20 / 75
貴方の想い人
4.
しおりを挟む
そもそもの始まりは、私があのカフェ『infinity』を、初めて訪れた日――。
まだ印刷所に勤めていた、今からおよそ一年前のこと。
その日は仕事でちょっとしたミスをして、私はすっかり落ち込んでしまっていた。
お客様にも同僚にも迷惑をかけてしまって……。
あまりにも落ち込みすぎたのか、自宅最寄り駅からの帰り道、いつも曲がるべき道をひとつ間違えたことにさえ気付いていなくて。
……ふと顔を上げると、そこは完全に見知らぬ世界だった。
「――え? ここ、どこ……?」
目の前にあったのは、控えめな看板の掛かった、落ち着いた雰囲気のカフェ。
このお店を更にもう少し歩くと、バーやスナックなんかが多い界隈だ。
ほとんどお酒を飲まない私には用事のないエリアだったから、こんなこじんまりとしたオシャレなカフェがあるなんて、気づきもしなかった。
引き寄せられるようにふらりと足を踏み入れると、店構えと同じく落ち着いていて優しい雰囲気の男性が「いらっしゃいませ」と控えめに挨拶をしてくれて……。
外から見たままの、やっぱり優しくて穏やかな雰囲気の店内に思わずホッとする。
入ってすぐの所にあるカウンターから「おひとりですか?」と低く心地の良い声で話しかけられた。
「はい……」
「よろしければ、こちらにどうぞ」
勧められたのは、その男性のすぐ目の前のカウンター席だった。
私は勧められるままに、そこへ腰を下ろす。
私に声を掛けてくれたその人は、恐らくここのマスターなのだろう。
年の頃は、私の父と同じぐらいだろうか。
にこりと笑うその目元の笑い皺が、とても優しい印象を与えていた。
そして、伊吹さんに出会ったのも、この日、この直後――。
カウンターでマスターが淹れてくれたコーヒーを飲みながらお話をしていると、不意に、マスターは私と話をしながらコーヒーをドリップする準備を始めた。
どうやら私はマスターとの会話に夢中になってしまい、お客様が入ってきたことに気付かなかったらしい。
「あ、お客様がいらっしゃったんですね。すみません、おしゃべりしすぎました」
謝ると、マスターは「大丈夫ですよ。彼は気にしていないと思います」と優しい笑顔で返してくれたけれど、お客様に“いらっしゃいませ”の挨拶もさせなかった事に罪悪感が湧き上がる。
たとえそのお客様がかなりの常連の方だったとしても……。
慌てて口を噤んだ私を見たマスターは、やっぱり私に優しい笑みを向けて、「気にしないで下さいね」ともう一度念を押した。
ドリップし終えたコーヒーをお盆に乗せてその常連客が座る窓際の席へと運んでいくのを、私はぼうっと眺めていた。
常連客のその人はマスターを見上げて、ふと微笑む。
マスターとしばらく言葉を交わして、その人はこちらに少し視線を向けた、そんな気がして……。
思わず私の心臓が、ドキリと音を立てる。
その人は、とても綺麗な横顔を、ほんの少しだけこちらに向けて。
流し目のように、瞳だけがこちらに少し向けられて……。
私は慌てて視線を手元に逸らした。
コーヒーカップを持つ手が、思わず震える。
心臓がドキドキと大きく脈打つ。
――私、一体どうしちゃったんだろう。
こんなこと、今まで一度もなかった。
そんなことが私に起こるわけなんて、なかったから――。
気のせいだ。
私が誰かをこんな風に思うのは、きっと、初めて来たお店で少し緊張しているからだ。
だけど、…………。
まだ印刷所に勤めていた、今からおよそ一年前のこと。
その日は仕事でちょっとしたミスをして、私はすっかり落ち込んでしまっていた。
お客様にも同僚にも迷惑をかけてしまって……。
あまりにも落ち込みすぎたのか、自宅最寄り駅からの帰り道、いつも曲がるべき道をひとつ間違えたことにさえ気付いていなくて。
……ふと顔を上げると、そこは完全に見知らぬ世界だった。
「――え? ここ、どこ……?」
目の前にあったのは、控えめな看板の掛かった、落ち着いた雰囲気のカフェ。
このお店を更にもう少し歩くと、バーやスナックなんかが多い界隈だ。
ほとんどお酒を飲まない私には用事のないエリアだったから、こんなこじんまりとしたオシャレなカフェがあるなんて、気づきもしなかった。
引き寄せられるようにふらりと足を踏み入れると、店構えと同じく落ち着いていて優しい雰囲気の男性が「いらっしゃいませ」と控えめに挨拶をしてくれて……。
外から見たままの、やっぱり優しくて穏やかな雰囲気の店内に思わずホッとする。
入ってすぐの所にあるカウンターから「おひとりですか?」と低く心地の良い声で話しかけられた。
「はい……」
「よろしければ、こちらにどうぞ」
勧められたのは、その男性のすぐ目の前のカウンター席だった。
私は勧められるままに、そこへ腰を下ろす。
私に声を掛けてくれたその人は、恐らくここのマスターなのだろう。
年の頃は、私の父と同じぐらいだろうか。
にこりと笑うその目元の笑い皺が、とても優しい印象を与えていた。
そして、伊吹さんに出会ったのも、この日、この直後――。
カウンターでマスターが淹れてくれたコーヒーを飲みながらお話をしていると、不意に、マスターは私と話をしながらコーヒーをドリップする準備を始めた。
どうやら私はマスターとの会話に夢中になってしまい、お客様が入ってきたことに気付かなかったらしい。
「あ、お客様がいらっしゃったんですね。すみません、おしゃべりしすぎました」
謝ると、マスターは「大丈夫ですよ。彼は気にしていないと思います」と優しい笑顔で返してくれたけれど、お客様に“いらっしゃいませ”の挨拶もさせなかった事に罪悪感が湧き上がる。
たとえそのお客様がかなりの常連の方だったとしても……。
慌てて口を噤んだ私を見たマスターは、やっぱり私に優しい笑みを向けて、「気にしないで下さいね」ともう一度念を押した。
