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十六章
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「古代の日本人にとって九は苦に通じる忌み言葉でしたから、記紀では八を最大の数として扱っています。したがって八という数字に苦しめられた神話の櫛名田姫が、現代でも八に翻弄されるとは思えません。僕の右隣に座っている櫛名田姫の苦しみの期間は、今年の六月で終了したのだと僕は考えています」
「猫将軍君、遠慮せず答えて欲しい」
「はい、約束します」
「私は間違った湖校生活を送ったから、食料関係の専門家を目指さなかったのかな」
僕は確信をもって、首を横へ振った。
「量子AIが人類の友となった現代に、食糧危機はまず起こりません。よって豊穣の女神は農産物ではなく、豊かな色彩を世に溢れさせようとしたのではないでしょうか」
ハッとした千家さんに頷き、僕は標本を指さす。
「薄々そうではないかと思っていましたが、この標本のお陰ではっきりしました。僕は他の人より、瑞々しい輝きを放つ世界にいるんですね。僕にとっては標本の右端に見えても、一般的には中央として目に映っているのを知ったのは、少しショックでした」
瑞々しさを基準に譬えるなら、右端は若葉を元気に茂らせた五月晴れの樹木になり、中央は曇りがちな秋の樹木になる。例をもう一つ挙げると、日差しをたっぷり浴びて育った果物を右端とするなら、中央は効率最重視の農業工場で短期栽培された果物になるだろう。個人的感覚だが僕は二つの標本に、それほどの差を感じていたのである。僕は標本を手に取り、千家さんの正面に置いた。
「千家さんが開発したこの塗装方法は、生命力の光を土台にした色に近い気がします。そして現代は、好きな仕事を自発的に楽しくできるよう子供達が努力している時代です。本来の自分になって、活き活き生きることを一人一人が目標にしている時代です。つまり千家さんは、新しい時代に突入した人類に相応しい、生命力の輝きを表現できる塗装技術を開発したのだと僕は思います」
「新しい見解を教えてくれてありがとう」
千家さんはそう言い、溢れる想いを受け止めるように胸に手を添えた。その後、想いを言葉に替えようと幾度も試みるも、それが叶うことは無かった。そんな千家さんへ、「何時間待ってもへっちゃらです!」と僕は胸を叩いてみせる。顔を綻ばせた千家さんは「こそこそ生きてきた罰ね」と呟いた。
「猫将軍君、私はこそこそ隠れて生きてきたの。だから猫将軍君のスケールの大きな話に、素早く受け答えするのが難しいみたい。名前から順を追って、答えていいかな?」
もちろんですと姿勢を目一杯正した僕に、「成長していく嵐丸を見るのは嬉しいけど姿はあのままでいて欲しいなあ」なんて意味深な笑みを零し、僕の意識を豆柴方面へ陽動してから、千家さんは驚愕の告白をした。
「私の実家は大和朝廷成立まで猫将軍君の家と同じ仕事をしていたけど、技の継承はとっくに途絶えている。でも先祖返りの子供が稀に生まれてきて、そして私は特にそれが強いようなの。といっても千五百年前の古文書に頼るしかないから、私が身に付けられたのは、特殊視力の必要最低限の制御だけだったわ」
誰にも言わないから安心してと微笑まれたが、心はまだしも体の硬直を解くことが僕にはどうしてもできなかった。その様子にクスクス笑い、千家さんは僕に体を向けて「ほら手を貸して」と両手を差し出した。嵐丸がお手をするように、千家さんの手を握ることしか僕にはできなかった。
