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あなたの名前

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 どうして名前を口にすることが出来なかったのかを説明しようと口を開いた直後、スマホの着信音が鳴り響いた。きっとカエデくんのものだろう。
 彼は小さくため息をついたあと、けたたましく音を鳴らし続けているそれをポケットから取り出す。

「……ごめん、仕事の電話だ」
「ああ、うん、えっと……私、もう少し寝てるね」
「……ごめん」

 カエデくんは申し訳なさそうな笑みを私に向けたあとすぐにベッドルームを出て行った。

 仕事、か。そう言えば彼の職業は一体何なんだろう?
 最初はホストだと思っていた。でも……彼と一緒に過ごす時間が増えるごとに、それは違うんじゃないかと思い始めている。
 容姿が良すぎることや髪の色が明るいこと、女性の扱いが上手いことがホストっぽく見えてしまっているけど、それだけでホストだと断定してしまうのは間違いだ。

 だったら、彼の本当の仕事は、何……?
 もし彼がホストではなくて普通の飲食店の従業員だったとしたら、今日私の面倒を見ることになってしまったせいで彼に仕事を休ませてしまったかも知れない。そのせいで仕事の電話がかかって来たのだとしたら……。

 迷惑しかかけていない、最初から、出会った時からずっと。そう気づいてしまうともういてもたってもいられなくなって、私はベッドから這い出した。
 ふらふらとベッドルームを出ると、カエデくんが電話をしている声が聞こえる。

「――はい、最終確認も済んでいます」

 彼の口から普段は聞くことのない敬語……。電話の相手は目上の人? それとも取引先?
 ふんわりと笑ってることが多い彼だけど、仕事の話をしているからなのか、今はキリッとした表情をしているように見える。
 いつもと少し違う彼の横顔を私は思わずじっと見つめた。

 カエデくんは「――はい、では月曜日にお願いします。失礼します」と締めくくって電話を切る。
 その真剣な表情に私は思わず、そんな顔もするんだ、とドキリとしてしまった。

 電話を終えたカエデくんは扉の前にぼんやりと立ったままの私に気づき、その途端にいつもの優しい表情に変わる。

「亜矢さん、起きて大丈夫? どうしたの? 何か欲しい物あった?」
「……あの、私、帰る……」
「ええ? だめだよ? 何も食べてないし、まだ顔色が良くないから帰せません」
「でも、私……」
「仕事が心配?」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
「私……もうこれ以上、カエデくんに迷惑をかけたくないから……」

 私がそう言うと、彼はめをまん丸にして「ええっ?」とビックリ顔になった。

「迷惑だなんて思ってないよ?」
「でも……」
「好きな人のことを心配したり手助けしたり出来て、僕としてはしあわせなんだけど?」
「え、ええ……っ?」
「このままずっと亜矢さんがうちにいてくれるといいなーって思ってるんだけどね?」
「……!?」
「……むしろ、昨日帰してしまって、すっごく後悔してる」

 最後の一言は急に声のトーンが変わったので、今度は私の方が目を丸くする番だった。
 カエデくんの顔にはさっきまでのふんわりと優しい笑みも、いつものような明るく楽しげな音色の声はもうそこになくて、苦しそうに絞り出すような声で……。彼の声や表情は、冗談で言ったりしていないことを伝えるには十分だ。

「亜矢さんの体調が悪そうなのも、それでも亜矢さんが無理してしまうのも、分かってたのに」
「そ、それは私自身のせいで、カエデくんのせいなんかじゃないよ」
「ううん、違うよ、僕のせい。ごめん……」
「なんで……カエデくんが謝るのよ、違うってば……」

 カエデくんの手はギュッと握りしめられていて、唇を噛んでうつむいてしまった彼の手に、私はそっと手を伸ばした。
 私の指が触れても固く握りしめた手が解かれることがなくて、私は申し訳なくて苦しい気分になる。

「カエデくんが罪悪感を覚える必要なんてないよ。悪いのは私。自己管理がちゃんと出来てない私だよ……」

 “食欲不振”とか“寝不足”なんて、自己管理が出来ていない証拠だ。社会人として恥ずかしい。
 私がうつむいて自分の怠慢を反省していると、カエデくんが私をふわりと抱き締めた。

「えっ、あの……っ、カエデくん……っ?」
「ふふっ、確保」
「え、ええっ?」
「亜矢さんの体調が良くなるまで、絶対に帰さないからね、ふふふっ」
「えええっ!?」

 待って待って! さっきのあの苦しそうな言葉は、何だったの!?
 えええっ……!?

 混乱して思考が停止してしまっている私を抱き締めたカエデくんは、「今日はたっぷり拘束して甘やかすから、覚悟してね……?」と私の耳元で囁いた――。


 彼の宣言通り、結局この日は自宅に帰ることを許してもらえなかった。

 美味しい食事に甘くてとろけるデザート。豪華なお風呂のあとは念入りに髪を乾かしてくれて。ベッドルームでは優しく香るアロマキャンドルが焚かれていて。

「ボディマッサージしようか?」

 そんな軽口はスルーさせてもらったけれども。

 あまりにもしゅんとしてるのでやっぱり犬のメープルを思い出してしまって、仕方なく手の指だけマッサージしてもらったんだけど、すごく気持ち良かった。
 まるでどこかの国のお姫様になったような気分にさせてくれて……。

 何も文句はないけれど、私が彼のベッドを独占してしまうと彼はソファで眠ることになる。
 それがどうしても申し訳なくて……。

「どうせ明日は『会社に行く』って言うんでしょ? だったらせめて今日はひとりでゆっくりベッドで眠って?」
「……」

 私の思考は完全に読まれてた。


 ――見た目はホストみたいで話し方や雰囲気もふんわりしてるくせに、結構強引。
 私の意見を聞いているようで、実際は彼の思うように動かされてる。
 歳は私の方が上なのに完全に彼の方が一枚も二枚も上手。

 結局、何もかも、完敗だった――。
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