僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十六章

現代の豊穣の女神、1

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 翌二十九日の、午後一時過ぎ。六年生校舎の実技棟の出入り口前で、僕は深呼吸を繰り返していた。咲耶さんに許可をもらっていても、ヘタレの僕が六年生校舎に足を踏み入れるには、相応の心の準備を必要とする。その準備を整える意味も兼ね、校舎の陰で深呼吸しながら、昨夜の出来事を僕は回想した。
 
 昨夜の、午後八時。
 夕食会に参加した六年生四人が帰宅した後の、自室。
 咲耶さんから受け取ったメールに、僕は目を通していた。
『新忍道部と撫子部の交流会への眠留の貢献を称え、六年生校舎に唯一設置している最先端3Dプリンターと最先端着色機器を、私用で使う許可を与える』
 どえらい事をしてくれた、というのが正直な感想だった。輝夜さんのカチューシャを最高性能の3Dプリンターと着色機器で製作できるのは、まこと有り難いと言える。しかしだからといって、六年生校舎の備品を大手を振って使うなど、僕にできる訳がない。それは六年生にとっても同じはずで、自分達の校舎に二年生がいるのを見かけたら、不快までは行かずとも奇異に感じるのは避けられないだろう。敬愛する真田さんや荒海さんの同級生に、そんな想いを絶対させてはならない。ならば、どうすれば良いのか? 正解は、「六年の先輩方に会わなければ良い」だ。よし、明日は翔人の技を駆使して、六年生とエンカウントせず任務を遂行するぞ、オオ――!
 などと自分を誤魔化し、「ありがたく使わせて頂きます」とのメールを、僕は咲耶さんに返信したのだった。

 という昨夜の回想を終えた、今。
 心の準備をすべく、頭の中で雄叫びを再び上げてみた、この瞬間。
 六年生の実技棟の出入口前にいる僕の胸は、たった一つの感情に占拠されていた。それは、
 ――やっぱ無理っす
 だった。どんなに自分を誤魔化そうと、無理なものは無理。こうして実際に六年生校舎を目の当たりにすると、足がすくまずにはいられなかったのである。僕にはこの校舎が、自分の適正レベルを超える格上のダンジョンに感じられた。この校舎は二年生校舎とは桁違いの、高い波長を放っていた。湖校で最も心の成長した六年生が使ってきたのだから校舎自体の波長も高くて当然なのに、昨夜の僕はそれを失念していたのだ。
 また物理的にも、六年生の実技棟は大きかった。二年生の実技棟が四階建てであるのに対し、こちらは地上五階の地下一階で横幅も五割増しくらいだから、床面積は二倍を優に超えているだろう。かつ波長も高いと来れば、格上ダンジョンと恐怖しても仕方ないと言える。翔人の技術を使えば、人の気配を察知して回避するのは簡単でも、翔人であるが故に格上の波長を感じて膝から力が抜けるという事態に、僕は陥っていたのである。そのせいで、
 ピロパロポロロン♪
「ヒエ――ッ!」
 ただのメール着信音に僕は醜態をさらしてしまった。けどそのお陰で、
「ふふふ、かえって驚かせちゃったかな」
 豊穣の女神に笑みを浮かべてもらえたのだから、結果オーライなのだ。
「猫将軍君、安心して。私が付き添うよ」
 部室棟の方角から近づいてきた千家さんはそう言って、僕を女神の優しさで包んでくれたのだった。
 
