鬼のような

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蜂蜜採り

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〇蜂蜜採り
アキさんから、「骨休めに来ないか」と手紙が来た。珍しいことではあるが、これまでそんな誘いが無かったこともない。ただ、師匠がそれを受けて本当に店を閉めたのは、これが初めてのことだった。
不可解といえば、そもそも、誘いの時期がおかしい。雪解けを待つ初春。ついこの間、正月に出掛けていったばかりである。今頃、休めるような骨もない。
師匠は、詳しいことは言わなかった。ただ、手紙を畳みながら、くろがね屋に行くことを告げるのみだった。へらへらと店仕舞いを進めたキハツはともかく、コウキは天変地異の前触れを見たような気がして、持っていた筆から墨を三滴垂らした。
コウキの奉公する鬼刀屋と、アキさんのいるくろがね屋の間には、小さな山が一つ在る。幼い頃は、雪の中をくろがね屋まで歩くだけで一日仕事だったが、今では日の高いうちに着けるようになった。
くろがね屋の門前では、ユキが待ち構えている。ユキの半纏のこんもりした背中から、三毛猫が顔を出す。
「タキさん、いらっしゃい。あと、あんた達も」
肩で切り揃えた、職人階級の髪を揺らして、ユキは師匠に声を掛ける。誘った家の者からおまけ扱いされた弟子二人だったが、コウキは「確かにおまけだ」と思い直し、キハツはぞんざいに片手を上げて返礼とした。
「なんだ、猫の子守りか」
師匠が苦笑すると、ユキは、背中に入れとくと暖かいのよ、と頬を染める。
「母さん達が、タキさんと早く話をしたくって、うずうずしてるの。父さんに挨拶なんかいいから、お勝手に来て下さい、って」
「そういうわけにも」
妙に真剣に渋る師匠だが、ユキは張りあうように口を尖らせる。
「父さん達も承知してるわ。アキさんと話し込まれちゃつまらないもの。わざわざ、この伝言のために、あたしここに立たされたのよ」
ユキはアキさんの姪に当たるが、「叔父さん」と呼んでいる所を見た事が無かった。それでもあまり変に思われないのは、アキさんの人柄というものだろう、多分。挨拶するなと言う台詞に目を瞬かせていたコウキだったが、やや迷いながら口を開く。
「僕達が、代わりということで、ご挨拶に伺っておきます」
「あら、本当にいいのよ。そのまま遊んで来ていい、って約束で引き受けたもの。お正月に顔を見たんだもん、話すことも無いでしょ」
黙ってなりゆきを見ていたキハツは、クククと笑う。今年で十五になったユキは、大店の主の末娘という立場からか、年下のコウキから見ても子供っぽいところがある。たかが伝言でご褒美をねだるなど、鬼刀屋ではあり得ない。キハツさえ、もっとまともな取引をするのだから。キハツはキハツで、鬼子だの山猿だの呼ばれる男なので、比較するには頼り無いが。
「では、お言葉に甘えるとしよう。勝手口でいいんだな」
「うん。キハツとコウキは借りておくわ」
師匠が中へ入るのも待たずに、ユキはコウキとキハツの袖を取り、垣根に沿って駆け出した。深い吹き溜まりにかんじきを取られながら、粉をはたいた大福の植え込みを、かまくらに見立ててしゃがみ込む。小さな砦を手に入れた三人は、そっと辺りを窺い、頭を突き合わせて笑った。
「で、師匠に何の話があるって?」
真っ先に口を開いたのはキハツだ。コウキは初めて、「キハツも、今回の骨休めには何かあると勘付いている」のだと気付いた。ユキも心得た顔で、指先でちょいちょいと耳を招く。
「タキさんに縁談が来てるの。先方から相談されたの、お正月のすぐ後よ。母さんってば、はりきっちゃって、上手くすれば今夜にも引き合わせるみたい」
「「へえ」」
声を合わせて、コウキとキハツは顔を見合わせる。キハツが何を思ったかは知らないが、コウキはこれで、師匠が弟子達を連れて来た訳が分かった。万が一、逃げるなら、何かと騒がしいキハツはいい口実になるだろう。また、アキさんと話す隙を与えられなかったのにも納得だ。
「師匠のことは、もうみんな諦めているんだと思ってた」
「嫁を取るには、もういい歳いってるんだろ? よくわかんねーけど」
切れ長の目にがっしりとした上背、刀鍛冶として評判の高い師匠には、昔は結構良い縁談が来ていたらしい。しかし当人はことごとくそれを断り、挙げ句に所縁無い弟子を二人も取って、早々と店の跡継ぎを決めてしまった。コウキとキハツが幼いうちは、「嫁を取って自分の子供に継がせろ」と言い募られることもあったが、最近はそういう場面も見かけない。鬼刀屋の跡取りは決まったものと見て、「その次」のことを考える者も居るようだった。
コウキとしては、別に跡を継ぎたい訳ではない。そもそも、鍛冶の腕ではキハツに負けているから、何にしろ鬼刀屋当主になることは無い。キハツは腕の立つ職人だが、店表には出せないので、コウキが店を切り盛りする、というのが師匠の目論見だ。コウキとしては、刀を打つのが他の誰かだとしても頓着しないし、別のところへ奉公に出たいとさえ思っている。むしろ、師匠には所帯を持ってほしい。赤ん坊は好きだ。アキさんとヒヅキさんに子供ができたときは、師匠も早く嫁を取れば良いのにと思った。
ユキは何を勘違いしたのか、「違うわよ」と慌てた様子で語る。
「母さんは、あんた達のこと認めてるわよ。結構気に入ってるんだから。あのね、縁談のお相手、出戻りなの。近くの町の網元に嫁いでたんだけど、子供ができなくて離縁されたんだって。このままじゃ可哀想だし、美人で気立ての良い人だから……鬼刀屋さんなら、子供ができなくたって大丈夫でしょ。あんた達が居るもの」
「後継ぎは、そうかもしれないけど」
出戻りの片付け先と聞いて、コウキはなんとなく面白くない。キハツはどうも話の意味が分からないようだった。
「なんで子供ができないとダメなんだ? どっかから弟子を取って来りゃいいじゃねーか」
「バカね、自分とこの子供でないと、周りが煩くて網を継がせられないじゃない。腕前の問題じゃないんだから、職人とは違うのよ」
「ふーん」
「本当に分かってるのかしら」
ぼやくユキがあまりに真剣なので、コウキはつい尋ねた。
「ユキは相手の女の人のこと、知ってるの?」
「この間まで、このへんの庄屋をやってた家の娘さんよ。あんまり話したことは無いけど、ほんとに美人だし、働き者よ」
「今は庄屋じゃないんだ」
「そうよ。だから余計に、このままじゃ可哀想なのよ。タキさん、このお話を受けると思う?」
「さあ」
師匠が独り身の理由を、弟子達は知らなかった。まさか師弟でそんな話をする訳もなく、男所帯は姦しい噂話からも距離がある。ただ、アキさんなど、ごく親しい何人かは、師匠が嫁を取らずに弟子を育てることを、納得している気配がある。それなりに筋の通った理由はあるのだろう。
キハツも考え込んだ面持ちで、呟く。
「どうだろうな。男が、ってシュミじゃあねーみたいだけど」
