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35・廊下がやけに長い件1
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私が寒気を感じたのは己の存在の特異さについてであり、会場での事を思い出したからではないのだが、明日は神殿に戻らねばならない事もあるので、この機に乗じて今日はもう休ませていただく事にした。
またタイミングよく、客間の用意が整ったとメイドが呼びにきて、
「じゃあ、ついでだからヴァーナが、バアル様を御案内して差し上げて。
バアル様、本日はありがとうございました。」
と父が深夜のお茶会の終了を告げたのも手伝って。
急なこととはいえ一晩休むだけの支度にこんなに時間がかかったのは、客間のひとつひとつにバスタブと浴室がついていて、お湯をためるのに時間が必要だったからだ。
うちは平民ではあっても一応大商人のおうちなので使用人の質はたいそう良く、普段使っていない部屋だからとて、普段からの掃除を怠るなんてことはあり得ないのだ。えへん。
ちなみに前世でいうシャワー的な魔道具はない……というか、現在うちの商会で開発中の段階だそうだ。
勿論これも、以前私が何げなく『こういうのあるといいのに』という呟きを拾ったメルクールの発案である。
ゴローエンドのヒロインは、彼と結婚した後『この世界を楽しくする』をライフワークに、2人で世界を旅してまわる生活になってた筈だけど、この時空でもしマリエルがメルクールを射止めていたなら、欲しいものや必要なものを全て与えて、逆におうちから一歩も出なくていいくらいのレベルにまで囲い込むのかもしれない。
将来メルクールのお嫁さんになる人は、性格によってはその愛の重さに苦労しそうだ。
……まあ、そんな事は今はいいか。
「では本日はこちらでお休みになってくださいませ、バアル様。」
メイドから指示された客間のドアの前でそこを示すと、バアル様が軽く頭を下げた。
「かたじけない。……ヴァーナ殿。」
「はい?」
そのまま一礼して去ろうとしたら名を呼ばれ、反射的に高い位置にあるその顔を見上げる。
「……貴女はこれから、己が望む望まずを問わず、嫌でも『聖女』として注目を集める事になる。
不自由に思うことも多々あろうかと存じます。」
「………バアル様?」
その焦げ茶色の瞳が、ひどく真剣な色を帯びていて、先ほど肩に触れた手の温もりを不意に思い出し、今更ドキリとした。
「幸いにして、というべきかは判らないが、私にも経験のあること。
どこまで力になれるかは判りませぬが、叶う限り貴女の心に添いたく思います。
……もし何か困ったことがあるようならば、誰よりも先に、どうぞ私を頼って下さい。」
……そうだった。
『英雄バアル』は、他者視点から見れば明らかに自己評価が低い。
それは肝心な時に王子を守れなかった自責の念もあるが、それとは別に自身が『英雄』と呼ばれる事に納得していないという理由もあった。
故に、ゲームでは一躍『託宣の勇者』として国の運命を背負わされたファルコに、かつての自分を重ねて協力を願い出る。
…それが今回は、『聖女』などと大層な二つ名を付けられた私になったということか。ならば。
「……ならばひとつ、お願いがあるのです。バアル様。」
あちらから言ってくれたのを幸いと私が切り出すと、バアル様は一瞬だけ目を瞠いた。
「早速頼っていただけるのは嬉しい限り。
して、それはどのような?」
が、すぐに余裕の笑みを唇に浮かべ、問い返してくる。
若干心臓にくるのを必死に抑えて、私は一旦深呼吸をしてから、バアル様の瞳を見返して、言った。
「バアル様が騎士教官の職務に入るのは、明日からとうかがいました。
その授業に、うちのファルコを混ぜて欲しいのです。」
…私も明日から神殿の業務に戻る。
そして勇者育成期間もそこからスタートする。
ゲームの流れでは、本格的な育成が始まって最初の時期、協力者が全員揃わないうちは、『ファルコの近衛騎士』であるバアルの教えを必ず受ける事になる。
状況に多少のズレはあるが、現段階でこれがベストの筈だ。
「ファルコ殿を?」
「はい。まだ大々的に公表する段階ではありませんが、御存知の通り彼は、大神官様が『救国の勇者となる』と託宣を受けた者。
神殿の中だけで教育するのも限界があります。」
…ディーナの家庭教師の時間に、一緒に勉強させて貰っている間、ファルコの教育をどう進めていくか、私なりに真剣に考えていた。
ゲームならばカーソルを当ててボタンで選択すれば良かったが、これは現実だからそれでは済まない。
リセットも効かない現実に、失敗は許されないのだから。
「いっそ父に後見させて、王立学院に入れることも考えましたが、あの子は聡い子ですがまだまだ世間を知りませんので、いきなり知らない人間しか居ない中に放り込むのは、ハードルが高いかと思うのです。
バアル様にお任せできるのであれば、これ以上の教育環境は他にないかと思いまして。」
託宣が与えられた以上、ファルコの育成はこの世界に与えられた使命と言っていい。
ゲームの攻略対象は即ちその協力者達でもある。
だが実際にはだいたい私のせいで、ヒロインは勇者ブースターと共に早々にストーリー離脱して、更に、協力者がひとり王都を去っている。
しかも最初からの協力者は激しくポンコツ化して頼りになりそうにないし、その分うちの弟がゲームより明らかに有能になっているものの、ゴローの正体を知らなかったマリエルならまだしも、姉として彼が多忙である事を知っている私が、そう度々弟に協力を仰ぐわけにもいくまい。
いや本当に困ったときは頼るに決まってるけど!