「紳士の猫将軍君は特殊視力の常時制御を無意識に行っていて、女性の秘密を暴くような事は決してしないから、私の化粧の暗示にかかってくれたのよね。でも千五百年のブランクがある私の一族に、無意識下の常時制御なんて到底不可能なのよ。だから新忍道の大会で猫将軍君と一緒に空中に浮いていたエメラルド色の猫さんには、感謝してもしきれないわ。あの猫さんが教えてくれたお陰で、私は物心ついてから始めてこの視力を、重荷に感じなくなったの」
そんな重大事項をなぜ忘れていたんだと頭を抱えそうになってようやく、絶世の美女の手を握っていることを意識した僕は、顔を大爆発させてしまった。千家さんは初めて聞く軽やかな声で笑い、「年下の猫将軍君に諭されてばかりで立つ瀬がないからもうちょっとお姉さんぶらせて」と、子供をあやすように手を左右に揺らした。平常心を保つにはお子様になり切るしかないと、僕は開き直った。
「私に先祖返りの要素が強く出ていると知った祖父は、櫛名田姫の名を付けるよう息子夫婦を促した。三人兄妹の末子ということもあり両親は反対せず、私は千家櫛名になった。猫将軍君ほどではないけど私も前世を覚えていて、その中には出雲王朝のものもあったから、小さい頃は櫛名田姫を強く意識していたわ」
恵まれた容姿に生まれてきたことを子供なりに理解していた千家さんは、神話に登場する豊穣の女神と自分を重ねる一人遊びを、幼稚園入園前は頻繁にしていたらしい。しかし自分に向けられる園児達の悪意に気づき、そしてそれが八岐大蛇への生贄を連想させたため、千家さんは櫛名田姫をなるべく意識しないようになって行ったと言う。化粧で本来の顔を隠せば悪意を免れると知ってからは努力せずとも意識しなくなり、櫛名田姫は年々遠い存在になって行ったが、ある日を境にそれは眼前に立ちはだかる事となった。モンスターと戦う若者達に惹かれて観覧席に足しげく通っていた千家さんは去年の秋、ふと思ったそうだ。私の湖校生活は間違っていたのかな、と。
「モンスターと戦う男の子たちは、強い絆で結ばれていたわ。その絆を作れなかったという面では、間違いは確定している。けど、櫛名田姫はわからなかった。出雲王朝時代の記憶があるだけで櫛名田姫の記憶があるのではないから、豊穣の女神に自分を重ねるのは、子供特有の夢想だったと思う。でも幼稚園入園前は農学関連の専門家になりたいと強く願っていたのに、異なる分野を目指したのは、櫛名田姫を意図的に遠ざけたからではないか。祖父は霊験を得て孫娘に櫛名田姫の名をつけ、私もそれを受け入れていたのに、本来の自分を隠す学校生活を送ったせいで本来の人生をも捻じ曲げてしまったのではないか。私は去年の秋以降、それを自分にずっと問い続けて来たの」
人生を捻じ曲げた可能性に苦しみつつも、千家さんは今までにない色彩修正技術の開発を続け、そしてそれを完成させた日の翌週に、新忍道の埼玉予選が開催された。荒海さんの背中に本来の自分に戻る道を見つけ、学校生活に転換期が訪れたことを実感したが、それをもってしても櫛名田姫の件は未解決なままだった。とここまで話したとき、
「ただ」
千家さんはそう言って、手に力を込めた。
「ただ、猫将軍君の神社の食糧貯蔵室で見た不思議な光と、新忍道の大会でお会いしたエメラルド色の猫さんを思うと、苦しみが和らいだ。櫛名田姫の件ももうすぐ解決するんだって、なんとなく信じられた。そして今朝もらった美鈴さんのメールでそれは確信に変わり、私は安心した。農学者を目指さなかったことに解答をくれるのが猫将軍君ならお礼をきちんとできる、ああ良かったって、私は安心したの。なのに猫将軍君は想定外のプレゼントをくれて、用意したお礼では足りなくなっちゃったから、お姉さんは困ったよ」
いやあの、千家さんにお姉さんって言ってもらえて僕も困っているんですけどと白状すると、
「良かった」
にぱっと千家さんは笑い、子供をあやすような仕草を再びして手を離した。美人耐性スキルをほぼカンストしていて正解だったと今以上に胸をなでおろす瞬間は、この人生でもう無いんだろうなあ・・・
