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36・廊下がやけに長い件2
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背後にドアの閉まる音を聞きながら自分の部屋に向かう。
と、廊下の曲がり角の直前で、足にごつんと何かが当たる感触があった。
「うなんな。」
「…マフ?」
見下ろすと灰色の太った猫が、相変わらずふてぶてしい顔でこちらを見上げているのが見えた。
どうやら文句を言われたらしいが、ぶつかってきたのはお前だ。
抱き上げようとして身をかがめ腕を伸ばしたが、デブ猫は生意気にも私の手をすり抜けて、曲がり角の方にぽてぽて駆けていった。
その先に、すらりとした細身の人影が見え、マフがその脚に体を擦り付ける。
…一瞬、ズボンに毛が付くことを心配してしまったのは現実逃避だっただろうか。
よく考えれば自分もまだパーティードレスのままだったから、抱き上げなくて良かった。
…まさかそこに気を遣って逃げた、なんて事はないよな。
そんなしょうもない事を思いながら、そこから視線を上げて、現れた人物を確認する。
長くまっすぐな赤い髪と、無駄に整った女性的な顔だち、緑色の瞳が、廊下のランプの光の中でも、何故かよく見えた。
「ア………ロアン殿下。」
「アローンでいい。敬称も不要だ。」
「それは……」
「構わん。既に本当の名よりも、そう呼ばれる年数の方が長いからな。
それに表向きの関係として、ゴローやディーナ同様、貴女もおれの従姉の筈だ。」
少し面白くなさそうな表情で言いながら、アローンは私を、促すように見つめる。
まあ確かに今はともかく、他人のいる前で思わず出てしまえば色々問題だと思い直して、私は頷いた。
「承知いたしました、アローン。
…それはともかく、こんな夜中にどうされましたの?」
「…今のはバアル・イルージオだな。
あの男の語彙に、女性を褒める言葉があったとは。」
だが、アローンは私の質問には答えずに、先ほど通り過ぎてきた部屋の方に目を向けて、問うでもなさげに呟いた。
ふむ。つまりは先ほどのやり取りを、ある程度までここで見ていたという事だ。
「…覗き見なんて、趣味がいいとは言えませんわね。」
自分より4歳年下の王子を軽く睨みつつ、少し大人げなく文句を言う。
今が夜で、ランプの灯りだけで良かった。
でなければ、少し血が上った頬の色に気付かれていただろうから。
「正確には『見』ちゃいない。
たまたま通りかかって、声が聞こえたから出て行けなかっただけだ。
今のおれは、まだあいつに会うことはできん。」
ああ、そうか。声でバアル様だと気がついていたから、出てくることができなかったのか。
…多分だがこの時私は、このひとに嫉妬していたのだと思う。
バアル様の心に棘のように突き刺さり、ある程度その人格を形成しているアローンに。
彼のことはよく知っているとでも言いたげな先刻の言葉に、9歳の時以来会っていないくせに、彼に手を取られてダンスを踊った事もないくせに(いや、あったら逆に恐いけど)何が判るんだと、後から考えれば訳の分からない事に、私は苛ついていた。
「…バアル様は今日の祝勝会で、私のエスコート役に任命されて、ずっと付いていてくださったのです。
貴方がどのようなイメージを彼に抱いていらっしゃるか、大体想像はつきますが、マナーもダンスも、細かい気遣いに至るまで、完璧な紳士でいらっしゃいますわ。
まるでお姫様にでもなったような、素敵な時間を過ごさせていただきましたもの。」
危ない目にはあったけど、その事は言わないでおく。
「なんだか、おれに当て付けるような言い方だな。」
「…そういうわけではないのですが。
……正直、私などのお相手には、英雄の無駄遣いではないかとさえ思いました。」
