眠り姫は目覚めたくない~王子様のキスなんていりません!

葉月くらら

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1話 突然の婚約破棄

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「イリア、君との婚約を今日限りで破棄する」



 雲ひとつない穏やかな朝のことだ。お天気をつかさどる妖精達もご機嫌なのね、と笑うメイド達とすれ違い呼び出された庭園でイリア・セルラオ公爵令嬢はゆっくりとひとつ瞬いた。


「婚約……破棄……」


 イリアの目の前にいる金髪碧眼のそれは美しい青年は難しい顔で頷いた。
 カルロ・アナスタージ。
 このアナスタージ王国の第一王子にしてイリアの婚約者だ。正確には今この瞬間からは元婚約者だろうか。隣には豊かな赤毛を持つルイーザ・サンティ子爵令嬢が寄り添っていた。
 いつものようにイリアが登城して妃教育の授業の前に妖精達への祈りを捧げていたのもそこそこに、礼拝堂から慌ててやってきてみればすっかり恋に浮かれている二人はとんでもないことを言い出した。

「幼い頃より厳しい妃教育に励んでいた君には大変申し訳なく思う。しかし僕はこのルイーザと出会って本当の愛を知ってしまったんだ。こうなってしまったからには僕は自分の気持ちに嘘はつけない……!」
「イリア様! どうか殿下を責めないでくださいませ。全ては私が悪いのです! イリア様が妃教育で忙しい合間にカルロ様を御慰めしたばっかりに……」

 完全に陶酔している様子のカルロを庇うように健気な様子でルイーザが訴える。口の端が歪んでいるのがばっちり見えていた。
 慌ててイリアは口を挟む。

「お待ちくださいませ。それはつまりルイーザ様と婚約されると言うことですか? このことを国王陛下はご存じなのでしょうか?」
「父にはまだ話していない。おそらく反対されるだろう。しかし僕の思いは誰にも変えられない」

 この国の王子であるカルロとイリアの婚約は国王の承認を得て決まったものだ。一般人の婚約とは違う。そう簡単に他に好きな人ができたからやめます、とできるものではない。

「そんな……」
「イリア、もう僕は君の好意には応えられないんだ。わかってくれ」
「イリア様、私なんとしても殿下を支えます。ご安心くださいませ」

 まるでこちらが困らせているかのように、カルロがため息をつく。
 正直イリアにとって婚約は生まれた時から決まっていたものなので、カルロに対して実は好意もなにもないのだが。それは今は関係ないので言わないでおく。


「……とにかく、そういうことだ。長いこと尽くしてくれたこと感謝する。そしてできれば……僕達を祝福してほしい」
「そう、ですか。……おめでとうございます」

 キラキラと光を纏わせてまるで物語から飛び出てきた王子のような姿でとんでもないことを言う。けれどイリアはもう何も言う気にはなれなかった。
 ただもう唖然として、それから心の中の何かがぽっきりと折れた音がした。



 イリアは生まれた時からカルロの婚約者だった。

 父親であるセルラオ公爵はアナスタージ国王の右腕として若い頃から仕え信頼されていた。先祖を遡れば王家にも連なる高貴な血筋もあって、幼いカルロの婚約者になったのだ。
 だからイリアは幼い頃から17歳になる現在までずっと長いこと厳しい妃教育を受けて育った。
 語学に政治、歴史に教養、ダンスに社交。妃として恥ずかしくない受け答えに立ち振る舞い。あらゆる勉強を朝から晩まで叩きこまれてきた。
 王城からの帰りの馬車に揺られながらイリアは呆然と流れていく窓からの景色を眺めていた。
 朝から晩まで勉強勉強の毎日。
 覚えなければいけないことは成長する事に増えていき、周囲は王子の婚約者なのだからすべて完璧で当然という目で見てくる。そのためイリアは眠る時間も削って努力してきた。カルロと将来結婚しこの国の国母となるのだからそんなことは当然だとイリア自身も思っていた。

