僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十六章

並行世界、1

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「量子力学では、パラレルワールドは無数にあるとしています。つまり大御所様の仰った複数の世界は、量子力学的パラレルワールドではなく、創造主が初めからそうあるべくして創った並行世界だと、兄様は感じたのでしょうか」
 視界の端に、完全復活した祖父が映った。夕食会の男子達から、始祖中二病や中二病大帝と称えられている祖父にとって、パラレルワールドや「初めからそうあるべくして創られた並行世界」は、項垂れた心理状態を吹き飛ばす言葉だったのである。鼻息荒く復活した祖父に嘆息する祖母は、中二病を発症した北斗に嘆息する昴を、思い出させずにはいられなかった。
 そんな僕や祖父母をよそに、大吉は朗らかに笑った。
「まったく小吉の賢さには驚かされるな。俺も、小吉と同じように感じたよ。話が進み、並行世界と脳の相互作用の説明に入ったら、その分野は小吉の独壇場だろうから、遠慮なく解説してくれ」
 小吉の独壇場なら学術面の話なんだろうな、そういえば人の脳を量子的存在とする学説があったなあ、等々が心を飛び交ううち、僕も祖父と似たり寄ったりの状態になって行った。
「御所によると、我々の本体は心の中心の向こう側にあり、そして各々の並行世界にいる我々の分身は、同じ本体を共有しているのだそうだ」
 心の中心の向こう側とおぼしき場所から、声や閃きをしばしば受け取ってきたので、本体の存在はすんなり受け入れられた。だが、おどおどモジモジの僕が並行世界の一つ一つにいるイメージは、光の速さで消去した僕だった。
「同じ本体を有する分身達がそれぞれの並行世界で活動しているため、様相が全く異なる世界はないらしい。だが何もかもピッタリ同じ世界もなく、御所はその理由を、『差異は学びに通じる』と説明されていたな」
「兄さん、私達の分身は、性別や年齢や家族構成に差異のある人生を送っていても、全体としてはほぼ同じ社会で暮らしているという事ですか」
「うむ、的確な見解だと俺は思う」
「ほぼ同じ世界に、イルカやゴリラのおいらが暮らしていることも、無いってことかにゃ兄者」
「はっはっはっ、残念だがねぇんだろうな」
 余談だが、中吉は大吉を兄さんと呼び、小吉は兄様あにさまと呼び、末吉は兄者と呼んでいる。翔猫に血縁関係はなく、また親子ほど年齢が離れていても、四匹の翔猫は兄弟姉妹として暮らしているのだ。と言ってもそれは猫同士の話であり、僕にとって大吉は年齢が違いすぎるからか、物心ついた時には親戚の叔父という立ち位置が確定していた。人バージョンの大吉の名前は龍で、前世紀の仁侠映画の主人公を彷彿とさせる名前のとおり、渋くてカッコイイ風貌をしている。へなちょこ幼児だった僕は龍叔父さんを、怖さ半分憧れ半分で遠くから眺めていたものだ。その大吉が、
「どうしたんでぇ小吉、考え込んで」
 物思いにふける小吉に声を掛けた。人バージョンの龍さんはシャープな顔立ちをしているのに、猫だと何故こうも顔が横方向へ拡大するのか不思議ではあるが、それはともあれ、
「すみません兄様、何でもありません」
 何でもあることが有り有りの声音で小吉は応えた。けどそこは、揺るぎない信頼を築いた翔猫たちの事。大吉は「うむ」と頷き、話をもとに戻した。
「中吉の言うように、全体としてほぼ同じ社会にいても、それぞれの分身が別の人生を歩んでいる関係で、歴史の微妙な差異が数多く発生しているそうだ。その差異の積み重ねにより、翔人と同じ働きをする組織が、歴史に登場しない世界が幾つか誕生してしまったらしい。例えばこの世界の歴史では鎌倉時代に、魔封奉行という隠密集団が組織され、その子孫が東日本の魔想を今でも討伐している。おおやけにされていないだけで、一般社会に生きる一般人によって、魔想は打ち滅ぼされているのだ。だが幾つかの並行世界では、一般社会に組み込まれていない者達が、魔想討伐を行っている。御所によるとその世界は失敗例とされていて、信じがたい事にその日本では、命令の令を元号に用いたらしい。日本を守護してきた存在達が令の付いた元号に怒っていたと、御所は肩を落としていたよ」
 令は、一人の上位者に複数の下位者が跪いている、象形文字だ。そこに秩序が見いだされ、秩序が礼儀作法や美に転じ、礼儀作法に適う見目麗しい貴族の子供を、令息や令嬢と呼ぶようになって行った。それは解るが、令という文字を見て真っ先に連想するのは、どう言いつくろっても命令の令だろう。別の並行世界の武蔵野姫とその仲間達が、令を用いた元号に憤っても仕方ないよなあ、と僕は思った。
「御所は失敗した世界について、善なるAIの開発を権力者が阻止しているとも仰っていたな。それはさておき小吉、失敗例とされる理由を説明してみるかい?」 
「はい、兄様」
 物思いにふけっていた時とは似ても似つかない朗々たる声で、小吉は言葉を綴った。
「部屋を散らかした子供が、自分の力で部屋を片付けた場合、その子は成長という報いを受けます。しかし親などの上位者によって部屋が片付けられた場合、成長を受け取ることはできません。これは原因と結果の法則であり、そしてこの法則は、個だけでなく全体にも働きます。つまり、社会の構成員が作った魔想を社会の構成員が滅ぼした場合は社会全体が成長の報いを受け取りますが、上位者によって滅ぼされると、人類社会は成長を受け取ることができないのです。私見ですがそのような社会は、いえそのような人類の住む地球は、自然破壊と環境汚染がより深刻化しているのではないかと私は感じます」
 脳裏に突如、森や木々が半分ほどしかない狭山丘陵が映し出された。その狭山丘陵にこの神社は無く、武蔵野姫の仮宮も無く、そして胸をかきむしるほど悲しい事に、湖校も存在していなかった。AICAは走っていてもこの世界における初期型にすぎず、人と同じ心を持った量子AIも、翔猫も翔狼も翔鳥もいない、暗く沈んだ波長が地上を覆っていたのだ。その波長に妨げられ分身を特定することはできなかったが、それでも分身がその社会に絶望しかかっている事は、悪寒として背中を駆け抜けていった。
 その背中に美鈴の温かな手が添えられ、また同時に、水晶の気配が僕の周囲に張り巡らされた。
 悪寒は瞬時に消え去り、それに伴い失敗した世界の様子も、脳裏に映らなくなっていった。 
 おそらく水晶と美鈴は、僕の中に生じた並行世界とのリンクを、強制的に遮断したのだろう。それを確認したように、僕を包んでいた水晶の気配が消えてゆく。「話を中断させぬため守ったが、続きは自分でしなさい」 心に直接届けられたその声と隣に座る美鈴に応えるべく、失敗した並行世界の一つを訪ねた自分を僕は切り離した。それが、上手くいったのだと思う。
「やはり小吉の独壇場だな」「兄様、独壇場は褒めすぎです」「いいんだよ、小吉は引き続き、並行世界と脳の相互作用の話をしてくれるんだろ」「推測という糸で織った布のようなものでよければ、お話しします」「間違っていたら御所が正して下さる、恐れず言いな」「かしこまりました」 
 大吉と小吉の会話に僕の変化を察知した様子はなく、僕は安心して小吉の話に耳を傾けた。
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