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2章 井伊家
37話~混沌~
しおりを挟む当時の遠州は、遠州錯乱と言われた時期で、戦以外にも一向一揆が起きたり、かなり混沌とした状況でありました。
今川家も、氏真の代になってから離反が相次いだ事もあり、かなり躍起になっておりました。
その焦りが、更なる疑心暗鬼を生み、打つ手打つ手が裏目に出て、氏真の首を自ら絞めていったのでした。
直親は、家臣の中でも親今川派、反今川派と二分する様になってきた内部をまとめ、井伊家が窮地に立たぬ様、うまく取りまとめていました。
そんなある日、政次が今川氏真に呼び出されました。内容は、井伊直親が家康と通じていると密告があった、それは本当かというものでした。
「おそれながら、我が当主に限ってその様な事はございませぬ、何かの間違いかと」
真剣に訴える政次の前で、氏真は右手に持った扇子を開いたら閉じたりしながら、舐める様に政次を見ると、「これでも?」と、ひとつの文を取り出しました。
それは政次には見覚えのある、築山殿から井伊家に送られた、虎松誕生の際の祝いの文でした。
あの時、燃やしておくべきであったか……
そう政次は心の中で思いつつ、豪快に笑い始めました。
「これは直親様が嫡男、虎松君誕生の祝いに築山殿から送られた文でございます。少し、近況として、徳川と今川に触れる内容があったかもですが、最近のものではございませぬゆえ、何の心配もいりませぬ」
「さぁ……それはどうであろうか。元々、元康の室は今川と縁戚であれど井伊家とも縁戚。こう昔からの仲睦まじさを目の当たりにすると、いつ井伊が今川を裏切るかもわからぬと思ってしまうもの」
「その心配はありませぬ。それ以降、築山殿は元より徳川と何のやり取りも、ご縁もありませぬ、調べて頂ければ一目瞭然」
「さぁどうだか……我が父の手によって、直満が死んだのだ。直親は今川を恨んでいるはず……」
氏真は立ち上がると、また扇子を開いたり閉じたりしながら、その場をゆるりゆるりと何か思案しながら歩き始めました。
政次はただ黙って、ひれ伏していました。
下手な発言が逆鱗に触れ、井伊家を落とし入れる事になってはいけない
何とか穏便に収めなければ、何とか………
すると、左の手のひらに、扇子をパチンと音を鳴らし叩いた氏真が、目を輝かせて振り向き、政次を見下ろしました。
「良い事を思い付いた……虎松を人質として今川へよこせ」
突然の要求に、政次は慌てました。
「氏真様、人質等不要でございます。井伊の内情は、この政次が包み隠さず伝えまする。父、政直の働きを見ても、小野は決して今川を裏切らぬ事、一番おわかりのはず!どうか考えを、お改め下さいませ!」
「そういえば、直盛には出家した娘がおったな、確か、次郎法師といったか……」
「……それが………何か………」
「井伊に戻り、人質として虎松と次郎法師を連れて参れ、今すぐにだ」
「お待ち下さい!!氏真様!!!」
政次の悲痛な叫びに耳も傾けず、氏真は立ち上がると、笑いながら部屋を立ち去ってしまいました。
「何とか、何とかしなければ………」
両手の拳を震わせ、下唇を強く噛みながら
政次は瞬きもせず、目を見開き続けました。
*
「私が直接、氏真様に弁明しに行ってこよう」
井伊に戻った政次から、話を聞いた直親は
迷う事なく、そう言いました。
「弁明しても、逆に火に油を注ぎかねない。もう少し他の策を考えた方がよいかと」
止める政次に、直親はにこやかな笑顔を向けました。
「氏真様は、逃亡していた私が今川へ帰参する事も許して下さったのだ。直接話せばきっと、わかってくださる」
「あの時と今では、世が違う!逆に敵とみなされ、井伊に今川軍が押し寄せたらどうなる!虎松はどうなる!今は遠回りになろうとも、他の策を考えるべきなのだ!」
政次の熱い叫びに、直親は困りながらも
真剣な面持ちで、さらに話を続けました。
「他の家臣達に、今この話をしたら、どちらにせよ内部が決裂するだろう。反今川派は兵をあげよと訴え、親今川派は人質を出した方がいいと言うはず」
「それは、そうだが………」
「家は必ずひとつでなければならぬ。ひとつになりきれなかったからこそ、私の父、井伊直満は今川に殺されたのだ。
政次……これはつまり、私のひとつの賭けだ。
弁明を聞いてもらえるか、もらえないのか。
聞いてもらえず死んだ、父のその因縁の払拭が出きるか出来ないのか。
出来て初めて、お前の苦しみも解き放てるのかもしれない」
政次はそれを聞いて、もはや何も言う事は出来ませんでした。
「全ては、井伊家当主である、直親様にお任せ致します」
政次はゆっくりと、そこにひれ伏したのでした。
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