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家族編 第三章 真祖崇拝
通過儀礼
しおりを挟むクリシエ教の教義は性の快感を否定しない。偽りの愛こそ糾弾するが、偽るまでもなく愛なき行為は推奨こそしないまでも許容範囲内である。
つまりは、クリシエ教総本山・シグファレムにおいても、性風俗は存在を許されていた。
しかしこの手の業を営むには、いささか高額な教会への納税を避けては通れない。結果、利用する際に支払うものも安いとはいえない額となる。
風俗街の存在する街へ来ても、金銭的理由から夜を楽しめない者は多く、モンドたち祭りの参加者などもその口である。
……例年であれば、だが。
アトラの活躍によって、彼らの財布は誇らしい温もりに満ちている。肩で風を切り、胸を張って破顔する彼らは、日も高いうちから“その手”の区画に特有の匂いに心を浮き立たせていた。
その一方で、モンドの隣にいることで相対的にも少年味が増して見えるアトラは、この時ばかりは見た目相応の純真な好奇心を、そこかしこへ視線を忙しくしながら振りまいていた。彼にとって、こういった街区を見るのは初めてのことである。
さて、そもそもなぜアトラがこの様な場所におり、女の艶然とした笑みを向けられているのか。
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すこし時間は遡る。
唐突かつ急激な魔物との遭遇率の低下に伴い、祭りは1日の休息日を挟むことになった。
森の奥へと魔物が退避しているのではないかとの推測に基づいての、教会側による判断だった。
奥へいるならば、奥へと進めばいいとは誰も言わない。奥へ進むほど、強力な魔物の縄張りに入る確率は上がるからだ。故に、各班にはその行動範囲に制限が課されていた。木々に巻かれた鎖が、ここより先は立ち入るなという境界である。
その様な事情から、各班はそれぞれ思い思いに休日を過ごそうとしていた。もっともその大半は、自分の班がどんな冒険をしたかという、ふんだんに脚色された冒険譚を披露する予定で一致していた。遊び歩くにも先立つものがない彼らにとっては、これがいつものことなのだ。
まさか、家に持ち帰るべき金を使うわけにもいかない。
しかしそういった例年の事情は、アトラたちに関しては適用されない。
「さて……ルカはなにで喜ぶか……。あんまり食べ物をっていっても、保存が難しいしな……」
日も昇り切っているお昼時、小屋の中で財布の中の硬貨を指でいじりながら、これといって欲しいものもないアトラは、健気にもこれらの使い道を固めつつあった。
あとは、何を土産とすれば主人の笑顔を引き出せるかを模索するだけである。うんうんとその表情は悩ましいが、心に沈鬱な翳りはない。むしろ、アトラにとっては好ましい悩みとすら言えた。
さらに数分ほど思案してから、アトラはスッと立ち上がる。どうやら店を物色しながら考えることにしたらしい。
思い立ったら即行動と、よどみなく進んでいた歩みが止まる。眉根に力が入り、新たな難題にシワを作る。
「ルミィナさんのは……どうする?」
その疑問は、彼にとって不吉なものだったようだ。
先ほどとうって変わって苦い表情を顔に浮かべるアトラは、誰もいない小屋内で幾度となく逡巡を繰り返す。
「なしってわけにはいかないよな……まあルカに買って帰る以上はそうなる。それはいいとして…………なにを買えばいい……?」
彼の中では、ルカへの土産の購入は決定事項だ。出かける際の態度からも、土産のひとつもなしの帰宅では、あの透き通るように白い頬を、玉のようにふくれさせることうけあいである。そうなればしばらく素っ気ない態度を取られることは分かり切っており、その間をアトラは味方なしで過ごさねばならない。
あの血濡れの魔女を向こうに、掩護がないのは致命的だ。自身の行動や言動が如何に魔女の神経を逆撫で、あるいは嗜虐心を刺激せしめるか。アトラは文字通り骨身にまで染みている。
しかしルカにのみ土産を持って帰れば、ルミィナの不興を買うのも目に見えていた。アトラからの土産を心待ちになどカケラもしていないルミィナだが、こういった配慮のなさに不寛容なのも学習済みの居候である。
「ぐぅぅ……いやぁ……違うな……」
彼の悩みは深い。
と、ついに頭を抱えてしまった少年の耳は、こちらへ近づく足音を捉える。
重い足音と共に入ってきた人物は、アトラの想像通りの人物だった。
「おお、まだいたな——って、おまえ金を前に頭抱えてどうしたんだ?」
「あー、いや。こっちの話でさ、なんでもない……」
アトラの不審な態度を、厳しい面構えの店主は見事に誤解したらしい。大きくため息を吐くと、呆れ顔でアトラの丸まった背中をバシバシと叩く。
その音は、何人かが怪訝な表情で覗き込んでくるほどよく響いた。
「盗っ人。何度でも言うけどよ、焦るんじゃねえぞ? おめえの取り分がどんだけかは知らねえが、全部を俺への支払いに充てなくてもいい。
急かしゃしねえんだ。少しは懐に残しとけ」
それだけ言うと、弁解の隙も与えずに続ける。
「うし、金勘定は終わりだな! おめえもヒマしてるだろ? ちょっと来いや」
またも返事を待たずに、モンドはアトラへ背を向け歩き出す。やや呆気に取られたアトラも、急いで何枚か出していた硬貨を回収すると、その背を追いかけた。
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人の話をまるで聞かないおっさんのあとを追うと、何人かの見知った顔が集まっていた。
ていうか、見知ってるも何も、あれはオレのとこの班員だ。
いや、ノックとかいう優男の姿がない、か?
