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2章 井伊家
43話~千代丸~
しおりを挟む「えい!えい!」
その日、龍潭寺で虎松は木刀を振り
稽古に励んでいました。
直親亡き後の井伊には、力がもはや無いと踏んだのか、今川家こそ、余裕が無い状態だからか
出家させたと表向きには伝えた虎松の事を、今すぐ差し出せと言ってくる事は今の所はなく、今川と井伊の関係は小康状態を保っておりました。
「母上!」
直虎の姿を見つけた虎松は、木刀を置くと一目散に駆けてきました。
虎松は、後見人となった直虎の事を、もうひとりの母と呼び、とても懐いていました。
「おぉ虎松、元気であったか」
直虎も直親の忘れ形見を我が子の様に想い、実母と会えぬ寂しさを埋めるべく、匿っている龍潭寺に足繁く通っていたのでした。
「今日は虎松に大事な話があって参った」
「大事な?」
すると、兄弟子が小さな男の童と手を繋ぎ、こちらへやってくる所でした。
「このお方は?」
虎松は自分よりも小さきその男児をいぶかしげに見つめながら、直虎に尋ねました。
「千代丸君じゃ、今日からここで暮らす事になった。仲良くしてやってほしい」
「千代丸………」
虎松が突然の来訪者に驚いていると、千代丸は千代丸で今にも泣きそうになりながら、兄弟子の後ろにまわりこむと隠れてしまいました。
「おやおや、恥ずかしがるでない。千代丸、虎松じゃ、仲良くするのじゃぞ?」
恐る恐るそっと顔を覗かせた千代丸は、黙ってコクリと頷きました。
「よし!弟子が増えたからには、今から剣術の稽古をみっちり致すとしよう」
兄弟子は腕まくりをすると、木刀を持ち虎松の前に立ちはだかりました。
「さぁこい!虎松!」
虎松は千代丸の事をちらりと見た後、木刀を構えると、「やーー!!」と叫びながら、兄弟子に向かっていきました。
それを見ていた千代丸は、初めて見る光景に目を丸くさせた後、「うわぁー!!」と、その場で喜び、飛び跳ね始めました。
「千代丸!この虎松をよく見ておけ!次はお前の番じゃ!」
「はい!」
千代丸は、恥ずかしがっていた態度とはうってかわって、兄弟子と虎松の稽古を間近で食い入る様に見始め、直虎はその光景に安堵しながら目を細めたのでした。
*
「仲良くなれそうか」
「政次も来ておったのか、さすが子供同士は仲良くなるのが早いものじゃ」
様子を見に来た政次に直虎がそう言うと、政次が周囲を見渡し、小声で話し始めました。
「武田が動いた。嫡子の義信殿を幽閉したそうだ」
「幽閉!?一体何があったのじゃ」
「義信殿は今川氏真様と同年生まれ、そして今川よりな方と聞く。元々信玄公とは不仲だとは聞いていたが、ここにきて謀反を計画していたとか何とか」
「つまり、それが露見したという事か?」
「と、表向きにはなっているようです。どちらにせよ、今川はこれで終わりだ」
「確かに、信玄公は今川に対して想う所がおありな様子ではあったが………それでは井伊のこれからはどうなる!今の井伊は身動きは取れぬ。武田も徳川も、井伊の敵になってしもうたら、井伊の様な小国はひとたまりもないではないか」
「だから今、静かに息を潜め動いておるのです。虎視眈々と情勢の津々浦々に目を光らせ、どうすれば井伊を守れるのか、虎松を守れるのか、それのみで策を練っておるのです」
「千代丸君の事を引き受けたのも、勿論そうではあるが…………」
直虎は心配そうに呟くと、ゆっくり稽古の風景に目をやりました。
兄弟子と虎松に既に千代丸は懐いていて、仲良くはしゃぐその光景は、会話の内容とあまりにもかけ離れた平穏な景色すぎて、直虎は今が戦の世である事が信じられなくなりました。
「守りたいのう………あの笑顔を」
それを聞いた政次は、大きく息を吐きました。
「殿、これからは特に、私の言う事を素直に聞いて下さい。わかりましたね?」
「い、いつも聞いておるではないか!何を今更」
「ここで反抗されては、全てが水の泡になる。だから釘を刺しているのです。殿は肝心な時にいつも逆の方へ行こうとする。幼き頃からいつもいつもその繰り返し、それにずっと付き合ってきたはこの私ですから」
直虎は不機嫌になると、政次を睨み付けました。
「あぁ政次は本当に口煩い!そもそも家臣達や領民にもそなたは厳しく言いすぎなのだ、そんな風では損をするし誤解される」
「憎まれ役がいると、その分殿が皆から慕われまする。全て策です」
にっこりと微笑んだ政次に、言葉を詰まらせた直虎は、悔しそうにそして恥ずかしそうに背を向けました。
「政次!では、私に出来る事は何かないのか!……政次の策を言われるがままの、ただの人形にだけは……なりたくないのだ………」
「殿は、井伊直虎として、当主としての誇りを持っていたらよいのです。それは、殿にしか出来ぬ事。後の津々浦々は、私にお任せ下さい」
「誇り…………」
直虎は俯くと、黙って考え込んでしまいました。
その二人の姿をよそに、虎松と千代丸の元気な声が、辺りにこだまし続けたのでした。
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