嘘は溺愛のはじまり

海棠桔梗

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“そう言う女”

9.

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「結麻さんは何も悪くない。絶対に」
「でも、」
「さっきも言ったよね? 俺が言うんだから、絶対だ。信じて欲しい」
「伊吹さん、でも、」
「じゃあ俺のことも、そそのかしたの?」
「そんなこと……っ」
「してないでしょ? まあ、俺は、結麻さんにならそそのかされたいけど」
「い、伊吹さんっ」
「あはは。冗談。……半分だけね」

 笑いながら私の頬を撫でて、「でも、本当に半分は本気だから」と言って、私の手をキュッと握った。

「だって、そう言うことでしょ?」
「そう言う、こと……?」
「そう。男はみんな思うよ、好きな女性になら誘われたいって。そうなれば良いな、って」
「え……」
「でも、嫌がる女性に無理矢理触ったり、ましてや襲うなんてことはダメだよね」

 それはきっと、谷川部長のことを指しているのだと思う。
 私を見つめる伊吹さんの瞳が、心配そうな色に変わる。

「もっと早く気付いてあげれば良かった」
「……そんなこと、」
「人事部の奥瀬から聞いてはいたんだ」
「……え?」

 前に、総務部の片瀬さんに仕事を教えてもらおうとした時の打ち合わせ室での件を、奥瀬くんは伊吹さんに直接報告していたらしい。

「秘書を通さないで直通の内線をかけるなんて、彼も度胸あるよね」

 そう言って、伊吹さんにしては珍しく皮肉っぽい笑みを口元に浮かべ、「それだけ本気ってことだろうけど」、と呟いた。
 その言葉の意味が分からない私が少し首を傾げると、「……結麻さんは分からなくていいよ」と、さっきとは違い優しい笑顔に変わる。

「あの時……怖かったよね、ごめん」
「伊吹さんが謝ることなんて、ないです」
「職場でのハラスメントについては役員会でもずっと話し合ってきたんだけど……間に合わなかった。俺たち役員の責任だよ」
「そんなことっ」
「もう少し証言を集めて、来週にでも彼の処分を決定するはずだった」

 奥瀬くんからの情報を元に、上層部が処分に向けて動いていた矢先のことだったと言う。
 でも、それでも、伊吹さんは……役員の皆さんは、何も悪くない。私がもっと注意していれば良かったんだ。

「……結麻さん。俺のことも、怖い?」

 そう尋ねながら、私の手を包み込んでいる伊吹さんの手が少しだけ強ばった気がした。
 私は伊吹さんの言葉を否定するように、首を振る。

 怖いわけがない……。

「俺に触られて、嫌じゃない……?」
「……いやじゃないです」
「……そう?」

 伊吹さんは両手に包み込んでいた私の手を愛しむように撫で、私の指を自身の指で絡め取った。
 そして、「良かった」と、心底安心したような声音で呟く。

「俺のことも怖いんだったら、どうしようかと思った」

 ……ああ。
 どうしてこうも、私の心を揺さぶるのが上手いんだろう。
 言葉ひとつで、私の気持ちをあっという間にさらっていく。
 なんでもない言葉なのに、心が勝手に浮き立つ。

「結麻さん」

 私の名を口ずさみ私を見つめる伊吹さんの瞳がとても暖かくて優しくて、泣きそうな気持ちになる。
 このひとの隣にずっといたいって、思ってしまう。願ってしまう。
 私がそう願ってしまうこと、許されるだろうか……。

「今回のこと、被害届を出しますか?」
「……え?」
「もちろん、社内での処分はちゃんとする。でも今回のことは、警察に被害届を出してもおかしくない案件だから」
「……」

 私は少し考えた末、首を横に振った。

「……いいの?」
「はい」
「本当に……?」
「はい、被害届は、出しません」

 警察に被害届を出すとなったら、具体的にどんなことをするのかよく分からないけど、きっといろいろ事情を聞かれたりするんだろう。
 会社にも迷惑がかかるかも知れないし、それに……、と考えていたところで伊吹さんが私の思考を遮るように口を開いた。

「会社のことは考えなくて良いからね。結麻さんは自分自身の気持ちだけ、考えてくれればいい。会社のことを考えるのは俺たち役員の仕事だから」

 そんな風に優しく声をかけてくれて……。
 谷川部長のことは、いま伊吹さんが言ってくれたように、きっときちんと会社としての処分をしてくれるだろう。

「会社がちゃんと対応してくれるなら、私はそれで、十分です」
「……そう、分かった」

 伊吹さんはひとつ頷いて、繋いだ手をそのままに、私をそっと抱き寄せる。
 伊吹さんの腕の中はとてもしあわせで、思わず泣きそうになって、小さく息を吐いた。
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