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十五章
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「お師匠様、少し時間を頂けますでしょうか」
床に正座した昴が空中に問いかけた。水晶の直弟子の昴と輝夜さんは、所定の手順に則り問いかければ、水晶といつでも自由に会話できると言う。改めて振り返ると、その所定の手順を僕は知らないのに、僕が心底望めば水晶は必ず現れてくれた。「その恩に報いるには、どうすれば良いのかな」 僕はそう自問しつつ、水晶の降臨を待っていた。
ほどなく空中に原光がほとばしり、水晶が出現した。前列右から昴、末吉、輝夜さん、後列右から僕、美鈴の四人と一匹は揃って頭を垂れ、水晶の降臨に謝意を示した。続いて輝夜さんが、まん丸顔の水晶へ上申する。
「わたくし輝夜の家には、雌のジャーマンシェパードがいます。警察犬として訓練を受けた優しく賢い子なのに、私の思慮不足のせいで、近隣の猫たちと良好な関係を築けていませんでした。お師匠様、末吉に両者の調停役を担ってもらう事を、お許し頂けないでしょうか」
「その犬が優しく賢いのは、儂も承知しておる。また異種族が良好な関係を築き仲良くするのは、道理に叶うことじゃ。末吉よ」
体を向け呼びかけた水晶に、末吉は定規をあてたが如き背筋で答えた。
「はい、大御所様」
「猫は、魔想討伐に不可欠な存在。その猫の代表たる事も、翔猫の大切な務めじゃ。そなたにとって今回の件は、代表たる者の気構えを学ぶ、絶好の機会となろう。末吉、挑戦してみるかの」
「はい、全力で挑戦いたします!」
可愛らしくも覇気みなぎる声が台所に響いた。末吉を寿ぐ娘達の華やかな声がそれに続き、そして呼吸一回分の時間が過ぎたのち、静寂と共に四人と一匹で再度腰を折った。水晶はにこにこ頷き、今度は僕に体を向けた。
「今回の件を湖南盟約と名付け、眠留をその見届け役とする。湖南盟約締結の暁には、眠留は我が代理として、末吉に褒美を授けなさい。白紙委任したいところじゃが、初めてのことゆえ助言するなら、夏休みの良き思い出となるものが望ましいの」
「謹んでお受けいたします。寛大なる配慮へ、心からお礼申し上げます」
声が湿っぽくならぬよう最大限の努力をしたつもりだったが、水晶の優しさに目頭を押さえる娘らを視界に捉えた僕は、自信を持つことが全くできなかった。
水晶はそんな僕らに頬を綻ばせ、「日程が決まったら大吉に伝えなさい」と告げ、元の次元に戻って行った。その後、水晶の偉大さを称える数分間を経て、僕らは再び知恵を絞り話し合った。多摩湖南部の地図を宙に映し、関東猫社会の大長老たる中吉にお越し願い、当該地域の組織図を教えてもらったところで、輝夜さんと昴の帰宅時間の上限である八時となった。それ以降はチャットで話し合いを続け、計画がほぼ完成したのは、就寝時間丁度の午後九時だった。
それが三日前の、八月十一日夜の出来事。
翌十二日、白銀家翔人代表の輝夜さんと、猫将軍家翔人代表の昴と、湖南盟約使節の末吉が当該地域の頭猫と世話猫のもとを訪れ、会見の日時を決めた。
その翌日の十三日も末吉は単独神社を発ち、様々な調整を行っていた。
そして、今日。
八月十四日午前九時四十五分の、大石段前。
「行ってきます」
「行ってまいります」
「行って来るにゃ」
「「「行ってらっしゃい!」」」
僕と輝夜さんと末吉は皆に見送られ、猫将軍家のAICAで神社を発ったのだった。
狭山丘陵の森は地図で見ると、唇に似た形をしている。その上唇の左半分にあるのが狭山湖、下唇の四分の三を占めるのが多摩湖だ。下唇に収まるくらいだから多摩湖は細長い形をしており、多摩湖の西寄りに湖を横断する道路が作られている。その横断道の南東に、輝夜さんの家はあるらしい。直線距離で2キロほどしか離れていないのに「らしい」を使うなんて我ながら凹むが、仮に僕が翔人でなかったら輝夜さんの家の所在地を地図で調べ、人知れずその方角へ目を向け、甘酸っぱい気持ちに浸っていたと思う。けど僕は肉体から意識を解き放つ翔人で、つまりやろうと思えば輝夜さんの家に意識を飛ばすことができ、それは想像するだけで懊悩必至な事案なため、ヘタレ者と笑われようが輝夜さんの家の所在地を僕は調べられずにいたのである。
しかし不思議なのだけど、今回の訪問が確定したとたん、年頃男子特有のそれら諸々が綺麗に消滅した。家の場所を知らないのは同じでもそれをヘタレと感じず、この三日間を穏やかに過ごせたのである。それはおそらく、