つまり言い方は悪いが、ヒロインより明らかに手駒の少ないハードモードで、私はこの試練をクリアしなければならないのだ。
勇者ブースターであるアドラーの離脱がこうなると痛い。
バアル様が騎士教官となられたことは、多分この状況においては好都合の筈。
ゲームの育成パートならば、システム上の都合で一週間にひとつのカリキュラムしか選べないが、近衛騎士見習い達に混じって王宮の騎士養成教室で学ぶことができれば、一週間でひと通りの授業を受けることができる。
ちなみに神殿所属の神聖騎士団にはこういう制度はない。
ダリオが騎士団入りした時は国中から志願者を一斉募集した時だったので、近衛騎士団の制度を真似た養成教室が一時的に設けられていたそうだが現在はそれも行われておらず、2年に1人くらいの割合で入ってくる騎士見習いは、神官見習いと同じ修行をしながら、先輩騎士達に教えを乞う形になる。
今のファルコも大体は同じような感じで、王宮の騎士団に比べて神聖騎士団全体の規律が割とふわっとしてしまっているのはこのせいじゃないかと思ってる。
ファルコがあちらで勉強して騎士らしい品格を身につけていけば、こちらの騎士団も変わっていくかも…という思いもある。
私も、なし崩しに職務に忙殺されて婚期を逃したという気持ちはあるものの、娘時代から10年を過ごしてきた神殿に対して、まったく愛着がないわけではないのだ。
私がこの先、どれほどの時間をあそこに縛られる事になるかは知らないが、その間になんらかのいい影響を与えられればいい、くらいのことは思っている。
「勿論特別扱いは要りませんし、送り迎えも不要ですわ。
許可していただければ、毎日歩いて通わせます。
それも日々の修行のひとつですもの。
……駄目でしょうか?」
最初の2、3日は迷子にならないよう、誰かが同行しなければならないだろうが、ファルコは基本賢い子なので道はすぐに覚える筈。
というか、王宮奪還の時と王女婿の葬儀の時の2回、私と一緒に王宮へは行っているから、もう覚えてしまっているかもしれないし。
バアル様は私の話を黙って聞いていたが、私が話し終えたのを確認してから、ひとつ頷いて口を開いた。
「…それはむしろ、こちらから願いたき事です。
お会いしたのはあの時一度限りのことであったが、どこか懐かしい空気を、かの御仁から感じました故。」
…それは恐らく、ファルコの正体に起因するものだろう。
そういった気持ちを、バアルがファルコに抱いている描写はなかった筈だが、ゲーム時空においてのバアルの心理にも、このような感情があったのかもしれない。
「まして他ならぬ貴女の頼みなれば、このバアル・イルージオ、喜んでお引き受け致します。
改めて我が剣と忠誠を……」
「そういうのはいいですありがとうございます!
