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お仕事開始
4.
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「次は専務の所ね」
野村さんはそう言いながら、専務室をノックした。
返事が聞こえるかと思いきや、すぐに向こう側から扉が開かれて「待ってたよ、入って入って!」と招き入れられる。
篠宮専務の専属秘書は、男性だった。
笹原さんと言う方らしい。
綺麗な女性秘書を想像していた私は、すっかり肩すかしを食らったような気分だ。
「専務がニコニコしながら『野村さんの補佐を雇った』って言うから、社内はもう大騒ぎだよ」
「あー、総務とか人事がねー」
「そうそう。どちらかから行くと思われてたから……」
「ですよねぇ」
「でもまぁこう言っちゃなんだけど、いまの総務も人事もちょっとした人材不足だから、僕は若月さんで良かったと思うけどね」
「笹原さんに同感です!」
そう言いながら野村さんは深く頷いた。
総務も人事も忙しくて人手不足、なのかな。大きな会社だし、きっとそうなのだろう。
ひとり密かに納得していると奥の扉が開いて、篠宮専務が顔を出した。
専属秘書の笹原さんは、さっきまでの楽しげな笑顔をサッと仕舞って仕事モードの真面目な表情へと切り替えていて、野村さんも頭を下げている。
公私の切り替えが早い。
私も野村さんに倣って、慌てて頭を下げた。
「ああ、かしこまらなくて良いから、頭を上げて。他への挨拶は済みましたか?」
「はい、常務と一緒に外出されている矢野さん以外は、済みました」
野村さんの返事に、篠宮専務は柔らかく微笑んだ。
「野村さんの残業を長らく放置して、すみませんでした。なかなか適材が見つからなくて」
「いえ。若月さんみたいな人を求めてたので。ここまで待った甲斐がありました」
「そう言っていただけて良かったです。フロア案内は、この後ですか?」
「はい、今からです」
「そう。広いから迷子にならないようにね」
篠宮専務の言葉に野村さんが顔を赤くしていると、「野村さんは前科あり、だもんね?」と笹原さんが笑った。
「専務も笹原さんも、それ、そろそろ忘れて下さいー!」
「ごめんごめん。野村さんは方向音痴だから心配だな。案内、僕が変わろうか?」
「もうっ、笹原さんっ! だから忘れて下さいってば! それに、さすがにもうちゃんと覚えました!」
「あはは、だよね、知ってた」
秘書課の皆さんはみんなとても優しそうな人ばかりで、とても仲が良いらしいと言うことが分かった。
おかげで、ガチガチに緊張していたけど、かなり解れたと思う。
挨拶を終えて、野村さんと私は深々と専務に頭を下げ、部屋を後にした。
その後、各フロアのざっくりとした案内と、仕事上関係してくる場所を案内してもらう。
確かにあちこち一度に回ると、覚えきれそうにない。
役員が訪れる可能性のある会議室が各フロアに点在していて、何階に何があったかを思い出すだけで一苦労だった。
一通り案内してもらい、再び自分のデスクに戻って来た。
各階へはエレベーターでの移動だけど、ひとつのフロアが広いので、案内される場所が一番端だったりしたらかなり歩く。
今日の午前中だけで結構な距離と歩数を歩いたんじゃないかな……万歩計アプリで計ってたら面白い結果になったかも知れない、なんて思ってしまうほどだった。
フロア案内に結構な時間を割いてしまったので、午前中は大まかな業務説明だけで終わったしまった。
昼休憩は電話番が必要になるので交代で休憩を取ることになっているけど、私が仕事に慣れるまでのしばらくの間は野村さんと一緒に自分の席で食事を摂ることになる。
お弁当を持ってきていて良かった。
「若月さんってどの辺に住んでるのー?」
「えっと、T駅です」
「えー、近いじゃん。いいなー」
篠宮専務のマンションは、会社の最寄り駅から3駅離れた場所にある。
都心の、最も便利なエリアだ。
「野村さんは遠くから通われてるんですか?」
「乗り換えありだよー。徒歩も含めて小一時間はかかるかな」
「結構大変ですね」
「でもこの会社に入りたかったからねー。頑張るわー」
大手商社。一流大学を出ていても、誰でもが入れる会社ではない。
「T駅って言えばさぁ……専務の自宅もその辺りだったかなー」
――ドキッ。
当然の事ながら、私と篠宮専務が一時的にでも同居していると言うことは、秘書課の皆さんにも秘密にしてある。
役員と一介の平社員が同じ住まいだなんて知られたら、きっと大ごとになるに違いない。
それは恐らく篠宮専務も承知していて、「このことは一応内緒でね」と釘を刺されている。
もちろん釘を刺されなくても、言うつもりは無いけど……。
「……へぇ、そうなんですね」
「そうそう。通勤途中とか休みの日とか、家の近所でバッタリ会ったりしてー。いいなー」
「あ、はは、そんな事になったら、緊張しちゃいます」
「若月ちゃん可愛いー。でもそうだよね、専務と街で会ったら私だって緊張するわー」
お弁当のおかずを口の中へポイと放り込みモグモグと咀嚼しながら、野村さんはニコニコと笑っている。
