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第47話 翼の折れた天使

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 生まれて初めて雪道を走って思った。
なんて走りにくいんだろう。
代官屋敷を抜けだした俺は、凍てついた冬の道を走っている。
10秒ごとに回復魔法をかけているのでひたすら全力疾走が可能だ。
だが凍った道は滑りやすく先程から何回も転んでいる。
だけど雪まみれになりながらも嬉しくて仕方がない。
今俺は自由なんだ。
 ゴードンに何も話さずに抜け出したのは心残りであるけど仕方がなかった。
今は少しでもコンブウォール鉱山から離れることに専念しよう。
凍った道と荷物のせいで多少遅くなっているが、時速15キロ以上は出ていると思う。
夜明けまではあと5時間くらいなので、75キロは走れそうだ。
ジョージ君もハチドリ達も問題なくついてきている。
月光よ俺に道標を示してくれ。


 明朝、イッペイの元に朝食を運んだ兵士が一番最初に異変に気が付いた。
イッペイが監禁されていた部屋はもぬけの殻だったのだ。
ドアには確かに鍵がかかっていた。
兵士と一緒に朝食のトレーを運んだ女中も証言している。
窓に嵌められた鉄格子にも異常はない。
この監禁用の部屋から床下や天井裏には抜けられない。
念のために天井裏や床下も確認したが、人が通った形跡はなかった。

「ではどこに消えたというのだっ!」
朝食の席でコーデリアはイッペイ失踪の報をきいた。
代官の鞭が空を裂き鋭い音をたてたが答えられる者はいない。
「役立たずどもがっ! 全員出ていけ!」
いつもそばに控える老執事以外の使用人が逃げるように室外へと去って行った。
「指名手配いたしますか?」
執事は短い言葉で主人の意向を探る。
「…あれは拘束の快楽よりも、自由を選んだようだ。素質はあったのに惜しいことだ…」
執事は何も答えずに次の言葉を待っている。
「探さずともよい。イッペイは死んだことにしておけ…」
「よろしいので、お嬢様?」
「アイツは私の鞭に耐えたのだ。褒美くらいくれてやるさ」
虚ろな瞳で窓から見える冬枯れの景色を眺める代官に深々と一礼すると、執事は部屋を出た。
コーデリアが幼い頃から彼女に仕えている執事は知っている。
お嬢様ががあの瞳をする時は涙を流すときだ。
しばらく時間が必要だと判断した執事は、紅茶を一杯飲むことにして主の元から離れた。


 夜が明けてから俺は走るのをやめている。
今は雪に埋もれているが、この辺りは畑が連なっているから集落が近いはずだ。
逃亡者だから目立つことは避けなければならない。
俺の追跡隊はもう出発しただろうか。
黒目黒髪はこの地域では非常に目立つ。
手配書などが回らない内に買い物がしたい。
今一番必要なのは塩だ。
調味料というだけではない。
コンブウォールからずっと走って大量の汗をかいている俺は塩分の補給が必要だ。
さもなければ、回復魔法があっても正常な体内機能が維持できなくなる可能性がある。
食料は肉しかないのでそれ以外のモノも欲しい。
パンや野菜が食べたいのだ。
この先の集落でなにかゲットできることを期待して俺は歩き続けた。


 マチア村の少年ルウはいつもの朝と同じくヤギの乳を搾っていた。
冬の間は畑で耕作はできない。
ヤギの乳はルウとルウの祖父にとってこの時期、唯一の収入源だった。
ルウに両親はいない。
2年前の流行り病でどちらも死んでしまった。
ルウが5歳の時だった。
現在ルウは祖父のパアスに引き取られて二人暮らしをしているが、その祖父も風邪をこじらせて寝込んでいる。
もしパアスが死んでしまえばルウは天涯孤独になってしまう。
けれども治癒士や神官に回復を頼むお金はなかった。
「どうかおじいちゃんを助けてください」 
ルウは毎晩神様にお祈りした。
教会の優しいシスターが教えてくれたのだ。
神様にお祈りを捧げればきっと天使様を遣つかわして下さると。
今のところまだ神様はルウの願いをききとどけてくれていない。
「いつになったら天使様はあらわれるの?」 
日々悪くなる祖父の容態を目にしながら、ルウは小さな胸を痛めていた。