「そんなこと聞いてないわよ!」
ユキが悲鳴を上げて、キハツの頬を殴る。コウキも合わせて殴った。三毛猫はよたよたと逃げ出したが、当のキハツは攻撃を見切り、顔をわずかに逸らして、避けてしまう。
「だって師匠、ちっとも夜遊びに出ねえしさ」
ユキは、自分の拳骨では足りないと悟ったか、足元の雪をすくって投げつけた。吹き溜まりの繊細な雪は、防ごうとしたキハツの手で弾け、コウキの髪にまで白い粒が付いた。
「もうっ! この話はこれで終わり! あんた達に頼みがあるのよ」
「頼みがある相手を殴ったら悪いんだって、師匠が言ってたぞ」
それはキハツの恐喝が、あまりに堂に入っていたための説教だったが、間違ってはいないのでコウキは何も言わないでおく。代わりに、顔をユキへ向ける。
「……どういう頼み?」
「あのね、ミツバチの巣を見つけてあるの。一緒に取りに行ってくれない?」
蜂蜜よ、食べたいでしょ、と誘うユキに、キハツは雪混じりの鼻息を送る。ユキが大げさに嫌がるので、キハツはにやにやと笑った。
「なんだよ、そのくらい。一人でやれよ」
コウキの方は根に持つものが無いので、「僕達を誘う理由があるの?」と詳しい話を促した。
「山のね、道からちょっと離れたところにあるの」
「ちょっとだけだろ」
上げ足を取られて、ユキは顔をしかめる。
「悪かったわよ。だいぶ離れているの。あんた達なら、山慣れているでしょ?」
事情は分かったがしかし、コウキとしては、あまりアテにされても困る。
「そりゃあ町育ちとは違うけど。でも僕達、このへんの山のことはよく知らないよ」
「自分ちの誰かに頼めばいいだろ」
「どうせ、人に言えないようなところにあるんでしょ」
キハツはまた分かっていないようだ。ユキが口をへの字に曲げるので、コウキが助け舟を出すと、ユキは不服そうに手を振った。
「そこまでじゃないわよ。ただね、見つけたのが一昨日なの。ミチコちゃん達と……近所の子達よ、女の子だけで遊んでたの。そのときに」
ふむふむ、とコウキは頷く。女の子だけで遊んでいて、雪深い山に入って、見つけたハチの巣。人に知れたら、怒られるだろう。
「だから、あんた達でなくちゃ」
コウキが頷いたのを見て、キハツもひとまず納得することにしたようだ。
「でもさ、一昨日じゃあ、もう他の仲間に取られちまったんじゃねえの?」
「それは大丈夫。あたし、上手くやったもの。ねえ、意地悪言わないで、一緒に来てよ。アカネが昨日、熱っぽかったの。食べさせたいじゃない?」
アカネをだしにされると、コウキは弱い。キハツも、幼馴染に下手に頼まれたら悪い気はしないようだ。
「しょうがねーな。分け前はもらうからな」
「わかってるわよ」

ユキに動きやすい身支度をさせている間、コウキとキハツは納屋で道具を物色した。鉄を打つ音がひっきりなしに響くので、忍び込むにはほんの少し人目を気にする程度で済む。この手の悪戯は何度もしているので、勝手知ったる他人の納屋、だ。キハツが言い出したならコウキは従わないが、たいていユキが扇動するので遠慮する理由も無い。
木の上にあるというので、念のために丈夫な綱を三人分。スギ材の大きなわっぱも見つけたので、入れ物に借りていくことにした。ボロ切れを行李から引っ張り出し、風呂敷にする。あとは、コウキとキハツが腰に下げてきたナタがあれば十分だろう。
「弓を持ってくりゃよかったな」
キハツは、納屋の戸を閉めながら呟いた。
門の外で、ユキと落ち合った。半纏を脱ぎ、毛皮の手甲や脚絆をつけている。父親か誰かのを失敬したようで、丈や幅が余ってよれている。背中に風呂敷包みを背負っており、ユキはユキで、台所から山仕事用の弁当箱を持って来ていた。笠を目深にし、かんじきに杖で足場を固め、勇んで歩き出す。
「さ、こっちよ。日が暮れる前に済ませなきゃ」
ユキを先頭に、一列になって歩き出す。くろがね屋の裏へまわり、雪原に様変わりした畑を横切り、棚田であろう斜面をよじ登る。更には、藪を踏み潰すような具合で、木立の中に分け入った。なだらかな斜面を、やや上りながら進んでいく。ブナの多い雑木林で、はじめ、木々はひょろりとした三・四本が根元を同じくする姿だったのが、進む内に又になるものが少なくなり、やがて柱のような幹ばかりになる。
「……結構遠いね」
最後尾から声をかけると、道を開くユキは息を荒くして答えた。
「だからあんた達に頼んだんじゃないの。もうじきよ」
キハツは、特に文句がある様子もなく、黙って周囲を確かめている。春を待つ獣は、そろそろ餌の乏しさに気が立っているだろう。熊はまだ寝ている時分だろうが、帰り道でイノシシになど会いたくはない。もし、この近くに居るようだったら、キハツが山歩きを止めさせるだろう。
「こんなところまで来て、どんな遊びをするの? 木登りする歳でもないだろ」
「うるさいわね。同い年の男の子に、一人で冬山に入るのが居るって話したら……キハツ、あんたのことよ……みんなで秘密の隠れ家を持とう、ってことになったのよ。冬だったらどこが居心地いいか、探してたの」
キハツはケタケタと笑う。
「冬の山に居心地いい所なんか、あるもんか」
「あるわよ。もうちょっと行ったところに、下枝の先まで雪に埋もれたヒノキがあったの。幹の周りに、ちょっとだけ部屋が出来てるの。屋根壁を作る手間が省けるから、冬はあそこにしようねって決まったわ」
「隙間風はどうだった?」
「風なんか吹いていない日だったの。いいわよ、いざとなったらかまくらを作るわ」
言い募るユキがどうも必死に見えて、コウキは首を傾げる。何だって町育ちの女の子が、鬼子の真似をするのか。
「どうしてわざわざ、山籠りなんか、したがるんだろう。友達みんなで?」
コウキの問いかけには、しばらく口を噤むユキだった。指先に息を吐きかけて、おもむろに話始める。
「ユイちゃんがね、十六になったから……。暖かくなったら、裏の納戸で寝ることになってるの。お百姓の子よ。もう町中みんな知ってるの」
「「ふうん」」
男二人の分かっていない相槌に、ユキは足を止めて振り返りかけた。
「お百姓の子だからっ、その、ユイちゃんは良い子だから、評判が悪い人が、唾をつけにくるかもしれなくって」
ユキは、笠を傾けて、ちらりと連れの表情を窺う。やはり分かっていない顔をしているので、頬を染めてずんずんと歩き出した。
「裏の、納戸だからっ。独りで寝るからっ。男の子がユイちゃんを訪ねて来れるの。それで、いい人を決めるの!」
「ふーん、なるほどな。それで何で山籠りするんだよ」
コウキはまだよく分からなかったが、キハツは何か察したらしい。キハツは弟弟子を振り返ってにやりと囁く。
「夜這いだ」
ユキはキハツの言葉など聞いていない。聞いていたら、杖を振り被って怒っただろう。