指摘されて少し冷静になり、なんだか言い訳のように言ってしまった私の言葉に、だが、アローンは何故か吹き出した。
「無駄遣いって……貴女はやはり、面白いことを言うな。」
くつくつと喉の奥に笑いを噛み殺そうとしながらしきれないでいる王子様に更にイラッとする。
笑うんならいっそ堂々と笑え。
「バアルはおれが王太子だった頃、おれ専属の近衛騎士だったんだ。」
「存じております。」
「今思えばそれこそ『英雄の無駄遣い』だったな。」
いや、貴方王太子だったんだからそれは無駄じゃないでしょ…と思ったが、どうやらただ単にそのフレーズがお気に召しただけのようだ。
高貴な人の感覚はよくわからない。
…やがて、噛み殺した笑いの波が落ち着いたらしいタイミングで、アローンがひとつ息を吐いて、私に向き直った。
「……ところで」
「はい?」
「…そのドレス、貴女にとても似合っている。
ボウズの瞳と同じ色なのは少々気に入らんが。」
……一瞬、アナタも同じ色の瞳でしょうと、言いかけてやめた。
特に根拠はないが、言ってしまったら、ややこしいことになる気が、何故かした。
「…ありがとうございます。」
とりあえず褒められた礼だけは返しておく。
バアル様に褒められた時ほど胸に響かないのは、その現実離れした顔面偏差値のせいという事にしておこう。
…夕方からあのだだ漏れな雄フェロモンにあてられて、感覚がおかしくなっているかもしれない。
……ゲームのストーリーイベントで、バアルがアローンの生存を知るのは、後半を過ぎてからだ。
戦争イベントからの流れで、バルゴ王国の要請で出撃し、見事防衛に成功したライブラ王国の騎士団が、王都へ戻る途中でそれは起きる。
騎士団が一晩滞在することとなったその町は、アローンの配下(今考えると多分我が家の関係者)が王女の身柄を守っている別邸のある町だった。
何故かそのタイミングで入り込んでいた帝国兵に、邸が襲撃される。
彼らはこの町に王女がいるという情報を掴んでおり、拐って皇帝のもとに連れて行こうとしていた。
目の前で護衛が斬り殺されるのを目撃した王女は、その瞬間に正気に戻り、彼女を連れ去ろうとする帝国兵の手から辛くも逃れる。
そして追われる王女を発見したのが、たまたま一人で町を散策していたヒロイン・マリエルだった。
マリエルは王女を滞在先の宿に連れ帰り、ファルコや騎士達に王女の保護を求める。
その上で王女と上着を取り替えて帝国兵の目を引き付けて宿を離れ……王女の身代わりに、町の外に展開されていた帝国陣地へと連れ去られるのだ。
だが、マリエルをむざむざ拐われて落ち込むファルコの前に仮面の男アローンが現れ、そこから彼の主導によりマリエル奪還作戦に入っていく。
この時はマリエルがいない為、いつもの戦闘イベントならばマリエルとファルコともう一人、その時点で一番愛情値の高いキャラの3人となるところ、この時だけマリエルの位置にアローンが入るのだが、その際、一番愛情値の高いキャラ、つまり同行しているキャラがバアルであった場合にのみ、仮面の男が『王子ロアン』であるとバアルが気付くイベントが発生するのである。
………………けど。
もしこのイベントが起きたとしても、華奢なマリエルならともかく女としては大柄な私は、王女とは背格好が全く違う為、間違われて私が代わりに連れ去られる展開にはまずならないと思う。
つまりこのイベントは、私がヒロインの代わりにこの位置にいる分には、起きないと考えていい筈だ。
だとしたら。
「…『ロアン殿下』が生存している事、バアル様には知らせていいと思いますわ。
あの方は、今も『貴方の死』に責任を感じていらっしゃいます。
決して悪いようにはなさらないかと。」
あのひとの苦しみを早く取り除いてあげたい。
そんな思いで発した私の言葉に、アローンは一瞬目を瞠いた。が。
