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1 再誕させられし者
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これは昔の話だ。人は、言葉を生み出した。人に語りかけようとして。最初はおそらくただ叫ぶ声だっただろう。おおい、はあい、ええいと。意味のない巨大な呼び声だ。巨大。今から思えば、とてつもなくその呼び声は、巨大だっただろう。恋人に呼ばれてみろ。子供にそうして慕われてみろ。目の前の親に、優しく呼ばれてみろ。人は、いつ、それらに名前を与え、考えられるようにしたのだろうか。あるいは、思考の論理構造に置いて、悩むことができるようになったか。
考えられる「言葉」になることで、それは黄金のように、不変の価値を持たせられる。叫ぶことが、叫ぶ瞬間から離れ、意味ある行いになってしまう。叫ぶことが、人と人とをつなぐ幸福であると同時に、祈りと、優しい災いにくぐられる。それは、人の命なのだ。それまでは命などどこにあっただろうか。人の意識のかぎりなく深い下に、目に見えない場所に、それはあって上を見上げていたことだと思う。人は叫び出した。その叫声が、地面の底にもあるような我々の姿に届いたのだ。光と、波が。今どこだろう。我々の体は、大木にも例えられるものだとすれば。芽は根をくぐる。幹は芽をくぐる。枝葉は幹を。花は枝葉を。我々はどこだ。どこにいる。今どこにいる。はるか下に望む我々の根幹はどこだ。自分の命が
そこから見上げている。
自分は誰だ。言葉とは何か。
しかし忘れてはならないのは、木は実をつけるということだ。それは眠りの中で、自分が芽を吹き幹を伸ばし、葉を生らせ、鳥をとまらせる夢を見る。どんな子供も、大人になった自分をそうして想像するように。時は止まる。どこかの時点で、忘れることが起こる。そうして殺人は生まれる。
しかし忘れてはならないのは、自分は実になるということだ。それがいつ生まれ、大地に根を下ろしたかは知らない。物事は芽から始まるのだ。まして全ての芽が育ち切り実になるとはかぎらない。命は当然のように一部を損なう。しかし実は落ちる。栄養をもらって、かぎりない、命のうたを、うたうべく。その土壌は全ての死骸。骨と皮なる、肉の世界。死は克服される。傲慢に世界は笑う。
自分は誰だ。言葉とは何か。
「イアリオ。そうなんだ。僕は色々と思い出してきたよ。どうやら死が近くなってきたらしい。君が出くわしたクロウルダ(神官)じゃあるまいし、霊界との交感なんて自分にはできそうにない気がするんだが。そうじゃないとは思うよ。過去の記憶となんか僕は交信ができない。もっと色々なことを思い出したんだ。それは多分過去の記憶というより今の記憶と言うべきだな。おそらくは、僕は正真正銘、思い出したんだ。」
「ある悲劇をね。」
エントランスホール 第一部
金色の草むらをかき分けて、その人は出てきた。胸に血を流している。いや、その濡れ方はその人から出たものではない。返り血は幾らかまだ鮮やかで、布に染まっている最中だといえた。でも、その人は何だか朗らかな態度ですすき野を抜けていった。その人は女性だ。まだうら若い。
突然だが、ユスフルという生き物を知っているかい?彼はね、誰にも見られたことがない生き物なんだが、偉大で、恐ろしいんだ。彼は麒麟よりも背が高くて、人獣とおぼしき姿を持っているということだ。つまり、神獣なんだろうね。まるで神様の遣いのようなものなんだ。それが、ある種を彼女に渡した。
草むらにいた彼女はね、赤子を抱いていたんだ。なんとね、その人は、赤ん坊に恋をしたんだ。そして、赤ん坊がまだ話すこともできないうちに、流行り病で死んでしまって、その人は恋人をなんとか生き返らせたく思ったんだ。そこへ、ユスフルは現れた。彼女はもらった種を噛み砕き死んだ愛する人に口移しで飲ませた。すると、種は力を発揮して、恋人の思いを叶えた。どういうことだと思う?おそらくあなたは、こう考えるんじゃないだろうか。種が、その人の思いを実現したと。その人の、考えていることを了承したと。ユスフルって何者だと思う?それはだね、固定化された思いと現実とをつなぐ言葉という厄介な存在なんだよ。いや、言葉の悪の側面というべきか。彼女はね、自分の思いを実現させた。しかしそのことに彼女は気づかなかった。たしか赤子は死んでいたはずだ。ということは、その血流は止まっているはずだ。彼女は返り血を浴びたはずだった。草むらから出ていく時にね。実はね、この世界には魔法があるんだよ。魔法は、あるルールというべきか、きびしい掟があった。それは失われたものを甦らせようとした時、失くし物の倍のものが失われるということだった。彼女はだから笑ったようだった。
さて、僕なんかより君の方がずっと僕の思い出したことをちゃんと物語にでき上がらせると思うな。それは、今の物語だから。
その女性は赤ん坊を抱えていました。今しがた、その手で殺害した二人の赤ん坊の血に染まった胸で。しかし赤子はきゃっきゃと笑って、その色に無頓着のようでした。女ははだしで、急いで現場を離れ、その赤子の親に、復活した子を手渡しました。その子の親は当然のように奇妙な目で女を見ました。なぜなら、彼らの息子はすでに埋葬されていて、骨になっているからでした。女は彼らに赤子をよく見るように言いました。ほら、この面差し、甲高い声色、そして何より、特徴的な足のかたち!深くくぼまった土踏まずは、愛らしくて何度もあなた方もさすったではないですか!両親はうなずきながらも鋭い寒気に襲われていました。彼らはある懸念を持ちました。それは、この世界にある魔法の仕組みで、一つの願いを叶えるには、それと同じ材料を二つ失うというものでした。彼らの社会はこの仕組みを忌まわしいものと捉え、原則的に魔法を使うことは禁止していました。
両親はその人に尋ねました。もしや、その子は、魔法によって甦らせてしまったのではないかと。女はうなずきました。女は社会のルールに従って檻に入れられてしまいました。その後十五年、外には出てはならないとされたのです。
甦らされた男の子は再び両親の手に戻り、その下で育てられました。彼は他の人には見られない特徴をいくつか持っていました。それは彼の両親にもないものでした。深い土踏まずは、確実に親の遺伝を継いでいるのに。まず、鼻先がないこと。それは成長するにつれて次第に丸まっていき、普通の人間のものではない形状になりました。そして、髪の色が定まってないこと。根元近くと先の方で、彼の頭髪は色が変わりました。しかも、その色は自然の人間の毛髪の取る色合いではなく、原色じみた赤、青、黄、動物や植物も使わないけばけばしい彩り、不透明な発色をすることがありました。さらに、声。彼の声は何かが人間を真似ているような声で、しばしばその発声は、動物も聞き取れないものになりました。彼の言葉はつぎはぎになることがよくあり、聞き手はよく注意して会話の文脈を把握できなければ、彼とのやり取りは不可能になるのでした。人間が魔法によって復活すると、このように元の人のかたちをとどめた何者かになる、というのは、彼によって発見されたことではなく、いくつか事例がありました。だから両親はその社会の中で彼をよく育てることができたのです。両親は彼になぜあなたが他の子供とは違い、特徴的な外観を様々に持っているか、彼の十五歳の誕生日の日に彼に言いました。しかし彼が誰に復活させられたか、それは教えませんでした。その張本人である女は牢獄の中で殺されていました。女は牢屋にいながら、十五年の刑期の後彼女の恋人に会うことを楽しみにしていましたが。彼女を殺したのは、両親ではありませんでした。魔法について激しい嫌悪感を持つ者でもなく、彼女は、彼のように誰かに蘇生させられた、人間のような特徴を持っていない者に命を奪われたのです。つまり、彼女を殺した者は、その人物と同じように他者に無理矢理生を再開させられた、彼を迎えに来たのです。
……ここまで書いた内容を、イアリオはテオルドに送りました。不思議なことに、彼女は勝手に筆が進み、テオルドが語った話の続きをつづることができたのです。そして、そうしているうちに、彼女にもテオルドの思い出したといったことが、目の前に現れて知覚できるようになりました。そう、彼女が、彼女の聞いたことがない幼馴染のピロットのあらましをつづることができた時のように。
そうだ。まったく君の書いたように、僕は思い出しているよ。僕がこの続きを書いてみよう。しかしその女を殺したように命じたのは他でもない、その女に命を再現されたあの子供だった。彼は、自分が誕生した事実を知っていたんだ。その前に、彼は何度か彼を迎えに来た人に出会っているんだがね。その人によって、彼が十五の誕生日に知るべきだったことを、ある程度は教えられていたんだ。彼を迎えに来たのは女だった。壮年期も過ぎたような、皺の寄ったおばあさんだった。しかしその皺は変な所にあった。彼女は顔面が逆転していて、額に口が、あごに目がついていて、鼻は上下さかさまだったんだ。その目が動いて顎元に皺ができて、その口が開いたり閉じたりして額に波が乗るんだ。いかにも恐ろしい風貌だったんだけど、その女は善行をしていたから、どの人間も彼女に親しかった。まして復活の魔法をその人が受けたということは誰もが知っていたからね。しかし困ったことに、彼女は少年から彼を慕う女を殺してほしいと頼まれる。そして自分を迎えに来てほしいと求められる。その女にそんな気はなかった。彼に頼まれた時はね。魔法はその世界において一部の地域に認められる現象だった。おや?僕も大分筆がのってきたよ。気付かないうちに、君の物の書き方に影響されたかもしれないな。魔法はね、その世界において、まるで効果のある範囲を持つ、社会的な理屈のようなものだったんだ。僕らの町だけに当てはまるルール、大国が実際周囲の国に押しつけようとするルール、みたいなね。だから、つまりは人間のいる所だけに広げられる力で、人がいない場所にはまったく届かないあまり支配力のない力だった。どうしてそんな力がその世界にはあったと思う?僕はそんなことも思い出してきたんだ。
人の声には、不思議な力がある。それは、どんな動物の出すものより、誰かを思い通りに動かそうとする働きがある。それは、例えば意味を形成した。つまり、言語だ。言語は論理的な構造を持ち、世界が把握し易くなった。ところが皆この現象にはじめのうちは巨大な怖さを抱いた。いいかい?言葉は人の論理思考にしか働かない。つまり、自然の何か思い通りにしたい現象には力を及ぼさないんだ。当然だ。それは波だからね。ただの音であり、音は、不思議にも僕たちに互いの考えていることを伝え合う。それは、人間にもたらされた恩寵と言っても過言ではない。
その音は我々に幾世代にも伝わる大切な知を担わせた。
それは互いに協力し合い、我らの周りにあるものたちを征服する手伝いをした。
我々の世界というものは自然の克服にあった。どれだけの命と営みを彼らから私たちは奪っただろうか。しかしそれは、言葉が介入することで成功したんだよ。それでね、これが大切なことなんだ。自然は、我々に介入をはじめた。それまではどうだっただろう。我々には周りはきっと我々に敵対するもの、我々を滅ぼそうとする者にでも見えていたんだろうか。いいやつまり、言葉だ。僕たち人間は、僕たちの使う言語を、僕たちの周りも使うように思えたんだ。
魔法はこの時にできました。はじめ、その力は人は意識できませんでした。もやもやとしたものが周りにまとわりつき、それが自分に囁きかけるよう感じたのは、彼らが言葉を用いてものに名を付けられるようになってからです。つまり、植物なり動物なり、種類の違うものに目を留め、それを呼ぶようになったのです。ただし、名を付けられるようになる前に彼らはもう名前のようなものを幾分かの存在に所属させていましたが。父親や、母親や、自分の子供たちを呼ぶ時に、彼らの声はあるパターンを持っていたのです。友人、親族、あるいは隣の部族、食事の仕度ができた時、獲物を見つけた時、追い込め追い込めと呼ぶ時、毒のある植物を見かけた時、その毒の危険性を、子供たちに教える時なども。彼らの原始的なものの言い方はおそらく子音と母音のはっきりとしない、未熟な呟きだということはできません。多分物凄くはっきりとした言い回しをしていたのだと思います。はっきりとした言い回しは、多分、その声の持ち主にその声の発音というものを強く意識させたでしょう。彼らは言葉をつなげてみました。すると
「父さん 母さん お兄ちゃん お姉ちゃん
妹 弟 僕たち みんな
ヤナギ シダ 湖 カモメ
ごはんが できたよ あっちは あぶない
じいちゃん 死んだ 僕たち かなしい
赤ちゃん 生まれた お祝い しよう 」
見えるでしょうか。単純な、単語ばかりを、つなげた、私たちを凌駕する圧倒的な世界が。それは身の回りにあるものがちゃんとそこにあることをうたっているのです。でき上がった詩は巨大に
彼らを包みました。
赤ん坊の時分に復活した少年はその力を嫌いました。彼はずっとこのうたごえを聴いていたようなのです。ユスフルはそのうたごえの主でした。つまり、魔法がそのうたごえを通して彼に力を及ぼしていたのです。魔法は、彼らにとってはいまだ未知の多い、扱おうとしてもたちまち危険に晒される業物でした。それはどんな知恵も同じことで、自然を扱うことそのものは、どんなしっぺ返しももらうということでした。人が自然に敬意を表すようになったのは、自分が、自然を扱えるようになったと自覚を始めてからでした。ユスフルはその敬意を拒みます。それは悪の業物だからです。
お話がややずれてしまったね。魔法のことなんて僕たちもほとんど分からないさ。それは、ほとんどもうないんだから。ほとんど、と言ったのはね、僕たちを支配したあの存在、人間の悪意の塊が、もしかしたらそれでできていたのではないかと考えているからだよ。それは、僕たちの前の世の残した思いの残滓だった。気持ちの悪いことにそれは自分たちの思いを叶えようとして合体して、巨大になった。もしかしたらそれが正しい力を発揮したことはあっただろう。しかし、それが彼方に用意したのは互いの体がつなげられて、元に戻れなくなったということだった。世界は残酷で、なぜ自らが願った思いの呪縛に囚われなくてはならないのか、それは、ようやく人間が時間をかけて気づき出せたことだろう。それは、辻褄の合わない、冷徹な現実にも適用される。お互いがその思いに囚われているからだ。互いに理解できなくなる。はじめ、声の音楽は、互いの意志を確かめ合うものだったのに。もしかして、その時できた人とつながり合う体験が、今もこの現在に反響していて、それを取り戻すのに必死になっているかもしれない。誰かの責任になすりつける、ということは、自分の責任ではない、と考えることだからね。人は選んで脆くなったんだ。
人は、愚かだ、と反省しても何にもならない。それは、まだ正しく反省していないんだよ。どうして人はそんなお人よしな力に、あるいは、願って願ってやまないことをまだこれでもかというほど願おうとするのかということに、拘るのか、それをよくよく考えてみなくてはならない。つまり、これから我々が語る物語は、あの存在がなぜ生まれたのか、それを書いていく作業なんだ。
分かったかい?