「だって……誰が来るか分からないじゃない。嫌になっても行くところが無いじゃない? あたしだって、来年は十六よ。母さんがタキさんのこと張り切っているのは、あたしより先にタキさんが片付いたらいいな、って思っているからよ。ちょっと、あんた達だって他人事じゃないんだからね。いまに『嫁を取るなら誰が良い』とか聞かれるんだから。そこらじゅうの鍛冶屋から、『うちの子はどうだ』なんて言われるんだから。タキさんくらいのものよ、そんなこと言わないでくれるのは。アキさんだって、お正月からこっち、『誰が一番好ましかったか』なんて言うんだから」
高ぶった様子でまくしたてている。「くろがね屋の娘と鬼刀屋の弟子ではわけが違う」と言いかけたが、コウキは辛うじて飲みこんだ。
「あたし、お嫁になんか行きたくない。町の中にはイイ人なんか居ないし、遠くに行くのはもっと嫌。男の子なんか、意地悪ばっかり!」
仕上げに、息を吐ききるように言い捨てる。幼馴染を二人も蜂蜜採りに従えておいて、随分だ。
ふとユキが足を止め、ほら、あそこ、と指差す先に、雪を被ったケヤキがあった。枝の付け根に、小さな洞が見える。ユキがこれを見つけたとき、ちょうどカラスがクチバシを突っ込んでいて、ミツバチがぽとりとこぼれ落ちたという。
ケヤキの幹を取り囲み、それぞれ杖を雪に突き立てて、かんじきを脱ぐ。笠を背中に引き下ろし、綱を背負ったキハツが真っ先によじ登った。コウキも真似をして、なんとか一番低い枝に取りつく。ユキは、キハツが垂らした綱を腹に結び、やや引っぱられながら登る。
小さな洞をに顔を近付けると、ハチのうごめく音が聞こえた。コウキとユキが入れ物を用意しているうちに、キハツが躊躇なく手を突っ込んで、巣を探る。
「ん、結構深ぇな。俺が採るから、お前ら器を持ってろよ」
キハツは頭ごと洞の中にのめり込み、片手のナタでハチの巣を切り取っては、もう片方でユキの構える弁当箱に渡す。右足は枝の上で踏ん張っているものの、左足は幹につま先を押しつけて支えるだけなので、コウキは帯を掴んでおいてやる係だ。弁当箱が満杯になり、大きなわっぱにも半分近く入ったところで、キハツの取り出すハチの巣が、黒ずんだものになった。
「もうそのへんの蜜は古いよ。終わりにしよう」
「うん? そか」
キハツは洞から頭を引っこ抜き、立ったまま、蜂蜜まみれになったナタをべろりと舐める。ユキとコウキも、それぞれ一欠片の巣を口に放り込んだ。巣自体に味は無く、切り口から蜂蜜の甘さが漏れている。舌で押し潰せばほろりと崩れ、蜜が口いっぱいに溢れた。
ケヤキの枝の上から山々を見下ろすと、枝先に雪を纏った森が、山肌を柔らかく覆っていた。ぶらぶら揺らすつま先の下に、先程突っ切って来た雪原があり、うっすらと歩いた跡が浮かび上がる。町や、くろがね屋も見えた。
「甘いね」
「うん」
ユキがしゃぶりカスの蜜蝋を吐き出して、「あそこがユイちゃんちよ」と指差したが、コウキはどの家を指したのかよく分からなかった。
ナタを鞘に収め、べたべたの手を舐めながら、キハツが空の明るさを確かめる。厚く垂れこめた雲が、一層灰色に沈んでいた。キハツの号令で、コウキは慌ててわっぱを背負い、枝に結んだ命綱を解いてユキを降ろさせる。キハツは弁当箱の包みを持って、ひょいと飛び降りてしまった。見事、脱ぎ捨てたかんじきの傍に着地する。あっと言う間にめり込んだ雪の中から泳ぎ出し、コウキを見上げ笑っている。
「コウキ、早くしろよ」
「今行くよ」
コウキは、綱を手早くまとめて、幹に抱きついて滑り降りる。帰り道は、ユキをしんがりにつけて、キハツが道を均しながら足跡を辿った。山猿は本領とばかりにずんずん進む。コウキは、ユキが付いて来れるか気にかけながら、獣が寄ってきていないか注意を払った。
股の分かれた木々が多くなってきた頃、風鳴りの合間に、どこかで小枝が割れる。
「風のせいよね?」
ユキが小さな声を漏らしたが、それに構っている場合ではない。コウキは、雪が蹴られて軋む微かな音を、確かに聞いた。ぱっと見たところ獣の姿は見えないが、左横は藪だろうか、堤のように雪が盛り上がっていて見通しが悪い。キハツが足を止めて、道の左側に避ける。
「コウキ、先頭行け。ユキと手ぇ繋いどけよ」
「え、嫌よ」
「我がまま言わないでよ。キハツと繋ぐよりマシだろ」
だってあたしもう十五よ、とぼやきながら、ユキは渋々コウキの手を取った。油断なく左側を見張るキハツを追い越し、コウキが大雑把に道を作って進む。
堤が途切れるときが一番怖いのだと、コウキには分かっていた。その瞬間は数歩先に見えていた。ユキの手を放して杖を構えるべきか迷っていると、キハツがボスボスと深雪を踏んで左側に躍り出る。堤を回り込んで姿を現しかけた敵が、鼻先に杖を振り降ろされて立ち止まった。
「山犬だ……」
「そのまま、そっと進め」
命じるキハツは、山犬との睨み合いを楽しんでいるようだった。横顔の口角が上がっている。すくんだユキの手を握りしめ、コウキは黙って歩みを続けた。雪に洗われた灰色の山犬は、じっとこちらを目で追っている。一番弱そうな奴は誰か、考えているのだろう。幸いに一匹だけのようだ。今のうちに、少しでも距離を稼がなければ。
キハツは山犬から目を離さずに、ほとんど後ろ向きに歩いていたが、灰色の前足が痺れを切らせたのを察して、背中の荷を解いた。
「走れ!」
コウキは一瞬、後ろを振り返った。キハツが弁当箱を転がしたのを見た。すぐに、コウキとユキは走り出す。ユキは走るのが上手く、むしろ手を繋いでいるのが邪魔になったが、離そうという考えはコウキの頭に無かった。
二人は往路の足跡を辿って、とうとう棚田の斜面に飛び出した。杖を高く掲げて滑り降り、勢いのまま雪原を数歩走ったが、ユキが強く踏ん張って立ち止まる。繋いだままの左手が、コウキも立ち止まらせた。
「ねえ、キハツは?!」
コウキは後ろを振り返った。ユキの笠に雪が飛んでいる。キハツの姿は見えない。
「走って!」
コウキは前に向き直って雪を蹴る。繋いだままの左手が、ユキも駆け出させた。ユキは息も絶え絶えに、なおも「キハツは」と問う。
「知らない」
「知らない、って、あんたね」
「走れって言ったのはキハツだ! 先に帰って、師匠を呼んでこよう」
「そしたら、夜になっちゃうじゃない! 戻ろうよ!」
「戻ってどうするんだよ! ユキは死にたくないだろ!」
ユキとコウキは、互いに声を荒げた。呼吸と足が乱れる。
「キハツが死んじゃうのも嫌!」
ユキは手を振り解こうとした。コウキはきつく握りしめて離さない。立ち止まって、振り返る。ユキは滲んだ目尻を吊り上げて、コウキを見返している。
キハツなんか、放っておいてもどうせ無事に帰ってくるんだから、とはさすがに口に出せなかった。
「僕達が戻ったって、何もできないだろ。キハツなら木にでも登って、やり過ごしてるよ。師匠と一緒に、迎えに行ってやろう」
「……本当に大丈夫かしら。お尻噛みつかれてないかしら」
「大丈夫だよ。さあ、早く行こう」
うん、とユキは答えた。何かを飲み込むように顎を引く。
「手、放して。走り難いわ」
「そうだね」

