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二十一章
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白鳥さんの取りなしのお陰で、事はどうにか収まった。「猫将軍君はうっかりしている」に端を発する心労も、表面化する前に誤魔化すことが出来たはずだ。との騒動を経て僕らは台所を去り、道場へ移動した。猫丸を見てもらうだけでも、技術者としての白鳥さんの人生を左右するほどの出来事になるのだから、道場以外ないと思えたのである。猫達もそれに賛成し、テレパシーで見届け役を名乗り出た中吉達は、白鳥さんの後ろを付いて来ていた。
夜とほぼ変わらぬ暗さの降りた森を抜け、道場に着く。一礼し床に足を一歩踏み入れ、すぐさま回れ右をしてしゃがみ、脱いだ靴を揃える。そして立ち上がり、本命のお辞儀をしてから、僕は道場の中に入っていった。という入室の作法を求められる状況に、今回初めて直面したのだろう。白鳥さんは戸惑い、道場に足を踏み入れられないでいた。しかし三匹の猫が掛けてくれる肯定の「にゃ」と否定の「うにゃ」を的確に感じ取り、白鳥さんはそれを乗り越えることに成功した。小吉がテレパシーで語り掛けてくる。『これは並々ならぬ実力者ね』 信頼している人から友人が高評価を受けるのは、やはり嬉しいもの。その嬉しさを胸に、僕は道場の神棚に正対した。そして一人と三匹が床に座るのを待ち、祝詞を粛々と上げる。未成年の僕が未成年の女子の前で真剣を抜くのは、法律違反とまではいかずとも、対策を施すに越したことは無い。その最善はそれを「神事」にすることであり、幸い僕は神社の祭事で神主の手伝いを度々していたのが活き、神事として一応認められるはずと、美夜さんは料理実習室で話していた。とはいうものの、そんな俗事を神様に押し付けるのは無礼千万だ。僕は心の中で神様に事情を説明し、許しを希ってから、普段どおり全身全霊で祝詞を上げた。
その後振り返り、僕の右隣に来てくれるよう白鳥さんに頼む。祝詞以降は美夜さんに道場の3Dを映してもらいイメトレに励んだのが活き、白鳥さんは流れる水の如く僕の右隣にやって来て床に正座した。僕は頷き、左腰に差していた猫丸を抜き放ち、中段に構える。そのまま座り、次いで刃が僕に向くよう猫丸を傾け、体を若干右へ回転させ、そして柄を握ったまま、柄を白鳥さんの膝元に近づけていった。猫丸を真横から観察できるよう手首で角度を調整しつつ、ゆっくりゆっくり近づけてゆく。白鳥さんは料理を介して刃物に慣れているから、手の届く場所に抜き身の刀があっても安全上の心配を僕はしていなかったが、一秒二秒と経つにつれ、別の心配事が心に生じてきた。僕はそれを、極々普通の声で言葉にする。
「白鳥さん、とりあえず呼吸をしようか」
呼吸を忘れるという表現が、この国にはある。些細なことにもすぐ動揺する僕にとってそれは慣れ親しんだ状態であり、よってそれに自負じみたものを抱いていたのだけど、目の当たりにした「呼吸を忘れる」には潔く白旗を上げるしかなかった。呼吸をしようと呼びかけても白鳥さんは何の反応も示さず、猫丸を揺らしつつ語り掛けたらやっと我に返り、胸に手を当てて幾度か深呼吸したのだけど、猫丸を目が捉えたとたん再び呼吸を忘れて、振り出しに戻ってしまったのた。しかもそれを一セットとするなら、白鳥さんは実に三セットも同じことを繰り返したのである。このままでは、僕がくすぐりまくったせいで深刻な酸欠に陥った智樹と同じ状況になるのは避けられなかったが、僕は白鳥さんの邪魔をしなかった。生まれて初めて間近に見た正真正銘の本物に、呼吸も何もかも忘れて見入ったその時間が、白鳥さんの到達点を益々高めたことを、
―― 宇宙の創造主
が教えてくれたからである。己の人生を大幅に拡張する愛し子の様子を、創造主が頬を緩めて見守っていると感じた僕は、白鳥さんが酸欠で倒れた際の協力を、猫達にテレパシーで頼んだのだった。