 朝もやの中、霜を踏みしめながら一人の男があらわれた。
誰だろう? ルウはいぶかしむ。
それはとても不思議な男だった。
男は頭の上からつま先まで獣の革で作られた服を着ていた。
男の周りには銀色に輝く金属の鳥が2羽と、これまた銀で出来ているかのような猿が1匹付き従っている。
悲しみをたたえた瞳は黒く虚ろだった。
ルウにはすぐに分かった。
天使様だ! 神様が僕の願いを聞き届けて天使様をつかわしてくれたんだ!
「あの! …天使様…ですか?」
男は首をかしげるだけで何も言わない。
ルウは少しだけ怖くなるが祖父のために勇気を絞り絞った。
「おじいちゃんはまだ寝ています。ずっと具合が悪いんです。お願いです、助けてください」
天使は、ギルドに見つかったらとか、猿神様のせいにするかとか、ルウにはよくわからないことを呟きながらもついてきてくれた。

 ルウは天使を家に招き入れた。
暖炉の横の寝台には祖父が寝ている。
「風邪をこじらせて肺炎をおこしてるな…」
男はパアスを見るなり呟いた。
肺炎とはなにかわからないがルウには不吉な言葉に聞こえた。
特に何かをしたようには見えなかった。
だが男はルウの方を振り向くと言った。
「もう大丈夫だ」
驚いて祖父を見ると、それまで苦し気だった寝顔が安らかになっている。
やがてパアスはいびきをかきだした。本当に治っているようだ。
「体力が落ちていると思うから栄養のあるものを食べさせると良いよ。ヤギの乳でお粥でもたいてあげるんだね」
「天使様ありがとうございます!」
足元に額ぬかずこうとするルウを手で止めて天使は聞く。
「ヤギの乳を1杯と、塩を売ってもらえないかな?」
ルウは急いで台所から塩を一壺とヤギの乳を持ってきた。
男は対価として銀貨を3枚ルウの手に握らせ、一気にヤギの乳を飲み干した。
「すごく喉が渇いてたんだ、助かったよ。それじゃあ俺は急いでいるから行くね。お大事に!」
天使はルウの頭を優しく撫でると朝もやの中を足早に去って行った。
 天使が去った後、パアスはすぐに起き出して、ルウの作ってくれたミルク粥を3杯も食べた。
すっかり具合はいいようだ。
その日を境に祖父が以前よりずっと元気になったのでルウも嬉しかった。
だがルウはまだ知らない。
今後、祖父パアスは150歳を越える寿命を得て、いつしかオールド・パアスと呼ばれる有名人になるのだ。
ルウはその後の人生の中で、鳥と猿を連れた天使が祖父を救ってくれたことを幾度も人に語った。
そして、人々から天使がどんな様子をしていたかを聞かれるたびにこう答えた。
「平べったい顔だったよ」
マチア村の伝説は語る。
黒目黒髪 平たい顔の天使様、地上に来たりて病を治す。


 子どもの考えることはわけがわからない。
先程会った子供は俺のことを天使様と呼んだ。
どの辺が天使なのだろう? 
俺の姿のどこにエンジェル的な要素があるのか聞いてみたかったが時間がなかった。
ひょっとして純真な子どもには俺が天使に見えるのだろうか? 
だが少年よ、たとえそうだったとしても、俺は貞操帯と鞭で汚れた堕天使だ。
背中の翼はとっくの昔に折れてしまっている。
天使なのは君の方だよ。
だって穢れ無き少年はみんな翼を持ってるものさ! 
かつて俺にもついていた翼がね…。
でも覚えておくがいい。
少年の翼はいつかは折れる。
この俺の翼が折れてしまったように。
この世界は俺たちが天使のまま生きられるほど甘くないんだ。
そして翼を失った少年はいつか男になるのさ…。
 なんて一人ハードボイルドごっこをしながら歩いてきたが、野菜を買うのを忘れてしまったな。
塩とミルクをわけてもらえたのでよしとするか。
しかしあのお爺さんはやばかった。
もう2,3日あのままだったら死んでいたかもしれない。
肺炎にかかっていたし、他にも悪いところがいっぱいあった。
ついでだから全部治してきたけどよかったのか? 
小さな子どもと二人暮らしみたいだったからまあいいか。
当分はあの子を育てなければならないし、そのためには長生きしなければならないだろう。
あれだけ治療しておけば100歳近くまで生きるんじゃないかな? 
後は野となれ山となれ。
人気のない場所まで来たので、俺は集落を振り返りもせずに再び走り出した。
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