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四章
一歩
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「……それで? こんな時間に連絡してくるということは、よっぽどな用事か何かかな?」
話したいと思った相手を映し出すという不思議な魔鏡。その向こうに映っているのは、いつも通りの静かな声色で話しかけてくるシルフィーさんだ。その落ち着いた姿は、ついさっきタオル一枚で鏡に写って大慌てしていた姿からは想像もつかない。
「うん、まあそんなところ。……それよりシルフィー、顔真っ赤だぞ」
「し、仕方ないじゃないか……まさかユウトが居るだなんて思わなかったんだから。……それより、約束した通りちゃんと忘れてくれよ? いくら私でもその……恥ずかしいんだから」
甘えるような潤んだ瞳で、鏡越しのシルフィーさんが上目遣いに見上げてくる。だが今でもその白い陶磁器みたいな肌は、湯上がりのせいか火照ったように赤く染まったままで。そんな姿を見て、俺は忘れなければと思いながらも先程までの彼女の姿を思い出してしまう。
水に濡れた艷やかな銀髪、水滴が玉のように流れ落ちる白い肌。ただでさえ凹凸のしっかりついた体を隠すのは、水に濡れたてへばりついた薄い布一枚だけ。それは扇情的でありながら、見ているだけで負い目を感じてしまうほどに美しくて──。
「ぜ、善処します」
俺は頭の中の情景を振り払うように頭を振ってから、俺は出来る限りの真剣な表情でそう言った。
「それ、本気で忘れる気のある返事じゃないような……。はぁ、まあ今はそれは置いておこう。それより本題に戻ろうじゃないか」
「そうそう、別に裸見られたわけじゃないんだしいいじゃん。……それでまあ、事情はユウトから話して貰ったほうがいいかな。頼む」
「最初からそのつもりだ。ええとですね、とりあえずシルフィーさんに相談に乗って欲しいのは、小さい女の子の保護について……なんですけど」
俺は出来るだけかいつまんで、今日シルフィーさんと別れてからこれまでにあったことを話していく。帰り道にディメルノが路地裏にうずくまっていて、痣だらけだったから連れ帰ったこと。彼女の言動から推察するに、それが家庭内で行われた暴力であろうこと。そして今はニシキさんが様子を見ていてくれていること。
そんなどう考えても面倒事としか思えない俺の話を、シルフィーさんは口も挟まず頷きながら聞いてくれた。
「……なるほどね。それは確かに、こんな時間でも私に連絡するわけだ」
「すみません、非常識な時間に。ですが、どうしても今日中に相談しておきたくて……」
「いや、責めているわけではないんだ。むしろ連絡してくれてよかった。君が私のことを頼ってくれたのも嬉しいしね。だけれど……」
シルフィーさんの優しげな笑顔が曇る。言葉を濁し、言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。それはきっと彼女が優しいからこその迷いなのだろう。だがシルフィーさんは迷いを振り切るように、しっかりと俺に視線を向けてから言葉を続ける。
「……君のその懸念が当たっている事実を、私は告げなければならないことが心苦しい。今のこの国には子供に不適切な教育をする親に対して、強制力のある行政行為を行うことの出来る法律が存在しないんだ」
分かっていた。専門家である彼女ならもしかしてと、そんな微かな希望はあったけれど、事前にメイヤーやニシキさんから聞いていたことだ。
「だから、仮にその子供を君たちが保護したとして……その子の親がその子を取り戻そうとしてきた場合……」
「俺達が捕まる可能性もある……ってことですよね」
「ああ、そういうことになる。……君のしていることが間違っているとは、私も思ってなどいない。むしろ誰よりも正しい……とすら思う。だけど──」
シルフィーさんは立場上、俺のしていることに賛同出来ない。そんなことは最初から分かっていた。分かっていて、俺は彼女に相談を持ちかけたのだ。
彼女の立場を考えれば当たり前。かつての俺ならもしも逆の立場でも、同じことを言ったかもしれない。……でもそれは、かつての俺ならばだ。
「ならもしも、あの子を保護する方法があるとしたら……。シルフィーさんは、協力してくれますか?」
「ああ、もちろんだとも。私だって福祉の理念を司る福祉事務所の人間だ。そんな方法があるのなら、二つ返事で協力しよう」
彼女の深緑の瞳に嘘の色はない。魔鏡越しでも、彼女が俺の問いかけに真摯に答えてくれたことがハッキリと分かる。だけど、それでも尚、彼女の表情は晴れないまま。きっと俺以上の悔しさが、その胸を灼いているのだろう。そんな彼女の表情に、俺はようやく迷いを打ち切って口を開いた。
「ならあの子を、生活保護の制度で守ればいい。単身世帯の現在地保護を行って、一時的な居所としてこの寮を使うんです。親族との関係悪化の懸念を理由に扶養照会を回避できるし、問い合わせには調査中といって回答を延期してその間に──」
「ちょ、ちょっと待った!! そんな一気に喋らないでくれ。それに現在地保護? 扶養照会? そんな単語を、君がどうして知っているんだい? それこそケースワーカーをやっていなければそんな単語は……」
知り得ない。そんなことは、この俺が一番知っている。だから本当ならこんな話をこの世界でする気なんてなかった。だって話したら関わってしまう。もう他人の人生に深入りなんてしないと誓ったばかりなのに、小さな少女の人生に入り込んでしまう。
「それは……」
一瞬、言葉をためらうように溜める。ここでシルフィーさんを納得させるのに一番効果的な言葉が何か、それは分かる。考える余地すらない。それなのに、俺は今この瞬間に至ってすら、しっかりとした決断を下すことすら出来なくて。
