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2話 眠り病
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……おーい。
どこか遠くから声が聞こえた気がした。
…………おい、起きろ。
暗闇の中、けれどイリアはまだ目を開けたくなくて無視をした。深い眠りから急に引き戻されるようで不快だったのだ。もう少し眠っていたかった。
いい加減起きてくれないか?
まったくいつまで寝てるんだよ。
というかこの声は誰だろう。
聞いたことのない男の声だ。いいや誰でもいい。ずっと睡眠不足だった身体はまだ寝足りないのだ。放っておいてほしい。
「いい加減起きろこの寝坊助令嬢!」
(……ああもう、一体誰なの? うるさいわね!)
耳元で聞こえる声に耐えかねてイリアはがばりと起き上った。眠すぎて機嫌が悪かったせいもあり、つい感情的な声が出てしまった。我に返ってしまった、と思ったのと同時に目の前には見たことのない青年がいることに気がついた。
黒髪に紫の瞳の黒縁眼鏡をかけたやぼったい男だった。白衣をきているから医者だろうか? 唖然とした顔でイリアを見つめていた。
(え? あの……)
「うそだろ……」
白衣の青年が愕然とした顔で呟いた。一体どうしたのだろう。
(あなたは誰……?)
ここは公爵令嬢の私室だ。そんなところにいきなり見も知らぬ人間がいるわけがない。どういうことなのか問おうとしたイリアに白衣の青年は顎で背後を指示した。
(え……!?)
振り返ったイリアは愕然とした。
そこにはベッドで深く眠ったままの自分自身がいたからだ。
「幽霊? いや、身体は生きているな……。起きろとはいったが、まさか精神体だけが目覚めるとは」
(私……!? 一体どういうことなの? って、身体が透けてる……!)
「イリア・セルラオ公爵令嬢」
よく見れば両手が透けている。
そして背後で眠っている自分の姿にイリアはパニック状態だ。名を呼ばれて咄嗟に顔を上げた、そんな彼女に淡々と黒髪の青年が告げた。
「今の君はどうやら精神だけが身体から抜け出てしまっているようだ」
「イリアはまだ目覚めないのか」
「はい、ご息女は眠ったままです。呼吸も脈も正常です。身体に異常はありません。――おそらくは、妖精の仕業でしょう」
「……妖精」
室内に置かれているソファに座ってイリアはエルネストと白衣の青年の話を聞いていた。ベッドには眠ったままの自分が横たわっている。そして、ソファに座ったイリアをエルネストは見えないようだった。自分の手にそっと視線を落としてみるとやっぱり透けている。
(まさかこのまま死んでしまったり……なんてするのかしら)
一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。そして、あの青年はやはりどうやら医者のようだった。
イリアが目覚めてすぐにエルネストが訪ねてきたため、まだ何も聞けていないのだ。エルネストにはどうやらイリアが見えないようだったので、とりあえず今は部屋の隅にあるソファで話を聞いていた。
普段イリアの世話をしている侍女達が背後に控えていて心配そうに見つめていた。
「最近ご息女に何か気になることはありましたか? 何か強いストレスを感じるようなこととか」
「……いや」
「そうですか。まあ、今すぐ命に係わることではありません。多少時間はかかりますが目覚めることがほとんどです。原因がわかってそれが取り除ければ一番なんですが」
「なるべく早く目覚めさせてくれ。あとこのことは……」
「もちろん口外はいたしません」
さすがに王子から婚約破棄されたことは言えなかったようだ。
淡々と告げた医者にエルネストはちらりと視線をイリアに移した後それだけ告げて部屋を出て行った。それに代わるように侍女達が部屋に入ってきてイリアの世話を始めたので医者の青年も一緒に部屋を出て行った。
「イリア様、お可哀そうに」
「本当に眠っておられるだけなのね。……まるで眠り姫のようだわ」
ぽつりとこぼされた言葉に、イリアは昔サラに読んでもらった絵本を思い出した。
妖精に魅入られて眠り続ける姫を王子がキスで目覚めさせる物語。
だけど今のイリアにはそんな王子様はどこにもいないのだった。
「自己紹介が遅れたな。俺はリディオ・カルダーノ。もうわかってると思うが医者だ。この家の専属医師がぎっくり腰とかで代理で来た」
(そ、そうだったのですね)
イリアの部屋に戻って来た医者の青年、リディオは誰もいないことを確認するとまっすぐにイリアが座っているソファの前に立った。やはりイリアが見えているのだ。セルラオ家の専属医師はかなり高齢のおじいちゃんだった。腰の具合は大丈夫だろうか、と人のことを心配している場合ではないが思ってしまう。
(イリア・セルラオと申します。この度はご足労感謝いたします。それで……その、父にも侍女達にも私が見えなかったようですね)
「そうだな」
(でもあなた様は私が見えているのですよね?)
