優しさの棲家

りこ

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 ヒグラシの鳴き声、吹奏楽部のチューニングの音、野球部の掛け声、そして、体育館の床に弾むボールの音が人気のない校舎に反響する。自分の足音だけが、それらを切り裂くように鮮明に聞こえる。人のいない北館校舎を、その少年──樋口朝陽は歩いていた。

 サッカー部の彼が、なぜ部活時間中のこんな時間にHR教室しかない北館を歩いているのかというと、教室に忘れ物をしたからに過ぎない。それも、顧問に提出する書類だ。だから、部活を抜け出して取りに来ざるを得なかったわけだ。
 最悪だ、と小さく呟きながら自らの教室である1年B組の教室を目指す。教室まであと数メートルというところで、朝陽はふと足を止めた。

 嗚咽が、聞こえてきたのだ。放課後の賑やかな音に混じり、微かに聞こえてくる誰かの泣き声。恐らく、どこかの教室が発生源。泣いているだれかと鉢合わせると面倒だから、うちじゃなければ良いのだが。そう思いながらさらに歩みを進める。だんだんと嗚咽は大きくなっていく。そして、1-Bと書かれた教室の前で、それは最大になった。悪いことは重なるもので、願いも虚しく、声の主はこの教室にいる。
 とはいえ、部活を抜け出してきているものだから長居はできない。意を決して引き戸に手をかける。なかにはひとり、ぽつんと座っている男がいた。

 男にしては長めの黒髪が、開け放たれた窓から流れ込む風に煽られて靡いていた。窓側の、後ろから3番目の席。そこは、柳瀬遥貴の席だ。
 遥貴は朝陽にとって、同じグループの親しい友人だ。一緒に昼ご飯を食べるし、学校行事では一緒の班を組む。放課後は各々忙しいため遊んだりはしないが、テスト週間には一緒に勉強をする。いつも穏やかに微笑んでいる彼と、いま、独りで教室で涙する彼が、どうしてもうまく結びつかなかった。

「遥貴……?」
 悩みに悩んだ結果、声をかけた。人が入ってきたことにすら気づいていなかった様子の遥貴は、驚いたように目を見開いて、さらにはらはらと涙を零した。
「こんな、とこ、見せるつもり、なかったんだけどなぁ……」
 弱々しく微笑みながら遥貴はそう言った。その間も涙はとどまることを知らないように溢れつづけていた。

「大丈夫か?なんかあったのか?」
 面倒だとは言ったが、それは相手が知らないやつだった場合だ。友人が相手となれば当然心配が上回る。顔を隠すように伏せてしまった遥貴に駆け寄る。

「なにも、なにもないんだ。本当に。ただ、涙が出る。それだけ……」
 目を合わせるどころか、顔をあげさえしないまま遥貴は答えた。日頃の朗らかな様子とのギャップに頭が混乱する。朝陽はそれ以上何もいえなかった。ただ、遥貴は何かを隠していて、それを知られたくないのだと悟ってしまったからだ。

「このことは、だれにも言わないで……。」
 懇願だった。震えた涙声で、縋るように言われたら頷くことしかできない。

「ほら、部活の途中だろ。はやく行けよ。」
 これ以上は立ち入らせない、と言わんばかりに固い声色で追い立てられる。
「分かったよ。誰にも言わないし、すぐ出てく。でも、なんかしんどいこととかあったら、言ってくれよ。オレたち、友達じゃん。」

 颯と自分の机を漁り、必要なプリントを引っ張り出すと、もう振り返りはせず、そくささと教室を後にした。後ろ髪を引かれながらも、もう一度見ようとは思えなかった。あれだけ拒絶の色を見せられたのだ、当然だろう。

 それは時間にしてほんの5分程度のことだ。だけど、たしかに朝陽にとって鮮烈な印象を持つ出来事だった。

 遥貴の、悶え苦しむような表情が頭から離れない。その苦しみの発露であるかのようにはらはらと涙を流す姿が脳裏に焼き付いていた。単に、親しい友人の普段と違う姿を見たというだけでは説明ができないほど、強烈な違和感とひっかかりを胸に抱えていた。


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