私は少し頬を引きつらせながら、本当は毎日、朝の起き抜けからずっと、なんなら夢の中までも緊張してます、なんて心の中で思ったりした――。
野村さんはそう言いながら、専務室をノックした。
返事が聞こえるかと思いきや、すぐに向こう側から扉が開かれて「待ってたよ、入って入って!」と招き入れられる。
篠宮専務の専属秘書は、男性だった。
笹原さんと言う方らしい。
綺麗な女性秘書を想像していた私は、すっかり肩すかしを食らったような気分だ。
「専務がニコニコしながら『野村さんの補佐を雇った』って言うから、社内はもう大騒ぎだよ」
「あー、総務とか人事がねー」
「そうそう。どちらかから行くと思われてたから……」
「ですよねぇ」
「でもまぁこう言っちゃなんだけど、いまの総務も人事もちょっとした人材不足だから、僕は若月さんで良かったと思うけどね」
「笹原さんに同感です!」
そう言いながら野村さんは深く頷いた。
総務も人事も忙しくて人手不足、なのかな。大きな会社だし、きっとそうなのだろう。
ひとり密かに納得していると奥の扉が開いて、篠宮専務が顔を出した。
専属秘書の笹原さんは、さっきまでの楽しげな笑顔をサッと仕舞って仕事モードの真面目な表情へと切り替えていて、野村さんも頭を下げている。
公私の切り替えが早い。
私も野村さんに倣って、慌てて頭を下げた。
「ああ、かしこまらなくて良いから、頭を上げて。他への挨拶は済みましたか?」
「はい、常務と一緒に外出されている矢野さん以外は、済みました」
野村さんの返事に、篠宮専務は柔らかく微笑んだ。
「野村さんの残業を長らく放置して、すみませんでした。なかなか適材が見つからなくて」
「いえ。若月さんみたいな人を求めてたので。ここまで待った甲斐がありました」
「そう言っていただけて良かったです。フロア案内は、この後ですか?」
「はい、今からです」
「そう。広いから迷子にならないようにね」
篠宮専務の言葉に野村さんが顔を赤くしていると、「野村さんは前科あり、だもんね?」と笹原さんが笑った。
「専務も笹原さんも、それ、そろそろ忘れて下さいー!」
「ごめんごめん。野村さんは方向音痴だから心配だな。案内、僕が変わろうか?」
「もうっ、笹原さんっ! だから忘れて下さいってば! それに、さすがにもうちゃんと覚えました!」
「あはは、だよね、知ってた」
秘書課の皆さんはみんなとても優しそうな人ばかりで、とても仲が良いらしいと言うことが分かった。
おかげで、ガチガチに緊張していたけど、かなり解れたと思う。
挨拶を終えて、野村さんと私は深々と専務に頭を下げ、部屋を後にした。
その後、各フロアのざっくりとした案内と、仕事上関係してくる場所を案内してもらう。
確かにあちこち一度に回ると、覚えきれそうにない。
役員が訪れる可能性のある会議室が各フロアに点在していて、何階に何があったかを思い出すだけで一苦労だった。
一通り案内してもらい、再び自分のデスクに戻って来た。
各階へはエレベーターでの移動だけど、ひとつのフロアが広いので、案内される場所が一番端だったりしたらかなり歩く。
今日の午前中だけで結構な距離と歩数を歩いたんじゃないかな……万歩計アプリで計ってたら面白い結果になったかも知れない、なんて思ってしまうほどだった。
フロア案内に結構な時間を割いてしまったので、午前中は大まかな業務説明だけで終わったしまった。
昼休憩は電話番が必要になるので交代で休憩を取ることになっているけど、私が仕事に慣れるまでのしばらくの間は野村さんと一緒に自分の席で食事を摂ることになる。
お弁当を持ってきていて良かった。
「若月さんってどの辺に住んでるのー?」
「えっと、T駅です」
「えー、近いじゃん。いいなー」
篠宮専務のマンションは、会社の最寄り駅から3駅離れた場所にある。
都心の、最も便利なエリアだ。
「野村さんは遠くから通われてるんですか?」
「乗り換えありだよー。徒歩も含めて小一時間はかかるかな」
「結構大変ですね」
「でもこの会社に入りたかったからねー。頑張るわー」
大手商社。一流大学を出ていても、誰でもが入れる会社ではない。
「T駅って言えばさぁ……専務の自宅もその辺りだったかなー」
――ドキッ。
当然の事ながら、私と篠宮専務が一時的にでも同居していると言うことは、秘書課の皆さんにも秘密にしてある。
役員と一介の平社員が同じ住まいだなんて知られたら、きっと大ごとになるに違いない。
それは恐らく篠宮専務も承知していて、「このことは一応内緒でね」と釘を刺されている。
もちろん釘を刺されなくても、言うつもりは無いけど……。
「……へぇ、そうなんですね」
「そうそう。通勤途中とか休みの日とか、家の近所でバッタリ会ったりしてー。いいなー」
「あ、はは、そんな事になったら、緊張しちゃいます」
「若月ちゃん可愛いー。でもそうだよね、専務と街で会ったら私だって緊張するわー」
お弁当のおかずを口の中へポイと放り込みモグモグと咀嚼しながら、野村さんはニコニコと笑っている。
私は少し頬を引きつらせながら、本当は毎日、朝の起き抜けからずっと、なんなら夢の中までも緊張してます、なんて心の中で思ったりした――。
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