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2章 井伊家
44話~徳政令~
しおりを挟む「また今川から徳政令を出せと督促が来たか……」
その日、届いた今川からの文に目を通しながら、直虎は頭を抱えていました。
徳政令とは、借金を帳消し、返さなくても良いとする法令の事で、借りている農民達にとっては有り難い事であるものの、貸している商家にしてみれば大打撃を受ける法でありました。
直虎は政次の指示で、のらりくらりとこの徳政令の執行を引き延ばしていました。
それは、徳政令実施文書に署名をしたが最後、井伊家は今川に乗っ取られるのが目に見えて明らかだったからでした。
「しかし……さすがにこれ以上引き伸ばすわけにはいかぬであろう。政次よ、一体どうするつもりなのだ」
中野直之は、家老の政次に突っかかる様にそう尋ねると、鼻息も荒く腕を組みました。
「今川から使者が直接来るまでは引き伸ばせましょう。時間を稼げば稼ぐ程、状況も変わるはず。まだ今暫くは……」
政次は直之にそう言いながら、直虎の方に念押しをする様な視線を投げてきました。
「あいわかった。政次の言う通りに致そう」
直虎の言葉に大きくため息をついた直之は、特に反論する事もなく、席を立ったのでした。
*
「そんなに睨まずとも、ちゃんと言う事は聞いておろう!」
政次とふたりきりになった直虎は、顔色ひとつ変えずそこに座る、政次に向かってそう言い放ちました。
「殿はすぐ気がまばらになりますからなぁ。念には念を押さなければならない、私の身にもなって頂きたい」
政次は静かにそう言うと、碁盤と碁石を持ってきて直虎の前へと置きました。
「では、一局。少し、大事な話がある」
「大事な話?」
お互い碁石を打ちながら、政次が話を続けました。
「織田信長が、武田と徳川に同盟を結ぶように話を持ちかけている」
「それはつまり………両家で今川を討つと申すか!!」
直虎は慌てて声を抑えながらも、動揺を隠しきれず、右手に持った碁石を、思わず左手で包み込みました。
武田と徳川から挟みうちされれば、今川に逃げ場は無い事は一目瞭然。そして今川家臣である井伊家の滅亡も避けられないはず……
「このまま黙って何もしなければ、殿が今思い描いている通りになりましょう。ただ、私はそんなつもりはない」
「では、政次には策があるというのか………?」
直虎は碁を打つのも忘れ、政次の顔を見つめました。井伊を守る為に女を捨て当主までなった。そんな直虎にとって、現在の窮地に追い込まれた井伊家を守る為には、家老の政次しかもはや、頼れる存在はいませんでした。
「実は、織田側の忍びと話がついている」
「忍び??」
予想外の言葉に、直虎は目を白黒させながら、辺りを思わず警戒しました。
「お初にお目にかかります、直虎様」
背後からいきなり、女性の声で語りかけられた直虎は、驚きのあまり声を出す事も、振り返る事も出来ずに固まってしまいました。
「織田の忍びではあるが元は尼子の出自、表の顔は浅井でもある」
「浅井??」
直虎は、唐突な"浅井"の言葉に反応せずにはいられませんでした。
そして、過去生は浅井の人間であった、そんな生まれ変わる前の記憶を思い出していました。
しかしこの忍び、織田であり浅井とは一体どういう事なのだろうか……
そして、それが井伊にとって何の関係があるというのだろうか………
直虎の困惑した様子に目を配りながら、政次は碁石を片付け始めると、「ふたりで少し話をして欲しい」と言う言葉を残し、退散してしまったのでした。
*
「そろそろ振り返って下さいませ、直虎様」
直虎はゆっくり振り返ると、そこには忍び装束に身を包んだ、ひとりの女性が控えていました。
「そなたは何者じゃ………」
直虎がそう言った瞬間、頭に雷が落ちたかの様な衝撃が走り、思わず顔をしかめました。
「直虎様、阿古にございます」
「阿古………」
直虎はその名前を聞いた途端、胸をかきむしられる様な苦しさに襲われ、その反面強い懐かしさで頭が混乱してきました。
「家紋が視える………六角の……これは、どういう事じゃ」
「やはり……直虎様は千代鶴様の生まれ変わり、阿古はずっとずっとお会いしたいと、竹生島に祈りを捧げて参りました」
「竹生島………」
直虎はその言葉を聞いた瞬間、自分の想いとは裏腹に勝手に涙が流れ始めました。
「……これはどうした事か……すまぬ……すまぬ……」
慌てて顔を覆う直虎に向かって、阿古は更に近づくと、自分も涙を流し始めました。
「秀子を覚えていらっしゃいますか?秀子は、織田信長の娘、鳳来寺で隠し育てられておりました。秀子は現在市と名乗り、浅井家当主である、長政の正室となっております」
「秀子が浅井に?」
様々な点と点を線にしながら、事態を飲み込み始めた直虎は、更に阿古と深く話をしました。
「色々を理解が出来た。織田も浅井も近く感じられる様になった………不思議なものじゃ」
直虎は、まだ半分夢を見ている感じでありながら、言葉では上手く現す事の出来ない、この不思議な感覚にまだ戸惑っていました。
「千代鶴様である直虎様、即ち井伊を守る為、様々な情報は密に小野殿に伝えております、ご安心下さいませ」
「それは心強い。しかし、女の身で忍びとは………身が危なくはないのか?」
「勿体ないお言葉。女の身で当主となられた直虎様の方が余程大変なはず。では、これにて」
そう言葉を残すと、阿古の姿はもうそこにはありませんでした。
「なんと目の眩む素早さよ!生まれ変わった暁には、必ず、女の忍びになりたいものじゃ!」
直虎は、ひとりで決意表明をすると目を輝かせたなでした。
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