かんじきを履いたまま、板の間に乗り込んだユキに、中で話していた面々は凍りついた。コウキはやや迷って、土間に留まる。くろがね屋当主のナツと妻のスエ、それから客人の、つまりは縁談相手と思しき女性は上座で、湯呑みを取り落としていた。下座に居たヒヅキとタキは、体を捻じってユキを見、ぽかんと口を開けている。それまでどんな調子で話を進めていたのか、コウキには分からないが、当人達も何の話をしていたのか忘れてしまっただろう。
「父さん、助けて、キハツが山犬に襲われてるの。あたし達、置いて逃げてきちゃったの!」
コウキは、父親に駆け寄ろうとするユキの着物を捕まえた。
「キハツが逃げろって言ったんだから、いいんだよ。泣いてちゃ分からないよ」
「泣いてないわよ!」
「一体全体、どうしたんだ」
ナツの声は揺れている。まずユキの行儀を叱るべきか、悩んでいるようだった。師匠はすぐに気を取り直して、ナツに向き直る。
「申し訳無い、またうちの弟子が何かやらかしたようで」
ヒヅキは立ち上がり、ユキを土間に降りさせた。
「きちんとわけを話してごらん。どこで山犬に出くわしたんだい?」
「山に、蜂蜜を採りに行ったの。蕨沢の棚田の方よ。帰る途中だったの」
「キハツが、蜂蜜を山犬にくれてやるところを見ました。どうせ大丈夫だと思います」
コウキの言い草に、師匠は口許で笑った。反対に、ユキは「でもキハツったら蜜でベタベタなのよ。すごく美味しそうに見えるわよ」と泣き顔だ。
「おい、松明だ。山犬は何匹居た? 人を集めて行こう」
ナツとスエは、慌てて板の間を飛び出した。師匠も、落ちついた動作でそれを追う。コウキはしれっと背負っていた包みを解いて、わっぱをヒヅキに差し出す。走っている内に蜜がこぼれたのか、指先に粘つく感触がした。
「ヒヅキさん、アカネが熱を出したんでしょう。食べさせてやって下さい」
ヒヅキは呆れた顔で、わっぱを受け取った。
「あんたも、太いねぇ」


〇井戸端厠端
その翌朝。朝食の後片付けが終わると、ユキは水汲みを命じられた。昨日父親に張られた面を、自らも膨れさせて桶を下げ、勝手口を出ると、井戸までの道をつけていたアカネが、ぱっと顔を上げて駆け寄った。目が合った時にきらりとするのが、アキにそっくり、鼻のすっとしているのはヒヅキ似で、ほっぺたのぷくりとしたのは、お祖父さんの血。藁頭巾の縁どりに使った赤いきれは、ユキのお古から取ったものだ。ユキは頬かむりの端を耳にかけると、しゃがんで、冷たい頬と頬を擦り合わせる。
「ひゃあ冷たい。アカネはもう入んなさい。またお熱が出ちゃ大変よ」
「きのうね、はちみつなめたのよ」
「はいはい、道つけはもう十分よ。あたしが水を汲んで歩くもの」
「あい」
アカネが戸口の前でかんじきを脱ぐのを見守り、ユキはいざ井戸へと向かう。冬の水汲みは嫌な仕事だ。水跳ねは冷たく、手は風に吹かれてすぐに赤く切れる。足場も悪い。何度も往復するうちに、自分がこぼした水で滑ってしまうこともある。
庭に積もった雪は、ユキの背丈よりも高く、昨日の晩のうちに降ったものが更にかさを足していた。道の両脇はのっぺりと白い壁ばかり。本当に面白くない仕事だ。
二、三歩踏み出したとき、コウキが鍛冶場の方から現れた。お互いに姿を認めるなり、雪をぱっと蹴り上げて駆ける。井戸のつるべに、先に手を掛けたのはコウキだった。コウキの方が、ユキより井戸に近く立っていたのだ。
「僕の勝ち」
「ああ、待ってよ」
コウキはつるべを井戸に投げ入れる。ユキは大袈裟に惜しんで、つるべを見送った。顔を上げると、コウキも大袈裟に得意そうな、澄まし顔だ。ふと笑い合う。ユキはじんじんと痛む頬を押さえた。
「あんたちっとも腫れないのね。それとも脳天?」
「うん、たんこぶが出来てる。キハツはもっと酷いから、今背比べをしたら、ユキが負けるかもね」
「お水、鍛冶場に持っていくの?」
「うん。キハツが、少し手伝わせて貰うことになったんだ。鎌の打ち直し。ユキは台所?」
「そうよ。それから、お洗濯の分も。嫌になっちゃうわね」
コウキは曖昧に頷いて、つるべを井戸に落とす。鍛冶の仕事は、打ちの仕上げや研ぎのために、案外と水を使う。ユキはやっと、鬼刀屋では、コウキが水汲みの役なのだと思い至った。気まずいような、恥かしいような気持ちになったとき、つまらなそうに引き結んだコウキの口が、優しく解ける。
「……くろがね屋は、冬でもあんなに炉を焚くから凄いね」
「冬のうちに鋤や鎌を直してほしい、ってお客さんが多いのよ。刀鍛冶とは違うの」
鬼刀屋は冬の仕事は何をするの、とユキが問えば、コウキはつるべを巻き上げながらぽつぽつと答える。
「弓矢にする竹を削ったり、柄を作ったり、炭を割ったり、秋のうちに打ったのを仕上げたり……。玉鉄を打つこともあるけど、師匠は、冬はあまりやらないから」
「炭代がかさむから?」
「そう。お湯もすぐ冷めるし」
鬼刀屋は、その筋では有名だ。それなりの金も取る。「すぐに欲しいから今打ってくれ」などと言われるような商売では無いそうだ。仕事の話をするとき、コウキはあまり楽しそうな口ぶりではなかったが、相手の機嫌を探りながら、精一杯の額を吹っ掛けるのだと呟いたときだけ、目に光が宿った。ユキにつるべを渡し、コウキは鍛冶場へ続く道を歩いていく。
何往復か目の井戸で、ユキはタツゾウが駆けて来るのに出くわした。タツゾウは、玉鉄屋の紹介で雇った奉公人で、色黒のがっしりとした若者だ。実家の鍛冶屋が傾いているというので、くろがね屋で修業を積んでいるのだが、どうも不器用で苦労している。
重たい桶を下げて、お勝手に戻ろうとしているユキを見て、タツゾウは真っ赤な目で叫んだ。
「ああっユキちゃん! 水をおくれよ!」
ユキは察した。これまで、同じようにタツゾウが騒ぎを起こすことはあった。ユキからも足早に近寄って、桶を置いてやる。タツゾウの左手が水の中に突っ込まれ、跳ねたものが雪をグズグズに濡らした。
「また火傷?」
「はは、面目ない」
タツゾウは、太い眉毛で弱そうに笑ってみせる。ユキは、火傷で大騒ぎする鍛冶を見たのは、タツゾウが初めてだった。どんな半人前だって、これだけはぐっと我慢するものだ。
「情けないわねぇ。故郷で父さん達が待ってるんでしょう? 何よ、火傷くらい」
「そう言うけど、ユキちゃん、今日のはひどいんだよ。すごく大きな火の子が、ばっと散って」
「もう。そんなんじゃ、どこの娘さんもお嫁に来てくれないわよ。『コウキの方が、まだ見込みがある』って聞いたわよ。もう十七でしょう!」
「ああ……鬼刀屋さんの、か。それは仕方ないよ、鬼刀屋さんのお眼鏡に適うんだもの。才覚があるんだよ」 
タツゾウは、左手を桶から引っこ抜いた。
「ユキちゃんは、お嫁に行くなら、鬼刀屋さんみたいな店が良いんだろうなぁ」
「そりゃあ、そうよ、タツゾウよりは。コウキはそろばんが出来るし、キハツだって腕だけは確かなんだから。タキさんだって。鍛冶屋の娘で『鬼刀屋さんは嫌』なんて言う子は居ないわよ。……相手が鬼子でなければ」
ユキは、言っているうちに、なんだか妙に決まり悪い気分になった。
「吉山屋さんだって、峰屋さんだって、鏡屋さんだってそうよ。鍛冶屋に嫁ぐんなら、腕の良い人でなくっちゃ」
