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霊獣(5)
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貴賓席で異変を目の当たりにした黒南風は即座に動いた。蜜瑠璃に駆け寄り横抱きにして抱えると、
「北斗!降りるんだ!急げ!」
叫んでから、自分は姉をしっかり抱いて地面に飛び降りた。蜜瑠璃を庇って着地したので、足首を変な風に捻ったが、そんなことは構っていられない。
(早く避難しなくてはっ)
「黒ちゃん!北斗ちゃんと……花鶏ちゃんも来てない!」
腕の中の蜜瑠璃が叫んだ。
(二人とも何してるんだ!)
焦った黒南風が振り返るより先に、その横を素早く何者かの影が走り抜た。
軽く地面を蹴ると、片腕の力で身軽に舞台へ飛び上がった。片腕だったのは、帯剣の柄に右手をかけているからだ。
「おいっ、花鶏!北斗!」
「……落ち着いて黒ちゃん。今のは凱将軍だったわ。私たちが戻れば彼の仕事が増える。とにかくここを離れましょう」
黒南風は驚いて姉を見下ろした。蜜瑠璃はほつれた金髪の向こうから、じっと舞台を見つめて何事か考えこんでいるようだった。
その時、花鶏はまさに勾配を駆け下りようとしていた。
「先生!離れてっ!」
花鶏の視線の先で、あろうことか蘇芳が人波に逆らって舞台のすぐ下から雨月に叫び続けている。
(何してるんだ……っ!もしあの白虎の注意をひいたらどうする!)
蘇芳が何を言っているかは聞き取れない。血相を変えている。雨月を助けようとしているのか?
(駄目だ、兄上を先に退かせないと先生まで巻き添えを食う!)
舞台に駆け込もうとした花鶏の身体を、強い力がぐっと抱えこんだ。そのまま容赦なく後方へ投げられた。
貴賓席の床に受け身を取って転がりながら、花鶏は邪魔された苛立ちでその男を睨み上げた。
「凱将軍」
「花鶏殿下、退避してください」
「お前はどうするんだ。いくら凱将軍でも、人間の武器では霊獣に傷はつけれられないぞ」
「……致し方ない。雨月殿下だけでもお守りしなくては。恐れながらおふたりに構う余裕がありません。すぐに退避を!」
花鶏は素早く蘇芳を見た。凱将軍に任せて、このまま舞台下で蘇芳を引きずって離れたほうがいい。
「分かった。すまないが兄上を頼む」
意識は完全に蘇芳で占められているが、こういう時の文句は自然と出てくるものだ。
凱将軍は頷き、鞘から長剣を抜いて舞台へ降りようと……した瞬間、白虎が予備動作なしで雨月に飛び掛かった。
蘇芳の叫びに徐々に冷静を取り戻した雨月皇子が、こわばった表情のままゆっくり口を開いた。
「……燦」
(違う、かすってもない!あ、でも文字数はあってる!よし、そのままいけ!)
白虎が不機嫌に唸り、頭を振る。
雨月が縋るように蘇芳を見た。
「殿下、お気を確かに!もう一度!」
もはやスパルタどころの騒ぎではない。そして蘇芳も、こうしてる間にいつ白虎が自分に向かってくるか気が気ではなかった。
「……閧」
(ちっがーう!!)
雨月に目で命じる。ワンモアトライ!!雨月は顔を真っ青にしながら、
「哭」
(また違う……けど今までで一番近い!)