――着けば判る
との声を、心の耳でかすかに聞いていたからなのだろう。僕はAICAの運転席に身を沈めて、あの不思議な声について考えていた。
そのせいで気づくのが遅れたのか、ふと気配を感じ顔を左へ向けると、末吉が後部座席側から助手席にしがみ付き、車窓の景色に瞳を輝かせていた。ここらはご近所で見慣れていても、いやきっと見慣れているからこそ、車窓に映るご近所の様子を末吉は面白く感じているみたいだ。湖南盟約使節としては不適切なのかもしれないが、輝夜さん一人を後部座席に残さぬよう身を乗り出すに留めていると来れば、叱る訳にもいかない。好奇心いっぱいの末吉に輝夜さんも極上の笑みを浮かべていたので、僕は小言を控えることにした。
そうこうするうちAICAは多摩湖北側のゆるやかな坂を上り、湖を横断する道路に出た。大きいとは決して言えない人造湖でも、夏の日差しに煌めく湖が右を向いても左を向いても目に映るのは、やはり楽しいもの。それは末吉ももちろん同じで、しかも僕らは知らず知らずの内にシンクロしていたらしく、二人揃って右へ左へ顔を向け「綺麗だね~」「綺麗だにゃ~」と感嘆したものだから、輝夜さんはとうとう笑い出してしまった。釣られて僕らも笑い出し、軽やかな声の溢れるAICAは、一直線に伸びる多摩湖横断道を進んでいった。
ほどなく直線道は終わり、つづら折りの下り坂に変わった。多摩湖の北部と南部を結ぶこの経路に湖校はスクールバスを設けており、翔薙刀術を習うまでは輝夜さんもそのバスを利用していたと言う。しかし都会育ちの輝夜さんにとって、森の中をゆくつづら折りの道はたいへん魅力的だったらしく、好天の日は徒歩通学をしばしば選んでいたそうだ。清浄な空気を纏う輝夜さんが、森と湖を経て湖校に歩いて来る様子はなんとも絵になり、それを思い描いただけで僕の目尻は下がってしまった。繰り返すが僕は目じりを下げたに過ぎず、鼻の下は断じて伸ばしていなかったのに、
「眠留がイヤラシイ顔をしているにゃ」
などと末吉が言いがかりを付けてきたので、くすぐりと猫パンチの応酬を僕らは始めた。のだけど、
「二人とも、そろそろ住宅街に入りますよ」
地元民の輝夜さんにそう指摘されたら休戦するしかない。僕と末吉は身繕いして座席に座り直し、使節団としての体裁を整えたのだった。
床に正座した昴が空中に問いかけた。水晶の直弟子の昴と輝夜さんは、所定の手順に則り問いかければ、水晶といつでも自由に会話できると言う。改めて振り返ると、その所定の手順を僕は知らないのに、僕が心底望めば水晶は必ず現れてくれた。「その恩に報いるには、どうすれば良いのかな」 僕はそう自問しつつ、水晶の降臨を待っていた。
ほどなく空中に原光がほとばしり、水晶が出現した。前列右から昴、末吉、輝夜さん、後列右から僕、美鈴の四人と一匹は揃って頭を垂れ、水晶の降臨に謝意を示した。続いて輝夜さんが、まん丸顔の水晶へ上申する。
「わたくし輝夜の家には、雌のジャーマンシェパードがいます。警察犬として訓練を受けた優しく賢い子なのに、私の思慮不足のせいで、近隣の猫たちと良好な関係を築けていませんでした。お師匠様、末吉に両者の調停役を担ってもらう事を、お許し頂けないでしょうか」
「その犬が優しく賢いのは、儂も承知しておる。また異種族が良好な関係を築き仲良くするのは、道理に叶うことじゃ。末吉よ」
体を向け呼びかけた水晶に、末吉は定規をあてたが如き背筋で答えた。
「はい、大御所様」
「猫は、魔想討伐に不可欠な存在。その猫の代表たる事も、翔猫の大切な務めじゃ。そなたにとって今回の件は、代表たる者の気構えを学ぶ、絶好の機会となろう。末吉、挑戦してみるかの」
「はい、全力で挑戦いたします!」
可愛らしくも覇気みなぎる声が台所に響いた。末吉を寿ぐ娘達の華やかな声がそれに続き、そして呼吸一回分の時間が過ぎたのち、静寂と共に四人と一匹で再度腰を折った。水晶はにこにこ頷き、今度は僕に体を向けた。
「今回の件を湖南盟約と名付け、眠留をその見届け役とする。湖南盟約締結の暁には、眠留は我が代理として、末吉に褒美を授けなさい。白紙委任したいところじゃが、初めてのことゆえ助言するなら、夏休みの良き思い出となるものが望ましいの」
「謹んでお受けいたします。寛大なる配慮へ、心からお礼申し上げます」
声が湿っぽくならぬよう最大限の努力をしたつもりだったが、水晶の優しさに目頭を押さえる娘らを視界に捉えた僕は、自信を持つことが全くできなかった。
