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勘違いでもいいから

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 時間が過ぎるのは早く、気付けば構内では新緑が風に揺れている。
 いつの間にか迎えた春休みも、慌しく過ごせば直ぐに終わってしまった。
 暁義は進級が決まってからひたすらバイトに明け暮れて、合間には母校へ顔を出し、初めは監督に挨拶をするだけのつもりだったが後輩にせがまれるまま指導とは言い難い練習に参加したりしていた。
 毎日がその繰り返しで、まるで壱斗のことを忘れるためがむしゃらにしていた頃を思い出す。
 ただただ、考えることを放棄しようと必死になって、結局空回りしては壱斗へと思考が戻る…そんなループの毎日。
 あの頃と同等の日々を過ごしながらも、心の奥底に感じていた何に打ち込んでも埋まることのない虚無感や耐えがたいような孤独感は、今は一片として湧いてこなかった。
 大学が始まると、暁義はいつも壱斗が利用する構内のカフェへと向かった。
 時間があれば大抵学部棟から一番近いこのカフェに壱斗はいる。
 今までであれば、自ら壱斗を探してまで構内で会うことなど絶対になかったし、考えもしなかった。それなのに、今更そんなことをしている自分が少しおかしく思えた。
 カランと扉に備え付けられた鐘が独特の音を鳴らす。
 出入りする学生の数が多く、閑散とは程遠いこの構内で、この鐘が一体何の役に立っているのか疑問に首を傾げながらも中に入ると、壱斗の姿を探すようにぐるりと店内を見渡した。
 中央よりやや窓際にある六人掛けの広いテーブル。多めの人数でも座りやすいよう広めに設けられたテーブルは、大人数でグループワーク等に勤しむ学生の姿を見かけることも多い。そのテーブルを囲うように壱斗と見慣れたその友人数人がいて、談笑している。
 暁義は躊躇することなく真っ直ぐそのテーブルへと向かい、何度も縋った背中へと、緊張を隠した声音で放った。

「壱斗」
「ん?」
「今日時間ある?」
「アキ…」

 驚いた表情を見せる壱斗。開ききった瞼からは、その大きな眼が落ちてしまいそうなほどだ。

「あ、うん…何で?」

 あの日……セックスをした日以来、初めて会った。
 春休みの間暁義は一度も連絡をしなかったし、壱斗から連絡が来ることもなかった。
 別にだからと言って怒る理由もないし、権利もない。
 暁義は自身の気持ちを整理する時間が出来て良かったとさえ思っていた。

「一緒に飲もうぜ」

 暁義の唐突な誘いに、壱斗は一瞬訝しげな表情を見せる。
 何でそんなことを、とでも言いたげな顔だ。

「でも……彼女は?」 

 搾り出すような声で壱斗が呟いた。
 その声はどこか切なげに聞こえる。

「は?」

 壱斗の言葉に暁義は一瞬驚き、首を傾げた。

「ほっといていいの?」
「あ、うん。大丈夫」

 ほっとくも何も、彼女なんかいないのに、と暁義は思考を巡らせる。だが、何故か壱斗の顔は歪み悲愴さが増した。

「壱斗?」

 そんな壱斗を不思議に思い、暁義は再度首を傾げる。

「何でもない何でもない! 大丈夫っ!」

 虚をつかれたように慌て、壱斗は先刻の表情を隠そうとするように顔の前で手を振り笑顔を作った。

「じゃ、バイト終わったら連絡するな」

 不審に思いながらも端的に用件を伝えると、暁義はカフェを後にした。



 バイトが終わると暁義は、馴染みのバッグからスマホと取り出す。
 付き合い始めて、初めて迎えた暁義の誕生日に壱斗から贈られたそのバッグは、革製のしっかりとしたショルダータイプで、使う度に手に馴染んでいった。
 今では教材がない限りは殆どこのバッグばかり使っている。
 バッグをひと撫ですると、取り出したスマホの画面を軽くスライドし、もう何度もタッチした名前を指で触れる。何と打つべきか…そんな愚問すら頭に浮かび、嘲笑が漏れた。片思いの相手に連絡をするような、そんなドキドキにも似た緊張。存外心地良く感じてしまうのが暁義には懐かしく、そして可笑しかった。

『バイト終わった。今からそっち行くから』

 店長にお疲れ様でした、と声をかけ店を出ると、途中で差し入れ代わりの飲み物を買い、壱斗の家へと向かった。
 久しぶりに訪ねる壱斗の家。嫌でも緊張が増す。
 壱斗の浮気が分かってから暁義は壱斗の家へ行くことをやめた。
 この部屋で女の子を抱いたかもしれない、女の子がいた形跡があるかもしれない…そう思うと怖くて、見なければそれは事実にならないような気がして、ずっと避けていた。

「大丈夫…」

 壱斗の部屋の前へ立ち、自分に言い聞かせるように暁義は呟く。
 途中で買った酒の袋をギュッと握り締め、扉の横に携えられたインターホンを鳴らした。 
 はーい、という声と共に扉が開く。
 少し恥ずかしげな、でもほんのりと頬を染め、嬉しそうな壱斗の表情。