「……悪いが、それを決めるのはおれじゃない。」
そう、呟くように答えた緑の目に、それまでにない迷いが見えた。
と、廊下の曲がり角の直前で、足にごつんと何かが当たる感触があった。
「うなんな。」
「…マフ?」
見下ろすと灰色の太った猫が、相変わらずふてぶてしい顔でこちらを見上げているのが見えた。
どうやら文句を言われたらしいが、ぶつかってきたのはお前だ。
抱き上げようとして身をかがめ腕を伸ばしたが、デブ猫は生意気にも私の手をすり抜けて、曲がり角の方にぽてぽて駆けていった。
その先に、すらりとした細身の人影が見え、マフがその脚に体を擦り付ける。
…一瞬、ズボンに毛が付くことを心配してしまったのは現実逃避だっただろうか。
よく考えれば自分もまだパーティードレスのままだったから、抱き上げなくて良かった。
…まさかそこに気を遣って逃げた、なんて事はないよな。
そんなしょうもない事を思いながら、そこから視線を上げて、現れた人物を確認する。
長くまっすぐな赤い髪と、無駄に整った女性的な顔だち、緑色の瞳が、廊下のランプの光の中でも、何故かよく見えた。
「ア………ロアン殿下。」
「アローンでいい。敬称も不要だ。」
「それは……」
「構わん。既に本当の名よりも、そう呼ばれる年数の方が長いからな。
それに表向きの関係として、ゴローやディーナ同様、貴女もおれの従姉の筈だ。」
少し面白くなさそうな表情で言いながら、アローンは私を、促すように見つめる。
まあ確かに今はともかく、他人のいる前で思わず出てしまえば色々問題だと思い直して、私は頷いた。
「承知いたしました、アローン。
…それはともかく、こんな夜中にどうされましたの?」
「…今のはバアル・イルージオだな。
あの男の語彙に、女性を褒める言葉があったとは。」
だが、アローンは私の質問には答えずに、先ほど通り過ぎてきた部屋の方に目を向けて、問うでもなさげに呟いた。
ふむ。つまりは先ほどのやり取りを、ある程度までここで見ていたという事だ。
「…覗き見なんて、趣味がいいとは言えませんわね。」
自分より4歳年下の王子を軽く睨みつつ、少し大人げなく文句を言う。
今が夜で、ランプの灯りだけで良かった。
でなければ、少し血が上った頬の色に気付かれていただろうから。
「正確には『見』ちゃいない。
たまたま通りかかって、声が聞こえたから出て行けなかっただけだ。
今のおれは、まだあいつに会うことはできん。」
ああ、そうか。声でバアル様だと気がついていたから、出てくることができなかったのか。
…多分だがこの時私は、このひとに嫉妬していたのだと思う。
バアル様の心に棘のように突き刺さり、ある程度その人格を形成しているアローンに。
彼のことはよく知っているとでも言いたげな先刻の言葉に、9歳の時以来会っていないくせに、彼に手を取られてダンスを踊った事もないくせに(いや、あったら逆に恐いけど)何が判るんだと、後から考えれば訳の分からない事に、私は苛ついていた。
「…バアル様は今日の祝勝会で、私のエスコート役に任命されて、ずっと付いていてくださったのです。
貴方がどのようなイメージを彼に抱いていらっしゃるか、大体想像はつきますが、マナーもダンスも、細かい気遣いに至るまで、完璧な紳士でいらっしゃいますわ。
まるでお姫様にでもなったような、素敵な時間を過ごさせていただきましたもの。」
危ない目にはあったけど、その事は言わないでおく。
「なんだか、おれに当て付けるような言い方だな。」
「…そういうわけではないのですが。
……正直、私などのお相手には、英雄の無駄遣いではないかとさえ思いました。」
指摘されて少し冷静になり、なんだか言い訳のように言ってしまった私の言葉に、だが、アローンは何故か吹き出した。
「無駄遣いって……貴女はやはり、面白いことを言うな。」