蘇芳はだらだらと汗をかきながら、
(ここで俺が答えを教えるのは駄目だ……何で知ってるのか聞かれてどう答えるんだよ!適当に言ったら当たりましたとか?通用するのかそれ)
「す、蘇芳殿……っ」
金縛りにあった状態で、雨月がか細い声を発した。
(まずい、こっちがもう限界だ)
舞台の縁に手を掛け、蘇芳はもはや迷っていられないことを悟った。
「ひ……」
悲鳴にも成れないような声が雨月の喉から発せられた。
白虎はすでに己の名前が取られないことを感知したのだ。瞬間、地を蹴り高く飛翔したかと思うと、牙を剥き出しながら雨月に飛び掛かった。
「殿下ぁ!!」
叫んだ凱将軍の判断力はまさに感服に値した。彼は駆けても間に合わないと見るや、長剣を槍投げの要領で放った。
鋭く空を裂いて、長剣の先が白虎の鼻面を刺すかに見えて瞬間、虎は空中で向きを変えて雨月と、後方の凱将軍をも飛び越えた。
その先を目で追った蘇芳はひゅっ、と息を呑んだ。
「花鶏っ!!」
宙を飛んで眼前に迫る猛虎に、一瞬自分以外の何もかもが遠くなった。
次々と過去の記憶が浮かんでは消えた。多々良姫の白い手。優しい顔。花雲の自分によく似た笑顔。花鶏に冷たく当たっていた頃の蘇芳。江雪。月下の蘇芳の、少しやつれた表情。一緒に眠った夜、無言で布団をかぶせてきた時の憮然とした表情。ここ最近の、ちょっと小言が多くなった蘇芳の呆れた顔。
一切が流れ去ると、最後に残ったのは穏やかにこちらを見て小さく微笑む現在の蘇芳だった。
(なんだ、ほんとうに先生ばっかりだな。当たり前か)
「花鶏っ!!」
魂切れるような叫びとは、まさにこの声だと、こんな時だというのに花鶏は思った。
(先生に呼び捨てにされたの初めてだ)
しかし次の瞬間、はっと我に返った花鶏は、後退は間に合わないと判断するや渾身の力で床を蹴り横に受け身を取った。ガゴン、という音がして、見れば貴賓席の床板が虎によって踏み抜かれていた。白虎は前足を取られて、身動きできず藻掻いている。
「花鶏っ!」
その時、がむしゃらに走ってきたのだろう、ぜぇはぁと喘ぎながら、蘇芳が膝をついて花鶏の肩をゆすった。
「立ちなさい!下へ降りないと!」
見れば今にも泣きそうな顔をしている。
「……先生」
蘇芳のここまで取り乱した顔なんて、もしかすると初めて見たかもしれない。
はたと我に返った。見惚れて呆けている場合ではなかった。
「先生早く離れて!あの霊獣は皇統を狙ってるんです!俺から離れて!」
仮説だが、虎の動きを見るに恐らく正解だろう。蘇芳の二の腕をつかんで引きはがそうとする。が、蘇芳はさせて堪るかと逆に花鶏の腕をつかんだまま怒鳴った。もはや大人と子供が取っ組み合いの体である。
ふたりとも顔を真っ赤にしながら、顔を突き合わせて相手を睨みつける。お互い頑として譲らない。
「あなたを置いていけるわけないでしょうが!一緒に来ないなら私も動きませんよ!いいんですね!?嫌なら四の五の言わず先生の言うこと聞きなさい!」
花鶏も負けじと怒鳴り返す。
「誰も逃げないとは言ってないでしょ!俺から離れないと先生まで巻き添えになるって言ってるのになんで分からないの!?先生こそ俺の言うこと聞いてよ!今だけで良いから!一生のお願いだから!」
「ハァっ!?一生のお願いなんてあなた昔っから何回私に使ってきたと思ってるんですか!残念でしたねだから肝心な時にとっておけと言ったのに!だったら私だって使いますからね!後で何でもしてあげるから黙って言う通りにしなさい!このっ……悪い子っ!」
「っ、先生こそ使い方絶対に間違ってるでしょあと簡単に何でもとか言うのやめてくれませんか期待するからっ……え、なんでも?」
その時、床板から足を抜くのを諦めた白虎は、咆哮を放ち、周囲の床板ごと破壊して自由の身となった。
そのまま蘇芳たちを見据え、我慢の限界とばかりに牙を剥き爪を振りかぶった。
とっさに蘇芳が花鶏を背中に庇った。一拍遅れて、猛然と抵抗し出したのは花鶏だ。
「先生駄目だ!俺はいいから!お願いだからやめて!やめろっ!」
花鶏は死に物狂いで背中にしがみ付き自分が前に来ようとする。だが蘇芳はこればかりは許すつもりがなかった。
13歳の子供の力では、大人に抑え込まれては限界がある。
背後の花鶏を押さえつけ、ひたと白虎の青い目を睨み据える。鋭く息を吸い込むと、小さく言い放った。
「珀」
猛り狂った白虎は、その瞬間、すべての殺気と動きを止めた。そしてのっそりと、まるで猫のようにその場にお座りをしてみせたのだった。
「北斗!降りるんだ!急げ!」
叫んでから、自分は姉をしっかり抱いて地面に飛び降りた。蜜瑠璃を庇って着地したので、足首を変な風に捻ったが、そんなことは構っていられない。
(早く避難しなくてはっ)
「黒ちゃん!北斗ちゃんと……花鶏ちゃんも来てない!」
腕の中の蜜瑠璃が叫んだ。
(二人とも何してるんだ!)
