね」
「……、……」
舞は興味津々のようで、私の目を真っ直ぐ見ながら話を聞いている。そんな姿も、エリ子に酷似していて、私は正視するのが怖いくらいだ。
フッと、私が今、舞と話しているのも夢なのではないかと言う、奇妙な考えに思い至った。これは、私の中に遺るあの三日の続きなのではないかと……。
「叔母様は、何故、このドレスを買ったの? このドレス、高校生が着るには大人っぽいと思うわ」
「エリ子は、ピアノのコンクールを控えていてね、そこで演奏する曲に合うドレスを探していたらしい」
「そうなの……」
「舞さんは何に着るの?」
「お祖母様の古希のお祝いに着るわ。お祖母様がどうしても……、って言うから」
「ああ、お祖母様はエリ子がドレスを着たところを見ていないからだろうね。それを見たのは、私とドレス屋の店員さんだけだからさ」
「あら、あの女性は店員さんではないのよ。あのお店のオーナーなんだから」
「そうか……。経営者だったのか」
「あの方、凄く親切なのよ。ウチで買った物だから……、と言って、お直し代もただにして下さって」
「そう言えば、エリ子が買ったときにも、お代は後で良いから……、と言っていたなあ」
舞と話していると、次々にあの頃の記憶が甦ってくる。エリ子の微笑みも、少し恥じらった姿も、夢の中と同じくらい鮮明に思い出すのだ。
「エリ子はピアノに一生を捧げるつもりだったんだよ」
「捧げるって……」
「そう、それくらいのめり込んでいた。私は夢を諦めた頃だったから、余計にエリ子が眩しく見えたなあ……」
「健太郎さんの夢って?」
「ああ、私はサッカーをやっていたんだ。でも、膝をやってしまってね」
「それで正座が出来なかったの?」
「うん……。あの法事の時は、まだ膝にボルトが入っていたからね。今はもう取ってしまったから、正座も一応出来るけどさ」
「お二人とも、熱い青春だったのね」
「いや、私は……。挫折してしまったからね」
「……、……」
あれほど好きだったサッカーだったが、近頃では自分でプレーしていたことさえあまり思い出さない。代表のAマッチなどは見るが、Jリーグにいたっては、ここ数年気にしたこともない。
一緒にプレーしていた選手は、一人を除いて皆引退してしまった。その一人は代表のエースにもなった人だから、別格だし……。
あの頃の夢だったサッカーを続けていても、この歳になれば紆余曲折を経て潰えるのだ。そう言えば、引退した彼らは、今、何をしているのだろう?
「舞さんの将来の夢は?」
「私は……」
「……、……」
「お二人のような具体的な夢はないわ。でも……」
「……、……」
「素敵な恋をしてみたいの。叔母様のような、何年経っても色褪せないような恋を……」
「色褪せない?」
「だって、さきほどから健太郎さんは、昨日のことのように当時のことを話すから……」
「ああ……、……」
「先日だって、赤いドレスを着た私を見て、すぐに叔母様を思い出したんでしょう?」
「……、……」
「私、最初は変なオジサンが覗いているので気味が悪かったの。でも、健太郎さんが涙を流しているのを見て、きっと叔母様のことを知っているんだと確信したわ」
「舞さんのドレス姿は、エリ子とうり二つだったよ。本当に心臓を鷲掴みにされたかと思うほどショックだった。見ているだけで、涙が出るのを止められなかったし……」
「……、……」
「あの時、髪の毛を上げていただろう?」
「ええ……」
「エリ子も同じように髪の毛を上げたんだ」
「……、……」
「元町に来たのだって、エリ子と来て以来だしね」
「……、……」
「たまたま、仕事でこのビルに来ただけだったのに、そうしたら舞さんがドレスを着て立っていた」
「……、……」
「今、君と話しているのだって、私には信じられないことなんだよ。舞さんには悪いけど、エリ子と話しているような気さえしている」
「……、……」
よく考えてみると、私は今までエリ子と刻んだ時間を他人に話したことがなかった。それが、舞にはこうもスラスラと話せるのだから不思議なものだ。