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その少年は、生まれた時から何かの言葉を聴いていました。その音は、勝手に耳に入り、彼を非常に悩ませました。その音はいびつで彼は聴きたくなかったのです。彼の顔立ちは鼻が丸く、髪は色とりどりで、声は飛びやすく聞き取りづらいものでした。彼は泣いたことがありません。泣くほどの感情を持ったことがなかったのです。それだけの悔しさと悲哀に恵まれなかったのです。彼は喜びのまま育ち、喜びのまま十五の年月を数えていました。彼が、牢屋につながれた彼を復活させた者について知ったのは、八つの時でしたが、どうもぽろっと漏れた彼についての噂話を、単純に面白おかしい道化の話として聞いたのでした。それは、彼を誕生したばかりの時から熱愛した者がいるという話で、それは真実なのですが、いかにもありえないことだとして罵倒に近い嘲りを話し手はくらわせたのです。それを聞いて、彼は非常に興味をそそられました。わざわざ牢屋に出向いて、その女性の様子を窺ったくらいです。そうしてそれは真実だと分かると、彼は混乱や憤怒よりも、その人に対して先の話し手が持ったような嘲りや笑い者にする気持ちに浸かったのです。彼は、その女の刑期が十五年だと知ると、その時にどのような目に遭わせてやろうかと、ずっと考えていました。彼は、彼の生まれた村から出たことはありません。だから彼の人とは違う特徴は、あまり意識しませんでした。そんな彼の元に、彼のように、他者に死から生き返らせられた者が訪ねてきました。それは彼の母親のたっての頼みでした。息子がどのような人生を送るべきか、その相談をしたいと願い出たのです。
彼とは違って、彼を訪ねた者たちは、様々な屈辱を世から受けていました。つまり、もし彼が村から出たら、彼らと同じような目に遭うかもしれないことを、まず彼に教える必要がありました。母親はいずれ彼が村から出て行くことを選択したなら、彼には相当幅の狭い道しか見つからないと信じていました。訪ね人たちは、そんなことはないよと彼に教え、どうするつもりかはゆっくり考え、もし我々の力が欲しければ、いつでも連絡してよいと告げました。後に、彼から来た手紙は、彼を十五の歳になった暁に迎えに来てほしいということと、あの牢屋の女を、どうしても殺してほしいということが書かれていました。彼を訪ねた人々は、彼が誰によって甦らされたかも彼の親から聞いていますから、そして少年にはその辺りの事実は生涯触れさせない誓いをしているのも知っていますから、さても少年のこの要望は、どこから出たものかと戦慄しました。ですがよくよく、その女を十五年の歳月閉じ込めた檻から出してしまった後を考えれば、彼にとって非常に不都合なことが起こりえると分かりました。それは、彼らも体験したことだったからです。少年を迎えに来ることになったのは、壮齢を過ぎた女でした。彼女は上下逆さまの顔を持ち、見るからに人目を引く容姿でしたが、決して人を脅かさず、周りに善行もしていました。彼女は非常に歌が上手く、その額に真横に開いた口を開けて、どんな歌も、歌うことができたのです。それだけで聴衆から金銭をもらい、不自由なく暮らすことができましたが、彼女は日銭をその日使う分を費やしたら、残りを必ず貧しい者に渡していたのです。
そんな彼女が少年の代わりに牢につながれた女を殺すことができたのは、彼女にとって、その殺人が初めてではないということと、彼女自身、彼女を再生せしめた者から非常な苦痛を味わわされたということがあったためでした。彼女のように再生された者たちは、自分の意志でそう願ったのではありません。都合よく彼女たちを復活させて喜んだのは、異常な執着を持った者たちでした。彼女は恋人に殺され、恋人によって復活せしめられていたのです。彼女から愛したその男は彼女のことを、嫌いました。それでも彼女は彼の傍に付き、彼の世話を何でもすることで、彼の思いを勝ち得ました。彼の方に邪まな心が働いたのは、彼の方から是非彼のものにしたいという女が現れてからでした。彼は異常なほど醜悪な容貌を好むことがありました。頬に傷痕が生々しく残っていたり、片腕を欠損していたり、頭髪の生えなかったり、あるいは不治の病に侵された人間を、彼は癒す手伝いをしていたのです。その彼がものにしたかった女は、あらゆる部分を削り取られ、手も足もない不具でした。しかも、それは生まれつきだというのです。彼は、その女に出会い、自らが一生をかけて世話をしなければ生きられない対象とやっと巡り合ったのです。彼女はやっと彼の性格を知りました。そして、その男のために、その男のためになる最大のことを、彼女は選択したのです。
腕と脚とを焼け焦がせ、絶命した彼女を、彼は愛撫しました。彼女からもらったものを、彼は心の中で反芻しました。そして、彼女と、彼が一目惚れした不具の女と、もう一人の彼の診た患者とを、横に並べました。その時、彼の後ろには、何者かがいました。その何者は彼に小さな種を渡し、彼は、それを口に含んで死んだ亡骸に接吻しました。彼女は生き返り、そのために、二つの命は死にました。
──自然と湧いたこの文章に至り、イアリオは悲鳴を上げました。しかし、どこか見覚えのあるそのあらましは、幼馴染で彼女が愛したピロットが、あの強烈な美貌を持つビトゥーシャという女と他大陸で為した、数々の悪とそんなに変わりがありませんでした。彼女は強い目でその文章を見つめました。当たり前のように、世界は自分の周りで佇み、優しく、彼女を包み込んでいることを感じました。
彼は彼女の再誕した特異な風貌を物凄く好きになりました。元の顔はそのままに、しかし上下逆転していたことに。これだけ欠けた容姿を持つ者を彼は見たことがありません。彼は、自分の願望が叶えられたと思い込みました。しかし、復活させられた者は、元の人の記憶と魂を持っています。彼女にとってその死と復活は彼女の思いを叶えたかというと、そうではありませんでした。彼女は一体何を自分は犠牲にしたのかとその後生涯を懸けて長い探求の旅へ出かけねばなりませんでした。もう彼女が捨てた命をもらい受ける誰かはいらなかったのです。なぜなら、彼女はこのような風貌になってしまっていたし、それは彼女を生まれ変わらさしめた巨大な執着を持った者が求めたものより、ずっとはるかに見るに耐えない容姿だったからです。彼女は彼に彼の執念のようないびつな愛で保護されるより、息をするように外の世界を感じねばならないと思いました。彼女の命は、もし彼が望むようであるとすれば、彼の作ったとても狭い寝床に閉じ込められて、その愛玩物になるよりほかなく、それがかつて自分が望んだことだったと分かれば、彼のためにこのような姿になったのだと考えて矛盾はありません。彼女は、この冷酷な決断を自分がしたということに、何か、異様な世界の摂理があるように思いました。
彼女はその時夫となった人を殺しました。それは、誰もが納得する殺しでした。魔法は彼女がいる社会では忌み嫌われていたのです。彼女は全てを打ち明け、彼が魔法を使った罪に問われる裁判でも、自分が犯した過ちをただただ吐露し、聴衆の理解を勝ち取るほど誠実に尽くしました。彼女は、万人に許され、自由を得、一人の歌手として、巣立っていくのです。
ゆっくりと、その彼女は少年を甦らせた女に近づいていきました。牢屋は、その時誰も見張っていませんでした。女に呼びかけ、女に少年から伝えられた要望を教えました。女はさもありなんと頷きました。
「あなたは少年に殺されてもかまわないと思っている。」
再び生を受けた彼女は言いました。
「それでいてなんだか淋しい表情も浮かべている。もっといい方法はなかっただろうかと、そう思いを巡らしている。けれどね、あの男の子は、随分もう人生が満ちてしまっているわ。あの子は何も選べないの。あなたがそうしたから。あなたはあの子を虜にした。生まれ変わらせることで、その生の選択をすっかり奪った。
あなたはその反省をしていない。」
彼女はその女を殺す前に、幾度かその女に会っていました。歳月をかけても、その女に変わった様子はなく、彼女は途方に暮れました。放っておいてもあの子がこの女を殺しに来るだろうと思っていたのです。そして、それが正しいことのように思いました。なぜ、男の子は我々に彼の生を恣にした者の殺害を求めたのか、それは彼がまだ赤ん坊の頃に行われた儀式が生贄を求めるものだったためか、まだ彼が望みもしないうちに、死と生を取り違えさせた人間に対して、幾許の感情も抱けないから、ただただそれを願うのか。この少年においてどうするのが正しいことなのか、彼女は仲間の再誕させられた者たちに尋ね歩きました。そして
彼女は束を握っていました。彼女は自分のために女を殺すことをためらいませんでした。彼女は気づきませんでした。その殺人は、かつて彼女が犯した、彼女の慕った人間を殺害したものと一緒だったのです。
男の子は自由になりました。男の子はようやく村の外へ出て行くことができ、彼女と一緒に、冒険の旅へ向かうことになるのです。彼女はまず本人が意図しない魔法の効果で意にそぐわない人生を強要された人々からなる、彼女の所属するグループに彼を連れていくことにしましたが、男の子は道中でその行方を眩ませてしまいました。彼はあまり誰かについていくということを好ましく思わなく、彼は母親にも言ったことですが、誰かに保護されたまま日常を送ることになるのはもうやめたいと思っていました。彼は魔法の及ばない地域へ行くことを望みましたが、どうすればそれが可能となるのか、分かりませんでした。老齢を前にした連れの女性から彼は自分を煙に巻いたのですが、ほどなくして彼女に見つかってしまいました。彼はその時この女性をはじめて怖いと認識しました。彼女はその時魔法を使っていました。彼を探すための魔法です。
彼は大人しく彼女に連れられていきました。顔面の逆転した彼女はグループの面々に彼を紹介し、彼の行く末を、じっくりとここで見定めていこうと話しました。しかし彼はここに連れて来られる間にもう決めたことがありました。魔法を学ぶ。どうやらそれを自分で操れなければ魔法の力の及ぶことのない場所へは辿り着けないだろうと考えたからです。少年はグループの面々に魔法の指導を仰ぎました。ですがそこにはその師匠となれるべき立場の人はいませんでした。魔法は
かの土地では誰もが使えるものだったのです。そして、その使用は罰を伴うものでした。二つの願いが合わさり、それが一つとなる時、魔法は実現されました。彼はすでにその使用方法をよく教わっていました。魔法の指南は成人(十五歳)を手前にした子供たちが皆受ける必要のある教育でした。彼らは自分の思わぬところでそれを使ってしまう場合があったからです。当然、その場合の事故は、枚挙にいとまがなく……彼らはその悲劇に囲まれていました。
大事な約束事……それは同じことを同時に二人で願わない。あるいは願いというものを極力持たないようにする。それはいつどこで実現されるか分からないということを、よく覚えておく。その願いの定義というのは、今実現できていないことを、今起こそうとすること。もしくは、実現が不可能に見えることを、実現しなければならないと思うこと。
少年はどうやってこの呪わしい魔法の呪縛のかかった土地から抜け出そうかと考えていたはずでしたが、今度はその力が、本当にあるものか試したく思いました。少年は頼みました。かぎりなく小さな願いでいいから、その力が使われるところを目の前にしたいと。しかし、魔法への脅威と飛び抜けた観察眼を持っているグループの面々は彼にそれを許しませんでした。彼はどうしても力を使いたくなりました。
彼に使う機会が訪れました。彼はある人物を消滅したく思いました。彼を保護した、老年期に差し掛かる彼女です。彼はそれを願いました。しかし願いは実現しませんでした。彼は肝心なことを忘れていました。どうして自分が、赤ん坊の時分復活したか。得難いものを得るために、彼のことを熱愛した女は何を犠牲に捧げたか。彼は自分が保護者たる彼女と共に彼自身の生き方を見つけ出す旅をやめにしようとしました。それこそ得難いものだったからです。彼は再び彼女から姿をくらましました。
今度は成功しました。なぜなら彼は肉体を抜けて霊になったからです。彼の肉体は死に、彼の霊魂はそこに留まることに成功しました。彼は再び自由になりました。彼はその姿で魔法の届かない場所の縁まで行くことができました。そこで彼は彼の棲む世界がいかに不愉快で忌まわしい力に乗っ取られているかを知りました。人の想いがその周りを取り囲んでいたのです。彼は出ていけませんでした。そこにあるのは人の想いでした。人間の霊はそこにありませんでした。想いが留まり、執着していたのです。