「そうかぁ」
タツゾウは溜息をついて立ち上がる。
「だいたいね、火傷して、井戸まで走ってくるのがおかしいのよ。そのへんの雪にでも突っ込めばいいじゃない。仕事が嫌になって、抜け出したかったんでしょ。何かって理由つけて鍛冶場を出たら最後、なかなか戻らないって、父さんが言ってたわ。さあ、十分冷えたんなら戻りなさい。ぐずぐずしない!」
「敵わないなあ、ユキちゃんには」
ユキはタツゾウを追い立てて、鍛冶場に戻した。引き取ってしまったからには、くろがね屋の職人として恥ずかしくないようになって貰わなくては困る。
「まったくもう」
水を捨てるために、壁になった雪を蹴り崩しながら、ユキは呟いた。タツゾウが手を突っ込んだ水を、台所の水瓶には入れられない。洗濯ダライに入れておいても凍りついてしまうから、一旦手桶を空にして、汲み直しだ。

他の仕事を諸々片付けて、僅かばかり水の温んでくる頃合いを見計らって、洗濯に取り掛かる。
ユキはまず、タキさんに「洗う物はありますか」と尋ねに行った。昨日は山犬騒ぎでそれどころでは無くなったが、今夜こそ、縁談の相手と深い話をする筈だ。まごまごせずに本決まりと相成ることもあるかもしれない。鍛冶場に干しておけば、大抵のものは夜までに乾くだろう。
囲炉裏端で、スエの話をひたすら聞かされていたタキは、女衆の気持ちを知ってか知らずか、手拭いだけを寄越した。
「キハツは昨日、蜜でベタベタになってたじゃない。ついでに洗うわよ」
もっと何かないの、ともどかしい物足りなさを訴えるが、タキは首を振る。
「昨夜のうちに自分でやっていた。手拭いだけ頼まれてくれ」
土間に戻ったとき、ユキは、勝手口の脇に梯子が掛っていることに気が付いた。先程まで、梯子は土間の梁の上にあった。耳を澄ましてみたが、梯子が掛った屋根の上に、雪かきをしているような物音は無い。ユキは不審に思い、梯子を少し登ってみた。伸びあがって屋根の上を見ると、赤毛の少年が急峻な屋根の上でしゃがんでいた。こちらに背中を向けているが、髪の色ですぐに相手が判る。
「おっユキか。こっち来いよ。珍しいもん見れるぜ」
「キハツ、何やってるの? 鍛冶場の手伝いをするんじゃなかったの」
キハツはお構いなしに、屋根に積もった雪の上をひょいひょいと歩いて、ユキに手を差し伸べた。
「私、まだお洗濯があるんだけど。何なのよ?」
「しーっ。いいから来いよ。コウキがケンカしてる」
「やだ、珍しい。誰と?」
舐められるのを良しとしないキハツと違って、コウキは、揉め事は避けるのが信条だ。ユキはまんまと吊られて軒に上がり、棟から井戸の道を覗き込むと、取っ組み合うコウキとタツゾウが、代わり番こに雪の上に顔を出していた。随分静かなケンカだ。たぶん、お互いに、このケンカを人に知られたくないと思っているのだろう。
「タツゾウが相手じゃ、コウキに勝ち目は無さそうね。タツゾウの方がずっと大きいもの」
ユキは屋根の上にうんと伏せたが、キハツは堂々と腰を下ろす。見つかっちゃ悪いわよとたしなめるが、「ケンカの最中に、屋根の上なんか気にしねぇよ」と取り合わない。
「コウキだって、結構やるぞ。俺と師匠が鍛えてるからな!」
「あんたの贔屓目じゃアテにならないわよ」
「じゃあ師匠だって贔屓目だ。据え物切りは、俺よりコウキの方が上手いんだぞ」
武器を作る鬼刀屋では、出来栄えを確かめるために、試し切りの腕も磨くらしい。畳表や菰を巻いたものを、真っ二つに切るのが、コウキの得意だという。
ユキは、コウキが刀を振るう様を思い浮かべようとしたが、どうしても無理だった。コウキが振りかぶるなら、斧が一番似合う。あの子の薪割りは一流だ。
「ふうん。ケンカみたいなことだったら、何でもキハツの方が上手だと思ってたわ」
「据え物切りが、ケンカの役に立つもんか。腕っ節がつくだけだ。じっとしてる物をスパッとやるのは、コウキが上だぜ。薪や炭なんか、どんなのを割っても、全部おんなじ大きさに揃えるんだもんな」
「さすが、木こりの生まれよねぇ。あたし、コウキの割った薪は、燃やすのが勿体ないって思うもの。隣へ行って売りたくなっちゃう」
「ふふん、まあ俺の弟だからな」
「またそんなこと言って。いい加減、コウキのこと、『弟』って言うの止めてやりなさいよ。そのうち、あんたが何かしたとき、タキさんじゃなくてコウキが呼び付けられるようになっちゃうわ。可哀想よ」
「いいだろ別に」
「良くないわよ。コウキが嫌がってるもの」
「いいだろ別に」
ユキは呆れて、口を噤んだ。キハツも特に話すことはなさそうだ。コウキは相変わらず、タツゾウと取っ組み合っている。ケンカの原因は何だろう。どちらも、人にケンカを売るような性格ではない。
「ねえキハツ」
「んー?」
「あたし、お嫁に行きたくないわ」
「またそれか」
キハツはコロコロと鈴のように笑う。他人事だと思って、同情する素振もない。
「あんただって、もう十五じゃないの。腕が見込まれてるのは、皆知ってるわ。じき、そういう話が来るわよ」
「男と女じゃ違うんだろ」
その通り、ユキは、女盛りのうちに片付いてしまわなければならない。十六を過ぎれば、その先は若ければ若い方が良いのだ。でもキハツは違う。職人は、腕を磨いて、食い扶持を余分に稼げるようになってから、本当の『一人前』になる。普通はそれから嫁を取るものだ。無理に半人前のうちから、相手を決めることは無い。
「何よ、もう、この薄情者!」
ユキは素早く身を起こし、キハツの背中を突いて、屋根から落としてやろうとした。けれどキハツはユキよりも早かった。伸ばした手を捻じられ、気が付けば屋根を転がり落ち、この間雪掻きで落とした雪山に深々と突き刺さっていた。顔は仰向けになっているが、両足は天を向いていて、両手は万歳の格好だ。屋根の上から、クスクス笑いと一緒に、キハツの帯が垂れ下がる。帯を解いて、たったいま自分が突き落とした相手に命綱を差し出す、キハツのにやけ面が、ユキの脳裡に浮かぶ。
ユキはなんとか足を下に、頭を上に体勢を整えると、黙ってその帯を掴んだ。帯を揺らさないよう、そっと右の掌に一周巻き付けて、左手はその少し上を掴む。間髪入れずに腕を引き寄せ、体重をかけて帯にぶら下がった。一瞬の攻防の後、足を滑らせたキハツが落ちてくる。
「えいっ」
なんとか足を下にして着地した憎らしい敵の背中に飛びつくも、ひょいとかわされ、つんのめったところに髪を掴まれる。ユキは、柔らかい雪へうつ伏せに押し付けられた。キハツが馬乗りになる。キハツの重みのかかる、腹のあたりがずぶずぶと雪に沈み、反った背中では抵抗もままならない。
ユキも別に勝てると思ったわけではない。キハツにケンカを売ると、大抵の者はこうなるのだ。それでもむしゃくしゃして、口に入った雪と共に「バカ」と吐き出す。
キハツの方は、幼馴染をこてんぱんに伸すつもりは無いようで、勝ち誇って「参ったか」とだけ言い返し、ユキを解放した。