もちろん、それは舞がエリ子に酷似していたからなのだが……。
「色褪せないって言っていたけど……」
「……、……」
「私がエリ子のことを覚えているのは、何度も夢でみてきたからなんだ」
「夢……?」
「毎年、今頃の時期になると、必ず一度はエリ子と過ごした時間をリプレイするような夢を見る」
「……、……」
「その夢は、エリ子との出逢いから始まり、デートをして、訃報の電話が掛かって来るところで必ず終わるんだ」
「……、……」
「もう、二十数年も前のことなのに、未だに昨日のことのように思い出すのはそのせいさ」
「……、……」
「いつまでも未練たらしい男だと思うかも知れないけど、私にとってのエリ子はそう言う存在なんだよ」
舞は、目をしばたかせながら私の話を聞いている。
もしかすると、引かれたのかもしれない。
舞はエリ子ではないのだから……。
しかし、私は自分が抱えてきたことを吐露することを止められなかった。
長年、封印されてきたモノのの蓋が開いてしまったかのように、私はいつまでも話し続けるのだった。
「プルルルルル……」
突然、スマホが鳴った。見ると、妻からだ。
舞に、
「失礼……」
と告げて電話に出る。
妻から私に電話を掛けてくることは滅多にない。お互いに忙しいので、大抵、メールで用を済ますからだ。
「はい……、何?」
「何、じゃないわよ。今、何時だと思っているの? 日曜だと言うのに、9時まで帰らないなんて……。もしかして、仕事?」
「あ、いや、そうじゃないけど……」
「えっ? じゃあ、今、何処にいるの?」
「詳しいことは後で話すけど、今、元町にいる」
「元町?」
「うん、まあ……」
「それで、夕飯はどうするの? もしかして、もう食べたの?」
「いや、それはまだだ」
「あとどれくらいで帰るのよ?」
「ああ、もうあと一時間くらいで帰る」
「そう、じゃあ、待っているわ」
「すまん、心配させてしまったね」
「そうね、こんなこと初めてだから……」
「悪かった……。後でちゃんと話すよ。いや、きちんと話をしておかないといけないことがある」
「……、……」
「じゃあ、切るね。もう帰るから……」
妻は、怪訝そうな声を出していた。
まあ、当然のことだ。何も知らない妻としては、何事かと思うに決まっている。
妻が指摘していた通り、時刻は9時になろうとしていた。
舞はまだこれから高校に上がると言う年頃。
いくら想い出話に花が咲いたからと言って、一社会人として未成年をこんな時間まで付き合わせて良い訳はなかった。
きっと、舞の親御さんも心配なさっていることだろう。
「奥様?」
「ああ……。何も言わずに出てきてしまったから、心配していたみたいだ」
「奥様は、叔母様のことや二人の間のことを知ってらっしゃるの?」
「いや……、妻は何も知らない。妻と知り合ったのは、エリ子が亡くなったずっと後だからさ。今までは話す必要もなかったしね」
「そうなのですか。でも、叔母様のことをずっと思っているのよね?」
「……、……」
「健太郎さんの中で、叔母様と奥様って……」
「……、……」
「大人の男性は、皆、幾つもの想いを秘めて生きているのかしら?」
「いや……。人ぞれぞれだろう」
「叔母様は亡くなってしまわれているから、奥様への不義ではないとは思うけど、もし、私が奥様の立場だったら複雑な思いかもしれないわ」
「……、……」
ああ、舞は間違いなくエリ子と同じ血を引いている。私が心の奥底で思っていた違和感をズバリと突いてきた。
あの時もそうだった。私がサッカーに挫折した話をした時も……。必死で考え、感じたこと、信じていることを、エリ子は直接私にぶつけてきた。
もう舞を帰さなくては……。
いつまでも話していたかったが、それはまずい。
それに、舞が言った、私の中のエリ子と妻の関係にも、話をしながら整理がつきかけていた。