幸い白鳥さんの酸欠は、深刻な状況にならなかった。智樹と異なり、大笑いによって全身の筋肉が酸素を切望していた訳ではないにせよ、特別な助力があったように僕は感じた。白鳥さんにも同種の感覚があるのか、胸に両手を添えて深呼吸を繰り返す様は、何かに感謝しているようでもあった。また繰り返しも三度で終わり、それ以降は普通の呼吸を心掛けて猫丸を見つめていたのも、助力を無にしない配慮として僕の目に映った。だが残念なことに、心身を完璧な制御下に置くのは失敗したらしく、
「猫将軍君どうしよう、見飽きるという事がない」
白鳥さんは猫丸に視線を注いだままそう言って、困り顔を浮かべた。それを受け、創造主がついさっき送ってきた二つの事柄の、最初の一つを僕は始めた。
「白鳥さん、刀には波紋と呼ばれる個所があるんだけど、分かる?」
「わかるよ、波紋はこの」
白鳥さんは人差し指で波紋を指さそうとするも、失礼と感じたのか途中で指を引っ込めた。とは言うものの、波紋を知っている旨を伝えねばならぬと考えたのだろう。
「波紋はこの、雲のような模様になっている所よね」
白鳥さんは掌を波に見立て、上下にゆらゆら動かす方法を採用した。猫達が感心したように頷いているのを背中で感じつつ、先を続ける。
「波紋には幾つか種類があってね。猫丸のこの緩やかな波紋は、湾れと呼ばれている。東京湾の湾に平仮名の『れ』を付けて、湾れと読むんだよ」
こんなことでも感心してくれる白鳥さんに、刀の構造を説明した。
「日本の刀は、だいたい四つの鉄でできていてね。その内の二つ、刃になる刃金と、鎬の部分の側金。その境目が、日本刀独自の波紋として現れるんだよ」
日本刀独自の箇所で自慢げに鼻息を荒くした白鳥さんにあやうく吹き出しかけるも、僕はそれを懸命に堪えた。そして一つ目の最終段階が来たと判断し、それを行った。
「今から僕は、半眼になる。五秒くらいしたら頷くから、波紋に指先を当ててみて」
突然そんなことを言われて戸惑う白鳥さんをよそに、僕は半眼になり、猫丸に微量な生命力を流し入れた。翔家翔人について具体的なことは何も明かしてないし、それにこれは創造主の依頼だから、まあ問題ないだろう。ただ要求されたことが一つあり、それは刀の中心の心金にのみ生命力を流し入れる事だった。理由は解らないけど、僕の生命力に直接触れさせてはならないそうなのである。それを満たすべく、生命力を微調整して僕は頷いた。白鳥さんは背筋を伸ばし、両手を合わせ失礼しますと述べてから、十指の先端を波紋に当てた。指さすのは躊躇ったのに指先は臆さず当てた白鳥さんに、ここ一番の度胸において男は女に決して勝てないことを、僕は悟った。
夜とほぼ変わらぬ暗さの降りた森を抜け、道場に着く。一礼し床に足を一歩踏み入れ、すぐさま回れ右をしてしゃがみ、脱いだ靴を揃える。そして立ち上がり、本命のお辞儀をしてから、僕は道場の中に入っていった。という入室の作法を求められる状況に、今回初めて直面したのだろう。白鳥さんは戸惑い、道場に足を踏み入れられないでいた。しかし三匹の猫が掛けてくれる肯定の「にゃ」と否定の「うにゃ」を的確に感じ取り、白鳥さんはそれを乗り越えることに成功した。小吉がテレパシーで語り掛けてくる。『これは並々ならぬ実力者ね』 信頼している人から友人が高評価を受けるのは、やはり嬉しいもの。その嬉しさを胸に、僕は道場の神棚に正対した。そして一人と三匹が床に座るのを待ち、祝詞を粛々と上げる。未成年の僕が未成年の女子の前で真剣を抜くのは、法律違反とまではいかずとも、対策を施すに越したことは無い。その最善はそれを「神事」にすることであり、幸い僕は神社の祭事で神主の手伝いを度々していたのが活き、神事として一応認められるはずと、美夜さんは料理実習室で話していた。とはいうものの、そんな俗事を神様に押し付けるのは無礼千万だ。僕は心の中で神様に事情を説明し、許しを希ってから、普段どおり全身全霊で祝詞を上げた。