一勝負を終え、とりあえず二人で雪山を掻き分けて、なんとか勝手口まで戻る道を作ろうとした。かんじきを履かずに、足のつかない雪の中を歩くのは骨が折れる。前を行くキハツの、帯を解いたままの着物の裾を見ていると、また先ほどとは違う腹立たしさが込み上げた。ユキは痛む頬を膨らせて、それでも、手を差し伸ばすように問う。
「ねえ」
「なんだよ」
「あたしがお嫁に行っても、また蜂蜜を採るのに付き合ってくれる?」
キハツは、横目でユキを見て、ニヤリとする。
「分け前」
昨日、キハツが持っていた分は山犬にくれてしまったのと、ひどく叱られたのとで、三人の分け前は無くなってしまった。キハツはその事を言っているのだった。
「分かってるわよ」
「今回みたく、一人じゃ採れねぇ所にあるんだったら、付いて行ってやるよ」
キハツは軽く請け負うような口調だった。山犬が出ようがイノシシが出ようが、いつだって同じ口調で、付き合ってくれるに違いない。
「絶対よ」
ふと、二人の上に影が落ちる。見上げれば、コウキが二段も三段も高いところに立っていて、ユキとキハツを見下ろしている。唇が切れてしまっているが、しょんぼりとした様子は無い。まだ収まりがつかないのか、目がギラギラして、息も荒い。
「あら、コウキ。勝ったの?」
「見てたの?」
コウキが鋭く切り返す。怒りの矛先が、ひらりと、ユキとキハツに向けられた。
「あんなところでケンカしてっから、わりいんだろ。道が塞がって、厠から帰らんねぇや」
「やだっ、じゃあ、あんたもしかして、手、洗ってないの?!」
「しょうがねえよ。手水鉢がカチンコチンに凍ってんだから」
「嫌だぁ、もうっ! コウキのせいよ!」
ユキは、先程キハツに掴まれたあたりの髪を、とっさに触ってしまった。あわてて、手を雪に擦りつける。
「だったら……」
コウキは言い返そうとして、ぐっと押し黙った。顔を真っ赤にして、色々考えたようだったが、結局、「二人とも、こんなところで何してるの」とだけ言った。
「屋根の上でコウキのケンカを見てたら、落っこちちゃったのよ」
「ことのついでに、かんじき取って来いよ」
キハツの命に、コウキは、はぁ、と溜息を吐いて、踵を返す。その溜息がタキにそっくりで、ユキは可笑しくなった。
二足のかんじきをぶら下げて戻ったコウキは、鬱憤を晴らす台詞の用意も済ませていた。
「厠に行って、こんなに長々と帰らないんだから、今頃アキさんもナツさんも怒っているだろうね。折角、鎌を打たせて貰えたのに、嫌われても僕は庇わないよ」
雪に深く埋もれた中でかんじきを履かなければならず、キハツは逃げだせない。ユキはにやつきながら、二人の掛け合いを見守った。
「コウキだって、鍛冶場を抜けだして遊んでたんじゃねーか」
「僕はタツゾウさんに呼ばれて出たんだから、ずっと帰さなかったタツゾウさんのせいだ」
「アキさん達に、ケンカがばれるぞ」
「こうなったらもういいよ。ケンカを売ってきたのはタツゾウさんだし。どうせ見て分かるんだろ」
コウキは、切れた唇の端に触れてみせる。
「そういや、なんでケンカしてたんだ?」
「そうよ。あんたもタツゾウも、普段はケンカなんかしないじゃない。あたし、仲裁してやっても良いのよ?」
コウキは押し黙った。口を固く固く引き結び、言い訳を考える素振さえ無い。噛み締めた奥歯がギリリと音を立てる。瞳の奥で燃えたぎるものが、鋭さを増す。その矛先はタツゾウに向いていなかった。確かにキハツを捉えていた。
「あのまま、山犬に食われればよかったのに」
コウキは、そう吐き捨てて、一人で先に行ってしまった。八つ当たりだとか、怒りをぶつけるだとか、そんな温度のあるような声音ではない。妙に淡々として、遠くの谷に響く雪崩の音のようだった。ユキは、その一言が殺意の固まりのように思えた。ユキは慌ててかんじきの紐を結ぶ。普段大人しい者が怒ると恐いとは言うが、これまでコウキが怒って恐いことなんか一度も無かった。ユキは今日初めて、コウキを恐いと思った。このまま、恐さを放っておくのは、もっと恐ろしかった。
「追いかけんのか? 洗濯あるんだろ」
尋常でない冷たさを向けられた、当のキハツは、なんてことない様子で呼び止める。
「あんたやっといて!」
「ぁあ~?!」
呆れるような、抗議するような、キハツの声はいつも通りだった。へらへらっとした笑みを含むその声に、ユキは何故だか背筋が粟立った。


コウキは、厠の前の手水鉢を覗いて、口許を拭いていた。氷は水面より不便な鏡だが、代わりを探す気分でも無いのだろう。コウキはすぐにユキの足音に気付き、顔を上げる。コウキの唇は、不機嫌そうな一文字だったが、それはいつも通りのものだった。もうあんなにギラついた目をしておらず、穏やかな暗さでユキを見返している。
「ユキも厠?」
「違うわよ。その……コウキが大丈夫か、確かめなくっちゃと思って」
「そんなに痛くないよ」
手水鉢を挟んで話すコウキは、今朝方に井戸を挟んで話したときと、同じように見える。先程の、燃えたぎるような冷たさは、単にユキが驚いたための勘違いだったのだろう。何せコウキがケンカするのは、珍しい事だ。
「ねえ、どうして、ケンカになったの? 言ってごらんなさいよ」
コウキは、右手に握った手拭いと、ユキの顔を忙しなく見比べる。
「うん……。タツゾウさんは、ユキがお嫁に行くのは、鬼刀屋の弟子のどちらかなんじゃないか、って思ってるみたいなんだ。それで、タツゾウさんは、ユキが自分のところにお嫁に来てくれたらいい、って思ってて」
ユキは咄嗟に何も言えず、なあに、それ、とひっくり返った声でしのいだ。
「僕、最初はタツゾウさんが何を言いたいのか、よく分からなくて……。煮え切らない返事ばかりしていたから、タツゾウさんは沸騰しちゃったんだと思う」
「な、何よ、それ。タツゾウってばどういうつもりよ。あたし、今朝、職人の嫁になるなら腕の良い相手じゃなきゃ嫌だって言ったのよ。それに鬼刀屋だなんて、父さんはそんなことちっとも! だってキハツは同い年だし、コウキは二つも年下じゃない」
「僕に聞かれても困るよ」
ユキは、よく晴れた冬の日のような眩しさに襲われた。目の前のコウキも白く霞んで見えないような、不思議な胸の弾みを感じていた。あ、きっと珍しく晴れたんだ、雪目になる、と目を伏せる。けれど足元の雪は穏やかな色で、目を焼く鋭さなど無かった。空は曇りのまま、単にユキの目眩であった。
「あんた達だって迷惑しちゃうわよね。そうよ、コウキなんかとばっちりじゃないの」
「本当にいいとばっちりだよ。ケンカなんかキハツがやればいいんだ」
コウキは、ゆっくりと手拭いを畳んで、懐にはしまわず、左手に持ち替えた。鍛冶場に戻りたくないのだろう。井戸端ならぬ厠端で話込む構えだ。鍛冶場の鉄を打つ音があんまり静かなので、ユキは、何か喋って鼓動を誤魔化さなければならない気がしてきた。
「あんた達、二人で鬼刀屋を継ぐんでしょう?」
「うん。僕は算盤だけどね」
「あんた達がお嫁に取るのは、どこの子になるのかしら。キハツが一人前になるには、まだ何年か、かかるんでしょ」
