僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十八章

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 テーブルの向こうに座るおじいさんの太腿の辺りからミシリミシ・・・という、聞き覚えのある音がした。それは握りしめた拳にズボンの布が巻き込まれ、強く引っ張られている音だった。目の端に映るおじいさんは瞑目しているだけだが、胸の中では嵐が吹き荒れていて、それが拳に現れているのだろう。娘のいない僕におじいさんの気持ちを推し量ることはできずとも、自分の馬鹿さ加減に怒りが爆発したことなら無数にある。僕は心の中でおじいさんの隣に座り、その背中をそっとなでた。
「幸い葉月は道ならぬ恋に走りませんでした。でもこの人にとっては、ほとんど同じだったの。男友達すらいたことのない二十歳を迎えたばかりの一人娘が、亡くなった先妻との間に一子を設けている十歳年上の男性と、いきなり結婚すると言い始めたのですから、そう感じるのが父親なのでしょうね」
 ここでおばあさんは一息つき、お茶をゆっくり飲んだ。そのお茶で洗い流したような表情をして、おばあさんは僕に体を向ける。
「私の実家は、眠留君の家ほど長い歴史はないけど、白銀家より少し長く続いている家でね。私は本家の第一子だったこともあり、この人との結婚に、横槍を入れる親戚が数人いたの。でも両親がこの人を気に入り、親戚を説得して回り、私達は幸せな結婚をすることが出来た。さあ眠留君、そんな経験をした人が、娘の結婚に反対できるかしら」
 真剣勝負の気概で答えた。
「やはり、難しいと思います」
「そうね、それが人情というものよね」
 おばあさんは武蔵野姫のように微笑み、先を続けた。
「この人は娘が生まれた時から、娘が選んだ人を頭ごなしに否定したりしないって、ずっと言っていたわ。でもその一人娘には、男の子との親交が無さすぎた。幼稚園で同じ組の男の子に初恋をして、小学校で父親以外に初めてバレンタインチョコを贈り、中学校で彼氏ができて、高校生の娘がデートから帰ってこないと日のある内からやきもきする。そんな経験を、この人は一度もしたことが無かったの。だから葉月が光彦さんと結婚すると言った時のショックは、凄くてね。食事も睡眠もままならないのに一心不乱に働いていたから、畑で突然倒れて、救急車のお世話になったくらいだったわ」
 輝夜さんがおじいさんの手に自分の手を重ねて、ごめんなさいごめんなさいと繰り返した。おじいさんは一瞬だけ口をわななかせるも、「何を言う、こんなに優しい孫娘がいて儂は幸せだ」と、大地をあまねく照らす太陽のように微笑んだ。それはおじいさんの、核心を成す言葉だったのだろう。おじいさんの姿勢に柔らかさが、そして表情に朗らかさが戻り、その後に語られたつらい話の最中も、それは決して失われることは無かった。
 搬送された先の病院で目覚めたおじいさんは、片時も離れず看病していた葉月さんに、泣きながら謝罪されたと言う。それは父親として初めて見る、娘の泣く姿だった。母親が入退院を繰り返していた時期もいつも気丈に振舞っていた娘が、自分の不甲斐なさのせいで泣いている。しかも謝罪の必要のない事について、全部自分が悪かったですごめんなさいと繰り返している。その娘の姿に、おじいさんは光彦さんと仲良くなる決意をした。「それで葉月、お父さんの息子になる人を、いつ連れて来てくれるんだい?」 おどけてそう問いかけたおじいさんに、光彦さんが病院のロビーにいることを葉月さんは伝えた。おじいさんは診察に訪れたお医者さんに事情を話した。すると同じ年頃の娘を持つお医者さんは他人事ではなかったのか、豪華なカウンセリングルームをすぐ確保し、対面場所として提供してくれた。驚くおじいさんに、「病気の原因となった心労を取り除くのも、我々の大切な務めです」とお医者さんは即答し、病室に和やかな気配が満ちた。その気持ちのまま大急ぎで身支度をし、十分後に光彦さんと対面するも一分と経たず、おじいさんはしぼんでゆく気持ちと水面下で戦わねばならなかった。誠実な善人であることは間違いないのに、おじいさんと光彦さんは、馬が合わなかったのである。