「……それは、俺が元ケースワーカーだからです。ヒューマンだけしかいない国の、ですけど」
──結局、俺がしたのは決断なんかじゃなかったんだと思う。ただここで引き返すくらいなら、俺は最初から少女の泣き声に手を差し伸べたりしなかったのだからと。ディメルノを助けなければと、ただそれだけを思って、俺はハッキリとそう口にしていた。
「……本当かい?」
「ええ、本当です。私が居た福祉事務所では地区担当制で住所がない人は、不定と呼んで輪番で担当していました。証拠が必要なら……私の国で使っていた保護手帳が荷物の中にあります」
恐らくは最後であろう引き返せる地点。シルフィーさんがくれた、そんなせっかくの機会すらも無視して、俺は誤解の余地がないようにそう告げる。
もう二度と福祉の仕事には関わらない。中途半端に他人の人生に関わって、それなのに何も出来ない苦痛を味わいたくない。そんな俺の決心は、目の前で声を殺して泣いている子供の姿を思い出しても守れるほどには固くなかった。ただそれだけのことだ。
「……なるほど、分かった。君の手帳は大変興味があるけれど、今は持ってこなくても大丈夫だ。それよりも、改めて君の考えが聞きたい。確か……その少女を現在地保護するという話だったね?」
「ちょ、シルフィー。もしかしてこいつの言うこと信じるの? どこから来たのかもわからないドラゴニュートの落とし物だよ? 本気で言ってるの?」
「ふふ、もちろんだとも。私は彼を信じている。……魔鏡越しでも、彼の目がどれだけ真剣かくらいは分かるつもりだ。それに、二日間を共に過ごしてどんな人物なのかも、ね」
それに……と。シルフィーさんはどこか楽しげな苦笑を浮かべて、
「あれだけ専門用語を羅列されては信じる他ないさ。それに、彼がここで嘘をつく意味もない。……そうだろ? メイヤー」
まるで後から理由を付け足したような気楽さでそう言った。それを聞いて、メイヤーは渋々と言った様子で一歩だけ下がりため息をこぼす。
「はぁ……。シルフィーは言い出したら聞かないもんなぁ。分かった、私も信じる」
「そうしてくれ。……というか、メイヤー。君も最初から彼の言うことを信じていたからこそ、この魔鏡を貸したんじゃないのかな?」
「……うるさい」
「ふふ、図星というわけか。まあいい、そういうことだ。私達は君の話に乗るよ、ユウト」
顔を赤くしてそっぽを向くメイヤーを、シルフィーさんは微笑みながら眺めてから、こちらに顔を向けてそう言ってくれた。その表情は優しげで、それでいて真剣な眼差しで。俺は鏡越しにしっかりと、シルフィーさんに向けって頭を下げた。
「……ありがとうございます、シルフィーさん。メイヤーも、信じてくれてありがとう」
「お礼を言いたいのはこっちの方だよ。本当ならば私達がやるべきことを、君に押し付けてしまっているのだから。それに……私の個人的な感情としても、子供が辛い目にあっているのは見過ごしたくはない」
「私だってそうだよ。って言うか、泣いている子供を見ていたくないなんて当たり前じゃん。出来るなら……助けてあげたい」
見過ごしたくはないけれど、そのための制度がない。そう言いたいはずなのに、シルフィーさんもメイヤーもその後悔を口にはしなかった。きっとそんな愚痴を言っても仕方がないから。
元公務員としても、二人の気持ちは痛いほど分かる。制度に保証された身分、そして同時に制度に縛られる立場。現状に追いつかない制度のせいで、本当に必要なことが目の前にあるのに何も出来ない苦しさ。視線を下ろしたシルフィーさんの表情にはそんな自嘲と苦悩が滲んでいた。
「……それで、その少女を現在地保護する……ということかな?」
だけど、そんなことでずっと目を伏せているようシルフィーさんではないらしい。彼女は伏せていた目を上げて、真剣な表情で鏡越しに俺の目をハッキリと見つめてくる。今、自分に出来ることがあるのなら教えてほしいと。
「そうです。自分がどこに住んでいたのか分からないなら、連絡のしようがありませんから」
それならば、俺もそれに応えるだけだ。
「子供を現在地扱い……か。いや、うん、不可能ではない……のかな。前例を聞いたことはないが、制度上は不可能ではないはずだ」
「ですよね。制度上、明文で禁止されていないのならどうにでもなります。所持金などの観点からも緊急一時保護を行う根拠も足りてるますから。……まあ、屁理屈かもしれませんけど」
「でも、理屈は理屈だ。衣食住の観点からも彼女が保護申請の意思を見せるのであれば、少なくともそれを受けないわけにはいかない……か。確かにそれなら、なんとかなるかもしれない」
小さな微笑みを浮かべて、シルフィーさんはそう言ってくれた。まだ何か算段が着いたわけじゃない。明確な道標が見えたわけでもない。それでも俺には、彼女の深緑の瞳に、希望が宿ったように確かに見えた。
「問い合わせに関しては、シルフィーさんに頼るしか無いんですけど……。この国では保護を受けている人の個人情報について、聞かれたらすぐに教えたりしますか?」
「いや、基本的には教えないよ。必要があれば教えることもあるけれど、この場合はそれにも該当しないだろうね。なにせ、来た問い合わせがディメルノの親類縁者と言う証拠がないんだ。……強いて心配なことといえば、彼女が自分で家に帰ると言い出した時だけど……」
「あの子がそんなことを言わずに済むようにするのが、俺たちの仕事ですよ」
今のディメルノだったら、父親から問い合わせがあったと知っただけでショックを受けかねない。やはり逃げられないのだと、それなら自分から名乗り出た方からいいと考えても不思議ではないのだ。
暴力は人を縛り付ける。それは物理的な暴力だけではなく、心もまた暴力に縛り付けられるのだ。例え拳が目の前になくても、心に刻まれた傷は深く残り続ける。その傷は、容易く癒やされたりはしない。