「そうなんだよなあ……」
(妖精の仕業と貴方は言いました。どういうことでしょう。私は死んでしまったわけではないのですよね?)
イリアの言葉に少し上を向いて黙っていたリディアがちらりと視線を移したのは眠ったままのイリアの身体だった。
「死んではいない。この通り脈は正常だし顔色は……少々悪いが大丈夫だ。君は願ったんじゃないのか? ずっと眠っていたいって」
(え……)
眠る前の記憶を思い出してイリアは言葉に詰まった。
確かにイリアはもう何もかもが嫌になって眠り姫のように滾々と眠り続けたいと思ってしまったのだ。でもまさかそれが本当になってしまうなんて。
「妖精は自分たちを慕ってくれる信心深い奴らが大好きだ。君もおそらくそうだったんじゃないか? だから君の心からの願いを妖精たちが叶えてくれたのさ」
アナスタージ王国は妖精に祝福されてできた国だと伝わっている。そのため建国からずっと教会でも妖精女王ティタニアを祀り、人々は祈りを捧げてきた。妖精は人間の目には見えないけれど自然界のあらゆるところに存在し、人間に力を貸してくれていると言われる。特に魔法や医療は妖精への祈りを使うことも多い。
「おそらく俺が君のことを見ることができるのも医者だからだろうな」
妖精の力を借りることが多い医者にはより妖精は身近な存在なのだろう。
「まあ君のこの症状は眠り病と言って、珍しいことだがまったくないわけじゃない。身の内のストレスが発散されれば妖精達も目覚めさせてくれるだろう」
(ストレス?)
「ずっと眠っていたいと思うような状態ってのはストレスが溜まってるってことだろう」
(……たしかに、そうかもしれません。ずっと忙しかったですから)
リディオの説明を聞いて、イリアはようやく納得して落ち着くことができた。
精神は身体から抜け出たままだけれど。
ずっと気づかないふりをしていたけれど、身も心もとっくに限界だったのだ。そんなイリアの弱音を妖精達が聞いて願いを叶えてくれたのだろう。
ふらりと立ち上がってイリアは自分の身体が眠っているベッドに腰かけた。眠った顔にはまだ疲労の色が濃く目元には隈ができていた。
それを客観的に見てみると、なんだかひどく自分が哀れな気がしてきた。
(精一杯、がんばってきたのにね……)
苦笑して深く一度息を吐いてからイリアはうーんと背伸びをした。精神体だけれど。
(なんだか全部馬鹿らしくなってしまったわ。もうしばらく眠ったままでいいです)
「おいおいちょっと待て。それじゃあ医者の俺は困るんだが」
(それは……まあ、そうですよね。あの、私以外にこんな風に精神が抜け出た患者さんはどうしてたんですか?)
眠り病は珍しい病気だが無いわけではないとリディオは言っていた。だったら対処法もあるのではないだろうかと思ったのだが。
リディオは眼鏡を直して憮然として言った。
「俺自身は眠り病の患者を診るのは初めてだし症例に精神が抜け出た奴の話なんて聞いたことがない」
(え、そうなのですか?)
それにしてはずいぶん慣れてるような感じでエルネストに話していた気がしたが、リディオは医者は患者を安心させるのも仕事のうちだからなと嘯いた。
「とにかくしばらくの間、君が治るまで俺はこの屋敷に通うことになった。よろしくな」
(……よろしくお願いします?)