 千家さんに訊いたところ、六年生実技棟の床面積は予想どおり二倍を優に超えていた。それは3Dプリンター室にも及び、二年生校舎のものより広いプリンター室が、この実技棟には二部屋設けられていた。その一室の、テーブルの椅子に並んで座り、僕と千家さんは会話に花を咲かせていた。
「猫将軍君がカチューシャを作る申請を出したのは十八日だったけど、二年生の3Dプリンターには文化系部活の予約が殺到していて、今日まで待たねばならなかった。でも昨日の功績が認められ、六年生の最先端プリンターの使用許可が急遽下り、ここに足を運んだ。これで、あってるかな?」
「はい、あってます。えっと千家さん、六年生の文化系部活はなぜ、文化祭用の道具をプリンターで作らないんですか?」
 カチューシャには電子機器が内蔵されていない事もあり、約四時間で完成する。僕が部活をしている最中の午前十時に作り始めたから、完成まであと四十分ほどだろう。その待ち時間を利用し、僕と千家さんは雑談を楽しんでいたのだ。
「私達も文化祭の道具をプリンターで作るよ。でも年季が二年生とは違うから、作り直しがほぼ無いの」
「なるほど、二年生のプリンター予約があれほど詰まっていたのは、技術不足による作り直しを見越しての事だったんですね」
 ポンと手を打った僕に、女神様は頬を緩める。千家さんはなぜか今日、化粧の暗示をかけていない。然るにその姿は超絶美貌の女神様に他ならず、いつもの僕なら超合金ロボットの如く硬直していたはずなのに、心身は普段どおりの柔らかさを保っていた。普段どおりでいられた理由は、千家さんが本物だったから。テーブルの右隣に座る千家さんには、武蔵野姫様と似通う個所が多々あったのである。お陰で僕は幸せに転げ回るいつもの豆柴でいられて、千家さんもそれを喜んでくれていた。その喜びようから、
 ――ひょっとすると家族以外に化粧の暗示を用いなかったのは、荒海さんに続き僕が二番目なのではないか――
 との予想がふと脳裏に生じた。もしそうなら、千家さんがありのままに生きる手助けを、僕は出来たことになる。それはこの上なく嬉しい事だったので限度を超えて豆柴化せぬよう、僕は自分を戒めなければならなかった。なのに、
「私がここに来るきっかけを作ったのは、美鈴さんなの。美鈴さんから今朝、『どうかお兄ちゃんを助けてください』って、メールが届いたのね」
 千家さんは美鈴の話題を持ち出すことで、僕の豆柴化の限界突破を図ったのである。かろうじて限界スレスレを保つ僕を、千家さんは容赦なく追い詰めてゆく。
「あんなに可愛い子の素敵なお願いは叶えてあげたいし、猫将軍君が六年生校舎の前で逡巡している様子がありありと心に浮かんだし、午後は部活に出る必要もなかったから、黛君に協力を頼んだのね」
 猫将軍家の朝食は討伐や修行等の理由により、三つのグループが時間差でテーブルに着くのが日課になっている。最初のグループは僕と美鈴しかおらず、僕としては六年生校舎の件を表に出していないつもりだったが、「今のうちに話しておいた方がいいと思うよ、お兄ちゃん」と顔を合わせるなり指摘されてしまった。僕は諦めて全てを打ち明け、すると心が軽くなり、最終グループの輝夜さんにその件を隠すことができた。それだけでも有り難かったのに、千家さんによると美鈴は朝食後、ダメ兄のフォローを千家さんに頼んでいた。「黛君に協力を頼んだのね」が、そのフォローだ。六年生校舎に向かう道すがら、黛さんを始めとする先輩方が楽しい話題を何かと振ってくれた背景には、千家さんと美鈴がいたのである。それら諸々を全部説明し終え、
「あなたたち兄妹は本当に仲が良いのね」
 千家さんは僕の背中をポンと叩いた。その手の優しさに、僕は笑顔で応えることができなかった。限界突破した豆柴化のせいで、笑顔を加える余地がなかったのである。よって通常なら醜態をさらしたに違いないのだけど、そこはさすが女神様。女神様は次の言葉により、僕を一瞬で冷静にした。
「美鈴さんは、カチューシャをプレゼントされる白銀さんの心に影が差さないように、いろいろと骨を折ったのね。優しくて賢い妹がいて、猫将軍君は幸せね」
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