「そうだね、お願いできるかな? 難しいとは思うけれど……」
「とりあえずは、メイヤーと協力してやってみます。まあ、今は出来るだけ一緒に居てあげるくらいしか思い付きませんけど」
「いや、それが分かっているのなら十分だよ。まずはその子の心を解きほぐしてあげてくれ」
「私は役に立てそうにないけどねぇ、子供に好かれる性格でもないし。って言うか、私自身が子供にどう接していいかよく分かんないし」
「そんなことはないと思うけどな……」
むしろ凄い的確な対応をしていたと思う。それこそ、俺なんかよりもよっぽど。
「あー私のことはどうでもいいんだよ。それにニシキも居るんだから、あんまり大人数で囲んでもディメルノだって困るでしょ」
「まあ、そりゃそうか」
三人に取り囲まれて混乱するディメルノの姿が思い浮かぶ。確かにあれくらいの子供にとって、大人に囲まれると言うのはそれだけでプレッシャーになるだろう。だからまあ、それを言うなら俺が一番邪魔な気がするのだが……。
「ふふ、その辺りはお任せするよ。とりあえず私は明日、出来るだけ早くそっちに行こうと思う。……それで構わないかな?」
何故か俺に確認を取るように視線を送ってくるシルフィーさん。それに俺が頷くと、彼女は満足げな笑みを返してきた。
「よし、それではそういう事で。ところで、一つ聞きたいんだが……」
シルフィーさんは今までの真剣な表情を少し崩し、小さく唇を尖らせながら言葉に迷うように視線を彷徨わせる。なんとなく拗ねた子供を思い出す表情に、俺は首を傾げて彼女の言葉を待つ。
「ええと、なんですか?」
「いや、大したことではないんだけどね。その……二人は一日で随分と親しくなったんだね?」
「親しげに……? あ、そういえば口調が」
ここに至ってようやく、俺はメイヤーに対して敬語を使っていなかったことに気が付いた。そう言えば、寮に戻ってきた時の勢いで思わずタメ口になってしまっていて、そしてそれから今までずっとそのままだったらしい。
「いや、別に悪いと言っているわけではないんだよ? ただ二人の距離が予想以上に近かったものだから、少しだけ驚いてしまっただけで」
「これは違うんです、シルフィーさん。その、さっきディメルノを連れて帰ってきて、それからひと悶着合った時の勢いで……ってだけで」
「ああ、そう言えばタメ口だったね。まあ私は構わないよ? その方が話しやすいしさ。って言うか下手な敬語って疲れるんだよねぇ。ニシキのは堂に入ってるからいいけど、ユウトのは下手くそだし」
「それはいくらなんでも酷くないか!? いや確かにちゃんとした敬語よりも親しみある口調のほうが求められる職場にいたし、仕方ないとは思うけどさ!!」
楽しげに笑う……というよりも俺のことを嘲笑うメイヤーに思わず叫ぶ。
ケースワーカーの敬語は崩れやすい。それはあの業界では、もはや一般常識だった。担当制で長く同じ担当と付き合うため、どうしたって最初の緊張は続かない。それに相手の心に入り込む方が俺には性に合っていたから余計にだ。
「……やっぱり仲良しじゃないか。まあ二人の仲が良いことは私も嬉しいんだ、寮に馴染めている証拠だしね。この世界で君の支えになってくれる人が多いのは、私のも喜ばしいことだ」
優しげで温かい笑顔だ。そして、だからこそどこか怖い。何が怖いのかと言われると俺もよく分からないのだけど、微妙にチクチクと胸に何かが刺さるような気がする。意味のわからない申し訳無さとか、微妙な焦燥感とかが止まらない。
「シルフィーさんにそう言って貰えるのは嬉しいんですけど、何かが引っかかるんだよな……。え、なんだろこの胸の痛みは」
「恋じゃない?」
「いやちげぇだろ」
違う……はずだ。流石にシルフィーさんが美人とは言え、こんな短い期間で恋に落ちるほど俺は惚れっぽい性格ではないはずだ。……ない、はずだ。
「いや、本当に気にしていないんだ。別に私にはまだ敬語なのにとかそんなことは考えていないとも」
「……あー、なるほど、そういうことか。はぁ……シルフィーって意外と子供っぽいところあるよなぁ」
「お、おいメイヤー。何を勘違いしているのかは分からないけれど、そこから先は絶対に言わないでくれ。分かっているよな?」
「え、メイヤーは何が原因か分かるのか?」
なにやらしたり顔のメイヤーと、慌てふためくシルフィーさん。まるで自分だけ何も分かっていないみたいで、思わず疎外感を感じてしまう。
まあ二人は古くからの知り合いなのだし、そこに出会って二日足らずの俺が割り込めると思い上がるほうがおかしいのだとは分かっているのだけど。
「ふふふ、まあ私からなにか言ったりはしないよ。お互いがんばりなー、って感じで」
「……なんかめちゃくちゃ気になるんだけど」
「な、なんでもないから気にしないでくれ!! それより、だ。申し訳ないのだけど、明日のユウトの就職活動は……」
「ああ、それは分かってますよ。それどころじゃないですし、少なくとも明日は休みます」
と言うか、自分が撒いた種なのだ。俺が就活で席を外しているわけにはいかないだろう。
「物分りがよくて助かるよ。君には明日、出来ればディメルノちゃんとの面接に同席して欲しかったんだ。君が居るのと居ないのとでは、きっと勝手が違うだろうからね」
どこか意味ありげに微笑むシルフィーさん。その笑みはどこか楽しげで、そして悪戯を考えている子供か、もしくは魔女かなにかみたいだった。
「そう、ですかね……? まあいいや、とにかく明日は大人しく待ってればいいですね」
「え、んじゃ明日の昼間はお前も居るの? 一日中ずっと? ……はぁ」
「えっと、そんな盛大に溜息を疲れると流石に凹むんだけど……」
メイヤーの冗談に、俺は思わず苦笑をこぼす。……冗談、だよな?