あいつ存在感薄いから、いるのかいないのかよく分からないんだよな……おっさんの存在感が強いから尚更に。
「おお? なんだ頼れる盗っ人さまも呼んだのか?」
「彼は功労者だから、いても不思議はないな。いや、呼ぶべきだ」
「俺らが遊べるのは盗っ人先生のおかげなんだ、モンドの旦那が呼ばなきゃ俺が声をかけてたよ」
初日に活躍して以降、おっさんの知り合い連中はオレを『盗っ人さま』とか『盗っ人先生』とかいう、偉いのか偉くないのか分からない呼び方をすることがあった。
なんだ『盗っ人さま』って。一流の盗賊みたいな呼び方はやめてほしい。
『盗っ人先生』も、まるでオレが盗みを教えてるみたいでやっぱり人聞きが悪いし、先生なんて言うなら『やめてくれ』と言われたらやめてくれ……。
ポコポコと湧き出る不平不満を、諦めの気持ちが洗い流す。何度言っても意味がないのは、もうとっくに分かってたし。
「よし、全員揃ったな」
「ノックが来てないぞ?」
「ああ、あいつは頭が固いからさ。『自分はそういうのはちょっと』なあんて断っちまった」
「わはは! ノックらしいじゃないですか!」
「まだ正式なお付き合いもしていないのに操を立ててるわけだ」
口々にノックを笑う面々。その声に嫌悪はなく、どちらかと言うと来ていないこと自体を好ましく思ってるような響きを感じる。
なんだかんだで愛されてるみたいだ。
「それで、まだオレは目的聞いてないんだけど、まさか無断で狩りに行くんじゃないよな……?」
だとしたら付き合えない。むしろ止める必要すら出てくる。
そんな覚悟もしていた問いに対して、おっさんたちはそろってニヤニヤとした笑みを浮かべると、今度は上機嫌に笑い合う。
情緒か頭がおかしくなっているのか?
もしやこれが〈心害魔法〉というヤツなんだろうか?
一通り笑ってから、おっさんは赤くなった顔を向けてくる。
「うまいこと言うなあ、盗っ人お! おうとも、確かに狩りに違いない!」
笑いを噛み殺したその言葉に、何人かは肩を震わせている。
「行くぞ、盗っ人! 相手は魔物なんてつまんねーもんじゃねえからな。気ぃ張っとけよ!」
それだけ言うと、おっさんは巨体に似合わない軽やかな足取りで先に行ってしまう。みんなもどこか浮ついた雰囲気でそれに続いた。
「??? そっちは街だぞ?」
訳が分からない。狩りなんて言いながら、みんなしてなんだってそっちに行くんだ?