彼は諦めて戻りました。再度この土地から出て行く手段を考えねばならなくなったのです。しかし、彼は幽霊のままだと何者とも話せなくなりました。元々聞きづらい彼の声は人にもっとよく聞こえなくなりましたが、彼にはまだ、魔法がありました。彼は今度は元の姿に戻りたいと願ったのです。
その時一つの村が消えました。百人ほどの人々は、皆、砂塵と化して見えなくなりました。
その後彼の元を訪れる者がいました。三人の年寄りで、それぞれ、一律の預言を持って現れました。はるか南の大陸に、魔法を極めた者がいる。その者を訪ねよ。彼は信じました。いつか、必ず魔法の力に満ちたこの場所を出ていくのを。
南の大陸といえば、そこはもう彼らのいる土地の魔法のかからない場所でした。彼は自分の意思で魔法を使ってしまったことを彼が保護されたグループに詫び、三人の老人に言われたことを叶えたいと彼らに援助を請いました。少年の態度に危険を感じた面々は、彼を南へ送り出すことに全員が同意しました。中でも上下逆さまの顔のあの女性は、いたくその結論に頷き、一刻も早く少年を導かねばならないとする焦燥に駆られました。彼らは、その女性も含め三人を付き添いに選んで、少年を預言の地へ連れて行こうとしました。ところで、グループの面々は全員その一員である証の指輪を嵌めていました。エナメル(釉薬)で塗布された陶製のもので、それを小指に収めていたのです。少年はなんとなくその指輪を嵌めるのを嫌っていましたので、ポケットにはもらったそれを忍ばせているものの、一度も嵌めたことはありませんでした。さて、彼に新たに同行しようと申し出たのは二十代の女と、三十代半ばの男でした。女はきちんとした服装で身持ちの堅そうな雰囲気でしたが、それは衣服の中の豊満な身体を隠すためでした。彼女は淑女の成りをして、人をかどわかす本物の詐欺師でした。それというのも、まだ幼い頃、彼女は両親の元で強制労働の役務を被っており、その末に働けなくなった肉体を、無理矢理に魔法で繕わせられた過去を持っていたのです。彼女はひどく傷つき、逃げてグループに保護されたのですが、グループという家族以外、信用はできなくなりました。もう一人の男は、身体中に入れ墨を施した大男で、彼は性器を切られていました。彼は同性愛者で恋人にそれを要求されたのです。彼はあらゆる所で荷役を勤めており、その態度は勤勉そのものでした。頭も良い彼は博学で、色々な土地を見知っていました。ですが彼に施された魔法は、過酷なものでした。彼は、生涯水を飲むことができなくなったのです。渇きをなくすには、食べ物から得るもので調整するしかなく、乾いたものを食べると彼は死にました。その皮膚はかさかさで、ぼろぼろと脆く、かゆみは絶えず彼を責め苛みました。彼は誰にこの魔法を掛けられたか、分かりませんでしたが、少なくとも彼以外に複数同じ症状の人間はいましたので、その病は誰に掛けられたかというよりも、誰かの魔法によって必然的に生じた犠牲の現象だと思われました。もしかしたら、その魔法はどこかへ多大な潤いをもたらそうとして、その倍の交換物として、複数人が水を受けつけぬ被害を被ったかもしれません。
その彼はもう一人の魔法の犠牲者と共にグループに入りました。彼は人に奉仕する心を持った善人でした。
──イアリオはまだ登場人物たちの名が出ていく文章の中で明らかにされないことをもどかしく思いました。しかしはたと思い当たることがありました。それは、テオルドが言った「今の記憶」と「過去の記憶」の差でした。彼女もたしかにテオルドの言う「今の記憶」でこの物語を進めている気がしました。そして、まだ、なぜかそれは、過去とも未来ともなっていないと感じました。そう感じて、彼女は訳が分からなくなりました。
少年はなぜ自分たちの住む土地から魔法が去らないのかを訊きました。それは、人がここを去らないからだと誰かが言いました。どうしてとまた少年は訪ねました。人の夢は、人の夢を形づくる。そうして人は土地に住み着く。だからだと彼は言われました。少年と三人の付き添いは一路南の大陸を目指しましたが、その道中、魔法によって体の一部を奪われた人々や、荒廃した土地、昼間に無人になった集落などが、待ち構えていました。彼らは、人の営みを粛々と繰り返していながらも、不意に途方もない力を発揮する防げない奇跡と、いつも隣り合わせだということを、少年は三人に連れられながら判っていきました。やがて、地上にてその魔法の及ぶ範囲の際まで到達した時、少年はあれだけその土地から出ていきたかったのに、とてつもなくそこから去り難く思いました。彼は預言も無視しようかと考えました。
顔が上下逆の女がそれを否定しました。それは、少年がもういくつかの大魔法を使っていて、彼こそここから出ていかなければ、犠牲は尽きないと気づいていたためでした。少年は迷いました。少年は願いました。ここまで連れてきた三人を、どこか遠くへ飛ばしてくれないかと。その願いに魔法は応え、代わりに人々から遠くへ飛んでいってしまっていたものを、呼びました。それは少年のいる場所へ現れました。龍の頭、一角、牛の胴と尾と馬のひづめ、堅い鱗、そして五色の彩光に彩られた麒麟でした。麒麟は彼に上に乗れと言い、そのまま魔法の顕在する土地を出ていってしまいました。
「魔法は人に属する。」
麒麟は教えました。
「その魔法を扱う人間がいなければ、それは世界から消滅する。」
少年は麒麟の一角にしがみつきながら、それは違うと思いました。少年は、その魔法と一体になっている彼らの人の営みが、何もかも素晴らしく思えていたのです。魔法は、維持されるべき人の業でした。
ふと少年は、麒麟から世界にはどれだけ不死の者が存在しているか分かるかと訊かれました。彼は十五人ぐらい?と答えました。麒麟は全部、と言いました。
「肉体はその維持が敵わぬ。しかし肉を飛び出たものに対しては。それは再び願いを叶えよう。もう一度肉に戻ることが可能だ。そしてその時に生前の記憶を失う。記憶を持ちながら生まれ変わることのできる者も稀にはいよう。」
少年は驚きました。まさか自分が不死だったとは、思いもよらなかったのです。そして、それが魔法の本質であるとは、まだ気づきませんでした。
* * *
「魔法はおそらく人の願望を叶えるためにあるのではないんだね。現象としてはそうなんだろうけど、それが人の営みのすぐ横に寝そべっているものであるなら、僕が見られる記憶の内側には、同じことが幾度も繰り返されたからとある。つまり、単純に同じことが起こっただけで、それを彼らは魔法と呼んでいた。
気を付けなければならない。同じことが起こったということは、再び生まれてくることを言っているのではない。再び赤ん坊から生き始めたことを、現象の再現だとは言えない。」
「魔法の本質は、以前にもあった同じような現象を、ただ結びつけただけだったってこと?これが起きたのはこれが原因だったって、そう判断したということなの?つまり、因果関係はとても証明できるものではないけれど、それがあるように思ってしまった……。」
「言い換えればそうなるね。僕たちは、そんな力はオグ(人の悪意の集合した魔物)でもうこりごりだ。そんな因果関係を結びつける思考は、あの悪意の怪物が、他者に対してうそぶいたことなんだ。つまり……」
「オグが、彼らに世界を魔法と呼ばれる現象で満ちているように見せていた?もしかしたら、まだ、未分化のまま集合してもいない、当時から個人個人に潜んでいた悪の個体が?」
* * *
麒麟は少年を降ろしました。雪吹雪く山頂の頂きであり、とある小屋の前です。そこはなだらかな突端で、人はいません。彼は、空っぽの小屋の中に入りました。大勢の霊たちがそこにはいました。しかし彼の目には見えません。彼はここに魔法を極めた者がいると聞いていました。どこにもいないではないか、と彼は麒麟に尋ねましたが、麒麟は笑い、鱗を飛ばして、鱗の破片となって、かき消えました。彼は笑ってあげました。まさか誰もいないこの場所へ一人取り残されて、何もすることがないなんてあるはずがない、と。彼は首を捻じ曲げ、空っぽの世界を見つめました。ここには彼の住んだ土地にある魔法はないのだといいます。彼は、試しに自分が消えるように願いました。ぼうっと自分の手足が見えにくくなったことに気付きました。彼は、そこに自分の母親を喚ぶように願いました。すると、あたかもそこに母親がいるかのように、日常の仕事をするその姿が現れました。彼は訳が分からなくなりました。まだ魔法の効力はあったのです。彼は小屋から逃げ出しました。目の前が真っ白な雪の世界を掻き分け掻き分け、進んでいくと、小さな洞穴があって、そこに入りました。彼は、火を熾し、火に慰めをもらい、そこで一晩を過ごしました。起きてみると、空は晴れ、広大な雪原がそこから見下ろせました。彼は、そりでも何でもそこに現れろと願いましたが、何も現れませんでした。彼は小屋に戻ってみました。中に入ると、一人の少年がそこに立ち、彼を手招きしました。彼は恐ろしくてそこに行けませんでした。
「どうして恐れるのさ。」
少年は言いました。
「今まで散々君は魔法を使ってきたじゃないか!怖いものは、なくせばいいんじゃないの?そう願ってみてよ。そうしたら、僕は消えるから。」
彼はそう願いました。しかし、少年は消えませんでした。
「ふふっ願い方を間違えたね。消えるのは僕じゃなかった。」
彼は、自分が消えかけていくことに気付きました。両手が、両足が、昨日のようにだんだんと見えにくくなったのです。
「ここでは魔法は自分自身に効くんだよ。他人には決して効かないんだ。だからね……」
少年は陶器のコップを持ち上げ、彼の腕にそれが通過するのを見せました。
「はるかな代償も、自分が負わなければならない。」
ここでは魔法が働くような条件が整った場合、何を願っても、それは自分に返ってくるのだと彼はその少年に教えられました。もし、誰かに危害を加えたい時、人の物を盗みたい時、魔法が使われれば、自分が負傷を負うか、物を失うのです。
「君には見えないだろう。ここには大勢の霊がいる。彼らは……間違って自分そのものを失ってしまった人たちだ。どうやったら元に戻れるか、あるいは正しく死に向かえるか、ということを、僕に相談しに来ている。」
彼は、その霊を見たいと思いました。
彼が、霊になりました。
霊たちが、彼に目を向けました。
彼は、絶叫しました。
「おやおや、まだ話は途中だというのに。どうしようもないね。でも、たとえ霊になったからといって、その魔法が、使われなくなったわけではないよ?戻ることのできる人は戻れるんだ。」
少年は冷たい胡椒をその場に振り撒き、目を瞑って念じました。すると、気がついた時には彼は元の体に戻っていました。
「どうやらこうしてもまだ戻れない人たちがたくさんいるようだ。僕はこれからその原因を突き止めねばならない。君も来るかい?」
自分自身に魔法を掛ける呪いのかけられた土地を、こうして少年は少年についていきました。小屋で出会った少年は彼よりも少し幼く見えました。額が出ててとてつもない知恵がそこに詰まってそうでした。先導していく少年は道端のニワトリを指して、それがかつて人間だったと彼に教えましたが、彼はすぐには信じられませんでした。
「この土地は人間が様々な形に変化している。うかつに驚いてはいけないよ。切りがないから。」
少年は治療者としてあの小屋に住み、全国へ回るのだと言いました。
「人里を離れているのは、君も見たようにたくさんの幽霊が僕の下を訪問しに来るからなんだ。霊はそもそも、死んだら肉体から離れていくものだと誰もが考えているが、そうではない。死んで残るのが霊なんだ。死後の世界へ旅立てないのがそれなんだよ。それとは別に、まだ肉体的に死を迎えてないのにそれになってしまうという場合がある。そんな連中が、自分に魔法の掛かるこの土地では溢れている。しかし彼らはまだ元に戻れる可能性のある人たちだ。僕はその方法を知っているからあんなにたくさんの霊を受け入れてるんだが、勿論、それで全部の戻れる可能性のある人たちを戻しているわけではない。」
どのようにして少年は霊を戻しているのか、彼は訊きました。
「教えてあげよう。ここでは自分のみに魔法の力が働くと言ったね。だから、再度自分にその力を掛ければ、単純にいえば、元に戻れることになる。けれど、どうも幽霊になるということは特殊なことで、それでいてまだ元の肉体に還れるということは、その幽霊が、自分自身に魔法を掛け続けているということでもあるんだ。