その後振り返り、僕の右隣に来てくれるよう白鳥さんに頼む。祝詞以降は美夜さんに道場の3Dを映してもらいイメトレに励んだのが活き、白鳥さんは流れる水の如く僕の右隣にやって来て床に正座した。僕は頷き、左腰に差していた猫丸を抜き放ち、中段に構える。そのまま座り、次いで刃が僕に向くよう猫丸を傾け、体を若干右へ回転させ、そして柄を握ったまま、柄を白鳥さんの膝元に近づけていった。猫丸を真横から観察できるよう手首で角度を調整しつつ、ゆっくりゆっくり近づけてゆく。白鳥さんは料理を介して刃物に慣れているから、手の届く場所に抜き身の刀があっても安全上の心配を僕はしていなかったが、一秒二秒と経つにつれ、別の心配事が心に生じてきた。僕はそれを、極々普通の声で言葉にする。
「白鳥さん、とりあえず呼吸をしようか」
呼吸を忘れるという表現が、この国にはある。些細なことにもすぐ動揺する僕にとってそれは慣れ親しんだ状態であり、よってそれに自負じみたものを抱いていたのだけど、目の当たりにした「呼吸を忘れる」には潔く白旗を上げるしかなかった。呼吸をしようと呼びかけても白鳥さんは何の反応も示さず、猫丸を揺らしつつ語り掛けたらやっと我に返り、胸に手を当てて幾度か深呼吸したのだけど、猫丸を目が捉えたとたん再び呼吸を忘れて、振り出しに戻ってしまったのた。しかもそれを一セットとするなら、白鳥さんは実に三セットも同じことを繰り返したのである。このままでは、僕がくすぐりまくったせいで深刻な酸欠に陥った智樹と同じ状況になるのは避けられなかったが、僕は白鳥さんの邪魔をしなかった。生まれて初めて間近に見た正真正銘の本物に、呼吸も何もかも忘れて見入ったその時間が、白鳥さんの到達点を益々高めたことを、
―― 宇宙の創造主
が教えてくれたからである。己の人生を大幅に拡張する愛し子の様子を、創造主が頬を緩めて見守っていると感じた僕は、白鳥さんが酸欠で倒れた際の協力を、猫達にテレパシーで頼んだのだった。
幸い白鳥さんの酸欠は、深刻な状況にならなかった。智樹と異なり、大笑いによって全身の筋肉が酸素を切望していた訳ではないにせよ、特別な助力があったように僕は感じた。白鳥さんにも同種の感覚があるのか、胸に両手を添えて深呼吸を繰り返す様は、何かに感謝しているようでもあった。また繰り返しも三度で終わり、それ以降は普通の呼吸を心掛けて猫丸を見つめていたのも、助力を無にしない配慮として僕の目に映った。だが残念なことに、心身を完璧な制御下に置くのは失敗したらしく、
「猫将軍君どうしよう、見飽きるという事がない」
白鳥さんは猫丸に視線を注いだままそう言って、困り顔を浮かべた。それを受け、創造主がついさっき送ってきた二つの事柄の、最初の一つを僕は始めた。
「白鳥さん、刀には波紋と呼ばれる個所があるんだけど、分かる?」
「わかるよ、波紋はこの」
白鳥さんは人差し指で波紋を指さそうとするも、失礼と感じたのか途中で指を引っ込めた。とは言うものの、波紋を知っている旨を伝えねばならぬと考えたのだろう。
「波紋はこの、雲のような模様になっている所よね」
白鳥さんは掌を波に見立て、上下にゆらゆら動かす方法を採用した。猫達が感心したように頷いているのを背中で感じつつ、先を続ける。
「波紋には幾つか種類があってね。猫丸のこの緩やかな波紋は、湾れと呼ばれている。東京湾の湾に平仮名の『れ』を付けて、湾れと読むんだよ」
こんなことでも感心してくれる白鳥さんに、刀の構造を説明した。
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「今から僕は、半眼になる。五秒くらいしたら頷くから、波紋に指先を当ててみて」
突然そんなことを言われて戸惑う白鳥さんをよそに、僕は半眼になり、猫丸に微量な生命力を流し入れた。翔家翔人について具体的なことは何も明かしてないし、それにこれは創造主の依頼だから、まあ問題ないだろう。ただ要求されたことが一つあり、それは刀の中心の心金にのみ生命力を流し入れる事だった。理由は解らないけど、僕の生命力に直接触れさせてはならないそうなのである。それを満たすべく、生命力を微調整して僕は頷いた。白鳥さんは背筋を伸ばし、両手を合わせ失礼しますと述べてから、十指の先端を波紋に当てた。指さすのは躊躇ったのに指先は臆さず当てた白鳥さんに、ここ一番の度胸において男は女に決して勝てないことを、僕は悟った。
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