嘘は溺愛のはじまり

海棠桔梗

文字の大きさ
上 下
9 / 75
お仕事開始

4.

しおりを挟む
「次は専務の所ね」

 野村さんはそう言いながら、専務室をノックした。
 返事が聞こえるかと思いきや、すぐに向こう側から扉が開かれて「待ってたよ、入って入って!」と招き入れられる。

 篠宮専務の専属秘書は、男性だった。
 笹原さんと言う方らしい。
 綺麗な女性秘書を想像していた私は、すっかり肩すかしを食らったような気分だ。

「専務がニコニコしながら『野村さんの補佐を雇った』って言うから、社内はもう大騒ぎだよ」
「あー、総務とか人事がねー」
「そうそう。どちらかから行くと思われてたから……」
「ですよねぇ」
「でもまぁこう言っちゃなんだけど、いまの総務も人事もちょっとした人材不足だから、僕は若月さんで良かったと思うけどね」
「笹原さんに同感です!」

 そう言いながら野村さんは深く頷いた。
 総務も人事も忙しくて人手不足、なのかな。大きな会社だし、きっとそうなのだろう。

 ひとり密かに納得していると奥の扉が開いて、篠宮専務が顔を出した。
 専属秘書の笹原さんは、さっきまでの楽しげな笑顔をサッと仕舞って仕事モードの真面目な表情へと切り替えていて、野村さんも頭を下げている。
 公私の切り替えが早い。
 私も野村さんに倣って、慌てて頭を下げた。

「ああ、かしこまらなくて良いから、頭を上げて。他への挨拶は済みましたか?」
「はい、常務と一緒に外出されている矢野さん以外は、済みました」

 野村さんの返事に、篠宮専務は柔らかく微笑んだ。

「野村さんの残業を長らく放置して、すみませんでした。なかなか適材が見つからなくて」
「いえ。若月さんみたいな人を求めてたので。ここまで待った甲斐がありました」
「そう言っていただけて良かったです。フロア案内は、この後ですか?」
「はい、今からです」
「そう。広いから迷子にならないようにね」

 篠宮専務の言葉に野村さんが顔を赤くしていると、「野村さんは前科あり、だもんね?」と笹原さんが笑った。

「専務も笹原さんも、それ、そろそろ忘れて下さいー!」
「ごめんごめん。野村さんは方向音痴だから心配だな。案内、僕が変わろうか?」
「もうっ、笹原さんっ! だから忘れて下さいってば! それに、さすがにもうちゃんと覚えました!」
「あはは、だよね、知ってた」

 秘書課の皆さんはみんなとても優しそうな人ばかりで、とても仲が良いらしいと言うことが分かった。
 おかげで、ガチガチに緊張していたけど、かなり解れたと思う。

 挨拶を終えて、野村さんと私は深々と専務に頭を下げ、部屋を後にした。

 その後、各フロアのざっくりとした案内と、仕事上関係してくる場所を案内してもらう。
 確かにあちこち一度に回ると、覚えきれそうにない。
 役員が訪れる可能性のある会議室が各フロアに点在していて、何階に何があったかを思い出すだけで一苦労だった。

 一通り案内してもらい、再び自分のデスクに戻って来た。

 各階へはエレベーターでの移動だけど、ひとつのフロアが広いので、案内される場所が一番端だったりしたらかなり歩く。
 今日の午前中だけで結構な距離と歩数を歩いたんじゃないかな……万歩計アプリで計ってたら面白い結果になったかも知れない、なんて思ってしまうほどだった。

 フロア案内に結構な時間を割いてしまったので、午前中は大まかな業務説明だけで終わったしまった。
 昼休憩は電話番が必要になるので交代で休憩を取ることになっているけど、私が仕事に慣れるまでのしばらくの間は野村さんと一緒に自分の席で食事を摂ることになる。
 お弁当を持ってきていて良かった。

「若月さんってどの辺に住んでるのー?」
「えっと、T駅です」
「えー、近いじゃん。いいなー」

 篠宮専務のマンションは、会社の最寄り駅から3駅離れた場所にある。
 都心の、最も便利なエリアだ。

「野村さんは遠くから通われてるんですか?」
「乗り換えありだよー。徒歩も含めて小一時間はかかるかな」
「結構大変ですね」
「でもこの会社に入りたかったからねー。頑張るわー」

 大手商社。一流大学を出ていても、誰でもが入れる会社ではない。

「T駅って言えばさぁ……専務の自宅もその辺りだったかなー」

 ――ドキッ。

 当然の事ながら、私と篠宮専務が一時的にでも同居していると言うことは、秘書課の皆さんにも秘密にしてある。
 役員と一介の平社員が同じ住まいだなんて知られたら、きっと大ごとになるに違いない。
 それは恐らく篠宮専務も承知していて、「このことは一応内緒でね」と釘を刺されている。
 もちろん釘を刺されなくても、言うつもりは無いけど……。

「……へぇ、そうなんですね」
「そうそう。通勤途中とか休みの日とか、家の近所でバッタリ会ったりしてー。いいなー」
「あ、はは、そんな事になったら、緊張しちゃいます」
「若月ちゃん可愛いー。でもそうだよね、専務と街で会ったら私だって緊張するわー」

 お弁当のおかずを口の中へポイと放り込みモグモグと咀嚼しながら、野村さんはニコニコと笑っている。
 私は少し頬を引きつらせながら、本当は毎日、朝の起き抜けからずっと、なんなら夢の中までも緊張してます、なんて心の中で思ったりした――。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ルピナス