「たぶん。もしキハツにお嫁さんが出来たら、店に立つ人手が足りるから、僕はお役御免だね。その頃じゃあ、僕は他へ奉公に行くには大きすぎるかな? どこか、山持ちの家で働けたらいいな。それとも炭焼きになろうかな」
コウキはユキの頬の色など頓着せず、夢見るように語ったが、すぐに目を瞬いて、間近のユキに焦点を戻す。
「でも、キハツは……。『俺はいいや』だとか、そんなこと言いそう」
「『いいや』って、何よ」
「キハツの嫁取りは大変だよ。僕が師匠だったら、仲人なんかしたくない。来たがる女の子も居ないだろうし」
コウキはまた、師匠似のため息を吐いた。
「そっそんなことないわよ!」
ユキは思わず声を上げてしまい、慌てて、続く言葉の勢いを深呼吸で逃す。務めて平静な声色を出そうと、努力した。
「キハツは腕が良いもの。きっと、二十歳までには一人前だって認められるわ。そうしたら、誰だって見直すわよ。それに顔も良いんだし。髪は赤いし山猿だし乱暴者だけど、どうしようもない悪党ってわけじゃないわ。そうでしょう?」
コウキは凍えた頬をますます強張らせ、ようやく「どうかなぁ」と答える。
「悪党かは、置いておくけど……何にしたって大変だよ。ほら、キハツはあんなだから、店先に出られないだろ。ちょっと頼む、って事ができないんだ」
「あら、出られるわよ。お尻を蹴飛ばしてやればいいんだわ。ちょっと腕が良いからって、タキさんもあんたも甘いのよ。鬼子だって何だって、客あしらいも腕の内よ」
ユキは、まるで自分がキハツを尻に敷いてこき使うかのような気炎を上げた。鬼刀屋の店先で、キハツの尻を叩きながら愛想を振りまく自分の姿が、ユキにははっきり見えた。コウキは慄きながら、か細く「キハツは店に出たらだめなんだよ」と言う。
「だめなこと無いわよ。屋号が「鬼刀屋」だもの、鬼子なんかお誂え向きじゃない」
「もう……どうだっていいでしょう。ユキには関係無いことだから。お嫁に来るんじゃあるまいし」
関係無いこと。瞬間、ユキは、手足が震えるほど腹が立った。そうとも、仲が良いとはいえ、せいぜい盆と小正月にしか、顔を合わす機会が無い。他愛ない遊びをするときの、木登りが得意とか、言い訳が上手いとか、そんなことしか、実際は知り合わないのだ。
タキが突然、「弟子を取った」と言って連れて来た、曰く付きの二人のことは、組合の皆が知っている。コウキは杣人の子だ。キハツは山育ちの鬼子だ。二人とも親を亡くして、頼る縁も無く、山をさ迷っていたものだから、どこの郷の出なのか分からないという。誰もがここまで知っていて、これ以上のことは誰も知らない。だからユキは、これ以上のことは何も無いのだと、思っていた。けれど何かあるのだ。ユキには関係の無い、何かがあるのだ。例えばタキが嫁を取らない理由のような、子供には知らされなかった何かが。
「何よ、薄情者! キハツもコウキもタキさんも、父さんも母さんもみんなみんな薄情よ! あたし何にも知らないんだわ。どうすればいいかも教えて貰えないのよ!」
ユキは、腹いせにコウキを引っぱたいて、その場から逃げた。

なんとか洗濯をやり遂げて、ユキは繕い物を掻き集めた。母が息子のために刺している、刺し子のやりかけを見つけ出して、針箱と一緒に中の間へ向かう。アカネが病み上がりなので、ヒヅキは子守りをしながら手仕事をしているはずだ。
「ヒヅキさん、刺し子を教えて欲しいんだけど」
帖台の入りばなに机を出して、帳簿をつけていたヒヅキは、顔を上げ、ユキの顔を見るなり吹きだした。
「いいよ、お座り」
娘のアカネは、火鉢の傍でこよりを作っていた。結んで遊んだものが、火鉢の灰に埋もれている。
「ぎゅっとするとちぎれちゃうの。こよりはそーっと、こちょこちょするの。こちょこちょ」
「きゃあ、やめてアカネちゃん。くしゃみが出そう」
腰を下ろし、こよりでくすぐろうとするアカネを少し構ってやってから、ユキは刺し子針を取り出した。
「ねえ、ヒヅキさん。タキさんはどうして、お嫁さんを取らないの?」
「いま、取らせようって話をしているところじゃないかい」
「今までの話よ。どうして誰も煩く言わなかったの? わけがあったんじゃないの?」
「どうしたんだよ、一体」
ヒヅキは、筆先に墨を足そうとした手のまま、眉根を寄せる。ヒヅキが妙に話したがらないので、ユキははっとした。ヒヅキとアキは幼馴染同士で祝言を上げ、タキもまた二人と幼馴染だった。この三人の親は、幼馴染同士の縁組に乗り気で、ヒヅキ自身も「タキかアキか」で選んだという。タキ自身が触れないことを、ヒヅキが触れ回る訳が無い。
「ええと、何でもないのよ。そう、タキさんはこの縁談を受けるのかなって、気になったの」
「やだねぇ、この子は」
ヒヅキは膝を打って笑いだした。
「わけってほどのものは無いのよ。タキが変人だから、周りも口を出し難いってだけさぁね」
ユキは思わず首を傾げた。長身で、刀のように鋭い目をし、静かな話し方をするタキは、ユキにとって憧れる大人の一人だ。というより、キハツが犬のようによく従うので、子供は皆、タキに対して特別な一目を置いている。大人達がタキを呼ぶときにも、馬鹿にしたような響きは聞こえない。
「タキさん、変人かしら?」
「変人さ。あんたがあれと幼馴染だったら分かるよ。……前触れ無く、どこの馬の骨とも知れない子どもを二人も連れて来て、『跡継ぎはこれで解決した』だなんて、正気の沙汰じゃない」
ヒヅキは、そのときのことを思い出すようで、筆を進めながら笑い転げた。口は悪いが、ヒヅキは最も鬼刀屋の弟子を気に入っている内の一人でもある。
「でもタキさんを馬鹿にする人は居ないわ」
「馬鹿じゃあないから、始末に悪いよ。ま、ご両人の気が合えば、この縁談も上手くいくんじゃないのかねぇ」
「気の問題なの?」
「お互いに、確かな身元だし、文句は無いだろう? 相手方が、武具商売を嫌がるかどうか、って所かね」
ふぅんと返事して、ユキは刺し子の針を動かした。あまり矢継ぎ早に話したくないが、うかうかしているとヒヅキが腰を上げてしまうかもしれない。スエが縁談にかかりきりなので、忙しいのだ。
「ねえ、ヒヅキさん」
「なんだい」
「ヒヅキさんはどうして、アキさんにしたの?」
「可哀想なことお言いでないよ。アキもあれでなかなか良い鍛冶屋じゃないか」
「そ、そうじゃないわよ。ただそのぅ……タキさんもアキさんも同じくらい良い人じゃない?」
アキは優しい叔父だ。子どもと遊ぶのが好きで、奉公に来ている小さな子達と一緒に、川や山へ連れて行って貰ったこともある。ユキとの歳の差は、一回りほど。叔父というより大きな兄貴分といった感覚だ。アキとヒヅキは仲睦まじく気持ちの良い夫婦だが、一方タキとヒヅキが並ぶと、目元の切れ上がったのが少し似ていて、並ぶと見栄えがする。タキの刀鍛冶の腕前は組合でも随一なので、子弟を弟子にさせたいという者は引きも切らない。昔は、嫁に行きたい、という娘も引きも切らなかったと聞いている。若いおなごが熱を上げるとしたら、やはりタキの方ではないのだろうか?