ドリップし終えたコーヒーをお盆に乗せてその常連客が座る窓際の席へと運んでいくのを、私はぼうっと眺めていた。
常連客のその人はマスターを見上げて、ふと微笑む。
マスターとしばらく言葉を交わして、その人はこちらに少し視線を向けた、そんな気がして……。
思わず私の心臓が、ドキリと音を立てる。
その人は、とても綺麗な横顔を、ほんの少しだけこちらに向けて。
流し目のように、瞳だけがこちらに少し向けられて……。
私は慌てて視線を手元に逸らした。
コーヒーカップを持つ手が、思わず震える。
心臓がドキドキと大きく脈打つ。
――私、一体どうしちゃったんだろう。
こんなこと、今まで一度もなかった。
そんなことが私に起こるわけなんて、なかったから――。
気のせいだ。
私が誰かをこんな風に思うのは、きっと、初めて来たお店で少し緊張しているからだ。
だけど、…………。
3
お気に入りに追加
152
あなたにおすすめの小説
甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
あなたと恋に落ちるまで~御曹司は一途に私に恋をする~ after story
けいこ
恋愛
あなたと恋に落ちるまで~御曹司は一途に私に恋をする~
のafter storyになります😃
よろしければぜひ、本編を読んで頂いた後にご覧下さい🌸🌸
月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜
白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳
yayoi
×
月城尊 29歳
takeru
母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司
彼は、母が持っていた指輪を探しているという。
指輪を巡る秘密を探し、
私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。
恋とキスは背伸びして
葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員
成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長
年齢差 9歳
身長差 22㎝
役職 雲泥の差
この違い、恋愛には大きな壁?
そして同期の卓の存在
異性の親友は成立する?
数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの
二人の恋の物語
貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈
玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳
大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。
でも、これはただのお見合いではないらしい。
初出はエブリスタ様にて。
また番外編を追加する予定です。
シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。
表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。
誘惑の延長線上、君を囲う。
桜井 響華
恋愛
私と貴方の間には
"恋"も"愛"も存在しない。
高校の同級生が上司となって
私の前に現れただけの話。
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
Иatural+ 企画開発部部長
日下部 郁弥(30)
×
転職したてのエリアマネージャー
佐藤 琴葉(30)
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
偶然にもバーカウンターで泥酔寸前の
貴方を見つけて…
高校時代の面影がない私は…
弱っていそうな貴方を誘惑した。
:
:
♡o。+..:*
:
「本当は大好きだった……」
───そんな気持ちを隠したままに
欲に溺れ、お互いの隙間を埋める。
【誘惑の延長線上、君を囲う。】
イケメン副社長のターゲットは私!?~彼と秘密のルームシェア~
美和優希
恋愛
木下紗和は、務めていた会社を解雇されてから、再就職先が見つからずにいる。
貯蓄も底をつく中、兄の社宅に転がり込んでいたものの、頼りにしていた兄が突然転勤になり住む場所も失ってしまう。
そんな時、大手お菓子メーカーの副社長に救いの手を差しのべられた。
紗和は、副社長の秘書として働けることになったのだ。
そして不安一杯の中、提供された新しい住まいはなんと、副社長の自宅で……!?
突然始まった秘密のルームシェア。
日頃は優しくて紳士的なのに、時々意地悪にからかってくる副社長に気づいたときには惹かれていて──。
初回公開・完結*2017.12.21(他サイト)
アルファポリスでの公開日*2020.02.16
*表紙画像は写真AC(かずなり777様)のフリー素材を使わせていただいてます。

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー
葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。
立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。
優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる