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第3部(終章)

花鶏side 睡蓮の乙女

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身体を揺すり起されて、意識が浮上する。瞼を開くと同時に、背中に激痛が走った。頭も打っているのか、目の奥で小さな光が散っている。

「沙羅っ、起きて、い、生きてる?」

切羽詰まった涙声の主ははつりだ。沙羅、というのが自分を指していることに、ぼんやり思い至り、花鶏は瞬間、勢いよく身を起こした。

「先生っ!先生は?……落ちたのか?怪我は?」

ぐら、と眩暈がして倒れ込みかけたのを、はつりが支えた。

「分からない、蘇芳先生と波瀬さんは居ないみたい、あと末草さんも」

ひんやりした空気に、鼻腔をかすめる仄かに甘い香り。辺りを見回した。
目が慣れると、そこはただ暗い場所ではなく、天井から一条の光の筋が差し込んでいた。まるで月光の様だ。

(地面が割れて落ちた時、まだ昼時だったはず)

しっとり濡れた地面は苔むしていて、水の匂いがする方を見ると、ゆらゆらと光を受けた浅瀬の中に、優しい色合いをした睡蓮が花弁を開いている。小さなため池は底が見える程度に浅く、透き通るように澄んでいた。

睡蓮は泥の中から花を咲かせるーー想像と異なる光景は、どこか現実味がないほど静謐だ。


天井を見上げると、遠くに小さな穴があり、その向こうに光源がある。まさか月ではあるまい。周囲は岩に囲まれた洞窟のようで、花鶏はカデンルラで蘇芳と歩いた地下水路を思い出した。

「先生、……先生を探さないと」

ぶつぶつ呟きながら立ち上がった瞬間、右足に激痛が走って頽れた。触ってみると腫れているが、折れてはいないようだ。

「捻ったのね、添え木になる物がないか、探してくる」
「待て、あまり動かない方がいい。様子が変だ」

動きを止めたはつりが、不安そうに瞳を揺らす。花鶏の背筋をぞわりと悪寒が駆け抜けた。

東雲、と。呼び声に瞬時に反応し、黒い大蛇が地面から朧に影を揺らめかせて現れた。すぐ横で、はつりが息を呑む。悲鳴を上げないだけ大したものだ。

「大丈夫だ、こいつはただの大きな蛇だから怖がらなくていい」

花鶏は素っ気なく言うと、蛇の金色の目を見据えた。

「先生を探したいんだ。でも俺の足だと時間がかかる。お前、先生の匂いが分かるな?探してこれるか?」

東雲は甘えるように目を閉じて頭を肩に擦り付けてきた。こくんと頷いて洞窟の奥へ向かおうとする彼女に声をかける。

「あ、待て。あれを置いてってくれ」

東雲がゆっくりと振り返った。嫌そうな顔をして、シューと舌を出し入れする。花鶏は厳しい目つきで顎をしゃくった。

「早くしろ、先生が怪我をしたり暗闇が怖くて泣いていたらどうするんだ」

渋々、といった感じで戻ってきた東雲が、くわっと大きな口を開いた。

固まったままのはつりの前で、花鶏は迷う素振りもなく大口に片腕を突っ込んだ。ぐっと肘のあたりまで突き入れ、ずるりと引き抜く。鞘に収まった剣を、花鶏はぶんと軽く振った。

「よし、行っていいぞ。先生を見つけたら戻ってこい」

東雲は人間でいうところの恨めしそうな顔で主人を見つめていたが、視線ひとつ寄越してくれないことに諦めたのか、巨体を蠢かせて暗闇の奥に消えていった。

「……沙羅、剣の腕は」

「先生に言わせるとからっきしだ。無いよりましだろう」

花鶏は気負いなく言うと、剣を杖代わりにして立ち上がった。なにがしかの非常事態が起こっているが、東雲を自身から切り離すことに躊躇はなかった。



ーー何かあればすぐに動けるようににも伝えておいてください。



蘇芳はあの時、花鶏に通じるように東雲をそう呼んだ。

何かに警戒していたのだ。何に? あの場にいた部外者といえば、末草が真っ先に浮かぶ。あの男が蘇芳と一緒にいるなら、やはり心配だ。東雲は先生の傍に行かせねばならない。

(いざとなれば、これではつりを守ってやらないと。何かあれば先生が悲しむ)

ぴちょん、と水滴が落ちる音がして、花鶏はまたあの悪寒を感じた。隣のはつりも、何かを感じ取ったように全身を硬直させる。

(神力を持った人間が同時に警戒態勢を取った……?)

花鶏は視線を引っ張られるように、目の前の浅い池に視線を向けた。

あ、とはつりが声を漏らす。水滴の滴る先に波紋が広がっている。睡蓮の大きな丸い葉っぱの下、ゆらり、と何かが揺蕩っていた。

花鶏は警戒を解かず、ゆっくりと水辺に歩み寄った。淡く光る水色の水面、そこに浮かぶ緑の葉を剣先で避けた。花鶏は沈黙して、を見下ろした。はつりが後ろで首を伸ばす。

「沙羅、そこに何かあるの?」
「……あねうえ」

ぼそりと小さな声を、はつりの耳が拾う。けれども意味が分からず、眉をひそめた。あねうえ……姉上?

花鶏は手を伸ばして<彼女>を覆い隠すように浮いた睡蓮とその葉を避けた。

黒く長い髪が、水中に広がりわずかな水流に揺らめいている。閉じられた瞼、白い額、淡い色の唇から気泡が漏れているように見える。すんなりした鼻筋と、細い顎の輪郭……白い衣は死に装束とも見えた。

毎朝、毎晩……自室の壁に掛けられた絵姿で。蘇芳の描いた絵姿で、成長した双子の姉、花雲の姿をつぶさに覚えていた。その姿と、彼女は瓜二つだ。


ーー「双子の面差しは似るでしょうから、あなたの特徴を思い描きながら、想像で描いたのですよ」

幼い時に死に別れた花雲の成長した姿を、どうして細部にわたるまで緻密に描けるのか。訊ねた時、蘇芳はちょっと困った顔をしながらそう答えた。

その時は、さすが先生は何でもできると、ただ感心していた。今思えば、いくら先生といえど、そんな芸当が可能だろうか? 会ったこともない幼子の成長後の容姿を描くことなど……。

(まさか、まさかそんなはず……こんな場所に姉上がいるわけないっ!)

「沙羅!」

ばしゃばしゃと水を蹴立てて彼女を水中から抱き上げた花鶏に、はつりがぎょっとして叫ぶ。その声は、ぶちぶち、という植物の茎が千切れる音にかき消された。彼女の身体に……正確には皮膚から直接生えている睡蓮の茎が、千切れた音だった。

女の身体を腕に抱いて水から上がった。濡れた衣は重い。それでも、腕の中の身体は随分軽く感じた。まるで抜け殻のように。

足の痛みさえ忘れていたが、水から上がった途端、思い出したようにじくじく痛み始める。

「誰なの、この人。……息、してないみたい」

はつりは恐々と、横たえた彼女の鼻口に手を当て、心臓の真上にも手を当てた。生きた人間の温みはおろか、血色すらない。けれど水死体にしては、腐るでもなく肌は水を弾くほど瑞々しい。

「俺の姉上に似ている、生き写しといっていいくらいだ」

はつりは驚いて、彼女の顔と花鶏を交互に見た。確かに、顔の造りが言われてみれば似ているかもしれないが。

「どうしてこんな場所に……」
「いや、違う、ありえない……姉上は何年も前に亡くなってる、別人だ」

彼女から目をそらした。

「……とにかく、東雲と先生が戻る前に、ここから出る方法を探さないと」
「この人はどうするの?置いてくの」

はつりは目に憐れみが宿った。同じ年頃に見える彼女を、こんな寂しい場所に一人置いておくには忍びない。何があったか知らないが、きっと彼女の家族は、遺体を弔うことすらできていないはずだ。

「……里から人を呼んで、外へ引き上げてもらおう。とにかく、まず自分たちが無事戻らないとな」

花鶏はせめて、手を胸の上で組ませてやろうと、もう一度彼女に触れようとした。

その瞬間、視界の端に青い焔が映った。ぼわっと音を立て、青い松明がそこかしこに燃え上がった。そして視線を戻した瞬間、背後に気配を感じた。

はつりが息を呑み、目を見開き、花鶏の背後を凝視している。大きな瞳と見つめ合った時、そこに自分以外の黒い影が見えた。

ひゅっと息を詰めた瞬間、物凄い力が首を締め上げ、花鶏の身体が宙に浮き、睡蓮の水面に叩きつけられた。

浅瀬に強かに背中を打って、受け身を取る余裕もなく、全身が痺れる。

溺れると思った瞬間、カッと頭に血が上った。

(死ぬときは先生に看取られて死ぬと決めているのにッ)

ゲホゲホ咳込みながらずぶ濡れで起き上ると、目の前に人が佇んでいた。水面の上に、微動だにせず。足元にはかすかな波紋。

こちらに背を向けた人物は若い男だ。濡れ羽色の艶やかな長髪が背中を覆い、古風な緑色の薄衣を纏っている。

「誰だ」

奇跡的に握ったままの剣を鞘から抜き、剣先を向ける。危険だ。直感がそう断じた。

友にでも呼ばれたようなゆったりした動きで、男が振り返った。

白い面は無表情、それでいて微笑んでいるようにも見える。眼差し柔らかく、派手ではないが、どこか心惹かれる端正な顔立ちをしていた。

花鶏は剣先をそっと下ろした。

「……先生?」「蘇芳先生?」

はつりの声が重なった。二人は視線を見交わし、また男に向けた。
男は小さく微笑んだように見えた。

「古いまじないでを切ったのはそなた達か?……妻を返して欲しい。そのままだと、彼女は身体を保てないのだ」

その表情も、はては声音まで……蘇芳のそれとよく似ていた。
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