「なんか、壱斗の家って久しぶりだな」

 僅かに声が震え、暁義は自分が緊張しているのが分かった。

「…そうだね」

 照れた笑みを浮かべる壱斗。
 どうぞと促され、暁義は玄関を上がる。何気なく室内を見渡し、ある一点に目が止まった。

「何、最近自炊してんの?」

 水切りバットに並ぶ洗われた皿や鍋。いくらか食器も増えているように思える。
 以前は外食かコンビニ弁当ばかりで、壱斗が自炊している姿を見るどころか、その気配すらなかった。
 自炊するくらいなら…と暁義の家まで押しかけていたほどだ。

「うん……家で食べること増えたから、ついでに料理覚えようかなって」

 ああ、本当に壱斗は変わったんだ、と目の当たりにし、嬉しさが込み上げてくる。
 こんな事ぐらいでと思われるかもしれないが、今まででは有り得ない変化があるという事は、それなりに大きな心情の変化があったという事。
 それから考えると、暁義の言葉を守ろうと外に出ることを控え、今まで自由奔放が信条だった壱斗がまるで家庭に入った妻のような日常を過ごしている。
 知らず、緩やかに口角が上がった。

「へぇ…今度、俺にも何か食べさせてよ」

 そう言うと壱斗の顔がパァッと明るくなる。
 包み隠す様子もなく笑みを浮かべ、嬉々として頷いた。

「あ、じゃあ今から簡単なものでよかったら作るよ。部屋で待ってて」

 嬉しそうに準備を始める壱斗に暁義の頬が自然と緩む。
 部屋へ行こうと一旦足を向けたが、暁義はそのままシンクに凭れかかり、冷蔵庫を覗く壱斗を見つめた。

「ん…いいや。見てる」
「え」
「壱斗が料理するとこ、見てみたい」

 壱斗が自分のために作ってくれるところを見たかった。
 何を思って、どんな表情で作るのか、その全てを見たかった。
「…ん」

 壱斗は恥ずかしそうに俯きながらも、小さく一度だけ頷いた。



 トントントン、とリズムよく野菜を刻む音が響く。何だか恥ずかしいな、と照れながらも幾分手馴れた様子で料理を作る壱斗。
 恥ずかしいのか、壱斗は暁義の方を見ようとしないが、暁義はその黙々と料理を作る様子をジッと見つめていた。

「…壱斗、まだ俺のこと好き?」
「え…痛っ」

 突然の話題に壱斗が驚き、顔を上げた。
 その際包丁で指を切ってしまったのか、指先が薄っすらと赤く滲んでいく。

「大丈夫か!」

 暁義は慌てて壱斗の手を取ると傷口を確認し、躊躇なくその指を口に含んだ。傷口に舌を這わせ、ざらりと舐める。ジワリと口内に広がる鉄の味など気にもならなかった。

「だ、大丈夫! …ちょっと絆創膏貼ってくるから」

 その唐突な行動に壱斗が思わず手を引っ込めた。そして逃げるようにリビングへ行くと絆創膏を探し始める。
 血が滲む指先を庇いながら、ガサゴソとラックの引き出しを漁った。
 引き出しの中から漸く絆創膏が入った箱を見つけ、中身を取り出す。

「俺が貼ってやるよ」

 暁義はそれをヒョイと掴むと手早く封を切り、壱斗の指へと巻いた。

「あ、ありがと…」
「なんか、しおらしいとお前らしくないな」

 そう暁義が言うと、少し拗ねたように、そんなことない、と壱斗が答えた。

「で、さっきの話の続きなんだけど…」

 暁義が話の続きを始めると、壱斗の表情が一気に曇る。
 まだその話はしたくなかったと言うような悲しげな顔。
 暁義も徐々に緊張が増していく。

「うん…まだアキのこと、好き。きっと、ずっと好きなんだと思う…ごめんね」

 顔を下に向けたままの告白は、まるで好きでいることが罪のようで、聞いた暁義の方がやりきれない気持ちになっていく。
 人を好きになるということは、元来純粋で、清廉なものではないだろうか。
 心から慕い、想い、互いに通じるモノであった時、あたかも番であるかのように寄り添う。
 たとえ違え憎む気持ちを持ってしまったとしても、心の片隅で僅かでも相手の幸福を祈ることが出来る…そんな盲目的な秀麗さであってはいけないのだろうか。
 当然、ただ“好きだ”という単純な感情だけだはないのは自身の経験で十分経験している。
 不安、嫉妬、歯痒さ、辛さ、心身ともに疲弊する事もあれば、辟易と呆れてしまう事だってある。
 それでもたった一言で幸福に満ち足りたように思わせてくれる、“好き”とはそんな気持ちであって欲しい。
 それなのに、あたかも疚しいことであるかのように自虐的に思わせてしまっていた。
 暁義は壱斗の言葉にその想いの深さや、感情を抱える辛さを知らされた気がした。
 元々の原因が何であれ、そんな風に思わせてしまったことは申し訳なくて仕方がない。