舞との出逢いは、エリ子が望んだこと……。そして、エリ子は私が終わったことを受け入れられないのを、舞を通じて諭しに来たのではないだろうか。
舞と今日話す前に感じた、人智を越えた何かは、エリ子の意志だったのではないかと思えてきた。いや、そうに違いない。きっと屈託を抱えたまま長い年月を過ごした私を、エリ子は歯痒かったのだろう。
「遅くまで付き合わせて申し訳ない……」
「いえ、私が思っていた叔母様と全然違って、何だか嬉しかったわ。健太郎さんが私に聞かせてくれることで、叔母様が活き活きと生きていたのが感じられたし」
喫茶店を出て、歩きながら舞と話を続ける。
私は元町中華街駅でタクシーを拾い、舞を家に送るつもりになっている。エリ子を見送ったことを、当時の私は散々後悔したから……。
「一つ聞いても良いですか?」
「何……?」
「健太郎さんと叔母様は、……、……」
「……、……」
「キスなさったのですか?」
「……、……」
舞は、耳まで真っ赤にしながら、恥ずかしそうに聞いた。
どうしてそんなことを聞きたいのか、私には分らなかった。当時の私は、エリ子と接しているだけで有頂天になっていたくらいなので、そんな願望は露ほどもなかったからだ。
ただ、エリ子はどう思っていただろう? 一般に女性の方が早熟だと言うが、私の個人的な感触としては、やはりキスを考えるようなことはなかったと思う。
舞の恥じらう風情は、何とも言えず可愛らしい。今時の高校生なら、当然持っている願望なのだろうし。
「いや……。私は手を握って元町を歩いただけで、キスはしなかった」
「……、……」
「もちろん、それ以上のこともない。こんなに想い続けているのにね」
「では、もし、今、昔のままの叔母様と再会したら、したいと思います?」
「……、……」
まだ、バスの通っている時間なので、タクシー乗り場には誰もいない。
私は舞の質問に戸惑っていた。
鈍い私にも、舞の言いたいことは分る。
間違いなく、舞はエリ子の代わりに私とキスをしても良いと言っているのだ。
恋に憧れる年齢なこともあるのだろう。そして、私に対する哀れみや同情の気持ちもあるのかもしれない。もしかすると、舞も私との遭遇に、運命的なモノを感じているのかもしれない。
私は応えられず、二人の間に沈黙が流れる。
春めいてきたとは言え、頬に当る夜風はまだ冷たい。
「私で良ければ、叔母様の代わりに……」
「いや……、……」
「……、……」
「舞さん、君は、君が本当に好きな人とキスすべきだよ」
逡巡している私に、舞は言いにくいことを言ってくれようとした。
しかし、たとえどんなに私がそれを望んでいたとしても、その申し出を受けてはいけないと思い、ハッキリ拒否した。
ここで舞とキスをしてしまったら、エリ子の意志を蔑ろにしてしまうことになる。
それに、舞にはこれからきっと素晴らしい恋が待っているはずだ。私のような想い出にすがっている人間と、変な体験をすべきではない。
私は今日、若き日の恋を終わらせた人間……。舞はこれから恋する人間……。
タクシーに乗ってから、私も舞も押し黙ったままだった。
恥ずかしさを堪えて言ってくれたことを無碍に断って申し訳なかったので、私から舞にかける言葉はなかった。何を言っても慰めにはならない。それに、私は舞の気持ちだけで胸がいっぱいだった。
舞が何を思っていたかは、私には分らない。
ただ、怒っている訳ではないのは、気配で分る。何かを一生懸命考えているような、そんな風に私には見えた。
「あ、そこの角を曲がったところで、私は降ります」
舞の家は、高級住宅街の中に瀟洒な姿を見せていた。
門の目の前で、タクシーが止まる。
「健太郎さん、先ほどは失礼なことを言ってすいませんでした」
「いや、舞さんの気持ちは嬉しかったよ。その気持ちは一生忘れない」
「あの……、良かったら、名刺を一枚下さい」
「……、……」
「あの赤いドレスを着た写メを送りますので……」
「ありがとう……」
「いえ、私、健太郎さんと話せて良かったわ」