「まあいいや、とりあえずそういう事で。今日は遅い時間にすみませんでした」
「気にすることはないよ、必要なことだったんだからね。また必要なことがあったらメイヤーを通して連絡して欲しい。君からの連絡なら、私はいつでも歓迎なのだから」
思春期の青年が聞いたらすっかり勘違いしてしまいそうなことを言って、シルフィーさんは優しく微笑んでくれた。それに言葉を返すのは俺ではなくて、
「流石はシルフィー、裸を見られたのに気にしないどころかまた連絡してほしいとは……」
「裸じゃなくてタオル一枚だ!! まったく、ようやく忘れそうだったのに余計なことを言って思い出させないでくれ……。それから君も、さっきのことは忘れるように。分かったね?」
隣に居たメイヤーの余計な一言で、シルフィーさんは頬を再び真っ赤に染めながら俺へと鋭い視線を向けてくる。さっきよりは幾らか冷静なのか、宝石のような深緑の目はすっと細められていた。
まあその真っ赤な頬のせいで、迫力はあまりなかったのだけど。
「わ、分かりました」
「うん、よろしい。それではまた明日」
おやすみななさい、とお互いに言ってからシルフィーさんが鏡に触れる。すると不思議なことにその鏡面に波紋が走り、そしてその波紋が落ち着くときには俺とメイヤーの姿が映し出される、普通の鏡に戻っていた。
「……ふぅ」
「なに、やっぱり思い出しちゃった? まあ仕方ないよねぇ、シルフィーって体つきはめちゃくちゃエロいし」
「そんなんじゃありませんからね!? なんとかなる目処が立って安心しただけですー」
シルフィーさんのタオル姿を思い出していたわけではない、断じて。だけどそんな俺の言葉をこの悪魔がどれだけ信じてくれるのかは、正直微妙なところである。
「別に私はユウトがエロいこと考えてても気にしないけど……まあいいや。それよりこの鏡の使い方、教えておくからな。シルフィーに連絡する時にいちいち呼び出されるのも面倒だし」
微妙にメイヤーらしい理由で、彼女は俺に鏡の使い方を教えてくれる。と言うか、この鏡は管理室の中にあるみたいなのだが、セキュリティー的にいいのだろうかと思うけれど。まあ一人でもシルフィーさんに連絡が取れるようになるのはありがたいので、口は挟まないでおく。
「まずは手のひらで鏡に触って、それから指で自分の名前をサインするんだよ。ああ、指紋がつくとかは気にしないでいいから」
「わ、分かった」
鏡に直接触れるのは少しだけ抵抗があるなぁと思いつつ、俺は手のひらをメイヤーに習ってピッタリとくっつける。すると鏡の中の景色が一度だけ大きく揺れて、それから何も起きずにもとに戻った。
「これは……?」
「今のでユウトの魔力が登録されたんだよ。これでシルフィーに連絡した時に、私からじゃないって分かるようになる。……残念だったな、風呂上がりが見れなくなって」
「だから違うって!! そ、それよりどうやって使うのか教えてくれ」
精一杯に話を逸らす。まあ彼女には逸しているのはバレバレだろうけど、メイヤーは楽しげな笑顔を浮かべながらも、満足してくれたのか説明に戻ってくれる。
「ああ。って言っても、連絡したい相手を思い浮かべながら鏡に触れるだけなんだけどね。そうすると相手の鏡が鳴るから、相手が触れれば鏡が映るようになる。終わる時は触れば終わる、それだけ」
めちゃくちゃ簡単だった。多分だけど誰もが帯びている微量な魔力を触媒にして動いているのだろうが、まさか念じるだけで連絡ができるとは思わなかった。
「凄いな……。これ。こんなのがどの家にもあるってことか?」
「ん? まあ基本はそうかなぁ。ない家もあるとは思うけど、それほど高くもないし大抵は持ってると思うよ。これは少し高い分、大きいやつだけど」
「……なるほど」
確かに小さめのモニターくらいの大きさの鏡は、普通に鏡として使うには少しばかり大きい気がする。そして大きさで値段が変わるということは、大きいものはもっと大きいということだろうか。化粧台との三面鏡はどう映るんだろう。
「ま、そういうわけでこれからは自由に使っていいから。……ふわぁ~。あぁ、そろそろ寝るかぁ」
「メイヤー、めっちゃ昼寝してなかったか……?」
夕食を食べながら、五時間は昼寝したとか言っていた気がしたのだが気の所為だろうか。
「何時間寝ても眠いものは眠いんだって。まあそういうわけで、ユウトも部屋戻って寝なよ。私も後片付けしたら寝る」
「いやまあ元からそのつもりだけどさ。それより、今日はありがとうな。それから、おやすみ、メイヤー」
「ん、おやすみー」
ヒラヒラと手をふるメイヤーに見送られ、俺は管理人室を後にする。寮の廊下はひやりと冷たく、魔力灯の灯りがボンヤリと部屋の扉を照らしているだけ。静まり返っているのを見るに、ディメルノはぐっすりと眠ったままなのだろう。
「ふわぁ……」
気が抜けたのか溢れる大きなあくびを噛み殺して、俺は自分の部屋のベッドに寝転んだ。まだ俺も慣れないこの部屋。旅行先の宿みたいに感じるこの場所も、いつか自分の家のように感じられる日が来るのだろうか。
……そしてディメルノにも、いつかそう思ってもらえるのだろうか。
「何をすればいいのか……は。明日……考えるしか、ないか……」
疲れ切った頭では結局考えはまとまらず、だけどその疲れはどこか心地よくて。俺の意識は温かいまどろみの中に沈んでいったのだった。
話したいと思った相手を映し出すという不思議な魔鏡。その向こうに映っているのは、いつも通りの静かな声色で話しかけてくるシルフィーさんだ。その落ち着いた姿は、ついさっきタオル一枚で鏡に写って大慌てしていた姿からは想像もつかない。