「それに、ヒヅキさんとタキさんは、ずっと仲が良いじゃない。いつだったかアキさんと痴話喧嘩したとき、ヒヅキさんが出て行った先、お里じゃなくて鬼刀屋さんだったって、私、知ってるんだから」
ヒヅキは悪びれもせず、「あんたにまでバレてるのかい」と言った。
「あたしがどっちを選んだところで、三人とも仲は良いままだったろうさ。ケンカの火種にもなりゃしない」
「それじゃ、どうしてタキさんじゃなくてアキさんにしたの?」
先程から大人の話ばかりでつまらないのだろう。アカネが「父さんが、なあに?」と、ヒヅキとユキの間に割り込む。更にはこよりでユキの耳をくすぐり始めるので、ユキはその小さな手を捕まえた。
「こちょこちょはだめよ。お話しているでしょう」
「とうさんがなあにー?」
「アカネ、墨をすっておくれよ。いい塩梅にしてくれたら、父さんのお話をしてやるよ」
「あーい」
娘が墨をこぼさないように気をつけながら、ヒヅキは話を続ける。
「ま、一言で言えば、アキの奴があたしにぞっこんだったのさ」
「知ってるわ。今もでしょ」
「あたしの婿選びが、いよいよって頃になるとね、もう必死だったよ。花を摘んだりあけびを採ってきたり、それでも『つまらないしがらみなんか気にせずに、一番いい所へ行きなよ』なんて痩せ我慢したり、ね。そこいくと、あのシュッとした唐変朴は、誰に何を言われても返事が鈍くてねぇ」
「それは、タキさんの性格じゃないかしら」
「ええもう、そういう性格だよ、タキは。あたしだって色々考えたけれど、結局、くろがね屋のアキが一番ってことになったのさ」
「沢山比べた?」
「四六時中さ。遊んでいてもケンカしていても、どっちが良い旦那だろうか、ってね。我ながら、贅沢な嫁入りをしたもんさ」
そう言うヒヅキには、どっしりとしたお山のような、泰然とした、妻として母としての風格があった。それでいて、不便なお郷の代わりに駆け込める、幼馴染という縁を繋ぎ続けている。刺し子の端を返し縫いで留めながら、ユキは溜息を吐く。
「私、ヒヅキさん達みたいになりたい。どこかへお嫁に行っても、ずっと仲良くして居たいのよ。あんまり遠くへ行ったら難しいでしょう?」
「そうだね、アキとタキの場合は、親戚同士だってのもあるし……」
「何処へお嫁に行ってもどうせ同じ、て気がするのよ。腕の良い人を選べば、きっとどの家もだいたい一緒よ。だったら、今の仲間と、ずっと仲良くできるようにしたいの」
「そんなのは子供の考えさ。人生、嫁に行った後の方が長いんだから」
ヒヅキさんは私の味方をしないのね、と、ユキが悲壮な顔をすると、ヒヅキは、とんでもない、と笑い飛ばす。
「この家に、あんたの味方でない者が居るわけないよ。これはあんたが十分に思い悩まなきゃいけないことなの」
ヒヅキは筆を置き、両手でユキの顔を挟む。あかぎれのある冷えた手の平は、しかし一欠片の不愉快さも無かった。
「忘れちゃいけない、この家に、あんたの味方でない者は居ないのよ。それと、あんたの父さんは……、職人は皆、庄屋やら網元なんかより豪気だってこと」
「出戻りでも許す?」
「可哀想だなんて他所様に言わせないさ。帳簿もお勝手も、いつだって人手が要るんだからね」
「うん」
ユキはなぜだか泣きたくなった。いっそ最初からお嫁になんか行きたくない、と駄々を捏ねたかった。それでも、十分に悩まなければならないのだ。
「女は覚悟、さ。どっちに転んでもね」
「うん」
良い子で墨を擦っていたアカネが、「おんなはかくご?」と尋ねるので、ユキは腹に力を入れて「そうよ」と答えた。
アカネはぱっと笑って、こよりを手に取ると、細く縒り上げた切っ先をユキに向け、いつか読み聞かせた草紙の決め台詞を叫んだ。後家さんが夫の敵を討つ人情物だ。
「おかくごー!」
「ぐわっやられた!」
ユキがこよりにやられたフリをしてやると、アカネはきゃあきゃあと笑う。ユキも懸命に笑った。小さな子の前でしおれているなんて、みっともないことをしてはいけない。
嘘半分にでもふざけていると、少しずつユキの気は晴れた。
「私、お嫁に行くのは嫌だけど、子供は欲しいみたい」
我が子を抱き寄せ、ヒヅキは不敵な顔をする。
「そうでしょうとも」
ふいに、縁側から「おい、ユキ!」と呼ぶ声がする。先程まで噂していた、アキの声だ。
「はぁい、なに?」
ユキが縁側へ出て行くと、アキはそこに腰掛けていて、手に持った小さい物を並べていた。
「若い者に、練習がてら、かんざしを打たせたんだ。ユキはどれが一番良いと思う?」
聞きつけたヒヅキとアカネも縁側に出て来る。ユキは、そうねえ、と呟きながら、端からじっくり品定めする。
並べられたのは、四つ、どれも同じバチかんざしだ。一番左のものは良く出来ているが、十五のユキが挿すにはバチが大きすぎる。二番目のは歪んだ形で、下手な細工彫りを試みた跡がある。それが疵のようになっており、いっそ何も彫らなかった方がマシだ。三番目のは不器用ながら形を整えるのに全力を注いだのだろう、おかげで板を切り出したよう。四番目は、大きさも形も良いが、やけに薄い。
思った通りに感想を述べると、アキは「で、どれが一番良い?」と繰り返す。ユキが「じゃあこれ」と手に取ったのは四番目だ。
「どれ、付けてご覧」
ヒヅキがユキの髪をひと房、こよりで括り、かんざしを挿してくれた。
「ふん、いい具合だな」
「そう。誰が打ったの?」
ユキはなんとなくそわそわして、アキの袖を引いた。微笑ましげに、叔父は答える。
「右から、キハツ、コウキ、タツゾウだ。そしてこれは、俺の作」
アキは一番左の大きなかんざしを手に取り、ヒヅキの頭の横へ持って行く。十五の小娘には大胆な造形が、ヒヅキの髪に寄り添えば、妙齢の艶やかさを匂わせる。
「うん、やっぱり似合う」
「嫌だよ、あんたってば」
「とうさん、アカネもつける!」
いちゃつく夫婦とその娘は放っておいて、ユキは鏡を見に行った。薄すぎるかんざしは、やや頼り無い見た目だが、付ける分には軽くて良い。あの山猿が、人並みにかんざしを作れるのは意外だった。鏡の中の顔がほんのり染まる。
「ただキハツは馬鹿な奴だから、『これを砥げば隠し武器になる』とか……」
アキがヒヅキに囁く声が聞こえてしまい、ユキは鏡の覆いを、ばっ、と掛けた。


〇いずれ訪れる筈の
鬼刀屋の一行は、ナツからもう一泊粘られたが、もう二泊目は無かった。タキは弟子を連れて、とっとと鬼刀屋へ帰る運びとなった。
タキは縁談について、最初からかんばしい受け答えをしなかったし、お相手の方も、山犬騒ぎのごたごたの内にキハツの髪の色を見て、良くない気持ちを抱いたようだった。
くろがね屋の門の外で、アキが「キハツを連れて来て良かったな」と友に頷けば、タキは「なんのことやら」ととぼけて見せた。
「お前、いずれは逆の立場になるんだぞ。弟子を見ろ、弟子を」
「そのためのコウキだ」
「この野郎」
うそぶいているのか本気なのか、竹馬の友にも計りかねて、アキはただ笑った。
その脇で、ユキと、キハツと、コウキは、それぞれに別れを言い合い、蜂蜜のことを惜しんでいるようだった。その姿が若い頃の自分達のようで、アキには愛おしい。無論、姪のユキは取り分けに可愛い。けれど、この子らが自分と同じ道を行く筈が無いことも承知していた。何よりアキが鬼子というものに出会ったのは、キハツが初めてだったのだ。
アキはこっそり、「鮑の片恋かな。相手はどうもヤドカリのようなんだが」と問いかけたが、タキは本気の様子で「なんのことだ」と答えた。
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