『イリア、常にカルロ殿下の婚約者として恥ずかしくない立ち振る舞いしなさい。完璧であれ』

 幼い頃父親のエルネストに言われた言葉を思い出す。
 イリアはそれに素直に頷いて、そうあろうと努力してきた。

「……でも、すべては無駄だったのね」

 ぽつりとイリアは呟いた。
 カルロの裏切りでイリアの今までの努力はすべて無駄になってしまったのだ。



「お前はそれで黙って帰って来たのか。なんと情けない」
「申し訳ありません、お父様……」

 イリアと同じ豊かな栗色の髪を後ろに撫でつけた父エルネスト・セルラオ公爵は執務室の机に一度拳を叩きつけた。婚約破棄の報告を受けたエルネストは深くため息をついて立ち上がる。40代をすぎても整った端正な顔で社交界では色男と称されるエルネストだが、イリアは生まれてから一度も優しい顔など見たことがない。
 お前は王子の婚約者なのだから、が口癖で父親というよりは厳しい教師か後見人のようだった。 

「たかだか子爵令嬢など身分の低い女に後れを取るとは。勉強ばかりにかまけて王子に寵愛されるよう女として努力をしてこなかったからだ」
「そんな……! それは酷いです。私は幼い頃より王子に相応しい人間になるために勉強してきたのに」
「そんなことは当たり前だ!」

 エルネストの酷い物言いにさすがにイリアも抗議した。同年代の少女たちが楽しそうに過ごしているのを横目にずっとイリアは努力してきた。それを強いてきたのもまたエルネストだ。本当はイリアだって普通の少女達のように過ごしてみたかった。
 そもそも今回の件はカルロの身勝手な心変わりが原因なのに。
 けれどイリアの抗議は一際鋭いエルネストの声に遮られた。しんと静まり返る部屋の中をエルネストが横切って出ていく。

「お前は部屋で大人しくしいろ。陛下と話しをしてくる。……まったく、天の妖精界でサラも嘆いていることだろうよ」

 ばたんと一際大な音で扉が閉められた。
 イリアはただそこに立ち尽くしていることしかできなかった。


 その日は夕飯も食べずに部屋に籠った。
 ぼんやりとベッドに身を投げ出して月明りに照らされた天井を見つめる。
 こんなことをしたのは初めてだった。食事を抜くなんて使用人たちにも心配されてしまう。そんなことは王子の婚約者がしてはいけないことだから。

(ああでも、もうこんなことも気にしなくていいのね)

 だってもうイリアはカルロの婚約者ではないのだから。
 エルネストは国王陛下に相談に行ったが夜が更けてもまだ帰って来ない。おそらくカルロの意思は固いのだろう。
 別にカルロを愛していたわけじゃない。けれど胸の中は虚しさと悲しさでいっぱいだった。それは一体どうしてだろう?
 今までしてきた努力が無になってしまったこと。周囲の期待を裏切ってしまったこと。
 そしてなにより――……。


『イリア、あなたならきっと大丈夫。幸せになれるわ』

「お母様……」

 イリアが幼い頃流行り病で亡くなってしまった母、サラの言葉が蘇る。
 イリアを唯一ただのイリアとして愛してくれた人。思い出すと自然と涙が浮かんできて、慌てて布団を頭まで被って目を瞑った。


 ――天の女王ティタニア様、この地と民と私に今日も安らかな眠りをもたらしてくださることを……。
 この国に住まう者なら誰でもしている天界に住まうという妖精女王ティタニアへの夜の祈りを途中まで唱えかけてやめる。
 イリアの母サラは信心深く、この祈りを毎晩唱えていた。だからイリアも同じように祈り続けてきた。けれど、全然安らかでない今日の心地でイリアはそんな祈りを唱える気にはなれなかった。
 けれど幸いすぐにイリアは眠気に襲われた。
 ずっと勉強に追われて睡眠を削っていたからだろう。うとうととまどろみながらイリアは祈った。

『ああもう、ずっと目が覚めなければいいのに。物語の眠り姫みたいに』

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