「うん、まあそんなところ。……それよりシルフィー、顔真っ赤だぞ」
「し、仕方ないじゃないか……まさかユウトが居るだなんて思わなかったんだから。……それより、約束した通りちゃんと忘れてくれよ? いくら私でもその……恥ずかしいんだから」
甘えるような潤んだ瞳で、鏡越しのシルフィーさんが上目遣いに見上げてくる。だが今でもその白い陶磁器みたいな肌は、湯上がりのせいか火照ったように赤く染まったままで。そんな姿を見て、俺は忘れなければと思いながらも先程までの彼女の姿を思い出してしまう。
水に濡れた艷やかな銀髪、水滴が玉のように流れ落ちる白い肌。ただでさえ凹凸のしっかりついた体を隠すのは、水に濡れたてへばりついた薄い布一枚だけ。それは扇情的でありながら、見ているだけで負い目を感じてしまうほどに美しくて──。
「ぜ、善処します」
俺は頭の中の情景を振り払うように頭を振ってから、俺は出来る限りの真剣な表情でそう言った。
「それ、本気で忘れる気のある返事じゃないような……。はぁ、まあ今はそれは置いておこう。それより本題に戻ろうじゃないか」
「そうそう、別に裸見られたわけじゃないんだしいいじゃん。……それでまあ、事情はユウトから話して貰ったほうがいいかな。頼む」
「最初からそのつもりだ。ええとですね、とりあえずシルフィーさんに相談に乗って欲しいのは、小さい女の子の保護について……なんですけど」
俺は出来るだけかいつまんで、今日シルフィーさんと別れてからこれまでにあったことを話していく。帰り道にディメルノが路地裏にうずくまっていて、痣だらけだったから連れ帰ったこと。彼女の言動から推察するに、それが家庭内で行われた暴力であろうこと。そして今はニシキさんが様子を見ていてくれていること。
そんなどう考えても面倒事としか思えない俺の話を、シルフィーさんは口も挟まず頷きながら聞いてくれた。
「……なるほどね。それは確かに、こんな時間でも私に連絡するわけだ」
「すみません、非常識な時間に。ですが、どうしても今日中に相談しておきたくて……」
「いや、責めているわけではないんだ。むしろ連絡してくれてよかった。君が私のことを頼ってくれたのも嬉しいしね。だけれど……」
シルフィーさんの優しげな笑顔が曇る。言葉を濁し、言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。それはきっと彼女が優しいからこその迷いなのだろう。だがシルフィーさんは迷いを振り切るように、しっかりと俺に視線を向けてから言葉を続ける。
「……君のその懸念が当たっている事実を、私は告げなければならないことが心苦しい。今のこの国には子供に不適切な教育をする親に対して、強制力のある行政行為を行うことの出来る法律が存在しないんだ」
分かっていた。専門家である彼女ならもしかしてと、そんな微かな希望はあったけれど、事前にメイヤーやニシキさんから聞いていたことだ。
「だから、仮にその子供を君たちが保護したとして……その子の親がその子を取り戻そうとしてきた場合……」
「俺達が捕まる可能性もある……ってことですよね」
「ああ、そういうことになる。……君のしていることが間違っているとは、私も思ってなどいない。むしろ誰よりも正しい……とすら思う。だけど──」
シルフィーさんは立場上、俺のしていることに賛同出来ない。そんなことは最初から分かっていた。分かっていて、俺は彼女に相談を持ちかけたのだ。
彼女の立場を考えれば当たり前。かつての俺ならもしも逆の立場でも、同じことを言ったかもしれない。……でもそれは、かつての俺ならばだ。
「ならもしも、あの子を保護する方法があるとしたら……。シルフィーさんは、協力してくれますか?」
「ああ、もちろんだとも。私だって福祉の理念を司る福祉事務所の人間だ。そんな方法があるのなら、二つ返事で協力しよう」
彼女の深緑の瞳に嘘の色はない。魔鏡越しでも、彼女が俺の問いかけに真摯に答えてくれたことがハッキリと分かる。だけど、それでも尚、彼女の表情は晴れないまま。きっと俺以上の悔しさが、その胸を灼いているのだろう。そんな彼女の表情に、俺はようやく迷いを打ち切って口を開いた。
「ならあの子を、生活保護の制度で守ればいい。単身世帯の現在地保護を行って、一時的な居所としてこの寮を使うんです。親族との関係悪化の懸念を理由に扶養照会を回避できるし、問い合わせには調査中といって回答を延期してその間に──」
「ちょ、ちょっと待った!! そんな一気に喋らないでくれ。それに現在地保護? 扶養照会? そんな単語を、君がどうして知っているんだい? それこそケースワーカーをやっていなければそんな単語は……」
知り得ない。そんなことは、この俺が一番知っている。だから本当ならこんな話をこの世界でする気なんてなかった。だって話したら関わってしまう。もう他人の人生に深入りなんてしないと誓ったばかりなのに、小さな少女の人生に入り込んでしまう。
「それは……」
一瞬、言葉をためらうように溜める。ここでシルフィーさんを納得させるのに一番効果的な言葉が何か、それは分かる。考える余地すらない。それなのに、俺は今この瞬間に至ってすら、しっかりとした決断を下すことすら出来なくて。
「……それは、俺が元ケースワーカーだからです。ヒューマンだけしかいない国の、ですけど」
──結局、俺がしたのは決断なんかじゃなかったんだと思う。ただここで引き返すくらいなら、俺は最初から少女の泣き声に手を差し伸べたりしなかったのだからと。ディメルノを助けなければと、ただそれだけを思って、俺はハッキリとそう口にしていた。