焦った黒南風が振り返るより先に、その横を素早く何者かの影が走り抜た。
軽く地面を蹴ると、片腕の力で身軽に舞台へ飛び上がった。片腕だったのは、帯剣の柄に右手をかけているからだ。
「おいっ、花鶏!北斗!」
「……落ち着いて黒ちゃん。今のは凱将軍だったわ。私たちが戻れば彼の仕事が増える。とにかくここを離れましょう」
黒南風は驚いて姉を見下ろした。蜜瑠璃はほつれた金髪の向こうから、じっと舞台を見つめて何事か考えこんでいるようだった。
その時、花鶏はまさに勾配を駆け下りようとしていた。
「先生!離れてっ!」
花鶏の視線の先で、あろうことか蘇芳が人波に逆らって舞台のすぐ下から雨月に叫び続けている。
(何してるんだ……っ!もしあの白虎の注意をひいたらどうする!)
蘇芳が何を言っているかは聞き取れない。血相を変えている。雨月を助けようとしているのか?
(駄目だ、兄上を先に退かせないと先生まで巻き添えを食う!)
舞台に駆け込もうとした花鶏の身体を、強い力がぐっと抱えこんだ。そのまま容赦なく後方へ投げられた。
貴賓席の床に受け身を取って転がりながら、花鶏は邪魔された苛立ちでその男を睨み上げた。
「凱将軍」
「花鶏殿下、退避してください」
「お前はどうするんだ。いくら凱将軍でも、人間の武器では霊獣に傷はつけれられないぞ」
「……致し方ない。雨月殿下だけでもお守りしなくては。恐れながらおふたりに構う余裕がありません。すぐに退避を!」
花鶏は素早く蘇芳を見た。凱将軍に任せて、このまま舞台下で蘇芳を引きずって離れたほうがいい。
「分かった。すまないが兄上を頼む」
意識は完全に蘇芳で占められているが、こういう時の文句は自然と出てくるものだ。
凱将軍は頷き、鞘から長剣を抜いて舞台へ降りようと……した瞬間、白虎が予備動作なしで雨月に飛び掛かった。
蘇芳の叫びに徐々に冷静を取り戻した雨月皇子が、こわばった表情のままゆっくり口を開いた。
「……燦」
(違う、かすってもない!あ、でも文字数はあってる!よし、そのままいけ!)
白虎が不機嫌に唸り、頭を振る。
雨月が縋るように蘇芳を見た。
「殿下、お気を確かに!もう一度!」
もはやスパルタどころの騒ぎではない。そして蘇芳も、こうしてる間にいつ白虎が自分に向かってくるか気が気ではなかった。
「……閧」
(ちっがーう!!)
雨月に目で命じる。ワンモアトライ!!雨月は顔を真っ青にしながら、
「哭」
(また違う……けど今までで一番近い!)