などと間抜け顔を晒す僕をよそに千家さんは2Dキーボードに白魚の指を閃かせ、あるファイルを出す。
そのファイル名を目にした僕は、千家さんに指摘されるまで呼吸を忘れていた。
なぜならそこには、
『猫将軍選手の特殊視力考察と、他選手への影響』
そう書かれていたからだった。
「猫将軍君、遠慮せず答えて欲しい」
「はい、約束します」
「私は間違った湖校生活を送ったから、食料関係の専門家を目指さなかったのかな」
僕は確信をもって、首を横へ振った。
「量子AIが人類の友となった現代に、食糧危機はまず起こりません。よって豊穣の女神は農産物ではなく、豊かな色彩を世に溢れさせようとしたのではないでしょうか」
ハッとした千家さんに頷き、僕は標本を指さす。
「薄々そうではないかと思っていましたが、この標本のお陰ではっきりしました。僕は他の人より、瑞々しい輝きを放つ世界にいるんですね。僕にとっては標本の右端に見えても、一般的には中央として目に映っているのを知ったのは、少しショックでした」
瑞々しさを基準に譬えるなら、右端は若葉を元気に茂らせた五月晴れの樹木になり、中央は曇りがちな秋の樹木になる。例をもう一つ挙げると、日差しをたっぷり浴びて育った果物を右端とするなら、中央は効率最重視の農業工場で短期栽培された果物になるだろう。個人的感覚だが僕は二つの標本に、それほどの差を感じていたのである。僕は標本を手に取り、千家さんの正面に置いた。
「千家さんが開発したこの塗装方法は、生命力の光を土台にした色に近い気がします。そして現代は、好きな仕事を自発的に楽しくできるよう子供達が努力している時代です。本来の自分になって、活き活き生きることを一人一人が目標にしている時代です。つまり千家さんは、新しい時代に突入した人類に相応しい、生命力の輝きを表現できる塗装技術を開発したのだと僕は思います」
「新しい見解を教えてくれてありがとう」
千家さんはそう言い、溢れる想いを受け止めるように胸に手を添えた。その後、想いを言葉に替えようと幾度も試みるも、それが叶うことは無かった。そんな千家さんへ、「何時間待ってもへっちゃらです!」と僕は胸を叩いてみせる。顔を綻ばせた千家さんは「こそこそ生きてきた罰ね」と呟いた。
「猫将軍君、私はこそこそ隠れて生きてきたの。だから猫将軍君のスケールの大きな話に、素早く受け答えするのが難しいみたい。名前から順を追って、答えていいかな?」
もちろんですと姿勢を目一杯正した僕に、「成長していく嵐丸を見るのは嬉しいけど姿はあのままでいて欲しいなあ」なんて意味深な笑みを零し、僕の意識を豆柴方面へ陽動してから、千家さんは驚愕の告白をした。
「私の実家は大和朝廷成立まで猫将軍君の家と同じ仕事をしていたけど、技の継承はとっくに途絶えている。でも先祖返りの子供が稀に生まれてきて、そして私は特にそれが強いようなの。といっても千五百年前の古文書に頼るしかないから、私が身に付けられたのは、特殊視力の必要最低限の制御だけだったわ」
誰にも言わないから安心してと微笑まれたが、心はまだしも体の硬直を解くことが僕にはどうしてもできなかった。その様子にクスクス笑い、千家さんは僕に体を向けて「ほら手を貸して」と両手を差し出した。嵐丸がお手をするように、千家さんの手を握ることしか僕にはできなかった。
「紳士の猫将軍君は特殊視力の常時制御を無意識に行っていて、女性の秘密を暴くような事は決してしないから、私の化粧の暗示にかかってくれたのよね。でも千五百年のブランクがある私の一族に、無意識下の常時制御なんて到底不可能なのよ。だから新忍道の大会で猫将軍君と一緒に空中に浮いていたエメラルド色の猫さんには、感謝してもしきれないわ。あの猫さんが教えてくれたお陰で、私は物心ついてから始めてこの視力を、重荷に感じなくなったの」