水晶はそんな僕らに頬を綻ばせ、「日程が決まったら大吉に伝えなさい」と告げ、元の次元に戻って行った。その後、水晶の偉大さを称える数分間を経て、僕らは再び知恵を絞り話し合った。多摩湖南部の地図を宙に映し、関東猫社会の大長老たる中吉にお越し願い、当該地域の組織図を教えてもらったところで、輝夜さんと昴の帰宅時間の上限である八時となった。それ以降はチャットで話し合いを続け、計画がほぼ完成したのは、就寝時間丁度の午後九時だった。
それが三日前の、八月十一日夜の出来事。
翌十二日、白銀家翔人代表の輝夜さんと、猫将軍家翔人代表の昴と、湖南盟約使節の末吉が当該地域の頭猫と世話猫のもとを訪れ、会見の日時を決めた。
その翌日の十三日も末吉は単独神社を発ち、様々な調整を行っていた。
そして、今日。
八月十四日午前九時四十五分の、大石段前。
「行ってきます」
「行ってまいります」
「行って来るにゃ」
「「「行ってらっしゃい!」」」
僕と輝夜さんと末吉は皆に見送られ、猫将軍家のAICAで神社を発ったのだった。
狭山丘陵の森は地図で見ると、唇に似た形をしている。その上唇の左半分にあるのが狭山湖、下唇の四分の三を占めるのが多摩湖だ。下唇に収まるくらいだから多摩湖は細長い形をしており、多摩湖の西寄りに湖を横断する道路が作られている。その横断道の南東に、輝夜さんの家はあるらしい。直線距離で2キロほどしか離れていないのに「らしい」を使うなんて我ながら凹むが、仮に僕が翔人でなかったら輝夜さんの家の所在地を地図で調べ、人知れずその方角へ目を向け、甘酸っぱい気持ちに浸っていたと思う。けど僕は肉体から意識を解き放つ翔人で、つまりやろうと思えば輝夜さんの家に意識を飛ばすことができ、それは想像するだけで懊悩必至な事案なため、ヘタレ者と笑われようが輝夜さんの家の所在地を僕は調べられずにいたのである。
しかし不思議なのだけど、今回の訪問が確定したとたん、年頃男子特有のそれら諸々が綺麗に消滅した。家の場所を知らないのは同じでもそれをヘタレと感じず、この三日間を穏やかに過ごせたのである。それはおそらく、
――着けば判る
との声を、心の耳でかすかに聞いていたからなのだろう。僕はAICAの運転席に身を沈めて、あの不思議な声について考えていた。
そのせいで気づくのが遅れたのか、ふと気配を感じ顔を左へ向けると、末吉が後部座席側から助手席にしがみ付き、車窓の景色に瞳を輝かせていた。ここらはご近所で見慣れていても、いやきっと見慣れているからこそ、車窓に映るご近所の様子を末吉は面白く感じているみたいだ。湖南盟約使節としては不適切なのかもしれないが、輝夜さん一人を後部座席に残さぬよう身を乗り出すに留めていると来れば、叱る訳にもいかない。好奇心いっぱいの末吉に輝夜さんも極上の笑みを浮かべていたので、僕は小言を控えることにした。
そうこうするうちAICAは多摩湖北側のゆるやかな坂を上り、湖を横断する道路に出た。大きいとは決して言えない人造湖でも、夏の日差しに煌めく湖が右を向いても左を向いても目に映るのは、やはり楽しいもの。それは末吉ももちろん同じで、しかも僕らは知らず知らずの内にシンクロしていたらしく、二人揃って右へ左へ顔を向け「綺麗だね~」「綺麗だにゃ~」と感嘆したものだから、輝夜さんはとうとう笑い出してしまった。釣られて僕らも笑い出し、軽やかな声の溢れるAICAは、一直線に伸びる多摩湖横断道を進んでいった。
ほどなく直線道は終わり、つづら折りの下り坂に変わった。多摩湖の北部と南部を結ぶこの経路に湖校はスクールバスを設けており、翔薙刀術を習うまでは輝夜さんもそのバスを利用していたと言う。しかし都会育ちの輝夜さんにとって、森の中をゆくつづら折りの道はたいへん魅力的だったらしく、好天の日は徒歩通学をしばしば選んでいたそうだ。清浄な空気を纏う輝夜さんが、森と湖を経て湖校に歩いて来る様子はなんとも絵になり、それを思い描いただけで僕の目尻は下がってしまった。繰り返すが僕は目じりを下げたに過ぎず、鼻の下は断じて伸ばしていなかったのに、
「眠留がイヤラシイ顔をしているにゃ」
などと末吉が言いがかりを付けてきたので、くすぐりと猫パンチの応酬を僕らは始めた。のだけど、
「二人とも、そろそろ住宅街に入りますよ」
地元民の輝夜さんにそう指摘されたら休戦するしかない。僕と末吉は身繕いして座席に座り直し、使節団としての体裁を整えたのだった。
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