蘇芳はだらだらと汗をかきながら、
(ここで俺が答えを教えるのは駄目だ……何で知ってるのか聞かれてどう答えるんだよ!適当に言ったら当たりましたとか?通用するのかそれ)
「す、蘇芳殿……っ」
金縛りにあった状態で、雨月がか細い声を発した。
(まずい、こっちがもう限界だ)
舞台の縁に手を掛け、蘇芳はもはや迷っていられないことを悟った。
「ひ……」
悲鳴にも成れないような声が雨月の喉から発せられた。
白虎はすでに己の名前が取られないことを感知したのだ。瞬間、地を蹴り高く飛翔したかと思うと、牙を剥き出しながら雨月に飛び掛かった。
「殿下ぁ!!」
叫んだ凱将軍の判断力はまさに感服に値した。彼は駆けても間に合わないと見るや、長剣を槍投げの要領で放った。
鋭く空を裂いて、長剣の先が白虎の鼻面を刺すかに見えて瞬間、虎は空中で向きを変えて雨月と、後方の凱将軍をも飛び越えた。
その先を目で追った蘇芳はひゅっ、と息を呑んだ。
「花鶏っ!!」
宙を飛んで眼前に迫る猛虎に、一瞬自分以外の何もかもが遠くなった。
次々と過去の記憶が浮かんでは消えた。多々良姫の白い手。優しい顔。花雲の自分によく似た笑顔。花鶏に冷たく当たっていた頃の蘇芳。江雪。月下の蘇芳の、少しやつれた表情。一緒に眠った夜、無言で布団をかぶせてきた時の憮然とした表情。ここ最近の、ちょっと小言が多くなった蘇芳の呆れた顔。
一切が流れ去ると、最後に残ったのは穏やかにこちらを見て小さく微笑む現在の蘇芳だった。
(なんだ、ほんとうに先生ばっかりだな。当たり前か)
「花鶏っ!!」
魂切れるような叫びとは、まさにこの声だと、こんな時だというのに花鶏は思った。
(先生に呼び捨てにされたの初めてだ)
しかし次の瞬間、はっと我に返った花鶏は、後退は間に合わないと判断するや渾身の力で床を蹴り横に受け身を取った。ガゴン、という音がして、見れば貴賓席の床板が虎によって踏み抜かれていた。白虎は前足を取られて、身動きできず藻掻いている。
「花鶏っ!」
その時、がむしゃらに走ってきたのだろう、ぜぇはぁと喘ぎながら、蘇芳が膝をついて花鶏の肩をゆすった。
「立ちなさい!下へ降りないと!」
見れば今にも泣きそうな顔をしている。
「……先生」
蘇芳のここまで取り乱した顔なんて、もしかすると初めて見たかもしれない。
はたと我に返った。見惚れて呆けている場合ではなかった。
「先生早く離れて!あの霊獣は皇統を狙ってるんです!俺から離れて!」
仮説だが、虎の動きを見るに恐らく正解だろう。蘇芳の二の腕をつかんで引きはがそうとする。が、蘇芳はさせて堪るかと逆に花鶏の腕をつかんだまま怒鳴った。もはや大人と子供が取っ組み合いの体である。
ふたりとも顔を真っ赤にしながら、顔を突き合わせて相手を睨みつける。お互い頑として譲らない。
「あなたを置いていけるわけないでしょうが!一緒に来ないなら私も動きませんよ!いいんですね!?嫌なら四の五の言わず先生の言うこと聞きなさい!」
花鶏も負けじと怒鳴り返す。
「誰も逃げないとは言ってないでしょ!俺から離れないと先生まで巻き添えになるって言ってるのになんで分からないの!?先生こそ俺の言うこと聞いてよ!今だけで良いから!一生のお願いだから!」
「ハァっ!?一生のお願いなんてあなた昔っから何回私に使ってきたと思ってるんですか!残念でしたねだから肝心な時にとっておけと言ったのに!だったら私だって使いますからね!後で何でもしてあげるから黙って言う通りにしなさい!このっ……悪い子っ!」
「っ、先生こそ使い方絶対に間違ってるでしょあと簡単に何でもとか言うのやめてくれませんか期待するからっ……え、なんでも?」
その時、床板から足を抜くのを諦めた白虎は、咆哮を放ち、周囲の床板ごと破壊して自由の身となった。
そのまま蘇芳たちを見据え、我慢の限界とばかりに牙を剥き爪を振りかぶった。
とっさに蘇芳が花鶏を背中に庇った。一拍遅れて、猛然と抵抗し出したのは花鶏だ。
「先生駄目だ!俺はいいから!お願いだからやめて!やめろっ!」
花鶏は死に物狂いで背中にしがみ付き自分が前に来ようとする。だが蘇芳はこればかりは許すつもりがなかった。
13歳の子供の力では、大人に抑え込まれては限界がある。
背後の花鶏を押さえつけ、ひたと白虎の青い目を睨み据える。鋭く息を吸い込むと、小さく言い放った。
「珀」
猛り狂った白虎は、その瞬間、すべての殺気と動きを止めた。そしてのっそりと、まるで猫のようにその場にお座りをしてみせたのだった。
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