「舞さんも、素敵な恋が出来ると良いね」
「はい……」
「じゃあ、もう逢うこともないと思うけど……」
「……、……」
「元気でね」
「……、……」
私は、名刺を一枚抜き取ると、舞に手渡した。
微かに触れた舞の指は、エリ子と同じように、細く滑らかだった。
エリ子の姪は、コーヒーをすすった後、艶やかな笑顔でそう言った。
白いTシャツに紺色のカーディガンを羽織り、スリムジーンズを履いた彼女の格好はボーイッシュだ。格好だけ看れば、色っぽさのかけらもない。
しかし、その表情には、エリ子にはない大人びた色気があった。
ドレス屋の入っているビルの三階で、今、私達はコーヒーを飲んでいる。
この喫茶店はストリートを一望でき、夜景の元町を楽しめると言うことで、ドレス屋の店員に勧められたのだった。
今日、家を出る直前まで、私は迷っていた。誘われたからと言って、のこのこ逢いに出掛けて良いのかを……。
大体、私がエリ子の姪と逢って何を話せば良いのだろう? 年齢も違う、価値観も違う。彼女が何に興味を持っているのかさえ私には分らない。
ただ、それでも私は話をしてみたかった。エリ子とは別人であっても、その姿に接し声を聞くだけで、忘れられない何かが甦るような気がしたから。
しかし、もし、何かが甦って、私は何がしたいのだろう?
私には妻がいる。
妻とエリ子に求めるモノは違うが、私自身がその境目をハッキリ線引きしているかと言えば、そうではない。
私は自身の中の疑問を解消できないでいた。それなのに、半ば衝動的に出掛ける支度をし、考え続けながら家を出たのだった。
「オジサン、名前は?」
「ああ、伊藤健太郎だ。君の叔母さん、エリ子とは同学年だ」
「私は、舞。綾瀬舞よ。今15歳です」
「……、……」
15歳か……。あの時の私達と同い年……。
私は、人智の越えた何かが、舞との出逢いをさせているように感じた。
舞の存在自体もそうだが、年齢も、出逢った場所も、赤いドレスを着ていた状況も、あまりにも話が出来すぎだからだ。
これを偶然と言う言葉で片付けるのは、感情的に無理があった。
「健太郎さんは、叔母さんとはどういう関係だったの? 友達? 幼なじみ? それとも、恋人?」
「恋人……、だと思う」
「だと思う?」
「うん、エリ子と付き合ってはいたんだ。君と同じ歳の頃にね。でも、その期間はたったの三日だからさ」
「えっ? どうして、三日しか付き合わなかったの? いくらなんでも二人とも淡泊過ぎない?」
「あ、いや、そうじゃないんだ」
「……、……」
「三日で終わったのは、エリ子が亡くなったからなんだ。交通事故でね」
「……、……」
三日で終わった……、と言って、私の胸はズキンと痛んだ。
そう、私とエリ子の関係は、客観的にはそこで終わっているのだ。
いくら私が心の中でエリ子を暖めていようと、他の人間には理解もしてもらえないだろうし、実際にエリ子はいない。
しかし、私は今でもその事実から目を背けたいのだ。
「エリ子が亡くなったのは、私と初めてデートをした後だったんだ」
「……、……」
「港が見える丘公園で色々と話をして、帰りにあそこのドレス屋で、今、君が持っているドレスを試着した」
「……、……」
「私はドレスを着ている人を生まれて初めてそこで見た」
「……、……」
「エリ子は綺麗だった。舞さん……、君と同じくらいね」
「……、……」
舞は興味津々のようで、私の目を真っ直ぐ見ながら話を聞いている。そんな姿も、エリ子に酷似していて、私は正視するのが怖いくらいだ。
フッと、私が今、舞と話しているのも夢なのではないかと言う、奇妙な考えに思い至った。これは、私の中に遺るあの三日の続きなのではないかと……。
「叔母様は、何故、このドレスを買ったの? このドレス、高校生が着るには大人っぽいと思うわ」
「エリ子は、ピアノのコンクールを控えていてね、そこで演奏する曲に合うドレスを探していたらしい」
「そうなの……」