それではおやすみなさいバアル様!!」
「我が愛しの女神、良い夢を。」
ただでさえ心臓にくる声が甘い言葉を紡ぐのをこれ以上聞いていられず、私は一礼してその場を、逃げるように立ち去った。
背中から渋い忍び笑いが聞こえたのは、気のせいという事にしておく。
またタイミングよく、客間の用意が整ったとメイドが呼びにきて、
「じゃあ、ついでだからヴァーナが、バアル様を御案内して差し上げて。
バアル様、本日はありがとうございました。」
と父が深夜のお茶会の終了を告げたのも手伝って。
急なこととはいえ一晩休むだけの支度にこんなに時間がかかったのは、客間のひとつひとつにバスタブと浴室がついていて、お湯をためるのに時間が必要だったからだ。
うちは平民ではあっても一応大商人のおうちなので使用人の質はたいそう良く、普段使っていない部屋だからとて、普段からの掃除を怠るなんてことはあり得ないのだ。えへん。
ちなみに前世でいうシャワー的な魔道具はない……というか、現在うちの商会で開発中の段階だそうだ。
勿論これも、以前私が何げなく『こういうのあるといいのに』という呟きを拾ったメルクールの発案である。
ゴローエンドのヒロインは、彼と結婚した後『この世界を楽しくする』をライフワークに、2人で世界を旅してまわる生活になってた筈だけど、この時空でもしマリエルがメルクールを射止めていたなら、欲しいものや必要なものを全て与えて、逆におうちから一歩も出なくていいくらいのレベルにまで囲い込むのかもしれない。
将来メルクールのお嫁さんになる人は、性格によってはその愛の重さに苦労しそうだ。
……まあ、そんな事は今はいいか。
「では本日はこちらでお休みになってくださいませ、バアル様。」
メイドから指示された客間のドアの前でそこを示すと、バアル様が軽く頭を下げた。
「かたじけない。……ヴァーナ殿。」
「はい?」
そのまま一礼して去ろうとしたら名を呼ばれ、反射的に高い位置にあるその顔を見上げる。
「……貴女はこれから、己が望む望まずを問わず、嫌でも『聖女』として注目を集める事になる。
不自由に思うことも多々あろうかと存じます。」
「………バアル様?」
その焦げ茶色の瞳が、ひどく真剣な色を帯びていて、先ほど肩に触れた手の温もりを不意に思い出し、今更ドキリとした。
「幸いにして、というべきかは判らないが、私にも経験のあること。
どこまで力になれるかは判りませぬが、叶う限り貴女の心に添いたく思います。
……もし何か困ったことがあるようならば、誰よりも先に、どうぞ私を頼って下さい。」
……そうだった。
『英雄バアル』は、他者視点から見れば明らかに自己評価が低い。
それは肝心な時に王子を守れなかった自責の念もあるが、それとは別に自身が『英雄』と呼ばれる事に納得していないという理由もあった。
故に、ゲームでは一躍『託宣の勇者』として国の運命を背負わされたファルコに、かつての自分を重ねて協力を願い出る。
…それが今回は、『聖女』などと大層な二つ名を付けられた私になったということか。ならば。
「……ならばひとつ、お願いがあるのです。バアル様。」
あちらから言ってくれたのを幸いと私が切り出すと、バアル様は一瞬だけ目を瞠いた。
「早速頼っていただけるのは嬉しい限り。
して、それはどのような?」
が、すぐに余裕の笑みを唇に浮かべ、問い返してくる。
若干心臓にくるのを必死に抑えて、私は一旦深呼吸をしてから、バアル様の瞳を見返して、言った。
「バアル様が騎士教官の職務に入るのは、明日からとうかがいました。
その授業に、うちのファルコを混ぜて欲しいのです。」
…私も明日から神殿の業務に戻る。
そして勇者育成期間もそこからスタートする。
ゲームの流れでは、本格的な育成が始まって最初の時期、協力者が全員揃わないうちは、『ファルコの近衛騎士』であるバアルの教えを必ず受ける事になる。
状況に多少のズレはあるが、現段階でこれがベストの筈だ。
「ファルコ殿を?」
「はい。まだ大々的に公表する段階ではありませんが、御存知の通り彼は、大神官様が『救国の勇者となる』と託宣を受けた者。
神殿の中だけで教育するのも限界があります。」
…ディーナの家庭教師の時間に、一緒に勉強させて貰っている間、ファルコの教育をどう進めていくか、私なりに真剣に考えていた。
ゲームならばカーソルを当ててボタンで選択すれば良かったが、これは現実だからそれでは済まない。
リセットも効かない現実に、失敗は許されないのだから。
「いっそ父に後見させて、王立学院に入れることも考えましたが、あの子は聡い子ですがまだまだ世間を知りませんので、いきなり知らない人間しか居ない中に放り込むのは、ハードルが高いかと思うのです。
バアル様にお任せできるのであれば、これ以上の教育環境は他にないかと思いまして。」
託宣が与えられた以上、ファルコの育成はこの世界に与えられた使命と言っていい。
ゲームの攻略対象は即ちその協力者達でもある。
だが実際にはだいたい私のせいで、ヒロインは勇者ブースターと共に早々にストーリー離脱して、更に、協力者がひとり王都を去っている。
しかも最初からの協力者は激しくポンコツ化して頼りになりそうにないし、その分うちの弟がゲームより明らかに有能になっているものの、ゴローの正体を知らなかったマリエルならまだしも、姉として彼が多忙である事を知っている私が、そう度々弟に協力を仰ぐわけにもいくまい。
いや本当に困ったときは頼るに決まってるけど!
