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2章 井伊家
53話~直虎の死~
しおりを挟む直虎が小谷城を訪れる少し前の1572年、井伊谷に侵入してきた武田軍の山県昌景によって、井伊谷三人衆は城を追われ、龍潭寺は炎上。井伊の面々、龍潭寺の面々は浜松城へと逃がれていました。
武田信玄は血を吐く肺の病でありながら、第一線から退く事はなく、逆に戦の場に自らが赴く事で、家臣達の士気をあげ鼓舞し続けていました。
そんな野戦に長けた武田軍は西へ西へ。
織田信長を討つ事を目的に侵攻していました。
そしてその根底には1571年に起きた、信長による比叡山の焼き討ち。それに対する仏門に帰依した武田信玄の再興への熱き想いがあったのでした。
*
病の身を推して、市に会いに行っていた直虎が浜松城へ戻ると、病は日に日に悪化し、起き上がる事もままならなくなっていきました。
「次郎よ、具合はどうだ」
南渓和尚が見舞いにやってくると、直虎の傍らに座りました。
「はい、今日はだいぶ気分が良いようです」
直虎は力弱くそう答えながら微笑むと、ゆっくり身体を起こしました。
「無理せず身体を横にすればよい。あと、井伊谷城に戻れる運びとなった。武田が撤退したのだ」
「武田が?まさか……」
「そのまさかだ。公にはされておらぬが、信玄公がどうやら亡くなったらしい」
それを聞いた直虎はしばし黙り込むと、手を合わせ目を閉じ祈り始めました。瞼の裏には、松岡城でお茶を振る舞われた場面や、領地を馬で案内してもらった場面等が次々と浮かびました。
「これで織田信長の勢いを封じる人物が居なくなってしまった。一昨年の延暦寺の焼き討ち以来、信長は更に夜叉になった気がするでのう」
南渓和尚は深くため息をつきながら、直虎をゆっくりと横たわらせました。
「井伊谷に戻れる事になったのは喜ばしい事ではありますが、このままでは織田に浅井が滅ぼされてしまいます……」
「それが、今の世のならい。他家の事は他家に任せ、井伊はひたすらに井伊の事を考えるしかない。後の事は、虎松に任そうではないか」
「はい………」
直虎はか細くそう返事をすると、成長したであろう鳳来寺の虎松に想いを馳せたのでした。
*
「これからは更に、私の言う通りにして下さいませ」
烏天狗姿の天は、家康の前に絵図をひろげると、事細やかに策を語り始めました。
「忍者の里の新しき長は、細かくてかなわぬ……」
家康は困り顔をしながらも、その策を腕を組みながら聞き入っていました。
「信頼のおける信玄公が亡くなった今、大幅に策を変えねばなりませぬ」
信玄と家康との間を行き来していた長は、信玄との三方原の戦で家康にわざと負けさせると、武田が岐阜城を攻めやすくする様、その道の確保をする為の画策をしていました。
「そもそもの始まり、井伊谷城を赤備えの山県昌景に攻めさせ、龍潭寺を焼きはらう等……長の策はやりすぎではなかったのか」
「御仏は移動した後ゆえ問題はありませぬ。城を燃やさず残す為には、井伊の菩提寺である龍潭寺を燃やすが得策、織田に怪しまれない為には、半分は実際それを遂行する事。そうでなければ欺けたりは出来ませぬ」
その言葉に感心しながら頷いた家康は、「では次は如何する?」と、長に問いかけました。
「千代丸様を、織田信長殿の小姓に送りこめたらと思うております」
「千代丸を!?」
さすがの家康も、予想外の策に思わず息を飲みました。
「まだ今暫くは成長を待ち、虎松様を徳川の小姓として召し抱える時を見計らって同じ刻(とき)に。では、これにて」
その言葉を残して、長は目の前から風の様に消えてしまいました。
「どんな武将より、忍びだけは、敵に回してはならぬな」
家康は右手で顎を掴みながら、これからの展開を思い巡らせたのでした。
*
「旅立ちは明日かと……どうか和尚の経で見送って下さいませ」
息も途切れ途切れに語る直虎の言葉に、辛そうに天井を見上げた南渓和尚は、次に何度も何度も頷きながら「あいわかった」と、それだけを答えました。
直虎は自分が死んだら、虎松が元服するまではそれをひたすらに隠す様にと、皆に既に伝えていました。
それは、松岡城での武田信玄からの助言によるものでした。
戦国の世で、目まぐるしく変化する家同士の関係。
味方が敵となるその世において、法縁の繋がりはそれをも超え、直虎にとって武田信玄との繋がりは今も尚、心の中に生きていました。
「全て次郎の策通りに進めよう、だからゆっくり休め……」
南渓和尚は、幼き頃より見守ってきた直虎の姿を、目に焼き付ける様にまっすぐ見守り続けました。
「次郎は、幼き頃は御本尊の前ですぐ昼寝等して、まぁ手がかかったものだ」
「あぁそうであった。手がかかるゆえ、御仏が早く此方へ来いと、きっと面倒をみたくなってしまったのだ……」
「もう少し……我々が手がかからぬ様に厳しく育てていれば……御仏は次郎をこんなに早く迎えに来なかったのかもしれぬのう……」
直虎の傍らに座った兄弟子達は、涙をこらえながら茶化す様に、無理矢理笑いながら、交互に声をかけ続けました。
その姿に、優しく微笑んだ直虎は
「虎松を、井伊を………どうかお守り下さいませ……」
そう、振り絞る様に和尚と兄弟子達に言うと、ゆっくり目を閉じ、そして翌日、皆のお経の音色の中、あの世へと旅立っていったのでした。
*
「母様の声が………」
小谷城の中で産まれたばかりの江を抱きながら、市は急に胸騒ぎに襲われると、周囲を見渡しました。
「母上?」
そんな市の顔を心配そうに茶々が見上げると、初も同じく抱きつきながら見上げてきました。
「大丈夫じゃ……さぁ竹生島に祈りを捧げてから眠るのです」
「はい!父上の!浅井の御武運を祈りまする!」
茶々は力強くそう答えると、手と手を合わせ力強く目を閉じ、そしてそれを見た初も姉の真似をし同じく祈り始めました。
市はそんな姉妹の姿に目を細めながら、自分も祈りを捧げ始めたのでした。
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