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第四章その7 ~急転直下!~ 始まりの高千穂研究所編

干し飯(いい)と初恋

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 ここは潮が満ちる……そう言うと、若者はカノンを抱き上げた。

「ふわっ……!?」

 一瞬、変な声が出た。何かを持ち上げるのは慣れていても、持ち上げられるのは不慣れである。

 やたら戸惑うカノンだったが、彼はそのまま数メートルだけ移動して、海辺の社のへりに降ろした。

 社はかなり古びており、阿奈波神社あなばじんじゃと書いてある。今は不在のようだったが、かなり怖くて強い神のようで、霊圧で肌がちりちりした。

 カノンがおびえていると、若者は安心させるように言った。

「……そう怖がるな。そなたに生きて欲しいだけだ」

 彼はカノンの背の矢を抜くと、布を押し当て、背から脇の下を回して巻いた。

 破邪の矢さえ抜けば、傷はすぐ塞がるのだったが、カノンは黙って従った。なんとなく、彼に世話されるのが嫌でなかったからだ。

 ……というか、むしろ触れられていたい。

 男の手の平は、冷え切った肌には驚く程熱く感じた。

 やがて彼は袋を寄越よこす。巾着のようなその中には、干しいいが入っていた。

 炊いた米を洗い、ほぐして干し乾かしたもので、人が戦の時に食うものだという……が、この男のものは少し変わっていて、米をまとめて薄く固め、少し焦がして香ばしくしてあった。

 要するに、バラバラで食べにくい干しいいを、片手で食べられるよう固めたのだろう。のちの世でいえば、小ぶりな煎餅せんべいぐらいの大きさだ。

 手にした途端、急に腹が鳴った。

 里抜けしてから逃げ続け、走りながら掴んだあけびの実しか食っていなかったからだ。

 ぶるぶると震える手で、恐る恐る口に運ぶ。

 痛い!

 刺激で目が見開かれた。急激に唾液が出て、味覚で舌が突き刺されるようだった。

 でも痛みはすぐに渇望に変わった。

 香ばしいお焦げの匂いが口の中に溢れ、生きたい、という原初の願いが、身の内にあふれ出してくる。

 それから無我夢中で食べた。

 強い歯で噛み締め、咆えるように、うなるように飲み込む。まるで腹を空かせた野良犬のようだ。

 みっともないとは思ったが、胃のが、体が、食べる事をやめてくれない。

 全身が舌になったかと思えるような時間の果てに、カノンは口元を腕でぬぐった。

 喉が熱い。お腹が熱い。

 少ない血が胃に集まってしまい、くらくらと眩暈めまいがしてくるようだったが、カノンはほうけた顔で若者を見上げる。

 礼を言おうと思ったのに、恍惚こうこつとした食事の余韻よいんか、頭がうまく働かない。

「もっと食い物と……ころもがいるな。目をやるに困る」

 彼は水の入った竹筒を手渡しながら、少し赤い顔で目を逸らした。

 カノンは竹筒を受け取りつつ、彼を不思議そうに眺める。

 照れて……いる……? あたしの姿を見て……?

「……っ!」

 カノンは急に気恥ずかしさを覚え、慌てて股を閉じた。すそを手で引っ張って太腿ふとももを隠す。

 ひと心地ついてみれば本当に惨めな姿だ。薄汚れたボロ布を巻きつけただけで、肩も胸元も大きく覗いている。

(これを今まで見せてたのか?)

 生まれて初めて頬が赤くなったが、それと同時に、微かな誇らしさを感じた。

(……なんだ、そうだったんだ)

(私もそんなふうに見てもらえるのか……)

 馬鹿力だけだと思っていたけど、自分にも、ちゃんと魅力らしきものはあったのだ。

「物の怪殿、ここで待たれよ」

 彼がそう言って立ち去ると、カノンは大人しく待っていた。

 一度考え始めると、妄想はどんどん膨らんでいく。

(あの男、何て名前だろう)

(どこに住んでいるんだろう)

(もしかしたら……彼と恋仲になって、子を為す事もあるんだろうか)

(遠い昔に、一族の誰かが人の娘を嫁にした事もあったらしい。じゃあ逆だって可能だよな?)

 そわそわと、しかし心が浮き立つような感覚を今でも覚えている。

 膝を抱え、顎を乗せ。独りでに笑みが浮かんでしまう口元を何度も直しながら。

 これが誰かを好きになるという事? これが人を愛するという事?

 楽しい、嬉しい。恥ずかしいけど……目の前の世界が輝きを増していく。

(人の世の事は知らないけど、頑張って働けばいい。体は丈夫だし、きっと何とかなるはずだ)

 ……でも、それは愚かな独りよがりだった。

 彼が連れてきた……というより、止めようとする彼を引きずってきた姫君を見た時、カノンは全てを悟ったのだ。

 その身を覆う清浄なる霊気は、明らかに自分とは違っていた。

(この子は光だ。天に祝福されてる)

(あたしは闇……忌み嫌われる物の怪だ……)

(どうしてこんなふうに生まれたんだろう……?)

 けれどひがむ事を許してくれる程、現実は甘く無かった。姫は気立ても良く、こちらの身を案じてくれたからだ。
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