つまり言い方は悪いが、ヒロインより明らかに手駒の少ないハードモードで、私はこの試練をクリアしなければならないのだ。
勇者ブースターであるアドラーの離脱がこうなると痛い。
バアル様が騎士教官となられたことは、多分この状況においては好都合の筈。
ゲームの育成パートならば、システム上の都合で一週間にひとつのカリキュラムしか選べないが、近衛騎士見習い達に混じって王宮の騎士養成教室で学ぶことができれば、一週間でひと通りの授業を受けることができる。
ちなみに神殿所属の神聖騎士団にはこういう制度はない。
ダリオが騎士団入りした時は国中から志願者を一斉募集した時だったので、近衛騎士団の制度を真似た養成教室が一時的に設けられていたそうだが現在はそれも行われておらず、2年に1人くらいの割合で入ってくる騎士見習いは、神官見習いと同じ修行をしながら、先輩騎士達に教えを乞う形になる。
今のファルコも大体は同じような感じで、王宮の騎士団に比べて神聖騎士団全体の規律が割とふわっとしてしまっているのはこのせいじゃないかと思ってる。
ファルコがあちらで勉強して騎士らしい品格を身につけていけば、こちらの騎士団も変わっていくかも…という思いもある。
私も、なし崩しに職務に忙殺されて婚期を逃したという気持ちはあるものの、娘時代から10年を過ごしてきた神殿に対して、まったく愛着がないわけではないのだ。
私がこの先、どれほどの時間をあそこに縛られる事になるかは知らないが、その間になんらかのいい影響を与えられればいい、くらいのことは思っている。
「勿論特別扱いは要りませんし、送り迎えも不要ですわ。
許可していただければ、毎日歩いて通わせます。
それも日々の修行のひとつですもの。
……駄目でしょうか?」
最初の2、3日は迷子にならないよう、誰かが同行しなければならないだろうが、ファルコは基本賢い子なので道はすぐに覚える筈。
というか、王宮奪還の時と王女婿の葬儀の時の2回、私と一緒に王宮へは行っているから、もう覚えてしまっているかもしれないし。
バアル様は私の話を黙って聞いていたが、私が話し終えたのを確認してから、ひとつ頷いて口を開いた。
「…それはむしろ、こちらから願いたき事です。
お会いしたのはあの時一度限りのことであったが、どこか懐かしい空気を、かの御仁から感じました故。」
…それは恐らく、ファルコの正体に起因するものだろう。
そういった気持ちを、バアルがファルコに抱いている描写はなかった筈だが、ゲーム時空においてのバアルの心理にも、このような感情があったのかもしれない。
「まして他ならぬ貴女の頼みなれば、このバアル・イルージオ、喜んでお引き受け致します。
改めて我が剣と忠誠を……」
「そういうのはいいですありがとうございます!
それではおやすみなさいバアル様!!」
「我が愛しの女神、良い夢を。」
ただでさえ心臓にくる声が甘い言葉を紡ぐのをこれ以上聞いていられず、私は一礼してその場を、逃げるように立ち去った。
背中から渋い忍び笑いが聞こえたのは、気のせいという事にしておく。
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