「……本当かい?」
「ええ、本当です。私が居た福祉事務所では地区担当制で住所がない人は、不定と呼んで輪番で担当していました。証拠が必要なら……私の国で使っていた保護手帳が荷物の中にあります」
恐らくは最後であろう引き返せる地点。シルフィーさんがくれた、そんなせっかくの機会すらも無視して、俺は誤解の余地がないようにそう告げる。
もう二度と福祉の仕事には関わらない。中途半端に他人の人生に関わって、それなのに何も出来ない苦痛を味わいたくない。そんな俺の決心は、目の前で声を殺して泣いている子供の姿を思い出しても守れるほどには固くなかった。ただそれだけのことだ。
「……なるほど、分かった。君の手帳は大変興味があるけれど、今は持ってこなくても大丈夫だ。それよりも、改めて君の考えが聞きたい。確か……その少女を現在地保護するという話だったね?」
「ちょ、シルフィー。もしかしてこいつの言うこと信じるの? どこから来たのかもわからないドラゴニュートの落とし物だよ? 本気で言ってるの?」
「ふふ、もちろんだとも。私は彼を信じている。……魔鏡越しでも、彼の目がどれだけ真剣かくらいは分かるつもりだ。それに、二日間を共に過ごしてどんな人物なのかも、ね」
それに……と。シルフィーさんはどこか楽しげな苦笑を浮かべて、
「あれだけ専門用語を羅列されては信じる他ないさ。それに、彼がここで嘘をつく意味もない。……そうだろ? メイヤー」
まるで後から理由を付け足したような気楽さでそう言った。それを聞いて、メイヤーは渋々と言った様子で一歩だけ下がりため息をこぼす。
「はぁ……。シルフィーは言い出したら聞かないもんなぁ。分かった、私も信じる」
「そうしてくれ。……というか、メイヤー。君も最初から彼の言うことを信じていたからこそ、この魔鏡を貸したんじゃないのかな?」
「……うるさい」
「ふふ、図星というわけか。まあいい、そういうことだ。私達は君の話に乗るよ、ユウト」
顔を赤くしてそっぽを向くメイヤーを、シルフィーさんは微笑みながら眺めてから、こちらに顔を向けてそう言ってくれた。その表情は優しげで、それでいて真剣な眼差しで。俺は鏡越しにしっかりと、シルフィーさんに向けって頭を下げた。
「……ありがとうございます、シルフィーさん。メイヤーも、信じてくれてありがとう」
「お礼を言いたいのはこっちの方だよ。本当ならば私達がやるべきことを、君に押し付けてしまっているのだから。それに……私の個人的な感情としても、子供が辛い目にあっているのは見過ごしたくはない」
「私だってそうだよ。って言うか、泣いている子供を見ていたくないなんて当たり前じゃん。出来るなら……助けてあげたい」
見過ごしたくはないけれど、そのための制度がない。そう言いたいはずなのに、シルフィーさんもメイヤーもその後悔を口にはしなかった。きっとそんな愚痴を言っても仕方がないから。
元公務員としても、二人の気持ちは痛いほど分かる。制度に保証された身分、そして同時に制度に縛られる立場。現状に追いつかない制度のせいで、本当に必要なことが目の前にあるのに何も出来ない苦しさ。視線を下ろしたシルフィーさんの表情にはそんな自嘲と苦悩が滲んでいた。
「……それで、その少女を現在地保護する……ということかな?」
だけど、そんなことでずっと目を伏せているようシルフィーさんではないらしい。彼女は伏せていた目を上げて、真剣な表情で鏡越しに俺の目をハッキリと見つめてくる。今、自分に出来ることがあるのなら教えてほしいと。
「そうです。自分がどこに住んでいたのか分からないなら、連絡のしようがありませんから」
それならば、俺もそれに応えるだけだ。
「子供を現在地扱い……か。いや、うん、不可能ではない……のかな。前例を聞いたことはないが、制度上は不可能ではないはずだ」
「ですよね。制度上、明文で禁止されていないのならどうにでもなります。所持金などの観点からも緊急一時保護を行う根拠も足りてるますから。……まあ、屁理屈かもしれませんけど」
「でも、理屈は理屈だ。衣食住の観点からも彼女が保護申請の意思を見せるのであれば、少なくともそれを受けないわけにはいかない……か。確かにそれなら、なんとかなるかもしれない」
小さな微笑みを浮かべて、シルフィーさんはそう言ってくれた。まだ何か算段が着いたわけじゃない。明確な道標が見えたわけでもない。それでも俺には、彼女の深緑の瞳に、希望が宿ったように確かに見えた。
「問い合わせに関しては、シルフィーさんに頼るしか無いんですけど……。この国では保護を受けている人の個人情報について、聞かれたらすぐに教えたりしますか?」
「いや、基本的には教えないよ。必要があれば教えることもあるけれど、この場合はそれにも該当しないだろうね。なにせ、来た問い合わせがディメルノの親類縁者と言う証拠がないんだ。……強いて心配なことといえば、彼女が自分で家に帰ると言い出した時だけど……」
「あの子がそんなことを言わずに済むようにするのが、俺たちの仕事ですよ」
今のディメルノだったら、父親から問い合わせがあったと知っただけでショックを受けかねない。やはり逃げられないのだと、それなら自分から名乗り出た方からいいと考えても不思議ではないのだ。
暴力は人を縛り付ける。それは物理的な暴力だけではなく、心もまた暴力に縛り付けられるのだ。例え拳が目の前になくても、心に刻まれた傷は深く残り続ける。その傷は、容易く癒やされたりはしない。
「そうだね、お願いできるかな? 難しいとは思うけれど……」