それも、こころなしか誇らしげに。見せつけるように。そこに黙って狩りに行く後ろめたさはない。
「…………?」
妙な気配……というよりも視線に気づく。
振り返ると、さっきまでやいのやいのと騒がしくしていた参加者連中が、一斉にこっちを見ていた。
羨むようなものから、畏敬のこもったものまで、その視線は様々だ。大げさに言えば、なんだか英雄を見送るような、そんな視線にも思えた。
「おい盗っ人お! おまえへの礼でもあるんだ。はやくこおい!」
野太い声に呼ばれて、オレは理由の分からない視線に背を向けた。
追いついてからもこれといって武器も持たず、いくつかの露店で買い食いをしながら歩く。その間の会話も狩りらしいものはない。
傾向としては、すこしいつもより品のない内容が多かったと思う。けど、そのくらいだ。
そんな感じにだらだらと、しかし行き先だけは定まった足取りで進むと、ある道を境にして街の雰囲気が変わった。
「ここは……」
——歓楽街。
一瞬で浮かんだ単語と、目の前の風景を比べ見る。規則正しく整列し、高さまでにも規則性がある。それが、ここダ・ムーブルの街並みだったはずだ。
だが、ここはまるで違う。不規則に、それぞれの好きに必要なまま建てられた建物。しかし不快に思わないのは、おそらく色が統一されている影響だろう。
他の街区が比較的色とりどりな街並みを見せていた一方で、ここは白が目立つ。建物自体も白の占める割合が多い上、そこかしこに白い旗……というよりは、短い垂れ幕のようなものが、建物のどこかしらの部分に必ずあった。
それらが風になびくと共に、不思議な匂いを運んでくる。——女の匂いだ。
ここに来てピンと来ないほど呆けてはいない。狩りとはつまり、こういうことだったのだ……。
複雑に曲がりくねった道々から、これまた白い衣装で身を飾った女性らが、艶やかな視線を向けてくる。
しかし淫らで下品な印象はどこにもない。どことなく品格を感じる佇まい。なんだか不思議な空間だった。
「おぉ……」
「すげぇ……」
いくつかの生唾を飲み下す音と、感動すら含んだかすれ声。恍惚とした様子は、いっそ虚しいほどにオスだった。
「なんだあ、盗っ人。キョロキョロせわしねーな。男は胸張って、女の視線をどっしりと受け止めるんだよ! ベッドでの主導権争いはもう始まってんだぞ?」
「それとも盗っ人くんはまだ興味はないかい?」
「まっさか不能でもないんだろ? 経験がないっていうなら、尚更経験しとかなきゃあ」
おっさんを筆頭に、助平どもがなぞの一体感を発揮して挑発してくる。ただ、そこに悪意はなく、意外なくらい本当に好意的な態度を示していた。なんというか、先達として仲間の門出を祝うような、そんな感じだ。
「……………………」
ちょっと、考えてみる。
果たしてオレに、その機能はあるんだろうか? 排泄すらしないオレが、仮に“そういうこと”もできないとすると、これはもういよいよ愚息が愚息なことになる。それは相棒としては、ちょっとかわいそうだ。いよいよ息子の存在価値が否定されてしまう。
いや、男のシンボルという重要な立ち位置には立ってはいるが、カラキリへ対する周囲の反応からして、それに大した意味があるのかも微妙っぽいような…………。
「いや……性病の心配とか、さ」
とりあえず普通っぽい反応を返してみる。
が、みんなは一瞬目を丸くして、互いに顔を見合わせてから妙に優しく、諭すような調子で肩を叩いた。
「盗っ人さんよ。なるほど、アンタぁ腕も立つしモノも知ってる。さぞや勉強と鍛錬の日々だったことだろうさ」
「けどね、こういう社会勉強もそれはそれは大切なんだよ。例えば、安全な店とそうでない店の見分け方、とかね?」
「白い旗、あんだろ? あれは安全だ。母神教会の認可を得てるってことだからな。あの服装も、不衛生な環境で汚れたら誤魔化せないようにって意味もあるんだぜ?」
「それに、だ。母神教会公認の店で“そういうこと”になった場合、なんと無料で〈治癒〉してくれる。
運良く綺麗な修道女さんに診てもらえるなんてなったら2度美味しい!」
懇切丁寧に行われる後輩指導。聞けば聞くほど男らの業の深さが匂う内容だったが、なるほど。確かに、オレはこういった“男なら知っておくべき知識”に疎かった。『男の常識』とも言えるものが抜け落ちている。
「社会勉強、か」
「おう! 経験しなきゃあ見えねえモンもある! 金なら心配するんじゃあねえぞ、盗っ人」
たくましい腕が、オレの手にアツいものを何枚か握らせる。硬貨だ。それも、銀の輝きすら見える。
「俺らの稼ぎから出し合ってな。これだけありゃあかなり高級なサービスが受けられるはずだ」
