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第一章その6 ~急展開!~ それぞれの恋の行方編

例えうまくいかなくても2

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 風は秋の気配に満ち満ちていた。海は静かに波の音を奏で、潮の香りがわずかに鼻をくすぐっている。

「……夜這いにしては、随分と遠出だな」

 振り返ると、そこには岩に腰かけた妙齢の女性が。つまり、今はうっすらと光を帯びた岩凪姫が佇んでいた。

 彼女は清酒の瓶を桶に浸し、赤い杯を手にしている。普段は厳しい眼差しも、今は眠る幼子をあやす母のように、優しい光をたたえていた。

「黒鷹よ。お前が夜毎に何をしているかは知っている。それをやめられないのも分かっている。が、お前が死ねば雪菜は誰が守るのだ?」

「……おっしゃる通りです」

 誠は素直に頷いた。意地を張る気力が残っていないせいかもしれない。

 誠は女神に向き直り、深々と頭を下げる。

「色々と助けていただいて、ありがとうございました」

「何、実際に動いたのはお前達だ。私や鶴が来る前から、頑張ってきたではないか」

「結果は、出ませんでしたけどね」

「生きていれば、そういう事もあるだろうさ。だがそれは未来に繋がる」

 女神はそう言って励ましてくれる。

「誰もが派手な成果を夢見る。あの明治の維新のようにな。だがな黒鷹、あの奇跡のような躍進は、この国の礎を築いた先人達があったればこそだ。技術も文化も教育も、維新の基礎は既にあった。例え成果が日の目を見ずとも、世のため人のためにより良いものを作り出し、受け継ぐ。そうした沢山の勇者がいなければ、世直しなど夢のまた夢。どんな聖者が現れても、疲れ果て、やがては倒れてしまうだろう」

「あの子も……ヒメ子もですか?」

「勿論だ。それについては……私も反省している」

 女神は遠い日の記憶をたどるように、彼方の海を見つめた。

「元々鶴は、私が戦国を終わらせるために遣わした神人。そのために、父様の社の一族である三島家を選んだ。700年霊気を高め続けた祭祀の一族に、私が選んだ無垢な魂を降ろしたのだから、霊力補正も反則チートクラスだ。私はこう見えて準備を怠らぬ女だからな」

「そ、そうですか」

 見かけによらない、と言っても怒られそうだし、見かけ通りだ、と言っても嫌味に聞こえそうなので、誠は曖昧に返事をした。

「そうして生まれた鶴の元気ぶりで、私は自分が正しかったのだと思った。天の審議に合格するため、一定期間、自力で試練を乗り越える必要はあったが、それを終えれば大名達をまとめさせ、戦国の世を終わらせようと考えていた。神の力は戦に使ってはいかんが、交渉事なら構わぬからな」

 女神はそこで言葉を切ると、しばらくの間黙っていた。

 誠はたまりかねて尋ねてしまう。

「それで、どうなったんです」

「何度かの大きな戦いがあったが、鶴達は力を合わせて乗り切った。そして、もうすぐ試練が終わるという時だ。前世のお前が命を落とした後、鶴は決死の覚悟で敵方に切り込み、ようやく敵を追い返した。そうしたら、勝利を喜ぶ味方をよそに……海に身を投げておった」

「あ、あの子が……?」

 誠は信じられなかった。

 いつも楽しそうに跳ね回っている鶴が、前世の自分を失った事で命を絶ったというのか。


 その瞬間、幾多の光景が誠の中を行き過ぎていく。前世の記憶が流星のように頭の中を駆け巡って、誠は思わずよろめいた。

 初めて幼い鶴と出会った時。

 弓の技を競い合った時。

 日に焼けて真っ黒になっていた誠に、黒鷹というあだ名をつけられた時。

 船から船へ飛び移り、御転婆三昧おてんばざんまいをする鶴を追いかけた時。

 落ち込む鶴に何も言えずに、ただ傍に立ち尽くしていた時。

 誠は戸惑いながら女神を見上げ、そして息を飲んだ。彼女は静かに涙を流していたからだ。

「……私は、何も分かってなかった。私が一番愚かだった。身勝手な考えであの子を生まれさせ、悲しみだけを与えてしまった。だからこそ、せめて今生は報われる戦いをさせてやりたいのだ」

 その表情には、ただ娘の幸せを祈る母のごとき願いがあった。

 何があっても動じることのなかった女神が、今はただ1人の少女のために涙しているのだ。

「お前があの雪菜を慕っているのは知っている。その思いを偽れとは言わぬ。ただ今生は、あの子と最後まで生き、一緒に戦っておくれ。それが私の心からの願いだ」

「………………僕には、自信がありません」

 誠は戸惑いながら女神に言った。

「大切な人1人すら守れないのに、どうして日本を取り戻す戦いで、あの子を守れるんでしょうか」

「……自信がないか。ならばよかろう」

 女神は杯を傾けて酒を飲み干すと、立ち上がり、厳しい語調で言い放つ。

「黒鷹よ。お前に本当のトラウマというものを教えてやる。どんなにあがいても這い上がれぬ心の闇を。底無しの絶望というものを見せてやろう」

 女神は右手に強力な霊気を纏わせると、瞬時に杯が火の粉を上げて消えた。
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