もしかしたら自分の体がなければ人間は魔法を掛けられないのかもしれない。そう考えて、僕は彼らにこう願った。僕の体を通して彼らが元の姿に戻れるように。君は、いつのまにか自分の体に還れてびっくりしたみたいだけれど、僕が僕に魔法を掛けたおかげなんだよ。そしてこれが大切なことだが、我々は全員、魔法を得ずともそうしたことと同じような力を持っている。僕にはそれが判るんだ。」
* * *
「つまり……この少年は、あまり魔法があると信じていないんじゃないかしら?そうだとしたら、自分が、どうしてこのような力を持ってしまったか判るような気がするから。」
「そうだね。僕たちのオグも、まさしくそういう奴だった。あの悪の存在は全ての前提ではなくて、僕たちがつくり出してしまったように。」
「魔法も、もしかしたら、彼らにとってはいつのまにか自分たちを支配していた世界のルールだったのに、彼は、そうでないことに気づいてる?」
「そうだろうね。だって、その力を持つことは異常だもの。異常だということに、彼はよく気づいているんじゃないか?」
* * *
鼻の丸い少年は彼の言っていることがよく分からない気がしました。少年はあまり自分自身に魔法が効くということを、解っていなかったからかもしれません。自分に魔法が働くということは、自分がその力にいつ影響を受けたか分からないということなのです。彼は行く手に巨大な影を見つけました。それは、山のようにそそり立って、太陽を隠すほど大柄でしたが、人の姿をしていました。
「割とね、巨人になってしまった人はいるよ。どのような魔法を、あるいは願いを自分自身に掛けたかは知らないけれど、面白いことに、巨人になるとたちまち動きもゆっくりになる。彼らは何十年と経ってもまだ一つの動作すら行っていないのもいて、それだから、水も食べ物も摂らず今も生きているんだ。彼らは……別に、自分が小さく戻らなくていい、と思っているらしい。誰かよりもものすごくゆっくり生きたかったからかもしれない。」
そのような説明をされたとはいえ、彼はこの景色がとても異常だとは分かりました。こうしたことが、もしかしたらこの土地では普通のことかもしれませんが、何も、わざわざああなるように自分に魔法を掛ける必要があるはずもないのです。しかしそう考えれば、彼の生まれた、他人にのみ魔法を掛けられる土地でも、同じことだったかもしれません。他者と自分は、普通に付き合えるものなのに、そうして自ら破壊することはないのですが。
「苦しいな。」
と、彼は思いました。魔法は何のためにあるのだろう、とこの時彼は考えました。それは、完全に自分と他者を相互に分かり合えなくするものだと、彼は気づいたのです。
彼は少年についていって多くのものを見ました。手と足がつながっている男性は、この方が過ごしやすいと言いはばかり、どうしてそのような姿を願ったかと訊くと、大好きな相手に自分の足と手の形が気味悪いとなじられたからだと言いました。風船のように膨らんだ体つきの女性は、ぽよんぽよんと楽しげに地面を跳ねて動きました。彼女も、自分の容姿を醜悪になじられてそうなったのだと彼に少年が教えました。そのように、明らかに異常な形姿をした人々は目立つものの、目立つというだけで、特別悪いこともせずこの土地になじんでいました。大方の人間はまったく普通の容姿で、割と彼のいたこことは違う魔法の掛かった地域では人々は沈みがちな面貌を抱えていたのですが、自分に魔法の掛かってしまう所では、笑い声が絶えないような気がしました。
彼は、この土地ではどのように自らの急な変化を受け入れられるのかと少年に尋ねました。
「君たちの土地でも、おそらくは魔法は仕方のない不意の緒力だと捉えているだろう。ここでもだ。しかし君の土地と比べると、それは自分自身にしか発揮しないのだから、自分を害するとは何かということを、ここの人間はよく考えているのかもしれない。人は、自分も他人も害するものだがね、ここではまず自分を損なってしまうのだろう。そうした呪いが掛けられている。
仮に僕が君の生まれ育った土地に行っても、おそらくここでできているような治療はできない。僕は、自分を通して他者の苦しみを肯定することができる。その時、魔法は解けるんだが、他人に及んでしまった罪悪というものは、それを行った本人が解こうとしても解けないものだから。多分、君たちのいる場所に掛かってしまった魔法は、他人という存在を認めようとしているものだと僕は思う。治療者としての、僕からして見たらね。」
「嫌な予感がする。」
物語を書きながら、イアリオは独り言を言いました。
「でも結果を私は分かっている。あのオグが……あの姿になって現れたその理由が、もしかしたら、この呪いと向き合おうとなった過程にあるのだと思うわ。」
他人という存在を認めようとしている。その言葉を、彼は繰り返し思いました。彼は、自分がついている少年から、たくさんの治療の技を、覚えようとしました。彼らは涙を流す女性に出会いました。そのような症状であり、本人も、なぜ、涙が止まらないのか分からないと言います。その様子を見て、彼は、肉体の例えば毒による疾病と、魔法による病とに、区別がつかないものもあるのではないかと考えました。額の出た少年は、これは魔法によるものだろうと言いました。
「ということは、本人が自分に掛けた魔法の中身を忘れてしまっているということになる。そうした場合もこの土地にはある。」
額の出っ張った少年はその魔法の性質をつきとめようとしました。念じて、彼女に触れると、少年の髪の毛が逆立って見えました。少年は咳が止まらなくなりました。
「脊髄が歪んでいるようだ。あなたは誰かに願いを叶えようとして、その願いを自分に振り向けたのではありませんか?ここでは他人にいくらでも思うことを望んでもいいのですから、それが、つらくて。」
こことは別の魔法の仕組みの掛かる世界から連れて来られた少年は、その様子をじっと観察しました。ここの土地の少年は、何かを引き抜く動作をしました。女性の背中をとんとんと叩いて、その波動を女性の全身に響かせるように叩き方を調整しました。そしてその頭をつかみ、その足を押さえ、彼女の全身を巡る何かに働きかけるように自分の呼吸を調節し、柔らかい光をその両手から女性の体に押し込み縦横に体内を移動させました。人から死んだ肉体を生まれ変わらせられた彼はこの不思議な治療を、額の飛び出たこの少年の魔法が行っているのだと感じました。
女性はまだ涙が止まりませんでした。しかし、その涙の質は、いくらかさっきとは違ったものになっていました。
「またここにお邪魔します。」
少年は緑の房を女性に手渡しました。
「あなたに掛けられた魔法は、あなたの涙の性質と向かい合った時に、初めて正体が分かってくるものです。」
自分が書いている物語が、次第に色付いてきているのをイアリオは感じました。それは、今まで白黒にしかそれを見ようがなかったことを逆に知らせました。彼女は登場人物たちがここまで名前を持っていなかったことにも注意を払っていましたが、ようやく、それは明らかになるのではないかと思いました。
主人公である少年を、死から甦らせた、願いの叶う種を渡した正体の知れない「ユスフル」という者しか、名前としては登場していなかったのです。
「勿論治療できないものもあるよ。たとえそれが正しく魔法に拠るものだったとしても。」
けばけばしい色の髪を生やしている異邦者の彼の疑問に少年が答えました。
「その難しさがどこにあるか、というのは、大事なことだ。どこに困難があるか分かれば、対処しやすくなる。だけど、それが分からないから、治療はできなくなる。手がかりがない症状というのは、結構ある。」
少年は真っすぐ前を向いていました。
「さて、これから行くのはあの小屋で僕の下した治療にもかかわらず元に戻れなかった霊の、本体のある所だ。さっきの人はね、時間を指定して治療を頼まれたから来たんだが、次の人はそうじゃない。けれど、たびたび僕の所へ自分の霊を寄越すんだ。でも、その人を見て驚いたり訝ったりしないでくれよ?その人は、霊体を失っていながら、ちゃんと動いているんだから。」
異邦者の彼は心を構えて少年に付き従いました。やがて見えてきたのは藁葺きの一軒家で、そこに粉引きの夫婦がいました。その奥さんが少年の患者としてやって来ていたのですが、彼女はよく自分の霊を外に出していたといいます。彼はひどく驚きました。粉引きの奥さんはぴんぴんして水車小屋を足しげく出入りしていましたが、その顔に目がなかったのです。
「やっぱり驚いたね。でもここでは普通のことなんだ。だから僕のような治療師が要る。」
少年は働いている奥さんの手を引き家に連れて帰りました。目のない奥さんの顔色は悪く、吐く息も荒いものに思われました。それでいて体はまだ働こうとせわしなく動き、その人はまるで体の動きを制御できていないようでした。
少年は彼女を段差の上に座らせました。そして、耳元に何か吹き込むと、端正な声色で彼女に呼びかけました。
「おいで、おいで。空からおいで。私は客車。乗り物を乗り継ぎ、ここへやって来た。出てきたものは、ちょうどここに。空からおいで。」
すると彼女の体に何かが入り、女性はぶるぶると頭を振りました。
「おいで、おいで。空からおいで。それとも足から入りたいか。だったら床から、這い上がれ。出てきたものは、ここにいる。床からおいで!」
女性はぱっちりと目を開け、辺りを見回しました。彼女の両目から涙が止まらなくなり、ごめんなさいと繰り返しひたすら謝りました。
「何があったの。」
少年は訊きました。粉引きの奥さんは分からないと答えました。
「あなたは、いつも自分が強制的に働かせられたことを思い出し、その時の自分と今の自分が重なると、自分にここでないどこか遠くへ逃げたいと願い、体と別の体を分離させてしまっていたよね。今回は、いつものように僕を訪ねてきてくれたから、件の方法であなたを元に戻そうとしたが、還らなかった。
あなたの別の体は、あなた自身に戻ろうとしていた。何がそれを拒み、何がそれを受け入れたの?」
その時、少年は質問をしていながら何かに気づいた素振りをしました。
「そうか。あなたは治癒の過程にいるのだったね。おそらく僕を頼りにしないくらいになるように。」
少年は唸りながら彼を連れて女性の家を出ていきました。
「驚きの結果だよ。まったく逆の発想が必要だったとは。君にはゆっくり話そう。僕たちはたった一日だけで僕の背負った仕事を全部やれない。こことは異なる魔法の仕組みから連れられてきた君、名前は何と言うんだ?」
彼は答えました。
「へえ、まさか僕と同じだとは。僕もそう言うんだ。でもそれだと、互いに呼び合うのに不便だね。僕は、姓はあるけれど君には?家族で使う氏のことだよ。」
彼にはないと言いました。
「じゃあ、君は個人の名前で呼ぶようにしよう。僕はミスタチ、君からは、そう呼べばいい。」
両者は手の平を重ね合わせました。年齢は、彼の方が少し上に見えるのに、ミスタチの手は、彼のより広がっていました。
「でもそう呼ぶのは窮屈で変だな。まあ、慣れるとしよう。よろしく、ユスフル。」
考えられる「言葉」になることで、それは黄金のように、不変の価値を持たせられる。叫ぶことが、叫ぶ瞬間から離れ、意味ある行いになってしまう。叫ぶことが、人と人とをつなぐ幸福であると同時に、祈りと、優しい災いにくぐられる。それは、人の命なのだ。それまでは命などどこにあっただろうか。人の意識のかぎりなく深い下に、目に見えない場所に、それはあって上を見上げていたことだと思う。人は叫び出した。その叫声が、地面の底にもあるような我々の姿に届いたのだ。光と、波が。今どこだろう。我々の体は、大木にも例えられるものだとすれば。芽は根をくぐる。幹は芽をくぐる。枝葉は幹を。花は枝葉を。我々はどこだ。どこにいる。今どこにいる。はるか下に望む我々の根幹はどこだ。自分の命が
そこから見上げている。
自分は誰だ。言葉とは何か。
しかし忘れてはならないのは、木は実をつけるということだ。それは眠りの中で、自分が芽を吹き幹を伸ばし、葉を生らせ、鳥をとまらせる夢を見る。どんな子供も、大人になった自分をそうして想像するように。時は止まる。どこかの時点で、忘れることが起こる。そうして殺人は生まれる。
しかし忘れてはならないのは、自分は実になるということだ。それがいつ生まれ、大地に根を下ろしたかは知らない。物事は芽から始まるのだ。まして全ての芽が育ち切り実になるとはかぎらない。命は当然のように一部を損なう。しかし実は落ちる。栄養をもらって、かぎりない、命のうたを、うたうべく。その土壌は全ての死骸。骨と皮なる、肉の世界。死は克服される。傲慢に世界は笑う。
自分は誰だ。言葉とは何か。
「イアリオ。そうなんだ。僕は色々と思い出してきたよ。どうやら死が近くなってきたらしい。君が出くわしたクロウルダ(神官)じゃあるまいし、霊界との交感なんて自分にはできそうにない気がするんだが。そうじゃないとは思うよ。過去の記憶となんか僕は交信ができない。もっと色々なことを思い出したんだ。それは多分過去の記憶というより今の記憶と言うべきだな。おそらくは、僕は正真正銘、思い出したんだ。」
「ある悲劇をね。」
エントランスホール 第一部
金色の草むらをかき分けて、その人は出てきた。胸に血を流している。いや、その濡れ方はその人から出たものではない。返り血は幾らかまだ鮮やかで、布に染まっている最中だといえた。でも、その人は何だか朗らかな態度ですすき野を抜けていった。その人は女性だ。まだうら若い。
突然だが、ユスフルという生き物を知っているかい?彼はね、誰にも見られたことがない生き物なんだが、偉大で、恐ろしいんだ。彼は麒麟よりも背が高くて、人獣とおぼしき姿を持っているということだ。つまり、神獣なんだろうね。まるで神様の遣いのようなものなんだ。それが、ある種を彼女に渡した。
草むらにいた彼女はね、赤子を抱いていたんだ。なんとね、その人は、赤ん坊に恋をしたんだ。そして、赤ん坊がまだ話すこともできないうちに、流行り病で死んでしまって、その人は恋人をなんとか生き返らせたく思ったんだ。そこへ、ユスフルは現れた。彼女はもらった種を噛み砕き死んだ愛する人に口移しで飲ませた。すると、種は力を発揮して、恋人の思いを叶えた。どういうことだと思う?おそらくあなたは、こう考えるんじゃないだろうか。種が、その人の思いを実現したと。その人の、考えていることを了承したと。ユスフルって何者だと思う?それはだね、固定化された思いと現実とをつなぐ言葉という厄介な存在なんだよ。いや、言葉の悪の側面というべきか。彼女はね、自分の思いを実現させた。しかしそのことに彼女は気づかなかった。たしか赤子は死んでいたはずだ。ということは、その血流は止まっているはずだ。彼女は返り血を浴びたはずだった。草むらから出ていく時にね。実はね、この世界には魔法があるんだよ。魔法は、あるルールというべきか、きびしい掟があった。それは失われたものを甦らせようとした時、失くし物の倍のものが失われるということだった。彼女はだから笑ったようだった。
さて、僕なんかより君の方がずっと僕の思い出したことをちゃんと物語にでき上がらせると思うな。それは、今の物語だから。
その女性は赤ん坊を抱えていました。今しがた、その手で殺害した二人の赤ん坊の血に染まった胸で。しかし赤子はきゃっきゃと笑って、その色に無頓着のようでした。女ははだしで、急いで現場を離れ、その赤子の親に、復活した子を手渡しました。その子の親は当然のように奇妙な目で女を見ました。なぜなら、彼らの息子はすでに埋葬されていて、骨になっているからでした。女は彼らに赤子をよく見るように言いました。ほら、この面差し、甲高い声色、そして何より、特徴的な足のかたち!深くくぼまった土踏まずは、愛らしくて何度もあなた方もさすったではないですか!両親はうなずきながらも鋭い寒気に襲われていました。彼らはある懸念を持ちました。それは、この世界にある魔法の仕組みで、一つの願いを叶えるには、それと同じ材料を二つ失うというものでした。彼らの社会はこの仕組みを忌まわしいものと捉え、原則的に魔法を使うことは禁止していました。
両親はその人に尋ねました。もしや、その子は、魔法によって甦らせてしまったのではないかと。女はうなずきました。女は社会のルールに従って檻に入れられてしまいました。その後十五年、外には出てはならないとされたのです。
甦らされた男の子は再び両親の手に戻り、その下で育てられました。彼は他の人には見られない特徴をいくつか持っていました。それは彼の両親にもないものでした。深い土踏まずは、確実に親の遺伝を継いでいるのに。まず、鼻先がないこと。それは成長するにつれて次第に丸まっていき、普通の人間のものではない形状になりました。そして、髪の色が定まってないこと。根元近くと先の方で、彼の頭髪は色が変わりました。しかも、その色は自然の人間の毛髪の取る色合いではなく、原色じみた赤、青、黄、動物や植物も使わないけばけばしい彩り、不透明な発色をすることがありました。さらに、声。彼の声は何かが人間を真似ているような声で、しばしばその発声は、動物も聞き取れないものになりました。彼の言葉はつぎはぎになることがよくあり、聞き手はよく注意して会話の文脈を把握できなければ、彼とのやり取りは不可能になるのでした。人間が魔法によって復活すると、このように元の人のかたちをとどめた何者かになる、というのは、彼によって発見されたことではなく、いくつか事例がありました。だから両親はその社会の中で彼をよく育てることができたのです。両親は彼になぜあなたが他の子供とは違い、特徴的な外観を様々に持っているか、彼の十五歳の誕生日の日に彼に言いました。しかし彼が誰に復活させられたか、それは教えませんでした。その張本人である女は牢獄の中で殺されていました。女は牢屋にいながら、十五年の刑期の後彼女の恋人に会うことを楽しみにしていましたが。彼女を殺したのは、両親ではありませんでした。魔法について激しい嫌悪感を持つ者でもなく、彼女は、彼のように誰かに蘇生させられた、人間のような特徴を持っていない者に命を奪われたのです。つまり、彼女を殺した者は、その人物と同じように他者に無理矢理生を再開させられた、彼を迎えに来たのです。
……ここまで書いた内容を、イアリオはテオルドに送りました。不思議なことに、彼女は勝手に筆が進み、テオルドが語った話の続きをつづることができたのです。そして、そうしているうちに、彼女にもテオルドの思い出したといったことが、目の前に現れて知覚できるようになりました。そう、彼女が、彼女の聞いたことがない幼馴染のピロットのあらましをつづることができた時のように。
そうだ。まったく君の書いたように、僕は思い出しているよ。僕がこの続きを書いてみよう。しかしその女を殺したように命じたのは他でもない、その女に命を再現されたあの子供だった。彼は、自分が誕生した事実を知っていたんだ。その前に、彼は何度か彼を迎えに来た人に出会っているんだがね。その人によって、彼が十五の誕生日に知るべきだったことを、ある程度は教えられていたんだ。彼を迎えに来たのは女だった。壮年期も過ぎたような、皺の寄ったおばあさんだった。しかしその皺は変な所にあった。彼女は顔面が逆転していて、額に口が、あごに目がついていて、鼻は上下さかさまだったんだ。その目が動いて顎元に皺ができて、その口が開いたり閉じたりして額に波が乗るんだ。いかにも恐ろしい風貌だったんだけど、その女は善行をしていたから、どの人間も彼女に親しかった。まして復活の魔法をその人が受けたということは誰もが知っていたからね。しかし困ったことに、彼女は少年から彼を慕う女を殺してほしいと頼まれる。そして自分を迎えに来てほしいと求められる。その女にそんな気はなかった。彼に頼まれた時はね。魔法はその世界において一部の地域に認められる現象だった。おや?僕も大分筆がのってきたよ。気付かないうちに、君の物の書き方に影響されたかもしれないな。魔法はね、その世界において、まるで効果のある範囲を持つ、社会的な理屈のようなものだったんだ。僕らの町だけに当てはまるルール、大国が実際周囲の国に押しつけようとするルール、みたいなね。だから、つまりは人間のいる所だけに広げられる力で、人がいない場所にはまったく届かないあまり支配力のない力だった。どうしてそんな力がその世界にはあったと思う?僕はそんなことも思い出してきたんだ。
人の声には、不思議な力がある。それは、どんな動物の出すものより、誰かを思い通りに動かそうとする働きがある。それは、例えば意味を形成した。つまり、言語だ。言語は論理的な構造を持ち、世界が把握し易くなった。ところが皆この現象にはじめのうちは巨大な怖さを抱いた。いいかい?言葉は人の論理思考にしか働かない。つまり、自然の何か思い通りにしたい現象には力を及ぼさないんだ。当然だ。それは波だからね。ただの音であり、音は、不思議にも僕たちに互いの考えていることを伝え合う。それは、人間にもたらされた恩寵と言っても過言ではない。
その音は我々に幾世代にも伝わる大切な知を担わせた。
それは互いに協力し合い、我らの周りにあるものたちを征服する手伝いをした。
我々の世界というものは自然の克服にあった。どれだけの命と営みを彼らから私たちは奪っただろうか。しかしそれは、言葉が介入することで成功したんだよ。それでね、これが大切なことなんだ。自然は、我々に介入をはじめた。それまではどうだっただろう。我々には周りはきっと我々に敵対するもの、我々を滅ぼそうとする者にでも見えていたんだろうか。いいやつまり、言葉だ。僕たち人間は、僕たちの使う言語を、僕たちの周りも使うように思えたんだ。
魔法はこの時にできました。はじめ、その力は人は意識できませんでした。もやもやとしたものが周りにまとわりつき、それが自分に囁きかけるよう感じたのは、彼らが言葉を用いてものに名を付けられるようになってからです。つまり、植物なり動物なり、種類の違うものに目を留め、それを呼ぶようになったのです。ただし、名を付けられるようになる前に彼らはもう名前のようなものを幾分かの存在に所属させていましたが。父親や、母親や、自分の子供たちを呼ぶ時に、彼らの声はあるパターンを持っていたのです。友人、親族、あるいは隣の部族、食事の仕度ができた時、獲物を見つけた時、追い込め追い込めと呼ぶ時、毒のある植物を見かけた時、その毒の危険性を、子供たちに教える時なども。彼らの原始的なものの言い方はおそらく子音と母音のはっきりとしない、未熟な呟きだということはできません。多分物凄くはっきりとした言い回しをしていたのだと思います。はっきりとした言い回しは、多分、その声の持ち主にその声の発音というものを強く意識させたでしょう。彼らは言葉をつなげてみました。すると
「父さん 母さん お兄ちゃん お姉ちゃん
妹 弟 僕たち みんな
ヤナギ シダ 湖 カモメ
ごはんが できたよ あっちは あぶない
じいちゃん 死んだ 僕たち かなしい
赤ちゃん 生まれた お祝い しよう 」
見えるでしょうか。単純な、単語ばかりを、つなげた、私たちを凌駕する圧倒的な世界が。それは身の回りにあるものがちゃんとそこにあることをうたっているのです。でき上がった詩は巨大に
彼らを包みました。
赤ん坊の時分に復活した少年はその力を嫌いました。彼はずっとこのうたごえを聴いていたようなのです。ユスフルはそのうたごえの主でした。つまり、魔法がそのうたごえを通して彼に力を及ぼしていたのです。魔法は、彼らにとってはいまだ未知の多い、扱おうとしてもたちまち危険に晒される業物でした。それはどんな知恵も同じことで、自然を扱うことそのものは、どんなしっぺ返しももらうということでした。人が自然に敬意を表すようになったのは、自分が、自然を扱えるようになったと自覚を始めてからでした。ユスフルはその敬意を拒みます。それは悪の業物だからです。
お話がややずれてしまったね。魔法のことなんて僕たちもほとんど分からないさ。それは、ほとんどもうないんだから。ほとんど、と言ったのはね、僕たちを支配したあの存在、人間の悪意の塊が、もしかしたらそれでできていたのではないかと考えているからだよ。それは、僕たちの前の世の残した思いの残滓だった。気持ちの悪いことにそれは自分たちの思いを叶えようとして合体して、巨大になった。もしかしたらそれが正しい力を発揮したことはあっただろう。しかし、それが彼方に用意したのは互いの体がつなげられて、元に戻れなくなったということだった。世界は残酷で、なぜ自らが願った思いの呪縛に囚われなくてはならないのか、それは、ようやく人間が時間をかけて気づき出せたことだろう。それは、辻褄の合わない、冷徹な現実にも適用される。お互いがその思いに囚われているからだ。互いに理解できなくなる。はじめ、声の音楽は、互いの意志を確かめ合うものだったのに。もしかして、その時できた人とつながり合う体験が、今もこの現在に反響していて、それを取り戻すのに必死になっているかもしれない。誰かの責任になすりつける、ということは、自分の責任ではない、と考えることだからね。人は選んで脆くなったんだ。
人は、愚かだ、と反省しても何にもならない。それは、まだ正しく反省していないんだよ。どうして人はそんなお人よしな力に、あるいは、願って願ってやまないことをまだこれでもかというほど願おうとするのかということに、拘るのか、それをよくよく考えてみなくてはならない。つまり、これから我々が語る物語は、あの存在がなぜ生まれたのか、それを書いていく作業なんだ。
分かったかい?