 人とは不思議なもので、罵り合いをしているのになぜか楽しく感じて時間があっという間に過ぎてゆく人もいれば、談笑しているのになぜか居心地悪く感じて時間がなかなか進まない人もいる。それをおじいさんと光彦さんに当てはめるなら、二人は疑いようもなく後者だった。互いが相手と仲良くなろうと願い、会話を弾ませようとしているのに、どうしても盛り上がらない。気を取り直し新たな話題に移るも、歯車がかみ合わず尻すぼみになってゆく。それを幾度か繰り返したところで見かねた葉月さんが、「お父さんは一晩入院しないといけないから日を改めましょう」と提案し、対面はお開きになった。今度こそはと満を持して臨んだ二度目の冒頭、深刻な顔の光彦さんに重大な話があると告げられ、そして翔家翔人の話を明かされたおじいさんは、娘と半ば縁を切らない限り娘は嫁ぎ先で幸せになれないことを悟った。おじいさんはそれまで、娘の幸せより大切な事などこの世に存在しないと心から信じていた。だが、それは違った。半ばであろうと縁を切らねばならない状況をもたらした光彦さんが、憎くて堪らなかった。自分が光彦さんを憎んだら娘が悲しむと分かっていても、怒りは収まらなかった。こんな男との結婚は許さないと叫んだら娘が悲しむと分かっていても、叫びたくて叫びたくて仕方なかった。おじいさんはあらん限りの力を注ぎ目と口を閉じ続け、悶え苦しんだ。そしてその果てに、知った。自分はただ、娘より自分を優先しているだけなのだと。
 体から力みを取り、呼吸を整え、怒りを収める。気持ちを静め、結婚反対を口走らない自分を幾度もイメージする。望む状態にどうにかなれたと感じ、瞼をゆっくり開ける。視野に光彦さんを捉えるなり双眸に怒りが宿るも、それは一瞬で消え、おじいさんはテーブルの向こうに座る二人に言った。「結婚おめでとう」と。
 それからの記憶は、あいまいらしい。南青山の白銀家を翌週訪ね、光彦さんの御両親に挨拶し、結婚は葉月さんが大学を卒業してからという事を決め、東大和市の自宅に帰って来て数日経つまでの記憶が、おじいさんにはあまり無いと言う。おじいさんは言葉を濁していたが、農作物に隠れて泣いている自分におばあさんが寄り添っているのを気づいたのが、心が正常に戻るきっかけだったそうだ。
 おばあさんの話を途中から引き継ぎ、自分の心と体でもって感じた事をおじいさんが語り終えるや、輝夜さんは突っ伏して泣き始めた。おじいさんの邪魔をしないよう懸命に耐えていたから、話が終わると同時にこうなるのは事前に分かっていたけど、僕は輝夜さんに寄り添わなかった。ここで輝夜さんを慰めるのは、おじいさんの役目だと考えていたからだ。すると、
「眠留、すまなかったな」
 おじいさんの声が耳に届いた。背筋を伸ばした僕に、おじいさんは両手をテーブルの上に出してグーとパーを繰り返し、それに合わせて口を開けたり閉じたりして見せる。そして「儂の真似をしなさい」とおじいさんは微笑んだ。言われたとおりにしようとして、初めて気づいた。僕は両拳と唇を、万力のように締め上げていたのだ。
 拳が開かずしばし苦労するも、ほどなく真似できるようになった。おじいさんは大きく頷き、次いで居住まいを正し、孫娘を頼むと腰を折った。「命に代えても」との返答に満足げに微笑み、おじいさんはおばあさんの隣に戻って行った。
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