「舞さんは何に着るの?」
「お祖母様の古希のお祝いに着るわ。お祖母様がどうしても……、って言うから」
「ああ、お祖母様はエリ子がドレスを着たところを見ていないからだろうね。それを見たのは、私とドレス屋の店員さんだけだからさ」
「あら、あの女性は店員さんではないのよ。あのお店のオーナーなんだから」
「そうか……。経営者だったのか」
「あの方、凄く親切なのよ。ウチで買った物だから……、と言って、お直し代もただにして下さって」
「そう言えば、エリ子が買ったときにも、お代は後で良いから……、と言っていたなあ」
舞と話していると、次々にあの頃の記憶が甦ってくる。エリ子の微笑みも、少し恥じらった姿も、夢の中と同じくらい鮮明に思い出すのだ。
「エリ子はピアノに一生を捧げるつもりだったんだよ」
「捧げるって……」
「そう、それくらいのめり込んでいた。私は夢を諦めた頃だったから、余計にエリ子が眩しく見えたなあ……」
「健太郎さんの夢って?」
「ああ、私はサッカーをやっていたんだ。でも、膝をやってしまってね」
「それで正座が出来なかったの?」
「うん……。あの法事の時は、まだ膝にボルトが入っていたからね。今はもう取ってしまったから、正座も一応出来るけどさ」
「お二人とも、熱い青春だったのね」
「いや、私は……。挫折してしまったからね」
「……、……」
あれほど好きだったサッカーだったが、近頃では自分でプレーしていたことさえあまり思い出さない。代表のAマッチなどは見るが、Jリーグにいたっては、ここ数年気にしたこともない。
一緒にプレーしていた選手は、一人を除いて皆引退してしまった。その一人は代表のエースにもなった人だから、別格だし……。
あの頃の夢だったサッカーを続けていても、この歳になれば紆余曲折を経て潰えるのだ。そう言えば、引退した彼らは、今、何をしているのだろう?
「舞さんの将来の夢は?」
「私は……」
「……、……」
「お二人のような具体的な夢はないわ。でも……」
「……、……」
「素敵な恋をしてみたいの。叔母様のような、何年経っても色褪せないような恋を……」
「色褪せない?」
「だって、さきほどから健太郎さんは、昨日のことのように当時のことを話すから……」
「ああ……、……」
「先日だって、赤いドレスを着た私を見て、すぐに叔母様を思い出したんでしょう?」
「……、……」
「私、最初は変なオジサンが覗いているので気味が悪かったの。でも、健太郎さんが涙を流しているのを見て、きっと叔母様のことを知っているんだと確信したわ」
「舞さんのドレス姿は、エリ子とうり二つだったよ。本当に心臓を鷲掴みにされたかと思うほどショックだった。見ているだけで、涙が出るのを止められなかったし……」
「……、……」
「あの時、髪の毛を上げていただろう?」
「ええ……」
「エリ子も同じように髪の毛を上げたんだ」
「……、……」
「元町に来たのだって、エリ子と来て以来だしね」
「……、……」
「たまたま、仕事でこのビルに来ただけだったのに、そうしたら舞さんがドレスを着て立っていた」
「……、……」
「今、君と話しているのだって、私には信じられないことなんだよ。舞さんには悪いけど、エリ子と話しているような気さえしている」
「……、……」
よく考えてみると、私は今までエリ子と刻んだ時間を他人に話したことがなかった。それが、舞にはこうもスラスラと話せるのだから不思議なものだ。
もちろん、それは舞がエリ子に酷似していたからなのだが……。
「色褪せないって言っていたけど……」
「……、……」
「私がエリ子のことを覚えているのは、何度も夢でみてきたからなんだ」
「夢……?」
「毎年、今頃の時期になると、必ず一度はエリ子と過ごした時間をリプレイするような夢を見る」
「……、……」
「その夢は、エリ子との出逢いから始まり、デートをして、訃報の電話が掛かって来るところで必ず終わるんだ」
「……、……」