くつくつと喉の奥に笑いを噛み殺そうとしながらしきれないでいる王子様に更にイラッとする。
笑うんならいっそ堂々と笑え。
「バアルはおれが王太子だった頃、おれ専属の近衛騎士だったんだ。」
「存じております。」
「今思えばそれこそ『英雄の無駄遣い』だったな。」
いや、貴方王太子だったんだからそれは無駄じゃないでしょ…と思ったが、どうやらただ単にそのフレーズがお気に召しただけのようだ。
高貴な人の感覚はよくわからない。
…やがて、噛み殺した笑いの波が落ち着いたらしいタイミングで、アローンがひとつ息を吐いて、私に向き直った。
「……ところで」
「はい?」
「…そのドレス、貴女にとても似合っている。
ボウズの瞳と同じ色なのは少々気に入らんが。」
……一瞬、アナタも同じ色の瞳でしょうと、言いかけてやめた。
特に根拠はないが、言ってしまったら、ややこしいことになる気が、何故かした。
「…ありがとうございます。」
とりあえず褒められた礼だけは返しておく。
バアル様に褒められた時ほど胸に響かないのは、その現実離れした顔面偏差値のせいという事にしておこう。
…夕方からあのだだ漏れな雄フェロモンにあてられて、感覚がおかしくなっているかもしれない。
……ゲームのストーリーイベントで、バアルがアローンの生存を知るのは、後半を過ぎてからだ。
戦争イベントからの流れで、バルゴ王国の要請で出撃し、見事防衛に成功したライブラ王国の騎士団が、王都へ戻る途中でそれは起きる。
騎士団が一晩滞在することとなったその町は、アローンの配下(今考えると多分我が家の関係者)が王女の身柄を守っている別邸のある町だった。
何故かそのタイミングで入り込んでいた帝国兵に、邸が襲撃される。
彼らはこの町に王女がいるという情報を掴んでおり、拐って皇帝のもとに連れて行こうとしていた。
目の前で護衛が斬り殺されるのを目撃した王女は、その瞬間に正気に戻り、彼女を連れ去ろうとする帝国兵の手から辛くも逃れる。
そして追われる王女を発見したのが、たまたま一人で町を散策していたヒロイン・マリエルだった。
マリエルは王女を滞在先の宿に連れ帰り、ファルコや騎士達に王女の保護を求める。
その上で王女と上着を取り替えて帝国兵の目を引き付けて宿を離れ……王女の身代わりに、町の外に展開されていた帝国陣地へと連れ去られるのだ。
だが、マリエルをむざむざ拐われて落ち込むファルコの前に仮面の男アローンが現れ、そこから彼の主導によりマリエル奪還作戦に入っていく。
この時はマリエルがいない為、いつもの戦闘イベントならばマリエルとファルコともう一人、その時点で一番愛情値の高いキャラの3人となるところ、この時だけマリエルの位置にアローンが入るのだが、その際、一番愛情値の高いキャラ、つまり同行しているキャラがバアルであった場合にのみ、仮面の男が『王子ロアン』であるとバアルが気付くイベントが発生するのである。
………………けど。
もしこのイベントが起きたとしても、華奢なマリエルならともかく女としては大柄な私は、王女とは背格好が全く違う為、間違われて私が代わりに連れ去られる展開にはまずならないと思う。
つまりこのイベントは、私がヒロインの代わりにこの位置にいる分には、起きないと考えていい筈だ。
だとしたら。
「…『ロアン殿下』が生存している事、バアル様には知らせていいと思いますわ。
あの方は、今も『貴方の死』に責任を感じていらっしゃいます。
決して悪いようにはなさらないかと。」
あのひとの苦しみを早く取り除いてあげたい。
そんな思いで発した私の言葉に、アローンは一瞬目を瞠いた。が。
「……悪いが、それを決めるのはおれじゃない。」
そう、呟くように答えた緑の目に、それまでにない迷いが見えた。
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