めんどくさそうに出してきたリディオの手をイリアは握ろうとして、予想通り触れられなかったけれどなんとなく握手のようなことをした。
どこか遠くから声が聞こえた気がした。
…………おい、起きろ。
暗闇の中、けれどイリアはまだ目を開けたくなくて無視をした。深い眠りから急に引き戻されるようで不快だったのだ。もう少し眠っていたかった。
いい加減起きてくれないか?
まったくいつまで寝てるんだよ。
というかこの声は誰だろう。
聞いたことのない男の声だ。いいや誰でもいい。ずっと睡眠不足だった身体はまだ寝足りないのだ。放っておいてほしい。
「いい加減起きろこの寝坊助令嬢!」
(……ああもう、一体誰なの? うるさいわね!)
耳元で聞こえる声に耐えかねてイリアはがばりと起き上った。眠すぎて機嫌が悪かったせいもあり、つい感情的な声が出てしまった。我に返ってしまった、と思ったのと同時に目の前には見たことのない青年がいることに気がついた。
黒髪に紫の瞳の黒縁眼鏡をかけたやぼったい男だった。白衣をきているから医者だろうか? 唖然とした顔でイリアを見つめていた。
(え? あの……)
「うそだろ……」
白衣の青年が愕然とした顔で呟いた。一体どうしたのだろう。
(あなたは誰……?)
ここは公爵令嬢の私室だ。そんなところにいきなり見も知らぬ人間がいるわけがない。どういうことなのか問おうとしたイリアに白衣の青年は顎で背後を指示した。
(え……!?)
振り返ったイリアは愕然とした。
そこにはベッドで深く眠ったままの自分自身がいたからだ。
「幽霊? いや、身体は生きているな……。起きろとはいったが、まさか精神体だけが目覚めるとは」
(私……!? 一体どういうことなの? って、身体が透けてる……!)
「イリア・セルラオ公爵令嬢」
よく見れば両手が透けている。
そして背後で眠っている自分の姿にイリアはパニック状態だ。名を呼ばれて咄嗟に顔を上げた、そんな彼女に淡々と黒髪の青年が告げた。
「今の君はどうやら精神だけが身体から抜け出てしまっているようだ」
「イリアはまだ目覚めないのか」
「はい、ご息女は眠ったままです。呼吸も脈も正常です。身体に異常はありません。――おそらくは、妖精の仕業でしょう」
「……妖精」
室内に置かれているソファに座ってイリアはエルネストと白衣の青年の話を聞いていた。ベッドには眠ったままの自分が横たわっている。そして、ソファに座ったイリアをエルネストは見えないようだった。自分の手にそっと視線を落としてみるとやっぱり透けている。
(まさかこのまま死んでしまったり……なんてするのかしら)
一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。そして、あの青年はやはりどうやら医者のようだった。
イリアが目覚めてすぐにエルネストが訪ねてきたため、まだ何も聞けていないのだ。エルネストにはどうやらイリアが見えないようだったので、とりあえず今は部屋の隅にあるソファで話を聞いていた。
普段イリアの世話をしている侍女達が背後に控えていて心配そうに見つめていた。
「最近ご息女に何か気になることはありましたか? 何か強いストレスを感じるようなこととか」
「……いや」
「そうですか。まあ、今すぐ命に係わることではありません。多少時間はかかりますが目覚めることがほとんどです。原因がわかってそれが取り除ければ一番なんですが」
「なるべく早く目覚めさせてくれ。あとこのことは……」
「もちろん口外はいたしません」
さすがに王子から婚約破棄されたことは言えなかったようだ。
淡々と告げた医者にエルネストはちらりと視線をイリアに移した後それだけ告げて部屋を出て行った。それに代わるように侍女達が部屋に入ってきてイリアの世話を始めたので医者の青年も一緒に部屋を出て行った。
「イリア様、お可哀そうに」
「本当に眠っておられるだけなのね。……まるで眠り姫のようだわ」
ぽつりとこぼされた言葉に、イリアは昔サラに読んでもらった絵本を思い出した。
妖精に魅入られて眠り続ける姫を王子がキスで目覚めさせる物語。
だけど今のイリアにはそんな王子様はどこにもいないのだった。
「自己紹介が遅れたな。俺はリディオ・カルダーノ。もうわかってると思うが医者だ。この家の専属医師がぎっくり腰とかで代理で来た」
(そ、そうだったのですね)
イリアの部屋に戻って来た医者の青年、リディオは誰もいないことを確認するとまっすぐにイリアが座っているソファの前に立った。やはりイリアが見えているのだ。セルラオ家の専属医師はかなり高齢のおじいちゃんだった。腰の具合は大丈夫だろうか、と人のことを心配している場合ではないが思ってしまう。
(イリア・セルラオと申します。この度はご足労感謝いたします。それで……その、父にも侍女達にも私が見えなかったようですね)
「そうだな」
(でもあなた様は私が見えているのですよね?)