「そう……俺も、壱斗が好きだ」

 でもこの感情は申し訳なさから来るものでは決してなくて、正真正銘、暁義の中にずっと――初めて壱斗と話したあの日からずっと抱えていたもの。

「っ…あ、はは…ありがと……そう、言ってくれるのは、嬉しいけど…駄目だよ、俺…っ俺…友達として言ってくれてること分かってるけど、勘違いしそうになるもんっ」

 傍目に見て分かるほど必死に空笑いをして見せるが、途中から耐え切れず壱斗のその丸い瞳から涙が零れている。
 暁義はこんなにも弱々しい壱斗を見たことがなかった。
 テニスをやめたときでさえも、壱斗は気丈に振舞っていた。
 自分は哀れなどではない。後悔はない。
 そう言い聞かせるように、両の足で踏ん張って見せていた。
 そんな壱斗が…直ぐにでも折れてしまいそうなほどの僅かな気丈さで懸命に立っていようとする壱斗が愛しかった。支えたいと思った。今でも支えたいと、守りたいと思っている。
 ――傍にいたい。

「勘違い、してくれよ」
「え…」

 キョトンと軽く首を傾げ、聞き間違いか、あるいは会話の前後を聞き逃したのではないかと疑わんばかりに呆けた表情を見せ、その瞳からは瞬間涙が治まる。
 伝わっていないな、と悟ると、今度はゆっくりとした口調で、それでもはっきりと柔らかく、まるで壱斗の心を溶かすように言葉を紡いだ。

「勘違い、して」
「え…でも、だって……抱いたじゃん…最後に抱いてってお願いしたとき、何も言わず俺のこと抱いたじゃんっ! だから俺、あれが最後、だと……」
「ごめん、言葉が足りなくて。好きだから…好きだから抱いた……勘違いでも何でも、そういう意味で好きなんだって分かってくれなきゃ、俺の想い、伝わんないじゃん」

 言いながら暁義は泣きそうになるのを必死に堪えた。
 目頭が熱くなり、ジワリと涙がせり上がって来る。

「アキ…?」

 信じられないと呆けたように驚いて、それでもどこか安堵したような壱斗の表情。
 暁義は涙で濡れている壱斗の頬を、指でそっと拭った。

「壱斗の浮気はどうしても許せなかった…これ以上傍にいたら耐えられないって思った…でも壱斗と別れて、離れようと思えば思うほど、壱斗を見ちゃうんだ……見て、思い出して、考えて……今までよりもっと、壱斗を好きだ! って思い知らされただけだった」

 暁義は壱斗と別れてから今まで感じた想い全てを言葉にした。
 好きだという感情はどんなに勘違いだ、気の所為だと思っても誤魔化しようがなくて、どんなに押し殺そうとしても押し殺すことなんて出来ない。
 壱斗がこんなにも懸命に、一途に感情を伝えてくる、変わろうとしている。
 そんな壱斗を愛おしく思わないはずがないし、自分の気持ちを見ない振りしてその想いに真剣に向き合わないなんて不誠実な態度が取れるはずもなかった。
 好き。
 壱斗とちゃんと向き合いたいと思ったとき、暁義の心の中に残った感情はただそれだけだった。

「っアキ!」
「壱斗が好きなんだ」

 暁義の言葉に、壱斗の瞳に薄っすらと膜が張っていく。
 新たに零れた滴が頬を伝い、顎先に辿り着くと、ぽたりと床を濡らした。

「アキ……アキっ……ごめん、大好き。ごめん。ごめんっ」

 そう漏らす壱斗の顔はもう涙でぐちゃぐちゃになっている。
 そんな壱斗も暁義には可愛く、愛しく思えて仕方がない。

「壱斗…」

 最近よく見るようになった壱斗の泣き顔。
 見慣れてしまったこの顔が一番正直な壱斗の感情を表しているようで、暁義は喜びとともに安堵を覚えた。

「もう、しない。もう浮気なんて、絶対しない。アキだけでいい。知らなかった……知らなかったんだ…アキが……好きな人が他の誰かと一緒に居るだけで胸が痛くなったり、不安になったり、相手が憎くなったり…っこんなに苦しくて苦しくて、胸が抉られるように痛いなんてっ……ずっと、あんな辛い思いさせてごめん…もうアキだけだから、だから、アキも俺だけ…ね、お願いっ」

 必死に紡ぐ、繋ぎとめるかのようなその言葉とありったけ込められているであろう贖罪に、暁義は幾分細く感じる背に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
 壱斗の腕も暁義の背へと回り、言葉と同じくらい必死にしがみ付く。

「うん…うん…壱斗だけ。壱斗だけ、大好きだよ」

 暁義はその腕の中にいる大切な存在を抱きしめ、優しく頷きながら愛を囁いた。

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