「今回はあんたのおかげで稼がせて貰ってるからな!」
「初めてはとびきりいい思い出にしなきゃあダメだぜ! おれなんざ初めてでとんでもねぇの引き当ててさ、当分相棒の晴れ姿を見れなかったんだかんな!」
なるほど、これはつまりは“男の通過儀礼”にも似た側面を持つのだろう。渡された硬貨の熱いはずだ。ずっと握り締められていた以上の熱を、確かに感じる。それはおそらく、男にしか分からない熱なんだろう。
「ここまでされたら、もう断れないだろ」
オレの言葉に、男くさい笑みが人数分浮かぶ。もちろん、人数分とはオレも含めてのものだ。
「ぃよおし! おめえら、今日はシグファレムに漢が1匹産声をあげる日だ! 盛大にやるぜぇえええッ‼︎」
「「「ぅをおおおおおおおおおッッ‼︎‼︎‼︎‼︎」」」
クスクスとした笑みに迎えられながら、オレたちは白い楽園を闊歩するのだった。
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霊験灼然な神聖なる森に、赤い司祭服は誰憚ることなく笑い声をあげながらに祈りを捧げる。その石のように動かない表情の司祭へ対し、巨大な立体魔法陣はドクンッと大きな福音をもって祈祷への応えとした。
魔物の不自然な消失。その原因が呼応する。不浄な空気が辺りを支配する空間は、常人ならば耐え難い瘴気に満ちていた。
周囲には人であったものが、自らのすべてをつまびらかにされながらも、それでも尚苦痛に呻き、逃れようと痙攣を続けている。それらの苦痛を長引かせている原因もまた、赤黒く脈動する魔法陣に他ならなかった。
蠢く肉を、未だに生き永らえさせているという奇跡は、それ単体で少なくとも〈浄域魔法〉に相当する、一般の魔法理論から逸脱した奇跡である。
そんな異質な領域へ、平然と足を踏み入れる者がいた。
「アビさん。今戻りましたよ」
「おや、早かったですねェ。それで、魔物の誘導はどうでしたか?」
「順調そのものって感じスね。つか、〈血河拍域〉まで使う必要あるんスか?」
「えェ。彼を迎える上で、準備は万端にして然るべきでしょうからねェ。明日が今から楽しみでなりませんよォ! それからゼリューさん。その呼び名は異端のものですよ? 正しくは〈単話神言〉です。貴方も幾度と見聞きしているのですから、そろそろ覚えても良さそうなものですがねェ」
長い金の髪を後ろでまとめた長身。軽い口調とは裏腹に、翡翠色の瞳は意志の強さを示し、浅黒な腕を露出させている革鎧は、鍛えられた肉体の輪郭をはっきりと浮かばせる。
精悍さを窺わせるのは、何も外見に限ったものではない。纏う空気と威圧感こそ、歴戦の強者特有のものであった。
瘴気に競うように禍々しい黒剣は、鞘の中からはやく使えと急かすかのようだ。
「しかしわたしたちは本当に運が良い。あれだけ時間をかけ隠密に醸成してきた祭壇が失われたかと思えば、これほど優れた霊地に、『聖絶祭』などと称して贄の方からやってくるのですからァ? 更にはあの少年までも参加していると言うではありませんかァ! クッ、クくく……これも御導きなのでしょう。
教会の妨害を恐れてこその慎重さと警戒でしたが、これほど優れた“場”であれば、短期間でも儀式は成るでしょう」
「上機嫌なとこ悪いっスけど、ならなんだって今までそうしなかったんスか? あんなシケたとこで長々やる必要あったんスかね」
「えェ、今回は例年よりも教会の手が薄いんですよォ。お陰で大々的に行動できるでしょォ。この様な機会は極めて稀有なものです。偽りの神々の手垢に汚れていない一般参加者のみなさんであれば、素晴らしい贄となって下さるでしょうねェ!」
不浄なる瘴気の中、司祭の陶然とした声が響く。
常人には堪え難い肺を侵す瘴気はしかし、ゼリューと呼ばれた男の周囲には近づかない。まるで見えない何かに阻まれるように、彼のことを避けている。彼が平然と司祭との会話に興じられるのも、このためであった。
「…………アビさん。コイツらまだ使ってんスか? 歩く邪魔っスよ」
「ああ、いけません、足蹴になど。彼らは贄として今も身を捧げている最中ですよォ? ほら、痛がっているではありませんか。かわいそうに」
「痛がってる? …………意識、あるんスか……? この状態で……?」
「意識を保たねば贄たり得ませんからねェ。」
司祭の言葉は半ば予想していたとはいえ、戦士は顔を顰めた。彼らが贄たる役目を終えたなら、その瞬間に楽にしてやろうと心にメモを書き込んでおく。
「ああ、そうでした。わたしとしたことが伝え忘れていました。ゼリューさん、朗報ですよォ?