桜庭かなめ
恋愛
 高校2年生の藍沢直人は後輩の宮原彩花と一緒に、学校の寮の2人部屋で暮らしている。彩花にとって直人は不良達から救ってくれた大好きな先輩。しかし、直人にとって彩花は不良達から救ったことを機に一緒に住んでいる後輩の女の子。直人が一定の距離を保とうとすることに耐えられなくなった彩花は、ある日の夜、手錠を使って直人を束縛しようとする。  そして、直人のクラスメイトである吉岡渚からの告白をきっかけに直人、彩花、渚の恋物語が激しく動き始める。  物語の鍵は、人の心とルピナスの花。たくさんの人達の気持ちが温かく、甘く、そして切なく交錯する青春ラブストーリーシリーズ。 ※特別編-入れ替わりの夏-は『ハナノカオリ』のキャラクターが登場しています。  ※1日3話ずつ更新する予定です。

手を伸ばした先にいるのは誰ですか~愛しくて切なくて…憎らしいほど愛してる~【完結】

まぁ
恋愛
ワイン、ホテルの企画業務など大人の仕事、そして大人に切り離せない恋愛と… 「Ninagawa Queen's Hotel」 若きホテル王 蜷川朱鷺  妹     蜷川美鳥 人気美容家 佐井友理奈 「オークワイナリー」 国内ワイナリー最大手創業者一族 柏木龍之介 血縁関係のない兄妹と、その周辺の何角関係…? 華やかな人々が繰り広げる、フィクションです。

アンコール マリアージュ

葉月 まい
恋愛
理想の恋って、ありますか? ファーストキスは、どんな場所で? プロポーズのシチュエーションは? ウェディングドレスはどんなものを? 誰よりも理想を思い描き、 いつの日かやってくる結婚式を夢見ていたのに、 ある日いきなり全てを奪われてしまい… そこから始まる恋の行方とは? そして本当の恋とはいったい? 古風な女の子の、泣き笑いの恋物語が始まります。 ━━ʚ♡ɞ━━ʚ♡ɞ━━ʚ♡ɞ━━ 恋に恋する純情な真菜は、 会ったばかりの見ず知らずの相手と 結婚式を挙げるはめに… 夢に描いていたファーストキス 人生でたった一度の結婚式 憧れていたウェディングドレス 全ての理想を奪われて、落ち込む真菜に 果たして本当の恋はやってくるのか?

Princess story 〜御曹司とは付き合いません〜

鳴宮鶉子
恋愛
Princess story 〜御曹司とは付き合いません〜

あなたと恋に落ちるまで~御曹司は、一途に私に恋をする~

けいこ
恋愛
カフェも併設されたオシャレなパン屋で働く私は、大好きなパンに囲まれて幸せな日々を送っていた。 ただ… トラウマを抱え、恋愛が上手く出来ない私。 誰かを好きになりたいのに傷つくのが怖いって言う恋愛こじらせ女子。 いや…もう女子と言える年齢ではない。 キラキラドキドキした恋愛はしたい… 結婚もしなきゃいけないと…思ってはいる25歳。 最近、パン屋に来てくれるようになったスーツ姿のイケメン過ぎる男性。 彼が百貨店などを幅広く経営する榊グループの社長で御曹司とわかり、店のみんなが騒ぎ出して… そんな人が、 『「杏」のパンを、時々会社に配達してもらいたい』 だなんて、私を指名してくれて… そして… スーパーで買ったイチゴを落としてしまったバカな私を、必死に走って追いかけ、届けてくれた20歳の可愛い系イケメン君には、 『今度、一緒にテーマパーク行って下さい。この…メロンパンと塩パンとカフェオレのお礼したいから』 って、誘われた… いったい私に何が起こっているの? パン屋に出入りする同年齢の爽やかイケメン、パン屋の明るい美人店長、バイトの可愛い女の子… たくさんの個性溢れる人々に関わる中で、私の平凡過ぎる毎日が変わっていくのがわかる。 誰かを思いっきり好きになって… 甘えてみても…いいですか? ※after story別作品で公開中(同じタイトル)

お前が愛おしい〜カリスマ美容師の純愛

ラヴ KAZU
恋愛
涼風 凛は過去の恋愛にトラウマがあり、一歩踏み出す勇気が無い。 社長や御曹司とは、二度と恋はしないと決めている。 玉森 廉は玉森コーポレーション御曹司で親の決めたフィアンセがいるが、自分の結婚相手は自分で決めると反抗している。 そんな二人が恋に落ちる。 廉は社長である事を凛に内緒でアタックを開始するが、その事がバレて、凛は距離を置こうとするが・・・ あれから十年、凛は最悪の過去をいまだに引き摺って恋愛に臆病になっている。 そんな凛の前に現れたのが、カリスマ美容師大和颯、凛はある日スマホを拾った、そのスマホの持ち主が颯だった。 二人は惹かれあい恋に落ちた。しかし凛は素直になれない、そんなある日颯からドライブに誘われる、「紹介したい人がいるんだ」そして車から降りてきたのは大和 祐、颯の息子だった。   祐は颯の本当の息子ではない、そして颯にも秘密があった。

御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜

四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」 度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。 事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。 しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。 楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。 その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。 ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。 その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。 敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。 それから、3年が経ったある日。 日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。 「私は若佐先生の事を何も知らない」 このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。 目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。 ❄︎ ※他サイトにも掲載しています。

処理中です...