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その少年は、生まれた時から何かの言葉を聴いていました。その音は、勝手に耳に入り、彼を非常に悩ませました。その音はいびつで彼は聴きたくなかったのです。彼の顔立ちは鼻が丸く、髪は色とりどりで、声は飛びやすく聞き取りづらいものでした。彼は泣いたことがありません。泣くほどの感情を持ったことがなかったのです。それだけの悔しさと悲哀に恵まれなかったのです。彼は喜びのまま育ち、喜びのまま十五の年月を数えていました。彼が、牢屋につながれた彼を復活させた者について知ったのは、八つの時でしたが、どうもぽろっと漏れた彼についての噂話を、単純に面白おかしい道化の話として聞いたのでした。それは、彼を誕生したばかりの時から熱愛した者がいるという話で、それは真実なのですが、いかにもありえないことだとして罵倒に近い嘲りを話し手はくらわせたのです。それを聞いて、彼は非常に興味をそそられました。わざわざ牢屋に出向いて、その女性の様子を窺ったくらいです。そうしてそれは真実だと分かると、彼は混乱や憤怒よりも、その人に対して先の話し手が持ったような嘲りや笑い者にする気持ちに浸かったのです。彼は、その女の刑期が十五年だと知ると、その時にどのような目に遭わせてやろうかと、ずっと考えていました。彼は、彼の生まれた村から出たことはありません。だから彼の人とは違う特徴は、あまり意識しませんでした。そんな彼の元に、彼のように、他者に死から生き返らせられた者が訪ねてきました。それは彼の母親のたっての頼みでした。息子がどのような人生を送るべきか、その相談をしたいと願い出たのです。
彼とは違って、彼を訪ねた者たちは、様々な屈辱を世から受けていました。つまり、もし彼が村から出たら、彼らと同じような目に遭うかもしれないことを、まず彼に教える必要がありました。母親はいずれ彼が村から出て行くことを選択したなら、彼には相当幅の狭い道しか見つからないと信じていました。訪ね人たちは、そんなことはないよと彼に教え、どうするつもりかはゆっくり考え、もし我々の力が欲しければ、いつでも連絡してよいと告げました。後に、彼から来た手紙は、彼を十五の歳になった暁に迎えに来てほしいということと、あの牢屋の女を、どうしても殺してほしいということが書かれていました。彼を訪ねた人々は、彼が誰によって甦らされたかも彼の親から聞いていますから、そして少年にはその辺りの事実は生涯触れさせない誓いをしているのも知っていますから、さても少年のこの要望は、どこから出たものかと戦慄しました。ですがよくよく、その女を十五年の歳月閉じ込めた檻から出してしまった後を考えれば、彼にとって非常に不都合なことが起こりえると分かりました。それは、彼らも体験したことだったからです。少年を迎えに来ることになったのは、壮齢を過ぎた女でした。彼女は上下逆さまの顔を持ち、見るからに人目を引く容姿でしたが、決して人を脅かさず、周りに善行もしていました。彼女は非常に歌が上手く、その額に真横に開いた口を開けて、どんな歌も、歌うことができたのです。それだけで聴衆から金銭をもらい、不自由なく暮らすことができましたが、彼女は日銭をその日使う分を費やしたら、残りを必ず貧しい者に渡していたのです。
そんな彼女が少年の代わりに牢につながれた女を殺すことができたのは、彼女にとって、その殺人が初めてではないということと、彼女自身、彼女を再生せしめた者から非常な苦痛を味わわされたということがあったためでした。彼女のように再生された者たちは、自分の意志でそう願ったのではありません。都合よく彼女たちを復活させて喜んだのは、異常な執着を持った者たちでした。彼女は恋人に殺され、恋人によって復活せしめられていたのです。彼女から愛したその男は彼女のことを、嫌いました。それでも彼女は彼の傍に付き、彼の世話を何でもすることで、彼の思いを勝ち得ました。彼の方に邪まな心が働いたのは、彼の方から是非彼のものにしたいという女が現れてからでした。彼は異常なほど醜悪な容貌を好むことがありました。頬に傷痕が生々しく残っていたり、片腕を欠損していたり、頭髪の生えなかったり、あるいは不治の病に侵された人間を、彼は癒す手伝いをしていたのです。その彼がものにしたかった女は、あらゆる部分を削り取られ、手も足もない不具でした。しかも、それは生まれつきだというのです。彼は、その女に出会い、自らが一生をかけて世話をしなければ生きられない対象とやっと巡り合ったのです。彼女はやっと彼の性格を知りました。そして、その男のために、その男のためになる最大のことを、彼女は選択したのです。
腕と脚とを焼け焦がせ、絶命した彼女を、彼は愛撫しました。彼女からもらったものを、彼は心の中で反芻しました。そして、彼女と、彼が一目惚れした不具の女と、もう一人の彼の診た患者とを、横に並べました。その時、彼の後ろには、何者かがいました。その何者は彼に小さな種を渡し、彼は、それを口に含んで死んだ亡骸に接吻しました。彼女は生き返り、そのために、二つの命は死にました。
──自然と湧いたこの文章に至り、イアリオは悲鳴を上げました。しかし、どこか見覚えのあるそのあらましは、幼馴染で彼女が愛したピロットが、あの強烈な美貌を持つビトゥーシャという女と他大陸で為した、数々の悪とそんなに変わりがありませんでした。彼女は強い目でその文章を見つめました。当たり前のように、世界は自分の周りで佇み、優しく、彼女を包み込んでいることを感じました。
彼は彼女の再誕した特異な風貌を物凄く好きになりました。元の顔はそのままに、しかし上下逆転していたことに。これだけ欠けた容姿を持つ者を彼は見たことがありません。彼は、自分の願望が叶えられたと思い込みました。しかし、復活させられた者は、元の人の記憶と魂を持っています。彼女にとってその死と復活は彼女の思いを叶えたかというと、そうではありませんでした。彼女は一体何を自分は犠牲にしたのかとその後生涯を懸けて長い探求の旅へ出かけねばなりませんでした。もう彼女が捨てた命をもらい受ける誰かはいらなかったのです。なぜなら、彼女はこのような風貌になってしまっていたし、それは彼女を生まれ変わらさしめた巨大な執着を持った者が求めたものより、ずっとはるかに見るに耐えない容姿だったからです。彼女は彼に彼の執念のようないびつな愛で保護されるより、息をするように外の世界を感じねばならないと思いました。彼女の命は、もし彼が望むようであるとすれば、彼の作ったとても狭い寝床に閉じ込められて、その愛玩物になるよりほかなく、それがかつて自分が望んだことだったと分かれば、彼のためにこのような姿になったのだと考えて矛盾はありません。彼女は、この冷酷な決断を自分がしたということに、何か、異様な世界の摂理があるように思いました。
彼女はその時夫となった人を殺しました。それは、誰もが納得する殺しでした。魔法は彼女がいる社会では忌み嫌われていたのです。彼女は全てを打ち明け、彼が魔法を使った罪に問われる裁判でも、自分が犯した過ちをただただ吐露し、聴衆の理解を勝ち取るほど誠実に尽くしました。彼女は、万人に許され、自由を得、一人の歌手として、巣立っていくのです。
ゆっくりと、その彼女は少年を甦らせた女に近づいていきました。牢屋は、その時誰も見張っていませんでした。女に呼びかけ、女に少年から伝えられた要望を教えました。女はさもありなんと頷きました。
「あなたは少年に殺されてもかまわないと思っている。」
再び生を受けた彼女は言いました。
「それでいてなんだか淋しい表情も浮かべている。もっといい方法はなかっただろうかと、そう思いを巡らしている。けれどね、あの男の子は、随分もう人生が満ちてしまっているわ。あの子は何も選べないの。あなたがそうしたから。あなたはあの子を虜にした。生まれ変わらせることで、その生の選択をすっかり奪った。
あなたはその反省をしていない。」
彼女はその女を殺す前に、幾度かその女に会っていました。歳月をかけても、その女に変わった様子はなく、彼女は途方に暮れました。放っておいてもあの子がこの女を殺しに来るだろうと思っていたのです。そして、それが正しいことのように思いました。なぜ、男の子は我々に彼の生を恣にした者の殺害を求めたのか、それは彼がまだ赤ん坊の頃に行われた儀式が生贄を求めるものだったためか、まだ彼が望みもしないうちに、死と生を取り違えさせた人間に対して、幾許の感情も抱けないから、ただただそれを願うのか。この少年においてどうするのが正しいことなのか、彼女は仲間の再誕させられた者たちに尋ね歩きました。そして
彼女は束を握っていました。彼女は自分のために女を殺すことをためらいませんでした。彼女は気づきませんでした。その殺人は、かつて彼女が犯した、彼女の慕った人間を殺害したものと一緒だったのです。
男の子は自由になりました。男の子はようやく村の外へ出て行くことができ、彼女と一緒に、冒険の旅へ向かうことになるのです。彼女はまず本人が意図しない魔法の効果で意にそぐわない人生を強要された人々からなる、彼女の所属するグループに彼を連れていくことにしましたが、男の子は道中でその行方を眩ませてしまいました。彼はあまり誰かについていくということを好ましく思わなく、彼は母親にも言ったことですが、誰かに保護されたまま日常を送ることになるのはもうやめたいと思っていました。彼は魔法の及ばない地域へ行くことを望みましたが、どうすればそれが可能となるのか、分かりませんでした。老齢を前にした連れの女性から彼は自分を煙に巻いたのですが、ほどなくして彼女に見つかってしまいました。彼はその時この女性をはじめて怖いと認識しました。彼女はその時魔法を使っていました。彼を探すための魔法です。
彼は大人しく彼女に連れられていきました。顔面の逆転した彼女はグループの面々に彼を紹介し、彼の行く末を、じっくりとここで見定めていこうと話しました。しかし彼はここに連れて来られる間にもう決めたことがありました。魔法を学ぶ。どうやらそれを自分で操れなければ魔法の力の及ぶことのない場所へは辿り着けないだろうと考えたからです。少年はグループの面々に魔法の指導を仰ぎました。ですがそこにはその師匠となれるべき立場の人はいませんでした。魔法は
かの土地では誰もが使えるものだったのです。そして、その使用は罰を伴うものでした。二つの願いが合わさり、それが一つとなる時、魔法は実現されました。彼はすでにその使用方法をよく教わっていました。魔法の指南は成人(十五歳)を手前にした子供たちが皆受ける必要のある教育でした。彼らは自分の思わぬところでそれを使ってしまう場合があったからです。当然、その場合の事故は、枚挙にいとまがなく……彼らはその悲劇に囲まれていました。
大事な約束事……それは同じことを同時に二人で願わない。あるいは願いというものを極力持たないようにする。それはいつどこで実現されるか分からないということを、よく覚えておく。その願いの定義というのは、今実現できていないことを、今起こそうとすること。もしくは、実現が不可能に見えることを、実現しなければならないと思うこと。
少年はどうやってこの呪わしい魔法の呪縛のかかった土地から抜け出そうかと考えていたはずでしたが、今度はその力が、本当にあるものか試したく思いました。少年は頼みました。かぎりなく小さな願いでいいから、その力が使われるところを目の前にしたいと。しかし、魔法への脅威と飛び抜けた観察眼を持っているグループの面々は彼にそれを許しませんでした。彼はどうしても力を使いたくなりました。