「とりあえずは、メイヤーと協力してやってみます。まあ、今は出来るだけ一緒に居てあげるくらいしか思い付きませんけど」
「いや、それが分かっているのなら十分だよ。まずはその子の心を解きほぐしてあげてくれ」
「私は役に立てそうにないけどねぇ、子供に好かれる性格でもないし。って言うか、私自身が子供にどう接していいかよく分かんないし」
「そんなことはないと思うけどな……」
むしろ凄い的確な対応をしていたと思う。それこそ、俺なんかよりもよっぽど。
「あー私のことはどうでもいいんだよ。それにニシキも居るんだから、あんまり大人数で囲んでもディメルノだって困るでしょ」
「まあ、そりゃそうか」
三人に取り囲まれて混乱するディメルノの姿が思い浮かぶ。確かにあれくらいの子供にとって、大人に囲まれると言うのはそれだけでプレッシャーになるだろう。だからまあ、それを言うなら俺が一番邪魔な気がするのだが……。
「ふふ、その辺りはお任せするよ。とりあえず私は明日、出来るだけ早くそっちに行こうと思う。……それで構わないかな?」
何故か俺に確認を取るように視線を送ってくるシルフィーさん。それに俺が頷くと、彼女は満足げな笑みを返してきた。
「よし、それではそういう事で。ところで、一つ聞きたいんだが……」
シルフィーさんは今までの真剣な表情を少し崩し、小さく唇を尖らせながら言葉に迷うように視線を彷徨わせる。なんとなく拗ねた子供を思い出す表情に、俺は首を傾げて彼女の言葉を待つ。
「ええと、なんですか?」
「いや、大したことではないんだけどね。その……二人は一日で随分と親しくなったんだね?」
「親しげに……? あ、そういえば口調が」
ここに至ってようやく、俺はメイヤーに対して敬語を使っていなかったことに気が付いた。そう言えば、寮に戻ってきた時の勢いで思わずタメ口になってしまっていて、そしてそれから今までずっとそのままだったらしい。
「いや、別に悪いと言っているわけではないんだよ? ただ二人の距離が予想以上に近かったものだから、少しだけ驚いてしまっただけで」
「これは違うんです、シルフィーさん。その、さっきディメルノを連れて帰ってきて、それからひと悶着合った時の勢いで……ってだけで」
「ああ、そう言えばタメ口だったね。まあ私は構わないよ? その方が話しやすいしさ。って言うか下手な敬語って疲れるんだよねぇ。ニシキのは堂に入ってるからいいけど、ユウトのは下手くそだし」
「それはいくらなんでも酷くないか!? いや確かにちゃんとした敬語よりも親しみある口調のほうが求められる職場にいたし、仕方ないとは思うけどさ!!」
楽しげに笑う……というよりも俺のことを嘲笑うメイヤーに思わず叫ぶ。
ケースワーカーの敬語は崩れやすい。それはあの業界では、もはや一般常識だった。担当制で長く同じ担当と付き合うため、どうしたって最初の緊張は続かない。それに相手の心に入り込む方が俺には性に合っていたから余計にだ。
「……やっぱり仲良しじゃないか。まあ二人の仲が良いことは私も嬉しいんだ、寮に馴染めている証拠だしね。この世界で君の支えになってくれる人が多いのは、私のも喜ばしいことだ」
優しげで温かい笑顔だ。そして、だからこそどこか怖い。何が怖いのかと言われると俺もよく分からないのだけど、微妙にチクチクと胸に何かが刺さるような気がする。意味のわからない申し訳無さとか、微妙な焦燥感とかが止まらない。
「シルフィーさんにそう言って貰えるのは嬉しいんですけど、何かが引っかかるんだよな……。え、なんだろこの胸の痛みは」
「恋じゃない?」
「いやちげぇだろ」
違う……はずだ。流石にシルフィーさんが美人とは言え、こんな短い期間で恋に落ちるほど俺は惚れっぽい性格ではないはずだ。……ない、はずだ。
「いや、本当に気にしていないんだ。別に私にはまだ敬語なのにとかそんなことは考えていないとも」
「……あー、なるほど、そういうことか。はぁ……シルフィーって意外と子供っぽいところあるよなぁ」
「お、おいメイヤー。何を勘違いしているのかは分からないけれど、そこから先は絶対に言わないでくれ。分かっているよな?」
「え、メイヤーは何が原因か分かるのか?」
なにやらしたり顔のメイヤーと、慌てふためくシルフィーさん。まるで自分だけ何も分かっていないみたいで、思わず疎外感を感じてしまう。
まあ二人は古くからの知り合いなのだし、そこに出会って二日足らずの俺が割り込めると思い上がるほうがおかしいのだとは分かっているのだけど。
「ふふふ、まあ私からなにか言ったりはしないよ。お互いがんばりなー、って感じで」
「……なんかめちゃくちゃ気になるんだけど」
「な、なんでもないから気にしないでくれ!! それより、だ。申し訳ないのだけど、明日のユウトの就職活動は……」
「ああ、それは分かってますよ。それどころじゃないですし、少なくとも明日は休みます」
と言うか、自分が撒いた種なのだ。俺が就活で席を外しているわけにはいかないだろう。
「物分りがよくて助かるよ。君には明日、出来ればディメルノちゃんとの面接に同席して欲しかったんだ。君が居るのと居ないのとでは、きっと勝手が違うだろうからね」
どこか意味ありげに微笑むシルフィーさん。その笑みはどこか楽しげで、そして悪戯を考えている子供か、もしくは魔女かなにかみたいだった。
「そう、ですかね……? まあいいや、とにかく明日は大人しく待ってればいいですね」
「え、んじゃ明日の昼間はお前も居るの? 一日中ずっと? ……はぁ」
「えっと、そんな盛大に溜息を疲れると流石に凹むんだけど……」
メイヤーの冗談に、俺は思わず苦笑をこぼす。……冗談、だよな?
「まあいいや、とりあえずそういう事で。今日は遅い時間にすみませんでした」
「気にすることはないよ、必要なことだったんだからね。また必要なことがあったらメイヤーを通して連絡して欲しい。君からの連絡なら、私はいつでも歓迎なのだから」
思春期の青年が聞いたらすっかり勘違いしてしまいそうなことを言って、シルフィーさんは優しく微笑んでくれた。それに言葉を返すのは俺ではなくて、
「流石はシルフィー、裸を見られたのに気にしないどころかまた連絡してほしいとは……」
「裸じゃなくてタオル一枚だ!! まったく、ようやく忘れそうだったのに余計なことを言って思い出させないでくれ……。それから君も、さっきのことは忘れるように。分かったね?」
隣に居たメイヤーの余計な一言で、シルフィーさんは頬を再び真っ赤に染めながら俺へと鋭い視線を向けてくる。さっきよりは幾らか冷静なのか、宝石のような深緑の目はすっと細められていた。
まあその真っ赤な頬のせいで、迫力はあまりなかったのだけど。
「わ、分かりました」
「うん、よろしい。それではまた明日」
おやすみななさい、とお互いに言ってからシルフィーさんが鏡に触れる。すると不思議なことにその鏡面に波紋が走り、そしてその波紋が落ち着くときには俺とメイヤーの姿が映し出される、普通の鏡に戻っていた。
「……ふぅ」
「なに、やっぱり思い出しちゃった? まあ仕方ないよねぇ、シルフィーって体つきはめちゃくちゃエロいし」
「そんなんじゃありませんからね!? なんとかなる目処が立って安心しただけですー」
シルフィーさんのタオル姿を思い出していたわけではない、断じて。だけどそんな俺の言葉をこの悪魔がどれだけ信じてくれるのかは、正直微妙なところである。
「別に私はユウトがエロいこと考えてても気にしないけど……まあいいや。それよりこの鏡の使い方、教えておくからな。シルフィーに連絡する時にいちいち呼び出されるのも面倒だし」
微妙にメイヤーらしい理由で、彼女は俺に鏡の使い方を教えてくれる。と言うか、この鏡は管理室の中にあるみたいなのだが、セキュリティー的にいいのだろうかと思うけれど。まあ一人でもシルフィーさんに連絡が取れるようになるのはありがたいので、口は挟まないでおく。
「まずは手のひらで鏡に触って、それから指で自分の名前をサインするんだよ。ああ、指紋がつくとかは気にしないでいいから」
「わ、分かった」
鏡に直接触れるのは少しだけ抵抗があるなぁと思いつつ、俺は手のひらをメイヤーに習ってピッタリとくっつける。すると鏡の中の景色が一度だけ大きく揺れて、それから何も起きずにもとに戻った。
「これは……?」
「今のでユウトの魔力が登録されたんだよ。これでシルフィーに連絡した時に、私からじゃないって分かるようになる。……残念だったな、風呂上がりが見れなくなって」
「だから違うって!! そ、それよりどうやって使うのか教えてくれ」
精一杯に話を逸らす。まあ彼女には逸しているのはバレバレだろうけど、メイヤーは楽しげな笑顔を浮かべながらも、満足してくれたのか説明に戻ってくれる。
「ああ。って言っても、連絡したい相手を思い浮かべながら鏡に触れるだけなんだけどね。そうすると相手の鏡が鳴るから、相手が触れれば鏡が映るようになる。終わる時は触れば終わる、それだけ」
めちゃくちゃ簡単だった。多分だけど誰もが帯びている微量な魔力を触媒にして動いているのだろうが、まさか念じるだけで連絡ができるとは思わなかった。
「凄いな……。これ。こんなのがどの家にもあるってことか?」
「ん? まあ基本はそうかなぁ。ない家もあるとは思うけど、それほど高くもないし大抵は持ってると思うよ。これは少し高い分、大きいやつだけど」
「……なるほど」
確かに小さめのモニターくらいの大きさの鏡は、普通に鏡として使うには少しばかり大きい気がする。そして大きさで値段が変わるということは、大きいものはもっと大きいということだろうか。化粧台との三面鏡はどう映るんだろう。
「ま、そういうわけでこれからは自由に使っていいから。……ふわぁ~。あぁ、そろそろ寝るかぁ」
「メイヤー、めっちゃ昼寝してなかったか……?」
夕食を食べながら、五時間は昼寝したとか言っていた気がしたのだが気の所為だろうか。
「何時間寝ても眠いものは眠いんだって。まあそういうわけで、ユウトも部屋戻って寝なよ。私も後片付けしたら寝る」
「いやまあ元からそのつもりだけどさ。それより、今日はありがとうな。それから、おやすみ、メイヤー」
「ん、おやすみー」
ヒラヒラと手をふるメイヤーに見送られ、俺は管理人室を後にする。寮の廊下はひやりと冷たく、魔力灯の灯りがボンヤリと部屋の扉を照らしているだけ。静まり返っているのを見るに、ディメルノはぐっすりと眠ったままなのだろう。
「ふわぁ……」
気が抜けたのか溢れる大きなあくびを噛み殺して、俺は自分の部屋のベッドに寝転んだ。まだ俺も慣れないこの部屋。旅行先の宿みたいに感じるこの場所も、いつか自分の家のように感じられる日が来るのだろうか。
……そしてディメルノにも、いつかそう思ってもらえるのだろうか。
「何をすればいいのか……は。明日……考えるしか、ないか……」
疲れ切った頭では結局考えはまとまらず、だけどその疲れはどこか心地よくて。俺の意識は温かいまどろみの中に沈んでいったのだった。
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