「もう、二十数年も前のことなのに、未だに昨日のことのように思い出すのはそのせいさ」
「……、……」
「いつまでも未練たらしい男だと思うかも知れないけど、私にとってのエリ子はそう言う存在なんだよ」
舞は、目をしばたかせながら私の話を聞いている。
もしかすると、引かれたのかもしれない。
舞はエリ子ではないのだから……。
しかし、私は自分が抱えてきたことを吐露することを止められなかった。
長年、封印されてきたモノのの蓋が開いてしまったかのように、私はいつまでも話し続けるのだった。
「プルルルルル……」
突然、スマホが鳴った。見ると、妻からだ。
舞に、
「失礼……」
と告げて電話に出る。
妻から私に電話を掛けてくることは滅多にない。お互いに忙しいので、大抵、メールで用を済ますからだ。
「はい……、何?」
「何、じゃないわよ。今、何時だと思っているの? 日曜だと言うのに、9時まで帰らないなんて……。もしかして、仕事?」
「あ、いや、そうじゃないけど……」
「えっ? じゃあ、今、何処にいるの?」
「詳しいことは後で話すけど、今、元町にいる」
「元町?」
「うん、まあ……」
「それで、夕飯はどうするの? もしかして、もう食べたの?」
「いや、それはまだだ」
「あとどれくらいで帰るのよ?」
「ああ、もうあと一時間くらいで帰る」
「そう、じゃあ、待っているわ」
「すまん、心配させてしまったね」
「そうね、こんなこと初めてだから……」
「悪かった……。後でちゃんと話すよ。いや、きちんと話をしておかないといけないことがある」
「……、……」
「じゃあ、切るね。もう帰るから……」
妻は、怪訝そうな声を出していた。
まあ、当然のことだ。何も知らない妻としては、何事かと思うに決まっている。
妻が指摘していた通り、時刻は9時になろうとしていた。
舞はまだこれから高校に上がると言う年頃。
いくら想い出話に花が咲いたからと言って、一社会人として未成年をこんな時間まで付き合わせて良い訳はなかった。
きっと、舞の親御さんも心配なさっていることだろう。
「奥様?」
「ああ……。何も言わずに出てきてしまったから、心配していたみたいだ」
「奥様は、叔母様のことや二人の間のことを知ってらっしゃるの?」
「いや……、妻は何も知らない。妻と知り合ったのは、エリ子が亡くなったずっと後だからさ。今までは話す必要もなかったしね」
「そうなのですか。でも、叔母様のことをずっと思っているのよね?」
「……、……」
「健太郎さんの中で、叔母様と奥様って……」
「……、……」
「大人の男性は、皆、幾つもの想いを秘めて生きているのかしら?」
「いや……。人ぞれぞれだろう」
「叔母様は亡くなってしまわれているから、奥様への不義ではないとは思うけど、もし、私が奥様の立場だったら複雑な思いかもしれないわ」
「……、……」
ああ、舞は間違いなくエリ子と同じ血を引いている。私が心の奥底で思っていた違和感をズバリと突いてきた。
あの時もそうだった。私がサッカーに挫折した話をした時も……。必死で考え、感じたこと、信じていることを、エリ子は直接私にぶつけてきた。
もう舞を帰さなくては……。
いつまでも話していたかったが、それはまずい。
それに、舞が言った、私の中のエリ子と妻の関係にも、話をしながら整理がつきかけていた。
舞との出逢いは、エリ子が望んだこと……。そして、エリ子は私が終わったことを受け入れられないのを、舞を通じて諭しに来たのではないだろうか。
舞と今日話す前に感じた、人智を越えた何かは、エリ子の意志だったのではないかと思えてきた。いや、そうに違いない。きっと屈託を抱えたまま長い年月を過ごした私を、エリ子は歯痒かったのだろう。
「遅くまで付き合わせて申し訳ない……」
「いえ、私が思っていた叔母様と全然違って、何だか嬉しかったわ。健太郎さんが私に聞かせてくれることで、叔母様が活き活きと生きていたのが感じられたし」
喫茶店を出て、歩きながら舞と話を続ける。