彼に使う機会が訪れました。彼はある人物を消滅したく思いました。彼を保護した、老年期に差し掛かる彼女です。彼はそれを願いました。しかし願いは実現しませんでした。彼は肝心なことを忘れていました。どうして自分が、赤ん坊の時分復活したか。得難いものを得るために、彼のことを熱愛した女は何を犠牲に捧げたか。彼は自分が保護者たる彼女と共に彼自身の生き方を見つけ出す旅をやめにしようとしました。それこそ得難いものだったからです。彼は再び彼女から姿をくらましました。
今度は成功しました。なぜなら彼は肉体を抜けて霊になったからです。彼の肉体は死に、彼の霊魂はそこに留まることに成功しました。彼は再び自由になりました。彼はその姿で魔法の届かない場所の縁まで行くことができました。そこで彼は彼の棲む世界がいかに不愉快で忌まわしい力に乗っ取られているかを知りました。人の想いがその周りを取り囲んでいたのです。彼は出ていけませんでした。そこにあるのは人の想いでした。人間の霊はそこにありませんでした。想いが留まり、執着していたのです。
彼は諦めて戻りました。再度この土地から出て行く手段を考えねばならなくなったのです。しかし、彼は幽霊のままだと何者とも話せなくなりました。元々聞きづらい彼の声は人にもっとよく聞こえなくなりましたが、彼にはまだ、魔法がありました。彼は今度は元の姿に戻りたいと願ったのです。
その時一つの村が消えました。百人ほどの人々は、皆、砂塵と化して見えなくなりました。
その後彼の元を訪れる者がいました。三人の年寄りで、それぞれ、一律の預言を持って現れました。はるか南の大陸に、魔法を極めた者がいる。その者を訪ねよ。彼は信じました。いつか、必ず魔法の力に満ちたこの場所を出ていくのを。
南の大陸といえば、そこはもう彼らのいる土地の魔法のかからない場所でした。彼は自分の意思で魔法を使ってしまったことを彼が保護されたグループに詫び、三人の老人に言われたことを叶えたいと彼らに援助を請いました。少年の態度に危険を感じた面々は、彼を南へ送り出すことに全員が同意しました。中でも上下逆さまの顔のあの女性は、いたくその結論に頷き、一刻も早く少年を導かねばならないとする焦燥に駆られました。彼らは、その女性も含め三人を付き添いに選んで、少年を預言の地へ連れて行こうとしました。ところで、グループの面々は全員その一員である証の指輪を嵌めていました。エナメル(釉薬)で塗布された陶製のもので、それを小指に収めていたのです。少年はなんとなくその指輪を嵌めるのを嫌っていましたので、ポケットにはもらったそれを忍ばせているものの、一度も嵌めたことはありませんでした。さて、彼に新たに同行しようと申し出たのは二十代の女と、三十代半ばの男でした。女はきちんとした服装で身持ちの堅そうな雰囲気でしたが、それは衣服の中の豊満な身体を隠すためでした。彼女は淑女の成りをして、人をかどわかす本物の詐欺師でした。それというのも、まだ幼い頃、彼女は両親の元で強制労働の役務を被っており、その末に働けなくなった肉体を、無理矢理に魔法で繕わせられた過去を持っていたのです。彼女はひどく傷つき、逃げてグループに保護されたのですが、グループという家族以外、信用はできなくなりました。もう一人の男は、身体中に入れ墨を施した大男で、彼は性器を切られていました。彼は同性愛者で恋人にそれを要求されたのです。彼はあらゆる所で荷役を勤めており、その態度は勤勉そのものでした。頭も良い彼は博学で、色々な土地を見知っていました。ですが彼に施された魔法は、過酷なものでした。彼は、生涯水を飲むことができなくなったのです。渇きをなくすには、食べ物から得るもので調整するしかなく、乾いたものを食べると彼は死にました。その皮膚はかさかさで、ぼろぼろと脆く、かゆみは絶えず彼を責め苛みました。彼は誰にこの魔法を掛けられたか、分かりませんでしたが、少なくとも彼以外に複数同じ症状の人間はいましたので、その病は誰に掛けられたかというよりも、誰かの魔法によって必然的に生じた犠牲の現象だと思われました。もしかしたら、その魔法はどこかへ多大な潤いをもたらそうとして、その倍の交換物として、複数人が水を受けつけぬ被害を被ったかもしれません。
その彼はもう一人の魔法の犠牲者と共にグループに入りました。彼は人に奉仕する心を持った善人でした。
──イアリオはまだ登場人物たちの名が出ていく文章の中で明らかにされないことをもどかしく思いました。しかしはたと思い当たることがありました。それは、テオルドが言った「今の記憶」と「過去の記憶」の差でした。彼女もたしかにテオルドの言う「今の記憶」でこの物語を進めている気がしました。そして、まだ、なぜかそれは、過去とも未来ともなっていないと感じました。そう感じて、彼女は訳が分からなくなりました。
少年はなぜ自分たちの住む土地から魔法が去らないのかを訊きました。それは、人がここを去らないからだと誰かが言いました。どうしてとまた少年は訪ねました。人の夢は、人の夢を形づくる。そうして人は土地に住み着く。だからだと彼は言われました。少年と三人の付き添いは一路南の大陸を目指しましたが、その道中、魔法によって体の一部を奪われた人々や、荒廃した土地、昼間に無人になった集落などが、待ち構えていました。彼らは、人の営みを粛々と繰り返していながらも、不意に途方もない力を発揮する防げない奇跡と、いつも隣り合わせだということを、少年は三人に連れられながら判っていきました。やがて、地上にてその魔法の及ぶ範囲の際まで到達した時、少年はあれだけその土地から出ていきたかったのに、とてつもなくそこから去り難く思いました。彼は預言も無視しようかと考えました。
顔が上下逆の女がそれを否定しました。それは、少年がもういくつかの大魔法を使っていて、彼こそここから出ていかなければ、犠牲は尽きないと気づいていたためでした。少年は迷いました。少年は願いました。ここまで連れてきた三人を、どこか遠くへ飛ばしてくれないかと。その願いに魔法は応え、代わりに人々から遠くへ飛んでいってしまっていたものを、呼びました。それは少年のいる場所へ現れました。龍の頭、一角、牛の胴と尾と馬のひづめ、堅い鱗、そして五色の彩光に彩られた麒麟でした。麒麟は彼に上に乗れと言い、そのまま魔法の顕在する土地を出ていってしまいました。
「魔法は人に属する。」
麒麟は教えました。
「その魔法を扱う人間がいなければ、それは世界から消滅する。」
少年は麒麟の一角にしがみつきながら、それは違うと思いました。少年は、その魔法と一体になっている彼らの人の営みが、何もかも素晴らしく思えていたのです。魔法は、維持されるべき人の業でした。
ふと少年は、麒麟から世界にはどれだけ不死の者が存在しているか分かるかと訊かれました。彼は十五人ぐらい?と答えました。麒麟は全部、と言いました。
「肉体はその維持が敵わぬ。しかし肉を飛び出たものに対しては。それは再び願いを叶えよう。もう一度肉に戻ることが可能だ。そしてその時に生前の記憶を失う。記憶を持ちながら生まれ変わることのできる者も稀にはいよう。」
少年は驚きました。まさか自分が不死だったとは、思いもよらなかったのです。そして、それが魔法の本質であるとは、まだ気づきませんでした。
* * *
「魔法はおそらく人の願望を叶えるためにあるのではないんだね。現象としてはそうなんだろうけど、それが人の営みのすぐ横に寝そべっているものであるなら、僕が見られる記憶の内側には、同じことが幾度も繰り返されたからとある。つまり、単純に同じことが起こっただけで、それを彼らは魔法と呼んでいた。
気を付けなければならない。同じことが起こったということは、再び生まれてくることを言っているのではない。再び赤ん坊から生き始めたことを、現象の再現だとは言えない。」
「魔法の本質は、以前にもあった同じような現象を、ただ結びつけただけだったってこと?これが起きたのはこれが原因だったって、そう判断したということなの?つまり、因果関係はとても証明できるものではないけれど、それがあるように思ってしまった……。」
「言い換えればそうなるね。僕たちは、そんな力はオグ(人の悪意の集合した魔物)でもうこりごりだ。そんな因果関係を結びつける思考は、あの悪意の怪物が、他者に対してうそぶいたことなんだ。つまり……」
「オグが、彼らに世界を魔法と呼ばれる現象で満ちているように見せていた?もしかしたら、まだ、未分化のまま集合してもいない、当時から個人個人に潜んでいた悪の個体が?」
* * *
麒麟は少年を降ろしました。雪吹雪く山頂の頂きであり、とある小屋の前です。そこはなだらかな突端で、人はいません。彼は、空っぽの小屋の中に入りました。大勢の霊たちがそこにはいました。しかし彼の目には見えません。彼はここに魔法を極めた者がいると聞いていました。どこにもいないではないか、と彼は麒麟に尋ねましたが、麒麟は笑い、鱗を飛ばして、鱗の破片となって、かき消えました。彼は笑ってあげました。まさか誰もいないこの場所へ一人取り残されて、何もすることがないなんてあるはずがない、と。彼は首を捻じ曲げ、空っぽの世界を見つめました。ここには彼の住んだ土地にある魔法はないのだといいます。彼は、試しに自分が消えるように願いました。ぼうっと自分の手足が見えにくくなったことに気付きました。彼は、そこに自分の母親を喚ぶように願いました。すると、あたかもそこに母親がいるかのように、日常の仕事をするその姿が現れました。彼は訳が分からなくなりました。まだ魔法の効力はあったのです。彼は小屋から逃げ出しました。目の前が真っ白な雪の世界を掻き分け掻き分け、進んでいくと、小さな洞穴があって、そこに入りました。彼は、火を熾し、火に慰めをもらい、そこで一晩を過ごしました。起きてみると、空は晴れ、広大な雪原がそこから見下ろせました。彼は、そりでも何でもそこに現れろと願いましたが、何も現れませんでした。彼は小屋に戻ってみました。中に入ると、一人の少年がそこに立ち、彼を手招きしました。彼は恐ろしくてそこに行けませんでした。
「どうして恐れるのさ。」
少年は言いました。
「今まで散々君は魔法を使ってきたじゃないか!怖いものは、なくせばいいんじゃないの?そう願ってみてよ。そうしたら、僕は消えるから。」
彼はそう願いました。しかし、少年は消えませんでした。
「ふふっ願い方を間違えたね。消えるのは僕じゃなかった。」
彼は、自分が消えかけていくことに気付きました。両手が、両足が、昨日のようにだんだんと見えにくくなったのです。
「ここでは魔法は自分自身に効くんだよ。他人には決して効かないんだ。だからね……」
少年は陶器のコップを持ち上げ、彼の腕にそれが通過するのを見せました。
「はるかな代償も、自分が負わなければならない。」
ここでは魔法が働くような条件が整った場合、何を願っても、それは自分に返ってくるのだと彼はその少年に教えられました。もし、誰かに危害を加えたい時、人の物を盗みたい時、魔法が使われれば、自分が負傷を負うか、物を失うのです。
「君には見えないだろう。ここには大勢の霊がいる。彼らは……間違って自分そのものを失ってしまった人たちだ。どうやったら元に戻れるか、あるいは正しく死に向かえるか、ということを、僕に相談しに来ている。」
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霊たちが、彼に目を向けました。
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少年は冷たい胡椒をその場に振り撒き、目を瞑って念じました。すると、気がついた時には彼は元の体に戻っていました。
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自分自身に魔法を掛ける呪いのかけられた土地を、こうして少年は少年についていきました。小屋で出会った少年は彼よりも少し幼く見えました。額が出ててとてつもない知恵がそこに詰まってそうでした。先導していく少年は道端のニワトリを指して、それがかつて人間だったと彼に教えましたが、彼はすぐには信じられませんでした。