「そうなんだよなあ……」
(妖精の仕業と貴方は言いました。どういうことでしょう。私は死んでしまったわけではないのですよね?)
イリアの言葉に少し上を向いて黙っていたリディアがちらりと視線を移したのは眠ったままのイリアの身体だった。
「死んではいない。この通り脈は正常だし顔色は……少々悪いが大丈夫だ。君は願ったんじゃないのか? ずっと眠っていたいって」
(え……)
眠る前の記憶を思い出してイリアは言葉に詰まった。
確かにイリアはもう何もかもが嫌になって眠り姫のように滾々と眠り続けたいと思ってしまったのだ。でもまさかそれが本当になってしまうなんて。
「妖精は自分たちを慕ってくれる信心深い奴らが大好きだ。君もおそらくそうだったんじゃないか? だから君の心からの願いを妖精たちが叶えてくれたのさ」
アナスタージ王国は妖精に祝福されてできた国だと伝わっている。そのため建国からずっと教会でも妖精女王ティタニアを祀り、人々は祈りを捧げてきた。妖精は人間の目には見えないけれど自然界のあらゆるところに存在し、人間に力を貸してくれていると言われる。特に魔法や医療は妖精への祈りを使うことも多い。
「おそらく俺が君のことを見ることができるのも医者だからだろうな」
妖精の力を借りることが多い医者にはより妖精は身近な存在なのだろう。
「まあ君のこの症状は眠り病と言って、珍しいことだがまったくないわけじゃない。身の内のストレスが発散されれば妖精達も目覚めさせてくれるだろう」
(ストレス?)
「ずっと眠っていたいと思うような状態ってのはストレスが溜まってるってことだろう」
(……たしかに、そうかもしれません。ずっと忙しかったですから)
リディオの説明を聞いて、イリアはようやく納得して落ち着くことができた。
精神は身体から抜け出たままだけれど。
ずっと気づかないふりをしていたけれど、身も心もとっくに限界だったのだ。そんなイリアの弱音を妖精達が聞いて願いを叶えてくれたのだろう。
ふらりと立ち上がってイリアは自分の身体が眠っているベッドに腰かけた。眠った顔にはまだ疲労の色が濃く目元には隈ができていた。
それを客観的に見てみると、なんだかひどく自分が哀れな気がしてきた。
(精一杯、がんばってきたのにね……)
苦笑して深く一度息を吐いてからイリアはうーんと背伸びをした。精神体だけれど。
(なんだか全部馬鹿らしくなってしまったわ。もうしばらく眠ったままでいいです)
「おいおいちょっと待て。それじゃあ医者の俺は困るんだが」
(それは……まあ、そうですよね。あの、私以外にこんな風に精神が抜け出た患者さんはどうしてたんですか?)
眠り病は珍しい病気だが無いわけではないとリディオは言っていた。だったら対処法もあるのではないだろうかと思ったのだが。
リディオは眼鏡を直して憮然として言った。
「俺自身は眠り病の患者を診るのは初めてだし症例に精神が抜け出た奴の話なんて聞いたことがない」
(え、そうなのですか?)
それにしてはずいぶん慣れてるような感じでエルネストに話していた気がしたが、リディオは医者は患者を安心させるのも仕事のうちだからなと嘯いた。
「とにかくしばらくの間、君が治るまで俺はこの屋敷に通うことになった。よろしくな」
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