そんな重大事項をなぜ忘れていたんだと頭を抱えそうになってようやく、絶世の美女の手を握っていることを意識した僕は、顔を大爆発させてしまった。千家さんは初めて聞く軽やかな声で笑い、「年下の猫将軍君に諭されてばかりで立つ瀬がないからもうちょっとお姉さんぶらせて」と、子供をあやすように手を左右に揺らした。平常心を保つにはお子様になり切るしかないと、僕は開き直った。
「私に先祖返りの要素が強く出ていると知った祖父は、櫛名田姫の名を付けるよう息子夫婦を促した。三人兄妹の末子ということもあり両親は反対せず、私は千家櫛名になった。猫将軍君ほどではないけど私も前世を覚えていて、その中には出雲王朝のものもあったから、小さい頃は櫛名田姫を強く意識していたわ」
恵まれた容姿に生まれてきたことを子供なりに理解していた千家さんは、神話に登場する豊穣の女神と自分を重ねる一人遊びを、幼稚園入園前は頻繁にしていたらしい。しかし自分に向けられる園児達の悪意に気づき、そしてそれが八岐大蛇への生贄を連想させたため、千家さんは櫛名田姫をなるべく意識しないようになって行ったと言う。化粧で本来の顔を隠せば悪意を免れると知ってからは努力せずとも意識しなくなり、櫛名田姫は年々遠い存在になって行ったが、ある日を境にそれは眼前に立ちはだかる事となった。モンスターと戦う若者達に惹かれて観覧席に足しげく通っていた千家さんは去年の秋、ふと思ったそうだ。私の湖校生活は間違っていたのかな、と。
「モンスターと戦う男の子たちは、強い絆で結ばれていたわ。その絆を作れなかったという面では、間違いは確定している。けど、櫛名田姫はわからなかった。出雲王朝時代の記憶があるだけで櫛名田姫の記憶があるのではないから、豊穣の女神に自分を重ねるのは、子供特有の夢想だったと思う。でも幼稚園入園前は農学関連の専門家になりたいと強く願っていたのに、異なる分野を目指したのは、櫛名田姫を意図的に遠ざけたからではないか。祖父は霊験を得て孫娘に櫛名田姫の名をつけ、私もそれを受け入れていたのに、本来の自分を隠す学校生活を送ったせいで本来の人生をも捻じ曲げてしまったのではないか。私は去年の秋以降、それを自分にずっと問い続けて来たの」
人生を捻じ曲げた可能性に苦しみつつも、千家さんは今までにない色彩修正技術の開発を続け、そしてそれを完成させた日の翌週に、新忍道の埼玉予選が開催された。荒海さんの背中に本来の自分に戻る道を見つけ、学校生活に転換期が訪れたことを実感したが、それをもってしても櫛名田姫の件は未解決なままだった。とここまで話したとき、
「ただ」
千家さんはそう言って、手に力を込めた。
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いやあの、千家さんにお姉さんって言ってもらえて僕も困っているんですけどと白状すると、
「良かった」
にぱっと千家さんは笑い、子供をあやすような仕草を再びして手を離した。美人耐性スキルをほぼカンストしていて正解だったと今以上に胸をなでおろす瞬間は、この人生でもう無いんだろうなあ・・・
などと間抜け顔を晒す僕をよそに千家さんは2Dキーボードに白魚の指を閃かせ、あるファイルを出す。
そのファイル名を目にした僕は、千家さんに指摘されるまで呼吸を忘れていた。
なぜならそこには、
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そう書かれていたからだった。
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