今回、アンゲマン司祭は不在とのことです。彼は我々の妨害に関しては脅威でしたからねェ。これは歓迎すべきことでしょォ」
「朗報じゃないっスよ。あんのクソ神父をブッ殺すのがおあずけになっただけじゃないスか」
「おや、寂しそうですねェ。ではこれなら喜んで頂けるでしょうかァ。レティシカさんは参加しているようです。クっフ、これで退屈は紛らわせそうですねェ」
「ゲェ! あのしちめんどうな女きてんスか⁈ チッ、だりぃなぁ……」
金髪の戦士は厄介な外敵の存在に舌を打つと、睨む様な視線を虚空へ投げる。巨大な木々を抜けたその先には、ダ・ムーブルがあるはずだった。
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結論から言って、オレの息子の安否は依然として不明だった。
どうにも性的な興奮が難しい。まるで人間自体が対象外という感じ。トカゲや虫に欲情しろと言われているのと大差ないような、そんな感覚。
いや、正確には違う、か。
実際のところオレは興奮していた。だがそれは性的なものとは異なる、飢えと渇きを伴う興奮。目の前にある白く柔らかな首筋。その白い肌越しにも聞こえる血流の音。オレは息を荒げた。だから、すぐに打ち切って、おっさんたちに謝罪してからこうして帰ってきたのだった。
娼婦の白い女性は、オレのおかしな挙動を童貞特有の挙動不審とでも思ってくれたらしい。別れ際、宥めるように背中を撫でて、今回のお代はいらないから、またいつでもおいでというような言葉をかけていたと思う。
「……あ……お土産買い忘れた……」
横になって冷静さを取り戻そうとする中、本来の予定を果たせていないことに気がつく。けど、まあまた時間もあるだろう。今日はもう動く気になれない。明日……は狩りの再開か。
ま、帰り際でもいいんだ。それまでに何を買うか考えとくかな。
そんなことをのんびりと考える。
しばらくして戻ってきたおっさんたちは、なんとなく血色が良くなり、若返った様にすら見えた。
わぁっと人が群がる。英雄のご帰還だ。
その夜は機嫌の良いおっさんの創作料理が振る舞われ、例の店で見た娼婦の絶技やら、オレが直前でビビって逃げたやら、まあ吟遊詩人もかくやというほどに語るわ騙るわ。
オレは使い残した甘辛いタレを水に溶かしてちょびちょびとやりながら、時々向けられる好奇やからかいの目を微妙な顔でやり過ごして夜を凌いだ。
吸血衝動が起こったんでやめましたなんて言えるわけもなし。好きに言わせるほかない。
そんな騒ぎの中、遠くに見覚えのある修道女の姿が見えた。ガヤガヤとした喧騒から無縁の、月明かりしかないくらいに集団から離れて、険しい表情で遠くに見える森を眺めている。いや、睨んでいる?
その時、ふと首を動かしたレティシカと目が合った気がした。
当然錯覚だ。この距離で、この暗さで、これほど仔細に修道女の挙動を見て取れるのは、それは人間より遥かに夜目の効く吸血鬼であるからこそ。
レティシカから見れば、オレたちがお祭り騒ぎをしているのは分かっても、その個人を識別することはできないだろう。ましてやその中からオレの視線を手繰ることなど出来るはずがない。
「アトラ殿。それは何かの酒か?」
自分を呼ぶ声にハッとする。いつの間にか隣にカラキリが来ていて、オレが啜ってるのが何なのかと覗き込んでいた。オレはカラキリにも同じものを作って渡してやる。
おっさんは酒場を1人でやりくりしているだけあって、料理の腕もなかなかだった。特にオリジナルの調味料が美味い。こうしてそれ単体でも味わえる程度には。
オレはうまいうまいと喉を鳴らすカラキリと談笑しながら、何となくさっきのレティシカの表情が頭を離れなかった。
あのどことなく不吉な表情。
「明日は狩りの再開だな……」
誰にともなくつぶやく。そうすることで、胸の中の不吉な予感を吐き出したかったのかもしれない。
その突拍子もない予感も、お祭り騒ぎが解散するころには忘れていた。
忘れてしまった。
そして翌日。血腥い、悔恨の1日が訪れる。
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