私は元町中華街駅でタクシーを拾い、舞を家に送るつもりになっている。エリ子を見送ったことを、当時の私は散々後悔したから……。
「一つ聞いても良いですか?」
「何……?」
「健太郎さんと叔母様は、……、……」
「……、……」
「キスなさったのですか?」
「……、……」
舞は、耳まで真っ赤にしながら、恥ずかしそうに聞いた。
どうしてそんなことを聞きたいのか、私には分らなかった。当時の私は、エリ子と接しているだけで有頂天になっていたくらいなので、そんな願望は露ほどもなかったからだ。
ただ、エリ子はどう思っていただろう? 一般に女性の方が早熟だと言うが、私の個人的な感触としては、やはりキスを考えるようなことはなかったと思う。
舞の恥じらう風情は、何とも言えず可愛らしい。今時の高校生なら、当然持っている願望なのだろうし。
「いや……。私は手を握って元町を歩いただけで、キスはしなかった」
「……、……」
「もちろん、それ以上のこともない。こんなに想い続けているのにね」
「では、もし、今、昔のままの叔母様と再会したら、したいと思います?」
「……、……」
まだ、バスの通っている時間なので、タクシー乗り場には誰もいない。
私は舞の質問に戸惑っていた。
鈍い私にも、舞の言いたいことは分る。
間違いなく、舞はエリ子の代わりに私とキスをしても良いと言っているのだ。
恋に憧れる年齢なこともあるのだろう。そして、私に対する哀れみや同情の気持ちもあるのかもしれない。もしかすると、舞も私との遭遇に、運命的なモノを感じているのかもしれない。
私は応えられず、二人の間に沈黙が流れる。
春めいてきたとは言え、頬に当る夜風はまだ冷たい。
「私で良ければ、叔母様の代わりに……」
「いや……、……」
「……、……」
「舞さん、君は、君が本当に好きな人とキスすべきだよ」
逡巡している私に、舞は言いにくいことを言ってくれようとした。
しかし、たとえどんなに私がそれを望んでいたとしても、その申し出を受けてはいけないと思い、ハッキリ拒否した。
ここで舞とキスをしてしまったら、エリ子の意志を蔑ろにしてしまうことになる。
それに、舞にはこれからきっと素晴らしい恋が待っているはずだ。私のような想い出にすがっている人間と、変な体験をすべきではない。
私は今日、若き日の恋を終わらせた人間……。舞はこれから恋する人間……。
タクシーに乗ってから、私も舞も押し黙ったままだった。
恥ずかしさを堪えて言ってくれたことを無碍に断って申し訳なかったので、私から舞にかける言葉はなかった。何を言っても慰めにはならない。それに、私は舞の気持ちだけで胸がいっぱいだった。
舞が何を思っていたかは、私には分らない。
ただ、怒っている訳ではないのは、気配で分る。何かを一生懸命考えているような、そんな風に私には見えた。
「あ、そこの角を曲がったところで、私は降ります」
舞の家は、高級住宅街の中に瀟洒な姿を見せていた。
門の目の前で、タクシーが止まる。
「健太郎さん、先ほどは失礼なことを言ってすいませんでした」
「いや、舞さんの気持ちは嬉しかったよ。その気持ちは一生忘れない」
「あの……、良かったら、名刺を一枚下さい」
「……、……」
「あの赤いドレスを着た写メを送りますので……」
「ありがとう……」
「いえ、私、健太郎さんと話せて良かったわ」
「舞さんも、素敵な恋が出来ると良いね」
「はい……」
「じゃあ、もう逢うこともないと思うけど……」
「……、……」
「元気でね」
「……、……」
私は、名刺を一枚抜き取ると、舞に手渡した。
微かに触れた舞の指は、エリ子と同じように、細く滑らかだった。
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三愛 紫月 (さんあい しづき)
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