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少年は治療者としてあの小屋に住み、全国へ回るのだと言いました。
「人里を離れているのは、君も見たようにたくさんの幽霊が僕の下を訪問しに来るからなんだ。霊はそもそも、死んだら肉体から離れていくものだと誰もが考えているが、そうではない。死んで残るのが霊なんだ。死後の世界へ旅立てないのがそれなんだよ。それとは別に、まだ肉体的に死を迎えてないのにそれになってしまうという場合がある。そんな連中が、自分に魔法の掛かるこの土地では溢れている。しかし彼らはまだ元に戻れる可能性のある人たちだ。僕はその方法を知っているからあんなにたくさんの霊を受け入れてるんだが、勿論、それで全部の戻れる可能性のある人たちを戻しているわけではない。」
どのようにして少年は霊を戻しているのか、彼は訊きました。
「教えてあげよう。ここでは自分のみに魔法の力が働くと言ったね。だから、再度自分にその力を掛ければ、単純にいえば、元に戻れることになる。けれど、どうも幽霊になるということは特殊なことで、それでいてまだ元の肉体に還れるということは、その幽霊が、自分自身に魔法を掛け続けているということでもあるんだ。
もしかしたら自分の体がなければ人間は魔法を掛けられないのかもしれない。そう考えて、僕は彼らにこう願った。僕の体を通して彼らが元の姿に戻れるように。君は、いつのまにか自分の体に還れてびっくりしたみたいだけれど、僕が僕に魔法を掛けたおかげなんだよ。そしてこれが大切なことだが、我々は全員、魔法を得ずともそうしたことと同じような力を持っている。僕にはそれが判るんだ。」
* * *
「つまり……この少年は、あまり魔法があると信じていないんじゃないかしら?そうだとしたら、自分が、どうしてこのような力を持ってしまったか判るような気がするから。」
「そうだね。僕たちのオグも、まさしくそういう奴だった。あの悪の存在は全ての前提ではなくて、僕たちがつくり出してしまったように。」
「魔法も、もしかしたら、彼らにとってはいつのまにか自分たちを支配していた世界のルールだったのに、彼は、そうでないことに気づいてる?」
「そうだろうね。だって、その力を持つことは異常だもの。異常だということに、彼はよく気づいているんじゃないか?」
* * *
鼻の丸い少年は彼の言っていることがよく分からない気がしました。少年はあまり自分自身に魔法が効くということを、解っていなかったからかもしれません。自分に魔法が働くということは、自分がその力にいつ影響を受けたか分からないということなのです。彼は行く手に巨大な影を見つけました。それは、山のようにそそり立って、太陽を隠すほど大柄でしたが、人の姿をしていました。
「割とね、巨人になってしまった人はいるよ。どのような魔法を、あるいは願いを自分自身に掛けたかは知らないけれど、面白いことに、巨人になるとたちまち動きもゆっくりになる。彼らは何十年と経ってもまだ一つの動作すら行っていないのもいて、それだから、水も食べ物も摂らず今も生きているんだ。彼らは……別に、自分が小さく戻らなくていい、と思っているらしい。誰かよりもものすごくゆっくり生きたかったからかもしれない。」
そのような説明をされたとはいえ、彼はこの景色がとても異常だとは分かりました。こうしたことが、もしかしたらこの土地では普通のことかもしれませんが、何も、わざわざああなるように自分に魔法を掛ける必要があるはずもないのです。しかしそう考えれば、彼の生まれた、他人にのみ魔法を掛けられる土地でも、同じことだったかもしれません。他者と自分は、普通に付き合えるものなのに、そうして自ら破壊することはないのですが。
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仮に僕が君の生まれ育った土地に行っても、おそらくここでできているような治療はできない。僕は、自分を通して他者の苦しみを肯定することができる。その時、魔法は解けるんだが、他人に及んでしまった罪悪というものは、それを行った本人が解こうとしても解けないものだから。多分、君たちのいる場所に掛かってしまった魔法は、他人という存在を認めようとしているものだと僕は思う。治療者としての、僕からして見たらね。」
「嫌な予感がする。」
物語を書きながら、イアリオは独り言を言いました。
「でも結果を私は分かっている。あのオグが……あの姿になって現れたその理由が、もしかしたら、この呪いと向き合おうとなった過程にあるのだと思うわ。」
他人という存在を認めようとしている。その言葉を、彼は繰り返し思いました。彼は、自分がついている少年から、たくさんの治療の技を、覚えようとしました。彼らは涙を流す女性に出会いました。そのような症状であり、本人も、なぜ、涙が止まらないのか分からないと言います。その様子を見て、彼は、肉体の例えば毒による疾病と、魔法による病とに、区別がつかないものもあるのではないかと考えました。額の出た少年は、これは魔法によるものだろうと言いました。
「ということは、本人が自分に掛けた魔法の中身を忘れてしまっているということになる。そうした場合もこの土地にはある。」
額の出っ張った少年はその魔法の性質をつきとめようとしました。念じて、彼女に触れると、少年の髪の毛が逆立って見えました。少年は咳が止まらなくなりました。
「脊髄が歪んでいるようだ。あなたは誰かに願いを叶えようとして、その願いを自分に振り向けたのではありませんか?ここでは他人にいくらでも思うことを望んでもいいのですから、それが、つらくて。」
こことは別の魔法の仕組みの掛かる世界から連れて来られた少年は、その様子をじっと観察しました。ここの土地の少年は、何かを引き抜く動作をしました。女性の背中をとんとんと叩いて、その波動を女性の全身に響かせるように叩き方を調整しました。そしてその頭をつかみ、その足を押さえ、彼女の全身を巡る何かに働きかけるように自分の呼吸を調節し、柔らかい光をその両手から女性の体に押し込み縦横に体内を移動させました。人から死んだ肉体を生まれ変わらせられた彼はこの不思議な治療を、額の飛び出たこの少年の魔法が行っているのだと感じました。
女性はまだ涙が止まりませんでした。しかし、その涙の質は、いくらかさっきとは違ったものになっていました。
「またここにお邪魔します。」
少年は緑の房を女性に手渡しました。
「あなたに掛けられた魔法は、あなたの涙の性質と向かい合った時に、初めて正体が分かってくるものです。」
自分が書いている物語が、次第に色付いてきているのをイアリオは感じました。それは、今まで白黒にしかそれを見ようがなかったことを逆に知らせました。彼女は登場人物たちがここまで名前を持っていなかったことにも注意を払っていましたが、ようやく、それは明らかになるのではないかと思いました。
主人公である少年を、死から甦らせた、願いの叶う種を渡した正体の知れない「ユスフル」という者しか、名前としては登場していなかったのです。
「勿論治療できないものもあるよ。たとえそれが正しく魔法に拠るものだったとしても。」
けばけばしい色の髪を生やしている異邦者の彼の疑問に少年が答えました。
「その難しさがどこにあるか、というのは、大事なことだ。どこに困難があるか分かれば、対処しやすくなる。だけど、それが分からないから、治療はできなくなる。手がかりがない症状というのは、結構ある。」
少年は真っすぐ前を向いていました。
「さて、これから行くのはあの小屋で僕の下した治療にもかかわらず元に戻れなかった霊の、本体のある所だ。さっきの人はね、時間を指定して治療を頼まれたから来たんだが、次の人はそうじゃない。けれど、たびたび僕の所へ自分の霊を寄越すんだ。でも、その人を見て驚いたり訝ったりしないでくれよ?その人は、霊体を失っていながら、ちゃんと動いているんだから。」
異邦者の彼は心を構えて少年に付き従いました。やがて見えてきたのは藁葺きの一軒家で、そこに粉引きの夫婦がいました。その奥さんが少年の患者としてやって来ていたのですが、彼女はよく自分の霊を外に出していたといいます。彼はひどく驚きました。粉引きの奥さんはぴんぴんして水車小屋を足しげく出入りしていましたが、その顔に目がなかったのです。
「やっぱり驚いたね。でもここでは普通のことなんだ。だから僕のような治療師が要る。」
少年は働いている奥さんの手を引き家に連れて帰りました。目のない奥さんの顔色は悪く、吐く息も荒いものに思われました。それでいて体はまだ働こうとせわしなく動き、その人はまるで体の動きを制御できていないようでした。
少年は彼女を段差の上に座らせました。そして、耳元に何か吹き込むと、端正な声色で彼女に呼びかけました。
「おいで、おいで。空からおいで。私は客車。乗り物を乗り継ぎ、ここへやって来た。出てきたものは、ちょうどここに。空からおいで。」
すると彼女の体に何かが入り、女性はぶるぶると頭を振りました。
「おいで、おいで。空からおいで。それとも足から入りたいか。だったら床から、這い上がれ。出てきたものは、ここにいる。床からおいで!」
女性はぱっちりと目を開け、辺りを見回しました。彼女の両目から涙が止まらなくなり、ごめんなさいと繰り返しひたすら謝りました。
「何があったの。」
少年は訊きました。粉引きの奥さんは分からないと答えました。
「あなたは、いつも自分が強制的に働かせられたことを思い出し、その時の自分と今の自分が重なると、自分にここでないどこか遠くへ逃げたいと願い、体と別の体を分離させてしまっていたよね。今回は、いつものように僕を訪ねてきてくれたから、件の方法であなたを元に戻そうとしたが、還らなかった。
あなたの別の体は、あなた自身に戻ろうとしていた。何がそれを拒み、何がそれを受け入れたの?」
その時、少年は質問をしていながら何かに気づいた素振りをしました。
「そうか。あなたは治癒の過程にいるのだったね。おそらく僕を頼りにしないくらいになるように。」
少年は唸りながら彼を連れて女性の家を出ていきました。
「驚きの結果だよ。まったく逆の発想が必要だったとは。君にはゆっくり話そう。僕たちはたった一日だけで僕の背負った仕事を全部やれない。こことは異なる魔法の仕組みから連れられてきた君、名前は何と言うんだ?」
彼は答えました。
「へえ、まさか僕と同じだとは。僕もそう言うんだ。でもそれだと、互いに呼び合うのに不便だね。僕は、姓はあるけれど君には?家族で使う氏のことだよ。」
彼にはないと言いました。
「じゃあ、君は個人の名前で呼ぶようにしよう。僕はミスタチ、君からは、そう呼べばいい。」
両者は手の平を重ね合わせました。年齢は、彼の方が少し上に見えるのに、ミスタチの手は、彼のより広がっていました。
「でもそう呼ぶのは窮屈で変だな。まあ、慣れるとしよう。よろしく、ユスフル。」
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タグにもある通り、色々な要素が含まれている作品です。
拙い表現が多々ありますが、考えて考えて作った(けれど話があっちゃこっちゃ行って大変なことになっている)作品ですので、最後までお読みいただけるととても嬉しいです。長いですが。(涙。)
最後まで肝心なところが明かされていませんが、それはご想像にお任せします。(おい・・・)
それでは、よろしければお楽しみください(^^)
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